90話
『一か月後になりました』
『それまでの間、都合が合えばまたご飯作りますよ』
『……私が居なくなっても、ちゃんとご飯作って食べてくださいね』
寂しそうに笑うすずさんの顔が離れない。
ガチャン、と玄関ドアを閉めながらぼんやりと何度もその言葉を反芻する。
覚悟はしていた。いざその時が来たら笑顔で送り出さなくてはいけないとも思っていた。『これからも仲良くしてほしい』と離れても友達でと伝えるつもりだった。
しかし、いざ本当に告げられればそう素直に飲み込むことはできなかった。
「……一か月、か」
すずさんと葵が帰り静かになった玄関で立ち尽くす。
あまりにも短い。来月の中旬には新居に移るのだと言ったすずさんの顔に寂しさはあれど、悲しみとかそういう感情は見えなくて。
惜しんでいるのはやはり自分だけだったのだとまざまざと見せつけられた気分だった。
そりゃそうか。男とシェアハウスするのに、俺に対してそんな感情を抱いている筈がない。近い距離で見下ろした時の顔が余りにもそういう顔だったから勘違いして舞い上がってしまっていた。
いつだってすずさんは俺に対して「友達」のスタンスを崩さなかったというのに。友達以上になりたいという素振りを見せることはしなかったのに。
何を都合のいいことを。
「────」
纏まらない思考にため息をつき、リビングのソファーに転がる。あと1時間もすればいつものように葵とすずさんとゲームをする予定だ。それまでに諸々終わらせてゲームが終わればいつでも寝れるような状態にしなくてはいけないのに、全く動く気になれない。
コンビニで出会ってからのことが脳内でぐるぐると巡る。たかが一年足らずの関係だというのに、今やあの人の事ばかりを考えている。女々しいな、とどこか冷静な部分が無様な自分を鼻で笑った。
思えば、一年近くほぼ毎日会っていたというのに俺は彼女をのことを何も知らない。
年齢と、酒が好きなことと、結構ジャンキーな食べ物が好きなこと位しか知らないのだ。彼女の口から本名を名乗られたことも無い。
そしてきっと彼女も、俺の本名など知らない。
井上さんとの電話を聞いて、彼女の名前が『いいだすずね』というらしいことは知っている。
でもそれは彼女から名乗られた訳ではない。俺がただ盗み聞いて知っただけのことで。
「そりゃ、見向きもされねえわな」
余りにも間抜けな自分をあざ笑う。いや、知らないから見向きもされないんじゃない。見向きもされていないから教えてくれなかったのだ。
名前も、シェアハウス相手の男がどんな奴なのかも、何もかも、俺はあの人のことを知らない。
───名前を知らない。知られていない。その事実が何よりも雄弁に自分と彼女の現状を物語っていることに、俺はようやく気付くのだった。




