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01/11 Tue.-15

 あっ、あっ、あっ。


 背中にカイトの胸。


 メイは、ガッチガチになったまま、後ろから彼に抱きしめられていた。


 湯の熱さとはまったく違う熱が、身体中をかけめぐる。


 別に、変なことなんか何もない。


 二人は夫婦だし、一緒に暮らしてもいるし、彼女だってすごくカイトのことを好きなのだ。


 だから、抱きしめられるとドキドキして苦しいけれども、幸せなことのハズだった。


 しかし。


 この現状は、あまりにもショッキングで。


 だから、心と身体が彼女に無断で驚き続けるのだ。


 背中にいるのは、カイトなのである。


 信用できる人なのだから、驚く必要なんて何もないはずなのに。


 衣服を着ていないというのは―― こんなにも頼りないものなのか。


「な…何も、しねぇ」


 そんな驚きが伝わってしまったのだろう。


 悪いことをしたかのように、彼の腕が逃げていこうとする。


 まるで、ホールドアップだ。


 無害であることを証明するような態度。


 メイがあんなに驚いたから、悪いことをしたと思ったのだろう。


 そんな!


 混乱しながらも、それは違うのだと思った。


 カイトは、何一つ悪いことをしているワケではない。


 ただ恥ずかしくて、彼女が自分の心の制御をうまく出来ないだけだった。


 だから、彼が罪悪感を覚えることなんてない。


 うまくそれを伝えたかった。


「あの…その……」


 言葉は―― 見つからない。


 どきどきした心臓が、声の出る部分をふさいでいるようなカンジだ。


 けれども、腕を動かすことが出来た。


 カイトの片腕を捕まえて、自分の胸の方に回そうとする。


 こうすれば、どういう気持ちかは伝えられると思ったのだ。


 不意に、その腕に力がこもった。


 通じたのだ。


 彼は、もう片方の腕も持ち出して、メイをぎゅっとしてくれたのである。


 安堵と恥ずかしさと嬉しさが、ぱっと彼女の身体の中まで滑り込む。


 一体、どれに一番スポットライトをあてていいのか、分からないくらいだった。


「メイ…」


 掠れた声で、髪の中にささやかれる。


 すごく、気持ちのこもった呼ばれ方だ。


 聞いているだけで、ドキドキがどんどん凄くなっていくような。


 すぅっと。


 まるで引き潮にさらわれる船のオモチャのように、メイは彼の声に連れて行かれそうになった。


 ゆらゆらと。


 湯の水面がゆらめいている。


 伏せかけた彼女の目の中に―― そんな風にゆらめく自分の腕が映った。


 あっ!


 それが、我に返るボタンだった。


 無意識に悲鳴を上げながら、彼女は自分の両手をお湯から出した。


 とっさに、どっちの手だったか忘れたのだ。


 だから、両手をぱっと自分の方を向けて開く。


 右手だった。


 間違いない。


 左手を湯の中に捨てながら、メイはその字を眺めた。


 濡れてはいたが、消えていなかったのだ。


 カイトが、昼間残してくれた大事な呪文だ。


「よかったぁ…」


 それを小さく呟く。本当にほっとしたのである。


 今、自分がどういう状態にあるかなんて、この瞬間はスカッと抜け落ちていた。


 だから、いきなり身体に回されていたカイトの右手が外れたのに気づかなかったのだ。


 その大きな手のひらは、呪文が記されている右手首をがしっと掴んだのである。


「え、あ?」


 メイは捕まれている自分の手と、カイトの表情を見ようと、肩越しに振り返ろうとした。


 しかし、余りに角度が急なので、いまの状態では彼の顎を見つけるのが精一杯だ。


「…んだ、これ?」


 すごく、怪訝そうな声だ。


 きっと顔を見なくても、彼が眉を顰めているだろうことが手に取るように分かるくらい。


 ああ、どうしよう。


 言い訳なんか浮かぶはずがない。


 こんな手のひらのケイタイ番号を、いままで後生大事にしていたということが、彼に知られてしまった。


 魔法の呪文みたいだから。


 カイトが私の身体に残してくれたから。


 その二つの文章は、どちらも彼に伝えられそうになかった。


 妙に少女チックで、子供っぽいと笑われてしまうんじゃないかと思ったからだ。


「あ、あの…まだ、書き写してなかったの…だから、消しちゃいけないと思って…あの」


 だから、とっさに苦し紛れの嘘をつく。


 このくらいの嘘なら、きっと神様だって見逃してくれるはずである。


 これで、彼が無罪放免してくれるのではないだろうかと思った。


 単なるうっかり者で、済ませてくれそうな気がしたのである。


「後で…」


 しかし。


 いきなり、カイトはぼちゃんと、彼女の右手を湯の中に沈めた。


「後で、紙に書いてやる…」


 そして、もう片方の手で、ごしごしとメイの手のひらをこすったのだ。


 あー!!!!


 彼女は、手を逃がそうとした。けれども、彼がしっかりと握っているために、それが出来なかった。


 あ、あー!!!


 心の中で悲鳴をあげる。


 ばちゃん。


 再び水の上に持ち上げられた彼女の手のひらは、大変きれいなものだった。


 わずかに一カ所、残骸が残っている程度だ。


 しかし、それも目ざとく彼に見つけられ、きゅきゅっと指先でこすられると消えてしまう。


 綺麗になったぜ。


 そんな風な声さえ、後ろから聞こえてきそうだった。そっと手が離される。


 メイは、空中で手を止めたまま、じーっとそれを眺めてしまった。


 もう、彼の魔法の呪文はないのである。


 はぁ、と小さなため息が出てしまった。


 こんなことなら、ちゃんと理由を言えばよかった、と。


 彼は、親切で洗ってくれたのだ。


 書き写しそこねて、消せないでいると思われて。


 後で紙に書いてやるから、消してもいいのだと―― そして、消してくれたのだ。


 本当は、違ったのだ。


 この身体のどこかに、カイトの名前が刻まれているようで嬉しかったのに。


 もう一度眺めると、また、ため息が出てしまった。


 顎が。


 メイは、びっくりした。


 カイトの顎が、自分の顔の横からにょきっと出てきたのである。


 彼女の肩越しに、顔をのぞき込もうとするかのように。


 首を竦めるようにしてそっちを見ると、ほんの間近に彼の目がある。


 あのグレイの目が、じっと自分をのぞき込むのだ。


 どうかしたのか?


 そんな目だった。


 気落ちに気づかれたのだろう。


 怪訝そうで、少し心配な目の色だ。


 たかが手のひらの文字を消しただけで、彼女がこんなにも落ち込むとは思っていなかっただろうし、それが普通だった。


 言い逃れを、させてくれないような目だ。


 彼女が、さっき手のひらに隠していたヒミツの匂いを、かぎとられてしまったのである。


「あの…ね」


 メイは、視線をそらしながらぽそっと呟いた。


「ホントは…えっと……嬉しかった…の」


 白状する。


 でないと、ずっとカイトに見つめられ続けるのではないのかと思ったのだ。


「カイトの字が書いてあるのが…嬉しかったの。何か…私にしるしが残ってるみたいで…」


 そこまでしか言えなかった。


 やっぱり、だんだん恥ずかしくなってきたのだ。


 心の内側を聞かせてしまった上に、手のひらの字も消されてしまった。


 ドクンっ。


 そんな強い鼓動を感じた。


 一瞬、自分の心臓が暴走したのかと思った。


 違う。


 メイは、びっくりした。


 彼が肩越しに顔を前に突き出していたため、彼女の背中とカイトの胸がぴったりくっついていたのだ。


 だから、さっきのは―― カイトの心音。


 身体ごしに伝わるくらいの、強い鼓動だったのである。


「んな…字より……」


 カイトの声が、不安定な響きを持っているように感じた。


 微かに乱れたような呼吸の下から、声を出そうとしているような。


 右手が、もう一度捕まれた。


 きゅっと強い握力を感じる。ドクン、ともう一度背中で心音がした。


 引っ張られる。


 右腕を持っていかれる。


「メ…イ……」


 苦しそうな声が、持って行かれた腕のすぐそばから聞こえた。


 濡れた腕に吐息がかかる。


 ゾクッ。



 熱い湯の中なのに、背筋が冷たくなって―― 今度は、間違いなく自分の鼓動が高く鳴った。


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