01/11 Tue.-1
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それは、一本の電話から始まった。
メイが、家の掃除をしている時のことだ。
更に正確に言うならば、9時ちょうどの出来事だった。
1月11日。
結婚した翌日。
カイトは会社に出かけていて、この家にいるのは彼女ただ一人。
電話が鳴った時は、ドキリ、とした。
まだ全然、この状況に慣れていないのだ。
カイトと一緒に暮らす、というのはこれが初めてではない。
それ自体には免疫があった。
だからと言って、電話が得意なワケではないのだ。
彼の妻としての肩書きには―― まだ、ちっとも慣れていないのである。
結婚2日目という事実もあったが、それ以前に、お互い知らないことだらけのまま、すごい勢いで結婚してしまった。
時間がたてばたつほど、不安というものが押し寄せてくる。
もし、人に『あなたは、彼とどういう関係ですか?』と聞かれても、その事実をうまく伝えられる自信はちっともなかった。
しかし、電話が鳴っているからには、取らなければならない。
ハルコかもしれないし、もしかしたらカイトかもしれないのだ。
外から連絡をつける方法と言えば、この電話くらいしかないのだから。
ドキドキしながら、電話を取った。
相手もよっぽどの用事なのか、迷っている間中コールを鳴らし続けてくれたのである。
「もしもし…」
緊張する声で、電話を取った。
『ああ、よかった…!』
開口一番―― 受話器は、安堵の声をあげたのだった。
※
ど、どうしよう。
メイは、鋼南電気の会社の前で、ウロウロしていた。
電話帳で住所を調べて、ようやくたどりついたのだ。
もうすぐ12時。
ここに来る前に、いくつか寄り道をしてきた。
一つは、元のアパート。
戸締まりの確認と、貴重品や簡単な身の回りのものを引き上げてきた。
貴重品と言っても、カイトにもらったお金が入っている通帳くらいだ。
あとは化粧品と着替え関係をちょっと。
他にも持って帰りたいものがいくつかあった。
正式に、引き払いに来なければいけないだろう。
いつまでも、こうして放っておくワケにはいかないから。
部屋でいろんな感慨にふけっている場合ではなかった。
急ぐべき仕事が、残っていたのである。
アパートで、慌てて化粧だけすると出た。
本当は、カイトに電話を入れようと思ったのだ。
しかし、会社への電話というのは、トラウマが邪魔してできなかったのである。
メイが迷子になった時、彼女自身で一回。
派出所の巡査さんから一回、会社に電話を入れたのだ。
1ヶ月くらい前の出来事で、覚えている人はいないかもしれないが、やっぱりすごく怖くなって。
そうしているうちに、ここまでたどり着いてしまった。
ケイタイ番号を聞いておけば、こんな苦労なんかしなくてすんだのに、昨日も今日も、まだそれどころじゃなかった。
結婚生活に慣れようと努力をしている矢先に、ぎゅっと抱きしめられて。
抱きしめられると、頭が真っ白になってしまって、また一から慣れをやりなおさなければならないのだ。
あの不意打ちの抱擁がいけない。
あんなに接触好きな人だとは思わなかった。
そういえば―― 最初に出会った時も、彼女は抱きしめられていた。
思い出すと、少し胸が痛い。
あんなところで働いていたという事実もだけれども、カイトが今までそんな風に女性に対していたのかと思うと。
いけない。
メイは、頭をプルプルと振った。
思いが通じただけでも信じられないのに、その翌日には結婚までしてしまって。
これ以上、何のゼイタクを考えているのか、と自分を叱咤した。
カイトが過去いろんな女性を抱きしめていたとしても、結婚相手は一人しか選べないのだ。
最後は、メイを選んでくれたのである。
やっぱり、信じられない事実なのだが。
だが、いまはそれどころではない。
大事件が起きてしまったのだ。
でなければ、わざわざ勤務中のカイトを訪ねてきたりはしない。
どうしよう。
胸の中にある言葉はそれだけ。
会社が終わって、帰ってくるのを待つ方がいいのだろうか。
普通に考えれば、そっちの方がいいはずだ。
しかし、内容が内容だった。
何度も何度も、ビルの前をうろうろした。
カイトが偶然出てくる―― なんてことはなかった。
やっぱり。
メイは、くるりとビルに背中を向けた。
やっぱり、いきなり訪ねるのは失礼だと思ったのだ。
カイトだって恥ずかしい思いをするに違いない、と。
そして。
勇気を出して、公衆電話の受話器を取ったのだ。
※
代表電話。
やはり、電話帳にはそれしか載っていなかった。
喉から心臓を飛び出させんばかりに緊張しながら、ゆっくりとその数字を押す。
一つ押すごとに、受話器を元に戻したい衝動を抑えなければならなかった。
何て言おう。
この場合、頭の中に巡るのは、カイトにどういう風に言おう、ということではなく、その前に立ちふさがる受付とかを、どうやってクリアしようかということだった。
失敗した記憶ばかりがよみがえってしまう。
1コールの後。
『はい、鋼南電気でございます』
受付嬢が出てしまった。
「あっ…あのっ、私、家のものなんですが…カ…社長はいらっしゃいますか」
慌てる唇で、彼女は何とかそれを言い終えることが出来た。
考えてみれば、文法はめちゃくちゃである。
家族のものが、『社長、いらっしゃいますでしょうか』などという発言を、するはずがないというのに。
受話器の向こうに、一瞬沈黙があった。
『……少々お待ちくださいませ』
電話は、保留音になった。
ほぉ、とため息をつく。
とりあえず、お城の門番に門を開けてもらえた気分だったのだ。
ため息をついた直後。
すぐに保留音は途切れた。
『お電話代わりました、秘書室です』
電話の声はカイトではない。女性のものだった。
また、いま門番に言った言葉を使わなければならないのだ。
しかも、今度は前よりも強固な門番―― とは失礼か。
親衛隊が、お相手なのである。
ここを通らなければ、王様に謁見することは出来ないのだ。
家のものですが。
メイは、自分の鼓動にかき消されないように、頑張ってそれを言ったのだ。
『…失礼ですが、社長とはどのようなご関係でいらっしゃいますか?』
ああ。
目の前が真っ暗になった。
ついにそれを聞かれてしまったのだ。
答えなければ先に進めないのである。
本当に家族のものなら、ここでためらったりするはずなどないのだ。
母にしろ、姉にしろ妹にしろ、はっきりそう言えるのである。
そう言えば、向こうはすぐ『申し訳ありませんでした、しばらくお待ちください』と言って、王に会うための扉を開いてくれるだろう。
妻と。
いまのメイは、はっきりとそれを言うことが出来なかった。
しかし、言わなければ、電話はここで終わりである。
冷たい汗が背中を流れた。
唇が震える。
「あ…あの………つ………妻です」
ご、ごめんなさい!!!
メイは、見えないカイトに向かって、精一杯謝ったのだった。