これは怖い話ではありません。不思議な話です。「仏壇の鎖と芋虫男」
これは「創作」じゃない。
私、ナツロウが体験したどうしようもないくらい──間違いなく実話だ。
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海辺のリゾート開発会社で働いていた。よく言えばリゾート地、実際は過疎の進むただの田舎だ。会社の窓を開けると、夏草の匂いが漂い、時折、すぐそばの海で魚が跳ねる音が聞こえてきた。
会社の隣に、住民が亡くなって久しい廃屋があった。窓は白く曇り、生け垣は荒れ放題、蔦が軒まで絡んでいて、壁の割れ目の奥にはミツバチが巣を作っている。その家を会社は借りて、書類やら備品の倉庫に使っていた。
誰が決めたのか、「あそこに用があるときは、ナツロウくんに頼むのが一番」と言われるようになった。曰く、パートのおばさんが「二階の部屋から頭だけ出してこちらを見下ろしている幽霊を見た」。廃屋の階段は昇り降りするたびにギシギシ音を立て、廊下にはカビと古紙の混じった匂いがこもっている。
私は、肝試しじゃあるまいし、と思いながらも──実のところ、霊だのオカルトだのに震えるような初心な性格ではなかった。ホラー耐性は限界突破している。それでも、二階の階段を上がってすぐ右、噂のその部屋は確かに空気が変わる。重いというか、圧。
その原因は部屋の奥の角、仏壇が鎮座していた。ただの仏壇じゃない。仏壇の扉の取っ手には固定するだけの用途にはやたら太い鎖と、大きく堅固そうな南京錠ががっちり掛かっている。仏壇を守るというより、「中身を絶対に出さない」ように見える。誰がどうしてそうしたのかは、分からない。仏壇の前だけ空気が冷たく感じる。しかし、昼間も、深夜も、何度もこの部屋で探しものをしたが、噂の幽霊とは遭遇することはなかった。
様々な経験を経た今なら南京錠もレーキングで開けてやれそうだけれど、結局、中身を見ることはなかった。中に何が入っていたのか。仏壇という名の小さな密室のことを、今でも時折、思い出す。
廃屋の向かいにも、もう一軒家があった。こちらも住人は亡くなっていて、その身内から会社が借りていた。若者を住まわせるには少し気が引けるような、砂壁の、古いタイプの平屋。2DK、庭と縁側付き。私が社宅として使うことになった。
北西の部屋を寝室にした。ひとりには広すぎる家だった。引越し初日、荷物を降ろして布団に横になると、どこか遠くで蛙が鳴いていた。夜の空気は少しだけ湿っていて、天井に薄いカビのシミがある。
ある日の夜のことだ。寝入りばな、ふと隣の部屋から音がした。ズズッ、ズズッ……と、畳の上を何か重いものが這うような音。眠りと覚醒のはざま、体は動かない。人生で初体験する、いわゆる金縛り。
畳の方から、のっぺりとした大きな芋虫が這い出てきた。顔だけが、知らない中年男の顔。前腕は、カマキリの鎌みたいに曲がっている。夢の中だと分かっているのに、どうしようもなく生々しさが感じられた。その芋虫が、じりじりと這い寄り、私の右脛をカリカリ、カリカリと熱心に引っ掻き続ける。
「金縛りなんて、脳の半覚醒だ」と冷静に思っている自分がいる。そのうち消えるだろうと、無視する。だが、それ以降も度々金縛りに遭い、その度にあの芋虫男は必ず現れて、同じように私の右脛を引っ掻く。
三度目からはさすがに腹が立って、私は無理やり声を出した。金縛りの最中に「せからしかぞ!」と叫ぶような気持ちで、体を揺さぶった。半覚醒が解けると、部屋は静かだった。ふと思い立ち、寝室を芋虫がやってくる隣の部屋に変えてみた。それからは一度も金縛りには遭わなかった。
その後、家庭の事情で会社を辞め田舎も離れることになった。今でも廃屋の鎖の仏壇のことを、ふと考えることがある。あの鎖と南京錠の向こうに、何が眠っていたのか。そして、金縛りが起きるあの部屋。未だに鮮明に思い出せる。畳を這う湿った音、鎌のような腕、脛をひっかくカリカリという感触。
ほんの少しだけ、何かの痕跡が、現実に滲んでいる気がする。