01/11 Tue.-17
●18
いきなり、カイトがいなくなってしまうものだから、メイは驚いた。
驚いた上に、バスタブにしがみつかなければならなかった。
今までずっと、彼に背中を支えてもらっていた形だったのだ。
その支えが、不意になくなってしまったのである。
さっきの勢いを覚えている水面が、まだ激しく波打っていた。
脱衣所の方で、ガタガタやっている音がする。
どうやら、もう彼のお風呂時間は終わりらしい。
どうして?
メイにしてみれば驚くばかりだ。
首筋に唇を埋められた時、指先までしびれた。
抱きしめられた強い腕に、どうにかなってしまいそうだったのだ。
しかし、そんな途中でいきなりザバン、である。
いや、そのまま続けられたとしても困るのだが。
ここはバスルームで、明るくて、既に二人とも何も身につけていない、という無防備のカタマリだったのだから。
何が。
何がいけなかったのだろうか、と考えてみたけれども、別に彼女が原因であるような出来事は見あたらなかった。
というころは、単なる気まぐれだろうか。
しゃべらないカイトの気持ちを、きちんと掴めるようになるまで、まだまだたくさんの時間が必要だった。
けど。
メイは、そっと自分の腕を見た。
肘と手首の真ん中くらいのところに、赤い跡が残っていた。
カイトの唇が残した跡だった。
彼の文字が消えてしまって、寂しい思いをしている彼女に、そんなしるしをつけた男。
確かに、これなら洗っても消えないだろう。
恥ずかしくて、嬉しかった。
穏やかになった水面の中で、彼女は何度もその跡を見つめ直した。
カイトの唇が、こんな風に当たったんだ―― そう予測してしまう。
その映像を想像しそうになって、慌ててメイはそれを追い払った。
彼が目を閉じて、腕に唇を寄せて。
キャー!!!!!
追い払おうとしたのに、また妄想が押し寄せて、彼女はお風呂の中で暴れた。
こんなことをやっている場合ではなかった。
カイトが、先にお風呂をあがってしまったのである。
何か大きな問題が起きたとは思いにくいので大丈夫だろうが、やはり心配ではあったのだ。
メイも、湯船から出た。
くらっとめまいがする。
立ちくらみだ。
思えば、あんな熱い風呂に長い間つかっていたのである、たちくらみがしても当然だった。
あら?
洗い場のところでクラクラっときて、メイは壁に手をついてこらえた。
真っ暗な目の前が、赤や黄色に点滅する。
そのままこらえようとしたのだが。
ガタガシャーン!
支えきれなくなって膝を崩す。
巻き込んだのは、シャンプー類の小さな棚。
痛みは全然なかった。というか、それどころではなかった。
座り込んで、血が全身に回りきるまで、おとなしくしているしかなかったのだ。
「メイ!」
しかし。
その音は、外まで伝わったのだろうか。
ためらいのない音が、バタンとすりガラスのドアを開けて名前を呼ぶ。
カイトだ。
その頃には、ようやくめまいも取れてきたので、彼女は顔を上げた。
パジャマ姿のカイトが、そこにいた。
「あ、ごめんなさ…ちょっとたちくら……」
メイは、大丈夫なことをアピールしようと笑顔を作る。
けれども、最後まで言うまでもなく、一度カイトがばっと身体を翻す。
しかし、一瞬だけだった。
次に戻ってきたカイトは、手にバスタオルを持っていて。
それで、彼女をくるんでくれたかと思うと。
「きゃあっ!」
驚いた。
いきなり、視界が一回転したのだ。また、めまいでもしたのかと思った。
しかし、目眩ではなかった。
彼女は―― カイトに抱きかかえられていたのだ。
バスタオルのまま、布団の中に押し込まれる。
「んな、熱ぃ風呂に長く入ってっからだ……」
ベッドのへりに腰掛けたままのカイトに、そんなことを言われる。
言われて当然である。
しかし、心配でたまらない色をしていた。
彼が言葉に込めた気持ちが、いっぱいに押し寄せてくる。
しゅーん。
迷惑をかけてしまったという事実が恥ずかしくて、メイはちっちゃくなってしまった。
「ごめんなさい…でも、カイト、熱いお風呂が好きみたいだったから」
だから、お水足せなかったの。
メイは、布団の内側に唇を隠すようにもそもそっと言った。
その時のカイトの顔ときたら。
目を見開いて、一体何を言っているのか、理解できないような表情を作ったのだ。
「あ、熱い風呂が好きなのは、おめーの方じゃ…?」
驚きのまま、呆然とした唇がそんなことを言う。
ええぇぇぇぇ?????
今度驚くのは彼女の方だ。
あんな熱いお風呂に、カイトは文句も言わずにつかっていたのだ。
それが好きなのだと、メイは信じて疑っていなかった。
「だって……」
「けど」
二人。
同時にお互いの表情に驚きながら、そんなことを言った。
そして。
ようやく分かったのだ。
二人とも、お互いが熱い風呂が好きなのだと誤解して、水を足すのを遠慮していたのである。
我慢して、熱い風呂の中に沈んでいたのだ。
ア然。
こんなにまでも、言葉の疎通がないと誤解になるものなのか。
あんなに彼のことを理解しようとしたのに、結局は見事な空回りであったことを、ここではっきりと分かってしまったのである。
「バッ…」
カイトは、眉を跳ね上げた。
しかし、それをぐっとこらえてくれる。
「カイト…」
もうめまいなんかしない身体を、ゆっくりとベッドから起こす。
胸を隠しているバスタオルを、押さえるようにしながら。
「バカ…野郎……ちゃんと、言え」
ベッドに膝で乗り上がるようにして、彼が近づいてくる。
そして、苦しそうな声でぎゅうっと抱きしめてくれた。
すごく、強い腕で。
パジャマの布に、ぎゅっと顔を押しつけられる。
その身体に腕を回す。
背中の布地をきゅっと掴んだ。
「カイトも……ちゃんと…言って」
こんなにまでも、分からないもの同士なのである。
たかがお風呂の好み一つ分からずに、見事に失敗してしまったのだ。
ちょっと言葉を交わせば、すぐに解決した出来事なのに。
「好きなものとか、いろいろ…ちゃんと、教えて…」
全部、知りたかった。
全部教えて欲しかった。
いまどう思っていて、どういう気持ちなのか。
少しずつだって構わないから、言葉で教えて欲しかったのだ。
なのに。
一度身体を離したカイトに、熱い目でじっと見つめられた後、また無言で強く抱きしめられた。
「メ…イ…」
言われた言葉は、それだけ。
後は、全部強い力だけだった。