01/11 Tue.-16
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彼女の手のひらを汚していた、自分の字。
それに、もう一度ご対面することになろうとは、思ってもみなかった。
しかもバスタブの中で。
聞けば、書き写しそこねていたという。
だから、消さないように努力していたのだと。
そんくれぇ。
カイトにとっては、ささやかな不満のタネだ。
そのくらい、もう一度聞けばいいのである。
家の中なら、書くものがいくらでもあるのだ。
だから。
いつまでも、彼の汚い字を残しておく必要なんかないのである。
しかし、そういうことを言っても、メイは遠慮して消さないような気がした。
その予測のおかげで、短気な彼は実力行使に出たのだ。
ぐいっと手をつかんで湯の中に沈める。
もう片方の手でごしごしと、そのやわらかい手のひらをこすった。
あんまり強くすると痛いのではないかと思って、ちょっと力を抜く。
途中で一回、湯から上げてきれいになったかを確認する。彼女の肩越しに。
ほんの少し残っていたので、そのままきゅきゅっとこすると―― 完全に消えた。
よし。
カイトは、悦に入った。
これで、彼女はすっかり綺麗になったのである。
そして、それをしたのが自分だ。
ささやかな満足感に包まれて、カイトは幸せだった。
メイの手を解放してやる。
彼女も、これで安堵するのではないかと思った。
わざわざ、手の汚れを消さないようにと、努力する必要がなくなったのだから。
なのに。
彼女は、肩を落として落胆したようなため息をついたのである。
何だと?
これには驚いた。
彼にしてみれば、いいことをした気持ちになっていたというのに、ひどく残念そうな反応だったのである。
そんなはずがないと、カイトは彼女の顔を見ようと首を突き出した。
この角度だと、メイの肩を乗り越えるしか方法はないからだ。
気配に気づいたのか、向こうも彼の方を向く。
非常に窮屈で、間近な角度で目が合った。
驚いてはいたけれども、メイの表情には、さっき彼が予想したような落胆の影があったのだ。
何でだ。
いまの自分の行為が、どうして彼女を落胆させたのか、ちっとも分からなかった。
だから、じっと覗き込んで心を探そうとした。
ちゃんと理解したかったのだ。
「あの…ね」
視線が逃げる。
そうして、恥ずかしそうに洗い立ての唇を開いた。
「ホントは…えっと……嬉しかった…の」
はぁ??????
続いた言葉を聞いたが、カイトにはちっとも分からなかった。
一体何が嬉しかったというのか。
手の汚れを落としたことが嬉しかったのだろうか。
しかし、さっきの落胆の反応とは、食い違うような気がする。
先走る予測を押さえつけて、次の言葉を待った。
「カイトの字が書いてあるのが…嬉しかったの。何か…私にしるしが残ってるみたいで…」
すると。
なんと。
そんなことを、言い出すではないか。
カイトは絶句した。
あの落書きを、彼女は嬉しかったというのである。
とにかく、ケイタイ番号を教えずにはいられなかったカイトが、とっさに彼女の手を捕まえて書いた落書きが、嬉しくて。
まるで。
そう、まるで―― 今まで大事にしていたかのように。
『私にしるしが残ってるみたいで』
シルシ。
カイトが、彼女に刻んだ文字。
そんなものを後生大事にしていたのだ。
だから、消されたくなかったのである。
早く言え!
カイトはそう怒鳴りそうになった。
だが、もし素直に言われた時に、自分がそれを消さずにいられたかどうかという話になると。
多分答えは、どっちにしろ消した、というところだろう。
確かに彼女が、たかがカイトの文字を、ここまで大事にしてくれていたことは嬉しい。
しかし、こんな文字よりも、いまここにカイト本人がいるではないか。
それが理不尽だった。
本人がいるなら、そんなシルシよりも本人をもっと見ればいいのである。
彼は、もう一度彼女の腕を捕まえて引っ張った。
「んな…字より……」
ぐっとひっぱった腕に唇を寄せる。
もっと別のしるしだって、カイトはつけることが出来るのだ。
そんなに欲しいなら、いくらだって残してやることが出来る。
腕を。
「えっ…」
メイが、ビクッと手を震わせたが逃がさなかった。
腕を―― 強く、吸った。
唇を、そっと離す。
お湯の中で上気していた肌でもよく分かるくらい、赤い跡が残っていた。
カイトの唇に残っているのは、柔らかく濡れた腕の感触。
これも。
間違いなく、しるしというものだ。
腕を離してやると、メイはその跡を見つめているようだった。
「それだったら……洗っても消えねぇ」
ぼそっと。
彼は、そういうマヌケなフォローをするので精一杯だった。
汚い字がよくて、それがダメということはない。
理屈ではそうだ。
しかし、勢いでしてしまったものの、カイトは彼女の反応が気がかりだった。
また、落胆のため息をつかれてしまうのではないだろうかと思ったのだ。
「あ…」
ため息はなかった。
しかし、メイはお湯の中にいるというのに、更に首を赤くしたのである。
カァッと。
ゴムで髪を上げているせいで、その変化がはっきりと見て取れた。
ズクン。
胸に強く刺さったものが、危険信号を伝える。
いつも彼女の反応は不意打ちだ。
不安になったカイトの予想を遙かに高く飛び越えて、彼の心臓を台無しにしようとするのである。
猛烈に強く抱きしめたい衝動が、ガンガンと追い炊きされてしまう。
そして―― 我慢できなかった。
そのままぎゅうっと。
彼女を強く抱きしめた。
赤くなった首筋に唇を埋めて、強く吸う。
メイの身体に、自分というしるしを残してしまいたかった。
「メイ……」
最後まで、彼女の名前を囁こうとした。
しかし、途中ではっと我に返ったのだ。
まだ、ここはバスルームなのである。
そして、彼は何もしないと彼女に言ったのだ。
他の人間との約束なら、いくらだって破るだろう。
しかし、彼女の信用を失う真似だけはしたくなかった。
けれども、このままここにいては―― きっと、もうちょっとで弾け飛ぶに違いないのだ。
クソッ!
胸をかきむしりたい衝動をこらえて、カイトはざばんとバスタブから身体を引き起こした。
彼女一人を残して。
カイトは、風呂場を逃げ出した。
バタンと強くすりガラスのドアを開けると、水滴をしたたらせたまま脱衣所に入ったのだ。
彼女からどんなに逃げようとしても、身体の中のマグマは燃えさかるばかりで、一向に静まる様子がなかった。
身体を拭いても。
着替えても。
脱衣所のドアを開けても。
メイを―― 抱きしめたくてしょうがなかった。
もう、我慢するのはやめたはずなのに。