01/11 Tue.-14
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風呂は、とにかく熱かった。
カイトは、横を向いたままバスタブにつかっていたが、身動き一つとれないまま、釜ゆでの刑を続けていたのだ。
水を入れようかとも一瞬思ったのだが、メイは熱い風呂が好きなのかも、という疑惑のせいで勝手にそんなことが出来なかったのである。
洗い場の方では、シャワーの音が始まったり途切れたり、泡の立つ音がしたり―― 挙げ句、何かのはずみに彼女がもらす、呼吸音さえも伝わってきた。
妙に反響する、この空間がいけないのだ。
いま、彼女がどういう状態なのか、リアルに右脳が構築してしまいそうだった。
身体を流している音も、髪を洗っているだろう音も、はっきりと聞き分けたのだ。
風呂場で。
どういう会話を交わすのが自然かさえ、カイトは分からなかった。
普通なら、世間話でもするのか。こういう場合は。
さりげない感じで、今日のことや仕事のことなんかを話すのだろう。
しかし、カイトの今日の仕事など書類作業だ。
こんな話をしたって、メイが喜ぶはずもなかった。
第一、彼自身がちっとも楽しくなかったのだから。
開発の仕事だったらいいのか。
いろいろ考えてはみたけれども、自分が彼女を喜ばせるような話題を持っていないことに気づくだけだった。
言葉では、到底喜ばせられないのである。
じゃあ、一体何なら――
ちらり、と横目を使おうとしたが、白い太腿が視界に入っただけで、カイトはまた視線をそらした。
バスルームは、無用に明るいものだ。
その明るさの中で、水滴を弾いているような白い身体を、どうして彼が直視できようか。
しかも、こんな盗み見るような卑怯なマネ。
カイトは、面白くもない風呂場の壁を見ることになった。
ただ、水滴がこびりついて光っているだけの壁だ。
そうしている内に、洗い場の水音が止まった。
洗うという仕事は、終わったのだろうか。
確認の視線を送ることは出来ない。
「あ、あの……私、もう」
しかし、こともあろうに、彼女の声は出口へと向いていた。
足音が、そっちに向かっているのも分かる。
バスルームを出ようと言うのだ。
バカ野郎!
ざばん、とカイトは慌てて湯船から上がった。
どう考えても、彼女がお風呂で温まったとは思えない。
少なくとも、さっきまで洗い場にいたのだ。
シャワーを使ってはいただろうが、冷えているに違いないのに。
遠慮しているのだ。
彼がバスタブを占領しているので、どかすのが悪いと思ったか―― まあ、その辺りだろう。
これでは、カイトは彼女に、カゼをひかせるために入ってきたかのようだった。
一瞬。
網膜に彼女の白い後ろ姿が、くっきりと焼き付いた。
驚いた余り、そっちの方を見てしまったのである。
瞬時にして血流が狂って、目の前が真っ暗になりそうだった。
いわゆる立ちくらみというヤツだ。
だが、それを踏みとどまって、視線をばっとそらした。
「つかれ!」
そう怒鳴るように言うと、彼女がさっきまで使っていた洗い場に背中を向けて陣取る。
カイトだって身体や頭を洗うのだ。ということは、バスタブは空っぽなのである。
何の問題も、あるはずがなかった。
もしも、彼女がまだ出ていこうとするならば、力ずくでもバスタブにつからせようとさえ思った。
そんなにカイトに遠慮するというのなら、このまま彼が出ていったって構わなかったのだ。
しかし、メイはそれ以上の抵抗はしなかった。
ゆっくりとした動きで、後ろを横切って行ったのである。
彼女の歩く影だけを、カイトは視線の端で追いかけた。
ぱしゃん。
小魚が、跳ねた。
やっぱり、メイは熱い風呂が好きなのだろう。
水を入れる様子もなく、そのまま静かにつかっている。
その静かさが耐えられずに、カイトはシャワーの水を出しっぱなしで、身体だの頭だのを乱暴に洗った。
泡を、身体になすりつけた端から流していくような、かなりインスタントな作業である。
そんな風に、バチャバチャやっていると―― ものの数分で、作業が完了してしまった。
顔も身体も頭も、あっという間に洗い終わってしまったのだ。
はっ。
ちらっと、メイの方を見る。
今度は、身体のほとんどが湯の中につかっているのだから、見た瞬間にめまいを覚えるようなことはないだろう。
バスタブは。
二人、入れないことはない。
うまくすれば、見ないままでも、身体を寄せ合うことが可能かもしれないのだ。
カイトは、飛び出そうな心臓を抱えたまま、決意を持ってバスタブに向かった。
その気配を察したのだろうか。
メイは、マイナス同士の磁石のように、代わりにそこを出ていこうと身体を動かしたのだ。
逃げんな!
反射的に彼は、腕を掴んでいた。
オレから……逃げんな。
それが、一番耐えられないこと。
一緒に風呂に、どうしても入らなければならなかったワケではない。
しかし、こうやって逃げられるのだけは耐えられなかった。
その理由が、遠慮だとか恥ずかしい、とかいう言葉であったとしても、それでもカイトはイヤだったのである。
だから。
勢いで。
彼女の背中を抱え込むように―― ドボン!
「きゃあ!」
その勢いでか、彼女が悲鳴をあげた。
きっと、ただの驚きだ。
そうに決まっている。
いや、そうでなければならなかった。
恐怖なんかじゃない。
ただ、驚いたに違いないのだ。
湯船の中で、後ろからぎゅっと彼女を抱きしめたまま、その身体から驚きが逃げ去るまでじっとしていた。
「な…!」
なかなか強ばりの取れない彼女の身体にイラついて、反射的に大きな声になりそうになって、慌ててその口を一度閉じた。
これ以上怯えさせてどうしようというのか。
すぅっと一度息を吐いて。
「な…何も、しねぇ」
横を向いたまま、カイトはそう言った。
その証拠と言わんばかりに、そっと抱きしめていた腕を放す。
たかが、一緒にお風呂に入るというだけで、このザマだった。
何をしても、彼女とは初めてのことばかりで、不慣れなことづくしだ。
カイトは今まで、こういうスキンシップのある恋をしたことがなかった。
こんな、大事な恋は初めてだったのだ。
結婚したと言っても実感は薄く、まだ恋が他の穏やかな感情を置き去りに、一人だけぶっちぎって走り回っているのである。
ほかの感情は、一生懸命ついていこうとはするものの、遠く遙か後方だった。
だから、こんな風になってしまうのである。
穏やかに慈しんで温めあう恋―― なんて、木星よりももっと遠くだ。
「あの…その……」
なのに彼女は、離そうとしたカイトの手を追いかけた。
そっと片方の手を、両手で優しく捕まえると、自分の身体に回すように動かす。
ズキンッ。
彼の心臓のことを、本当にメイは知っているのか。
こんなに、まるで自分からカイトを求めるような行動に出られると、覚えたことのないような痛みに襲われるのだ。
愛しくて、しょうがない。
「メイ…」
ぎゅっと、もっと抱き寄せる。
その濡れた髪の匂いに、頬を押しつけるように。
「きゃっ!」
しかし。
いきなり、彼女が驚いた声をあげた。
腕の中の存在に、トランスが入りかけたカイトは、それで無理矢理現実に引き戻された。
自分が、何かイヤなことでもしたのかと思ったのだ。
そうではなかった。
彼女は、湯の中に沈んでいた、手をばしゃんと空中に取り出したのだ。
そして。
「よかったぁ…」
本当に嬉しそうな声で、小さくつぶやく。
彼女の視線の先は、右手だった。
たとえ、後ろから抱きしめて目の動きが分からなくても、それだけははっきり分かった。
右の手のひらには。
へたくそな数字が、並んでいたのだった。
それが一体何で、なおかつ誰が書いたかなんて―― 考えるまでもなかった。