表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/22

01/11 Tue.-16

 彼女の手のひらを汚していた、自分の字。


 それに、もう一度ご対面することになろうとは、思ってもみなかった。


 しかもバスタブの中で。


 聞けば、書き写しそこねていたという。


 だから、消さないように努力していたのだと。


 そんくれぇ。


 カイトにとっては、ささやかな不満のタネだ。


 そのくらい、もう一度聞けばいいのである。


 家の中なら、書くものがいくらでもあるのだ。


 だから。


 いつまでも、彼の汚い字を残しておく必要なんかないのである。


 しかし、そういうことを言っても、メイは遠慮して消さないような気がした。


 その予測のおかげで、短気な彼は実力行使に出たのだ。


 ぐいっと手をつかんで湯の中に沈める。


 もう片方の手でごしごしと、そのやわらかい手のひらをこすった。


 あんまり強くすると痛いのではないかと思って、ちょっと力を抜く。


 途中で一回、湯から上げてきれいになったかを確認する。彼女の肩越しに。


 ほんの少し残っていたので、そのままきゅきゅっとこすると―― 完全に消えた。


 よし。


 カイトは、悦に入った。


 これで、彼女はすっかり綺麗になったのである。


 そして、それをしたのが自分だ。


 ささやかな満足感に包まれて、カイトは幸せだった。


 メイの手を解放してやる。


 彼女も、これで安堵するのではないかと思った。


 わざわざ、手の汚れを消さないようにと、努力する必要がなくなったのだから。


 なのに。


 彼女は、肩を落として落胆したようなため息をついたのである。


 何だと?


 これには驚いた。


 彼にしてみれば、いいことをした気持ちになっていたというのに、ひどく残念そうな反応だったのである。


 そんなはずがないと、カイトは彼女の顔を見ようと首を突き出した。


 この角度だと、メイの肩を乗り越えるしか方法はないからだ。


 気配に気づいたのか、向こうも彼の方を向く。


 非常に窮屈で、間近な角度で目が合った。


 驚いてはいたけれども、メイの表情には、さっき彼が予想したような落胆の影があったのだ。


 何でだ。


 いまの自分の行為が、どうして彼女を落胆させたのか、ちっとも分からなかった。


 だから、じっと覗き込んで心を探そうとした。


 ちゃんと理解したかったのだ。


「あの…ね」


 視線が逃げる。


 そうして、恥ずかしそうに洗い立ての唇を開いた。


「ホントは…えっと……嬉しかった…の」


 はぁ??????


 続いた言葉を聞いたが、カイトにはちっとも分からなかった。


 一体何が嬉しかったというのか。


 手の汚れを落としたことが嬉しかったのだろうか。


 しかし、さっきの落胆の反応とは、食い違うような気がする。


 先走る予測を押さえつけて、次の言葉を待った。


「カイトの字が書いてあるのが…嬉しかったの。何か…私にしるしが残ってるみたいで…」


 すると。


 なんと。


 そんなことを、言い出すではないか。


 カイトは絶句した。


 あの落書きを、彼女は嬉しかったというのである。


 とにかく、ケイタイ番号を教えずにはいられなかったカイトが、とっさに彼女の手を捕まえて書いた落書きが、嬉しくて。


 まるで。


 そう、まるで―― 今まで大事にしていたかのように。


『私にしるしが残ってるみたいで』


 シルシ。


 カイトが、彼女に刻んだ文字。


 そんなものを後生大事にしていたのだ。


 だから、消されたくなかったのである。


 早く言え!


 カイトはそう怒鳴りそうになった。


 だが、もし素直に言われた時に、自分がそれを消さずにいられたかどうかという話になると。


 多分答えは、どっちにしろ消した、というところだろう。


 確かに彼女が、たかがカイトの文字を、ここまで大事にしてくれていたことは嬉しい。


 しかし、こんな文字よりも、いまここにカイト本人がいるではないか。


 それが理不尽だった。


 本人がいるなら、そんなシルシよりも本人をもっと見ればいいのである。


 彼は、もう一度彼女の腕を捕まえて引っ張った。


「んな…字より……」


 ぐっとひっぱった腕に唇を寄せる。


 もっと別のしるしだって、カイトはつけることが出来るのだ。


 そんなに欲しいなら、いくらだって残してやることが出来る。


 腕を。


「えっ…」


 メイが、ビクッと手を震わせたが逃がさなかった。


 腕を―― 強く、吸った。


 唇を、そっと離す。


 お湯の中で上気していた肌でもよく分かるくらい、赤い跡が残っていた。


 カイトの唇に残っているのは、柔らかく濡れた腕の感触。


 これも。


 間違いなく、しるしというものだ。


 腕を離してやると、メイはその跡を見つめているようだった。


「それだったら……洗っても消えねぇ」


 ぼそっと。


 彼は、そういうマヌケなフォローをするので精一杯だった。


 汚い字がよくて、それがダメということはない。


 理屈ではそうだ。


 しかし、勢いでしてしまったものの、カイトは彼女の反応が気がかりだった。


 また、落胆のため息をつかれてしまうのではないだろうかと思ったのだ。


「あ…」


 ため息はなかった。


 しかし、メイはお湯の中にいるというのに、更に首を赤くしたのである。


 カァッと。


 ゴムで髪を上げているせいで、その変化がはっきりと見て取れた。


 ズクン。


 胸に強く刺さったものが、危険信号を伝える。


 いつも彼女の反応は不意打ちだ。


 不安になったカイトの予想を遙かに高く飛び越えて、彼の心臓を台無しにしようとするのである。


 猛烈に強く抱きしめたい衝動が、ガンガンと追い炊きされてしまう。


 そして―― 我慢できなかった。


 そのままぎゅうっと。


 彼女を強く抱きしめた。


 赤くなった首筋に唇を埋めて、強く吸う。


 メイの身体に、自分というしるしを残してしまいたかった。


「メイ……」


 最後まで、彼女の名前を囁こうとした。


 しかし、途中ではっと我に返ったのだ。


 まだ、ここはバスルームなのである。


 そして、彼は何もしないと彼女に言ったのだ。


 他の人間との約束なら、いくらだって破るだろう。


 しかし、彼女の信用を失う真似だけはしたくなかった。


 けれども、このままここにいては―― きっと、もうちょっとで弾け飛ぶに違いないのだ。


 クソッ!


 胸をかきむしりたい衝動をこらえて、カイトはざばんとバスタブから身体を引き起こした。


 彼女一人を残して。


 カイトは、風呂場を逃げ出した。


 バタンと強くすりガラスのドアを開けると、水滴をしたたらせたまま脱衣所に入ったのだ。


 彼女からどんなに逃げようとしても、身体の中のマグマは燃えさかるばかりで、一向に静まる様子がなかった。


 身体を拭いても。


 着替えても。


 脱衣所のドアを開けても。


 メイを―― 抱きしめたくてしょうがなかった。



 もう、我慢するのはやめたはずなのに。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ