01/11 Tue.-10
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昼に、メイと出会った。
婚姻届も、その時に確実に提出した。
もう、何の間違いもない。
間違いもない―― というのに。
カイトは、帰宅途中の車中で、鼓動を速くしていた。
この乱れは、『あいつが待ってるぜ、イヤッホー!』というような、楽観的なものではなかった。
とにかく早く帰り着いて、彼女の存在を実感したかった。
何人たりとも、俺を邪魔するな。
そんなオーラをガンガン飛ばしながら、彼は車を走らせた。
幸い神様とやらは、意地悪ではなかったようで、無事に家の門をくぐることができた。
玄関についている明かりに、少しほっとする。
しかし、はやる気を押さえきれずに、急いでガレージに車を入れた。
ドアを開けて車を降り、玄関を目指す。
最短距離を直線で、早足で―― 走り出さなかっただけ理性的だったと言えなくもないが、それでも心の中は荒れ狂っている。
だが、玄関の前でピタリと足を止めてしまった。
なぜ、こんなにまで自分が怖がっているのかが、分からないくらいだ。
普通は、もっと気楽に帰るべきなのだ。
そう思ってはいても、どうしても肩に力が入ってしまう。
ふぅ、と一つ深呼吸をしたのが精一杯。
カイトは、覚悟を決めてドアに手をかけた。
ガチャッ。
板チョコレートのようなドアが開いたら。
「おかえりなさい」
いきなり。
声と共に、世界の明るさが一気に変わった。
こぼれんばかりの笑顔が、カイトに向けられている。彼のためだけに。
あまりの衝撃に、身動きさえとれなくなってしまった。
心臓が止まってしまうかと思った。
まるで―― お菓子の家。
シュウと同居の味気ない家が、いきなり生クリームとチョコレートと、砂糖菓子で出来たお菓子の家になってしまった。
いままでだって、こういう風に出迎えられた時は何度もあった。
まだ、2人の気持ちが、ちっとも触れ合っていない頃。
でも、それとは意味も、色も、気持ちも、何もかもが違うものなのだ。
笑顔と言葉は、すべてカイトにだけ注がれていて、そして、触れることが許されているものだった。
触れても、いいのだ。
手を伸ばしても。
もう。
ガマンしねぇ。
彼は、その気持ちを強く抱いていた。
メイと心を通わせることが出来てから、それだけは極力譲らない項目として、心の一番上に、大きな文字で書き記しているくらいだ。
彼女について気持ちが渦巻いた時に、もう我慢なんかしたくなかった。
あんなに、死ぬほど我慢し続けた反動だろうか。
どういう理由にしろ、カイトが自分の手を止めることは出来なかった。
その気持ちのまま―― ぎゅっと。
彼女に触れることが出来る。
柔らかさも温かさも、しっかりとカイトに伝わってくる。匂いも音も何もかも。
ほっとするような、それでいて、もっと熱くなるような気持ちが、カイトを取り巻いた。
ずっと抱きしめていたい。もう、このまま腕を解きたくない。
「あっ…あの……おか…えりなさい」
慌てたような声で、メイがもう一度そう言う。
もしかしたら、離して欲しいと思っているのではないかという予測がよぎって、カイトはそれを振り払い、拒否するために、腕にもっと力を込めた。
まだ、全然この感触に、満足していないのである。
水のような彼女を、全身にしみこませていないのだ。
ぎこちなく、固いままの水。
「おかえり…なさい」
けれども。
今度の言葉は、メイの身体から少しだけ硬直を取り除いた。
抱きしめられることが、イヤではないのだと。
さっきまでのは、ただ驚いただけなのだと教えてくれる気がして、嬉しさが押し寄せてくる。
腕の力を抜いたりはしなかったけれども。
「晩ご飯は、おで……んんっっっ」
勝手に動き出す唇を捕まえて、熱い気持ちを重ねる。
言葉なんかよりも。
もっと、伝えたい気持ちがいっぱいあった。
※
おでん―― 終了。
後かたづけ―― 終了。
といっても、後かたづけはカイトが監視していた。
怠けないように、ではない。
その逆だ。
メイが、調理場という閉鎖された空間で、必要以上の仕事をしないように見張っていたのである。
カイトが会社に行っている間は、どうしても止めることは出来ないが、自分がいる空間で、必要以上の仕事をさせたくなかった。
一緒にいる時間というのは、意外と短いものだ。
平日ともなれば、朝のちょっとした時間と、会社終了後の夜しかない。
しかも夜というものは、ほとんどが眠るためのものだ。
本来カイトは、フクロウ族である。
夜更かしなんか大の得意で、早起きの方が苦手だった。
だから、夜を長く取ろうと思えば、出来ないことではない。
しかし、メイは、彼よりも早く起きて朝食を作るのである。
しなくていいと言っても、きっと彼女は起き出してしまうのだ。
それを考えると、自分の気持ちだけで、夜更かしを強要することが出来なかった。
寝る部屋を別々にすれば、早く寝る、遅く寝る、の時間差の問題なんか生じないだろうが―― そんなこと、カイトが承諾出来るはずもない。
結局。
あのカイトが、早寝になってしまうのである。
だから、起きている時間など、カイトにしてみれば微々たるものだった。
その微々たる貴重な時間を、家事などというもので奪われたくなかったのだ。
しかし、どうしても最低限の後かたづけをしないと落ち着かないらしいので、しょうがなく我慢しているのである。
こうしている間に、意識の中ではイライラが蓄積されていくばかりだ。
メイがピンクのゴム手袋を外した途端、カイトは手を捕まえて、二階の方へと連行しようとしたのである。
冷てぇ。
カイトは眉を顰めた。
ゴム手袋をしていたようだが、よく考えれば、ゴム手袋は温度を通すのである。
だから、水が冷たいと手も冷たくなるのだ。
はっ。
カイトは、本当に自分が家事に携わらないために、すぐに忘れてしまう事があった。
この調理場には、給湯のシステムがないのである。
メイは、いままでずっと、冷たい水で家事をしてきたのである。
そういえば、最初の頃も同じことに気づいたような気がした。
カイトが、自分でカレー皿を洗った時だったか。
しかし、あの頃はいろんな衝撃的なことが連続して起きていたために、すかっと忘れていたのである。
目の前の、メイに対応するので精一杯の日々だったのだから。
クソッ。
本当に、自分の気の回らなさが腹立たしい。
彼女を幸せにしたいのに、こんなに冷たい手にさせてしまったのだ。
その腹立たしさのために、もっと強く手を握って引っ張る。
それと。
自分だって冷たい水じゃツライだろうに、たかだか給湯設備一つ欲しいと言わない、メイにも腹立たしい。
言えばいいだろ!
怒ったままのカイトは、それを口に出せないまま、部屋に帰り着いた。
「フロ…入ってこい」
だから。
部屋に入るなり、彼女にそう言った。
名残惜しくも、手を離してやりながら。
熱いお風呂に入れば、きっとこの冷たい手も、すぐに温かいものに変わるだろうと思ったのだ。
「あ、カイトから先に…疲れてるでしょう?」
なのに、メイときたら、彼の気持ちなども知らずにそんな風に言う。
だー!!!
カイトはまどろっこしくなって、彼女の手をもう一回掴む。そのまま、ぐいぐい引っ張る。
目指すは、風呂場だ。
「え? あ、ホントに…私は後で……」
言葉で抵抗するのも聞かず、カイトは彼女を脱衣所の中に突っ込むと、そのドアをバン!っと閉めた。
ドアの。
向こう側と、こっち側。
「早く…入れ」
カイトは、ドアに背中をもたれさせるようにして、自分自身を重石にした。
「……はい」
背中に―― ようやく観念したらしいメイの声が、小さな振動となって届いた。