01/11 Tue.-18
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カイトは、脱衣所に続くドアから、離れることができなかった。
あんな中途半端な状態で、彼女と自分を引き剥がしてきたのだ。
身体の中で荒れ狂う溶岩を押さえきれずに、彼はイライラしながら、メイが出てくるのを待った。
彼女が衣服を身につけて、このエリアに帰ってきたらもう大丈夫なのだ。
抱きしめようとも、キスをしようとも。
何もかも許されるハズであった。
そんな時だった。
何かが転がるような、派手な音が浴室から聞こえてきたのは。
頭の中に疑問が浮かぶよりも早く、驚きのままカイトはドアを開けて脱衣所を横切り、バスルームに踏み込んだのだった。
「メイ!」
何が起きたのか。
その光景を見て、はっきりと分かった。
彼女が洗い場のところで膝をついて座り込んでいたのだ。
壁に手をつくようにして。
めまいを起こしたのだ。
カイトは。
何か言いかけた彼女を置き去りに、ぱっと身を翻した。
早くここから連れ出してやりたかったが、まだメイは裸のままなのだ。
そこらにあるバスタオルをがしっと掴む。
戻るなり、彼女の身体をそれで包み込むと。
ぐいっと。
驚きの悲鳴をあげるメイを―― そこから助け出したのだった。
お風呂場から直行してきた湿った身体を、そのままベッドの中に押し込んだ。
本人は、大丈夫そうなことを言っていたのだが、カイトはそんな言葉では納得しなかった。
彼女は、大丈夫じゃない時まで大丈夫と言う性格であることが、だんだん分かってきていたからだ。
初めて一緒にお風呂に入って、こんな騒ぎになってしまった。
カイトも普通じゃなかったし、彼女もそうだ。
たかが風呂、のハズだったというのに。
こんなことでは先が思いやられてしまう。
「んな、熱ぃ風呂に長く入ってっからだ……」
ベッドのへりに腰掛けて、彼女を見る。
本当は心配なくせに、自分の口ときたらこんな風にしか言えないのだ。
もっと、いたわるセリフが出てこないのか。
「ごめんなさい…でも、カイト、熱いお風呂が好きみたいだったから」
布団の陰に唇を隠すようにしながら、メイは小さな声でそう言った。
はぁ?
それには驚いた。
一体、どういう経緯で、彼が熱い風呂が好きだと思ったのか。
そんなこと、いままで言ったこともなかったハズである。
「あ、熱い風呂が好きなのは、おめーの方じゃ…?」
だから、呆然としながらそう言った。
それが、カイトの水を足さなかった理由だ。
「だって……」
「けど」
二人、言いかけた言葉をそのままに言葉を止める。
正確には、絶句だった。
そこで、やっと理由が分かったのである。
どうして、お互いこんな誤解をしてしまったのか。
ただ。
ただ単に、あの風呂が熱かっただけなのだ。
彼らの好みや希望はそっちのけで、ただ熱かっただけなのである。
メイの好みだと思って、水を足さなかったカイト。
カイトの好みだと思って、水を足さなかったメイ。
一生懸命相手を探る余り、まったくもってお互い見当はずれのことをしていたのだ。
たかが、わずかな言葉が足りないだけで。
どちらかが、一言聞けば済むことだった。
言えよ!
そうなると、カイト心の中が一気に攻撃姿勢に入る。
熱い風呂がつらかったなら、ちゃんと言えばよかったのだ。
そうすれば、こんなことにはならなかっただろう。
と、いきなり相手への要求が突っ走った。
たかが風呂の温度くらい、遠慮する必要なんかないのだ。
「バッ…」
怒鳴りそうになった。
それに気づいて、慌てて止める。
「カイト…」
もうめまいの方は大丈夫なのか、メイがゆっくりとベッドから起き上がってきた。
その身体を。
「バカ…野郎……ちゃんと、言え」
ぎゅっと抱きしめる。
結婚したのだから、もう何の遠慮もいらないのだ。
勿論、その前から遠慮しなくていいと思っていた。
しかし、今は遠慮する必要の方がないのだ。
夫婦って、そういう関係じゃねぇのかよ。
よく知りもしないクセに、カイトはそう思った。
だから、思い切り彼女は、自分に甘えてきていいのだ。
もっと身体を預けるように、寄りかかって欲しかった。
おまけに、この時のカイトは、棚の上に上がっていた。
本人はそれにまったく気づいていなかったけれども、メイに言い当てられる。
「カイトも……ちゃんと…言って」
そう。
カイトは、自分がお湯の温度について言及しなかったことを、棚の上に上げていたのだ。
しかし、彼にしてみればそれは遠慮ではなかった。
彼女が熱い風呂が好きなのなら、別に自分はどうでもよかったのだ。
メイが、それで幸せだと言うのならば。
そして、また考えないのだ。
相手も、いま自分が思ったようなことを考えていたのであって、遠慮しているわけではないということを。
お互い相手を大事にし合っている―― それにうまく気づけないでいるカイトは、やはり一方的な要求ばかりを彼女に押しつけてしまうのだ。
「好きなものとか、いろいろ…ちゃんと、教えて…」
そんな気持ちに気づいているのか、メイは、日頃重い彼の口をこじ開けようとするのである。
確かにカイトは、おしゃべりというワケではなかった。
しかし、仕事上必要な言葉はしゃべるし、取引の時なんかは交渉を自分のペースに持ってくるために、攻撃的にしゃべり続けることだってある。
そんな彼なのに、メイの前でだけは、口にロックがかかったように重くなるのだ。
しゃべりたくないワケではない。
うまく、言葉を探せないのだ。
こんな気持ちになったのはこれが初めてだ、というような荒れ狂う感じとか熱い感じとかが、波のように何度も押し寄せてくるために、言葉が機能しないのである。
そして―― こんな綺麗じゃない言葉しか出てこないのでは、彼女を幸せにできないとも思っていた。
だから、余計に口が動かないのである。
けれども、いま彼女は、カイトにしゃべって欲しいと思っているのだ。
苦手だけれども、その願いに答えてやりたかった。
一言でもいいから。
『好きなものとか、いろいろ…』
メイは、そう言った。
カイトの好きなもの。
そんなにたくさんはない。ほんの一握り。
プログラムとバイクとチキンカレーと。
いや、そんなどこにでも転がっているようなものじゃない。
スペシャルでデラックスな、たった一つだけのもの。
それが、カイトの中にはあった。
「メ…イ…」
それが―― 彼女の問いに対する、精一杯の答えだった。