八十九話
「滅茶苦茶美味しかった。ありがとう」
「いえいえ、そんな大したものではないですから」
お皿を洗うはるかくんに改めてお礼を告げられ、謙遜を口にしながら受け取ったお皿を拭く。
本当に大したものは作っていない。手早く、それなりに見れるものを作っただけだ。しかしそれでもはるかくんも葵ちゃんも「美味しい美味しい」と完食してくれて感無量である。
むしろこちらこそありがとうございますという気持ちです。
葵ちゃんはリビングでこのあとやるゲームの厳選中だ。今はホラーゲームにお熱っぽいのでゾンビゲーでも持ってくるかな。実は我々3人の中では一番ホラゲー耐性が無いのは葵ちゃんなのだが、怖いもの見たさゆえかちょくちょく提案してきては一番いい悲鳴を響かせている。
ギャップの塊のような子だな本当に……。
「……あ、余ったおかずを保存しておきたいんですけどタッパーとかありますか?」
「あるよ」
お皿を洗い終わって濡れた手を拭うはるかくんにそう尋ねれば、長身の彼は私の頭上にひょいっと手を伸ばした。
流石は長身、私じゃ脚立がないと到底届かない吊り戸の中を難なく漁りだした。───何故か、私の後ろから。
「……っ、っ、っっっ!?」
シンクとはるかくんの体に挟まれて身動きが取れずに固まる。悲鳴のような声が出そうになって咄嗟に口を手で覆った。
ちょ、ななななっ!なにをしてはるんです!?いやもう葵ちゃんもそうだけどはるかくんも大概人との距離違い!死ぬ、死ぬから!!
ドッドッドッというバカでかい心臓の音を聞きながらせめて邪魔にならないよう小さくなる。早く、早く終わってくれ……っ!
「こんなもんでい……」
「は、ひっ!?」
頭上に落ちてくる声にびくんっと震える。慌てて見上げればはるかくんの顔が近くにあって。バチッと音が鳴りそうなほどしっかりと視線がぶつかる。
するとはるかくんはしばし放心した後、すすすすっと静かに後退していった。
「……このくらいの大きさのものでよろしいですか」
「は、え、ええ、ベストサイズです……」
反対側の壁にぴったりくっつきながら笑顔でタッパーを差し出すはるかくん。何故か敬語で問われ、しかしそれを指摘する余裕も私にはなく。
言葉を発する代わりにタッパーを恭しく受け取り、お礼を申し上げて残ったおかずを詰める。
ヒイイ心臓に悪い!本当に!距離近いの何とかした方がいいよはるかくん!誤解されるぞマジで!!季節外れの熱を放つ首元に気付かないふりをしながら心頭滅却!色即是空!と心の中で唱える。
……それにしても相変わらず良い匂いがする人だな。なんていうかシトラス系というか、甘ったるくない爽やかな香りがするというか。柔軟剤何使ってるか教えてほし……
「ド変態かっっっ!!!!」
「すみませんっ!!!!?」
無意識に「同じ匂いを纏いたい」とか思う脳を正気に戻すべく、タッパーを収めた冷蔵庫に思い切り頭を打ち据える。間髪入れず傍らから謝罪が飛んできた。
「え?な、何謝罪ですか?はるかくん……?」
「いや、ええと……すずさんこそ何罵倒……?」
「えと、いや……すみません。人様の冷蔵庫に攻撃しちゃって……」
心臓を抑えて青い顔をするはるかくん。ご、ごめんはるかくんに罵倒したんじゃないんだよ。変態ってのは自分へ向けた言葉であってですね、そのぉ……。
しかし正直に告げて更に深堀されても困るので、もごもごと口籠る。一先ず誤魔化しもかねて攻撃してしまった冷蔵庫が壊れていないか検分していると、視界の端から長い指が伸びてきた。
「なんですずさんってすぐ額にダメージ負わせるかな……」
「っ!!」
前髪に軽く触れる手に息を飲む。腫れていないか心配そうに額を観察されて、居心地の悪さと同時に彼と近い距離に居れる喜びのようなものが芽生える。
───あ、だめだ。
これ以上は、だめだ。
「…………はるかくん」
自分に伸ばされた手を掴む。そっと下ろさせて、私は自分を見下ろすはるかくんに視線を合わせた。
「……引っ越しの日が、決まりました」
取り返しがつかなくなる前に、早く離れなくちゃ。




