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九十一話

『来週の引っ越しのことで相談があるんだけど』


「うん?どうしたの空くん?」


 平日の朝8時半。スピーカー状態のスマホから聞こえる声に私はヘアアイロン片手に首を傾げた。

 来週から共に暮らすことになる昔なじみの低い声。それには何やら葛藤のようなものが含まれている。何事だろうと先を促すと、電話向こうの相手は信じられないことを言った。


『あのさ……僕、鈴音の事好きだから───……』


「…………………え?」


 続いた言葉に呆気に取られて思わずヘアアイロンを取り落しそうになる。


 え?嘘でしょ?そんな事一言も言ってなかったじゃない。予想だにしなかった発言に、まるで裏切られたような気持ちになって愕然とする。


 何事かを言おうとして口を開いたその時、前触れもなくインターフォンが鳴った。思わぬ大きな音にびくっと体が跳ねる。


『来客?じゃあまた後でかけ直すよ』


「え、ちょっ!空くん!?」


 どうやらインターフォンの音は電話の向こうにも聞こえたようで、一方的に通話が切られてしまった。なんて人の話を聞かない奴だ……と戦慄きながらも、来客を待たせる訳にもいかないので動揺する心を抱えながら玄関へと向かう。


「はい、ってええ!?」


 何も考えずに玄関ドアを押し開くと、そこに立っていたのはスーツ姿のはるかくんだった。


 まだ待ち合わせの時間には少し早い上に、いつもはアパート前で待ってくれている彼が何故か直接訪ねてくるという事態に仰天してあわあわと焦り倒す。

 そんな私を見てはるかくんは呆れたような、困ったような表情を浮かべてため息をついた。


「おはよう。……ちゃんとモニター確認してから出て。元彼だったらどうするの」


「え、あっ、そそそそうですよね!すみません今ちょっと動揺してて……」


「動揺?何かあった?」


「いやそのっ!!大したことではないんです!多分!」


 さっと顔色を悪くした彼に慌てて首を振る。何となく今しがたシェアハウス相手との一幕を彼に知られるのは気まずくて、何でもないと身振りで示す。


「と、というかどうしたんですか!?家に来るなんて……」


「…………」


 訝し気に眉根を寄せながらも一応の納得を見せた彼に、誤魔化すように逆に私も何でここにいるのかと尋ね返した。すると今度は何故か目線を外して押し黙られる。


「……いや、ちょっと心配になっただけ。ごめん直接来て」


「へ?ああいえ、もう準備も済んでいますので」


 むしろ毎朝毎朝来てもらってこちらこそすまんという気持ちです。とりあえずはるかくんを玄関に招き入れて、「鞄取ってきます!」と大慌てでリビングへとバタバタ駆け戻った。テーブルの上に放置していたスマホとキーケースをポケットに押し込み、鞄を引っ掴んではるかくんの元に戻る。


「ごめん、急かしちゃって」


「いいえ!お待たせしました!」


 自分の家の玄関にはるかくんがいるという非日常光景にこっそり固唾を飲みながらパンプスに足を突っ込む。いやー引っ越し前で殆ど物無い状態で良かったー!ごっちゃごちゃな状態の部屋見られなくて良かったよぉ!と内心で安堵の息をつきながら家を出た。


 鍵を掛けてさあ行くか、とはるかくんを振り返る。しかし彼はすごく剣呑な眼差しでアパートの外をじっと眺めていた。


「……?どうしました?はるかくん」


「何でもない。行こうか」


 言葉通り、何事も無かったようにいつもの微笑みを浮かべたはるかくんに首を傾げる。ならいいんだけど。


 ……っていうか一緒に家出るってすごい夫婦っぽ……アホ!また頭茹ってる!

 すぐ恋愛脳になる自分の愚かな脳細胞をガンガン叩いて正気に戻し、心を落ち着かせるために深呼吸を繰り返す。


「えーっと……今日はどちらかというと私がお見送りですね」


「そうだね。本当は買い物付き合いたかったんだけど……」


「ふふ、そこまで迷惑かけるわけにはいかないですよ」


 どこまでもいい人なことを言うはるかくんに笑う。

 今日ははるかくんは週に一度の出勤日で、私はといえば有休を取って引っ越しの為の諸々の手続きや買い物の為に数駅離れた街へ行く予定だった。

 本当は私一人で出かけることにはるかくんは難色を示したが、出かける時間と帰る時間をはるかくんの出勤時間に合わせることで何とか納得してもらった。

 そうでもしないと仕事を休みかねない勢いだったのでこちらも必死である。


 全く心配性なんだからと呆れるような、むず痒いような複雑な感情でそわそわとしてしまうのは致し方ない話であろう。


 ───きっとこんな気持ちを抱くのもあと数日しかないのだから、今くらい多少浮かれても罰は当たらない、筈だ。


「俺19時には駅に着くと思うから改札前で待ってて。人気のないところに行かないように気を付けてね」


「はい、気を付けます」


 夜にははるかくんと葵ちゃんが私の送別会を開いてくれる。勿論、引っ越ししても『友達として』今後も一緒にゲームをしたり一緒にお出かけしたりするつもりであるが、今まで通り気軽に会うことはできなくなってしまうだろうから、ということだ。

 ここまで大切に思ってくれるなんて嬉しい限りである。


 一緒に店まで行くつもりらしい心配性なはるかくんに、私はこっそり吹き出してしまうのだった。

 









 ガサガサと荷物が入ったビニール袋を片手に電車を降りる。買い物の為に立ち寄ったデパートを出た時はまだ辛うじて夕方のような様相を表していた空も、19時前ともなれば真っ暗になる。日の入りの早さに冬だなぁと白い息を吐いた。


 丁度いい時間だ。スマホを見ればはるかくんから『あと10分くらいで着く』とメッセージが届いていた。葵ちゃんは少し遅れるそうだ。モンスターテールの主人公が土下座しているスタンプがメッセージと共に送られてきてふっと笑いが零れる。


 各駅停車の電車しか停まらない駅にしてはガヤガヤと騒がしいこの駅は、通勤通学のピーク時間ということもあって年若い学生や会社勤めっぽい人でいっぱいだ。

 大きな商業ビルこそないものの、コンビニもスーパーも牛丼チェーン店も、お弁当屋さんも病院もカラオケもなんでもあるこの駅はすごく便利だった。


 この駅を利用するのはあともう数回なのだなぁと思うとなんだか感慨深い。


「……あ」


 改札を抜ける手前で、そう言えばトイレに行きたかったんだったと思い出す。別に急いでいるわけではないが、まだはるかくんが来るまで時間もあるし先に行っておこう。

 そう踵を返した時だった。















「───鈴音」


 異常に近い距離から、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。






続きは3日になります。3日の投稿が最後となります。どうぞよろしくお願いします。

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