存外、伽藍堂だった婚約者様へ
私は、彼の無表情の奥に、優しさを見ていた。
だがそれは幻だったのかもしれない。
幼い頃から決められていた婚約者、伯爵令息セシル・グランディール。
いつも少し眠そうで、何を考えているのか分からないひと。
けれど、アンニュイに本を読む横顔や、紅茶のカップを落としかけて慌てる姿を見るたび、胸の奥が少しだけあたたかくなった。
「自分にだけ見せる素の顔」だと思っていた。
あの頃の私は、そう信じて疑わなかった。
けれど、信じることと、盲目であることは違うらしい。
事の発端は、商会の帳簿だった。
私の家――クロイツ子爵家は、王国でも指折りの商才で知られている。父は既に隠居しており、今では私が中心となって商会を切り盛りしていた。
そして私は、セシルを「将来共に歩む人」として、家の事情を少しずつ伝えていた。
だから、彼の署名が帳簿にあっても、不思議には思わなかった。
……最初は、ね。
だがある日、細工された領収書の束を見つけた。
そこにはセシルの筆跡で、子爵家の取引を装った高額な支出が記されていた。
胸の奥が、冷たくなる。
信じていた人の名前が、泥のようにそこにあった。
すぐ、セシルには確認をとった。
「セシル様。この帳簿について、少しお話ししたいのですが」
午後の応接間。香りのよい紅茶を用意しながら、私は静かに切り出す。
セシルは、ふわりとした笑みを浮かべたまま、紅茶をひと口。
「……ああ、そのこと? いいじゃないか。どうせ君の家はお金持ちなんだし」
柔らかい声。けれどその奥に、何の誠意もなかった。
「このお金は、婚約者としてあなたにお渡しした持参金の一部です。どうしてそれを、こんな形で使われたのですか?」
「使い道? 特にないよ。ただ――好きなものができてね」
なんて、無邪気な。
まるで駄々をこねる子供のように笑って、紅茶をもう一口。
その後は今流行しているらしい恋愛劇を読むのに戻る。
「それに……ルルには僕を捨てる度胸なんてないよ。だって、君、僕が好きだろう?」
ああ。
この瞬間、私の中で何かが確かに切れた。
その顔を見た時、これまで愛しいと思っていた表情が、ひどく空虚に見えた。
そんな言葉が、心の中で響いた。
怒りは熱を帯びず、ただ冷たい。
凍りつくような静寂が、胸の奥に広がっていく。
ただ私は、彼の言葉の裏を取るように動いた。
贈り物の数々、妙に香水の香る手紙、気まぐれに変わる趣味。
それらを繋げるのに、時間はかからなかった。
◆
その夜、私は従兄であり、第二王子アデルジークのもとを訪ねた。
月が高く、王城の石畳は銀のように光っていた。
夜風が頬を撫でるたび、胸の奥の痛みが少しだけ静まる気がした。
彼は、夜明けのような淡い金の瞳を持つ人だ。
誰に対しても穏やかで、礼節をわきまえている。
けれど、二人きりの時だけは、ほんの少し表情を崩す。
そのわずかな揺らぎが、昔から私には救いだった。
「まさか、セシルが……。彼は君を本当に愛していると思っていたのに」
アデルジークの声は、静かに震えていた。
同情ではなく、怒りと哀しみが滲んでいる。
「ええ、私もそう思っていました。……笑ってしまいますね」
自嘲のように微笑むと、彼は眉をひそめて、そっと手を伸ばした。
大きな掌が、私の頭をやさしく撫でる。
まるで、壊れ物を扱うような手つきだった。
「泣かないで、ルル。君は、よくやっている」
その言葉に胸がきゅうと締めつけられる。
私は首を振り、微かに笑った。
「泣いてなんて、いません。……今は、ただ、困っているだけです」
アデルジークは目を細めた。
少しの沈黙のあと、肩の力を抜くようにため息をつく。
「君は本当に、強い人だね」
穏やかな声。けれど、その奥には鋭い光があった。
彼の中で、何かが静かに燃え始めているのが分かった。
「でも、僕にできることがあるなら言って。
ちょうどいいし、協力し合えることもあると思うんだ」
その言葉に、私はようやく目を上げた。
淡い月明かりが彼の髪を照らし、まるで夜の中に朝が差すように見えた。
ああ――この人となら、立ち向かえるかもしれない。
私は小さく息を吸い、紅茶色の瞳で彼を見つめ返した。
「……では、お願いしてもよろしいでしょうか。殿下」
アデルジークは微笑み、頷いた。
その笑みは、優しさと同時に、冷ややかな決意を帯びていた。
――その夜、私たちは机を挟んで向かい合い、
婚約破棄劇の台本をひとつずつ書き上げていった。
皮肉なことに、参考にしたのはセシルが好んで読んでいた恋愛劇の書。
彼の愛した筋書きを、そっくりそのまま、終幕だけすり替えてやるのだ。
最後に破滅するのが“愚かな恋人たち”なら、
この舞台の主役は、間違いなく彼らだ。
――あなたの好きな物語を、私の手で、完結させてあげましょう。
◆
やがて、舞踏会の日がやってきた。
燦々とシャンデリアが照りつけ、緑の香る夏の会場に、絹のドレスが波打っている。
音楽が風に混じり、笑い声と香水の香りが舞う。
だが、その華やかさの奥には、貴族たちの冷たい観察の目が潜んでいた。
この場は、社交と同時に戦場でもある。
――そして、私が今日立つのはまさしくその最前線だ。
しかし、それを実現させるにはアデルジークの協力が必要不可欠だった。
彼――次期国王と目される第二王子。
その立場にして、「婚約者に手を焼いている」と静かに笑ったのは印象的だった。
社交界の誰もが憧れる完璧な公爵令嬢リリアス。
その裏で、彼女がどれほど奔放に振る舞っているのか、彼の瞳はよく知っていた。
奇妙なことに、その瞬間から私とアデルジークは戦友になった。
彼は私に策を授け、私は証を集めた。
目的は違えど、向かう先は同じ――清算の場。
大階段の上で、アデルジークが私の手を取った。
楽団の音が静かに変わる。
金の刺繍の裾が階段を滑るように下りると、ざわめきが広がる。
第二王子にエスコートされる子爵令嬢――。
察しの良い者なら、すぐに事態を悟っただろう。
会場中の視線が、私に集まる。
私はそれらすべてを飲み込み、唇の端をわずかに上げた。
――これでいい。すべて、見せてあげる。
ルビーのシャンデリアの下、私は名を呼んだ。
「セシル・グランディール様」
その声に、ざわめきが静まる。
セシルが振り向いた。
白い燕尾服、無垢を装った微笑。
その仮面を、私は打ち砕く。
「あなたとの婚約を、この日をもって破棄させていただきます」
一瞬、音楽が止まったような錯覚がした。
セシルは眉をひそめ、口角を引きつらせて笑う。
「……ルル。何を言い出すと思ったら」
「出任せではありません。証拠は、ここにございます」
アデルジークが静かに腰に腕を回し、私を支える。
その手の重みが、舞台に立つ覚悟を確かにさせた。
「あなたは、私との婚約中に、この商会から幾度も品を購入されていましたね。
しかも、子爵家が婿入りのために用意した資金、持参金にも手を付けて。
その領収書を、ここに提示いたします」
私は封筒を開き、数枚の証書を掲げた。
白い紙が光を反射し、彼の顔に淡い影を落とす。
セシルの表情がみるみる変わり、血の気が引いていく。
「……なんだ、これは……!」
「ドレス、宝石、髪飾り。どれも高価な品ばかり。
かの有名な恋愛小説のように“生き別れの妹が見つかった”としても、ここまで豪奢にはなりませんわね」
ぺらり、と紙をめくるたび、彼の息が荒くなっていく。
最後の一枚を指先で止めた。
「極めつけはここ数ヶ月。どなたかと“お泊まり”していたようですね。
それもかなり豪勢に……最上階のスイートルームを、半年貸し切り?」
私は微笑んだ。
「お一人では広すぎるでしょう。……ねぇ?」
会場が凍りつく。
息を呑む音が幾つも重なり、誰かが扇子を落とした。
笑いを堪えるような気配が、そこかしこで揺れる。
「もちろん、このホテルも商会の管轄ですから、調べるのに手間はかかりませんでした。
フロント係曰く――」
私は一拍おいて、はっきりと告げた。
「『数日に一度、婚約者様と赤毛の艶やかな美女が、仲睦まじく部屋へ入っていくのを見ます』と」
沈黙。
その中で、セシルの喉がかすかに鳴る。
「……この国で赤毛と言えば、ねえ」
私は小さく首を傾げ、微笑だけを残す。
「いえ、これは私の口から申し上げるべきことではありませんわね」
その時、アデルジークが一歩前に出た。
舞踏会のざわめきが、彼の動きに吸い込まれるように止む。
白い軍装の肩章が燭光を弾き、その姿はまるで正義そのもののようだった。
彼は静かに視線を巡らせ、やがて一点、赤い髪の令嬢に止める。
「加えて申し上げる」
その声は、氷を這うように冷たかった。
「リリアス公爵令嬢――私の婚約者は、複数の男性と関係を持っていたとの報告があります」
ざわり、と空気が震えた。
誰かが扇子を握り潰し、別の誰かが息を詰める。
シャンデリアの光が太陽のごとく燃えるように、リリアスのワインレッドの髪を照らす。
その輝きは、美しさではなく、染みのように見えた。
彼女の白い肌に映る赤が、まるで罪そのものを浮かび上がらせているかのようだった。
アデルジークは、静かに一拍置いて続けた。
「リリアス嬢と接触したひとりの令息……彼には私の方から調査を依頼しました。
よって、実名は伏せさせていただきます」
朗々と響く声が、会場の高い天井に反射する。
王族としての威圧も、告発者としての冷静さも、その声には宿っていた。
彼は懐から書状を取り出し、淡々と読み上げ始める。
「手口は毎回同じ。最初は偶然を装って身体を接触し、次会う約束を取り付ける。
数回後には、身体の関係を迫り……。
調査の結果、計七名の男性と密会を繰り返していたことが確認されています」
リリアスの頬が、見る間に蒼白へと変わる。
しかしアデルジークは淡々と続けた。
「そして、その中に――セシル・グランディール伯爵令息の名も含まれていたのですよ」
雷鳴のような沈黙が走った。
リリアスが息を呑み、震える手から扇子を取り落とす。
軽い音が床に響いた。
扇子の白が、足元で無惨に広がる。気品の欠片もない。
ざわめきが再び波となって広がる。だが誰ひとりとして助け舟を出す者はいない。
リリアスが口を開きかける――しかし、その言葉は空気にすらならなかった。
アデルジークの声がそれを圧殺したのだ。
「護衛の証言もあります。
彼女の行動は、王家の監視下にありましたからね」
静かな一言に、誰もが息を呑む。
リリアスの顔が引きつり、何かを言いかけて、言葉が出ない。
アデルジークは視線を逸らすことなく、冷ややかに告げた。
「どうやら彼女は、王家の護衛には誘惑が通じないと学ばなかったようだ。
――残念でしたね。公爵家の護衛には通じたのに」
短い沈黙ののち、会場に乾いた笑いが混じる。
誰もが顔を伏せながらも、瞳の奥では蔑みの光を隠そうとしない。
公爵家の護衛は、ひとり、またひとりリリアスの視線から逃げるように頭を垂れた。
アデルジークの瞳が、青い氷のように鋭く光る。
その威光は、誰も逆らえぬ絶対の力を帯びていた。
彼が一歩、リリアスの前に進み出る。
その靴音の一つひとつが、断罪の鐘のように響く。
「公爵家の名を穢し、王家の信を裏切った。
この罪の重さを、あなたは理解していますか?」
誰も答えない。
リリアスの唇が震える。だが、声は出ない。
かつて社交界を魅了した美貌は、今や見る影もない。
隣でアデルジークが深く息を吐く。
それは怒りでも哀れみでもなく、ただ、長く張り詰めていた糸を切る音のようだった。
私は彼の隣で、静かに息を整える。
胸の奥に残っていた微かな迷いを、ひとつ、吐き出すように。
――今だ。
「はてさて……」
私は、うっすらと笑みを浮かべながら声を落とした。
会場の中央、命が零れるほどの光を振りまき、宝石のようなきらめきが床を滑っていく。誰もが息を呑み、その光の中心に立つ私の一言を待っていた。
「存外、伽藍堂だった婚約者様へ。――最後通告です」
息を吸い直し、視線を正面に据える。
「この婚約破棄、了承してくださいますよね? どうぞ、私以外のお好きなご令嬢と……お幸せに」
会場の空気が、凍りつくように静まった。
セシルはがくりと膝を折り、力なく肩を落とす。まるで糸が切れた操り人形のように。
その隣ではリリアスが蒼白な顔で俯き、扇子を握りしめた指が小刻みに震えている。
それでも、その頬を彩る化粧だけは、皮肉にも完璧だった――ルルの商会が誇る、最高級の紅と白粉で。
私はその艶やかな顔を一瞥し、喉の奥で乾いた笑いを押し殺した。
彼らの表情を見れば、すぐにわかる。
セシルの本命はリリアスであり、リリアスにとってセシルはただの火遊び相手。
元々、互いに想い合うことなんてない関係だった。
それでもこのふたりは、互いにしか縋る場所がない――他に婚約など望めぬほど、貴族社会の底へと転がり落ちていくのだ。
音楽は止まり、グラスの音も消え、ただ空気だけが静かに震えている。
その中心に立つのは、私とアデルジーク――ただ一組の男女。
彼が軽く私の手を取ると、周囲の視線が一斉に動いた。
光の粒が舞う中で、彼の指先の温もりだけが確かだった。
――終わったのだ。
私はセシルの空っぽな瞳を最後に見て、静かに背を向けた。
踏み出す足音が、舞踏会の大理石の床に冷たく響く。
その先で、アデルジークが一歩進み出て、まるで次の章を告げるように、手を差し伸べてくれた。
私はその手を取り、かすかに笑った。
◆
それから数日後。
王城の庭は、まるで何事もなかったかのように穏やかだった。
真の夏を思わせる熱風が吹き抜け、手入れの行き届いたバラの花々が淡く香る。
私は白いテーブルに腰掛け、アデルジークと向かい合っていた。
陽光が銀のティーポットに反射して、まぶしいほどだった。
「ルルの気持ちが一区切りついたらでいい」
彼はカップを置き、まっすぐに私を見つめる。
「僕との婚約を、考えてみてくれないか?」
その言葉は、静かな庭の空気に波紋を広げた。
あまりにまっすぐな眼差しに、思わず視線を逸らしてしまう。
赤く熟れたバラの花弁が、風に舞ってカップの縁に落ちた。
「……殿下、軽々しく仰らないでください。私は、まだ――」
「わかってる」
彼は私の言葉を遮るように、やわらかく微笑んだ。
「でも、僕は君を諦める気はない」
その声音には、王族としての威圧も、男の強引さもなかった。
ただ、誠実で、少し不器用な熱が宿っている。
「君が帳簿に向かうときの真剣な目が好きだ。
それと決めたことへ一直線に向かう性格なのに、
紅茶を淹れるときに少しだけ指先が震えるところも……全部、見ていた」
言葉を重ねながら、彼は照れくさそうに笑う。
その表情に、胸の奥がじんと温かくなった。
「……そんなことを言われたら、困ります」
「困らせたいんだよ、僕は」
軽やかに返された一言に、思わず吹き出しそうになる。
けれど、その瞳だけは笑っていなかった。
真剣で、まっすぐで、どこまでも正面からぶつかってくる。
ああ、もう――。
カップを手に取り、琥珀色の紅茶を一口。
舌に広がる優しい渋みと香りが、心の奥の痛みを静かに洗い流していく。
太陽の光が、透き通った液面にきらきらと反射して眩しい。
あの夜のざわめきも、今はもう遠い記憶のようだ。
私は、カップをそっと置き、微笑んだ。
――もう少しだけ、この必死な王子様を眺めていよう。
そうこっそり思ったのだった。
追記
11月4日 誤字訂正
報告ありがとうございました!




