86話
雑踏と改札がICカードを感知する音、雨の音が混ざり合う駅前はいつもの倍以上騒がしく感じる。
もはや定位置となった改札前のスペースで傘を片手にスマホを弄っていると「あっ」と聞きなれた声が聞こえた。
顔を上げれば、俺を見つけて顔を綻ばせ───そして俺が持つ傘と、駅の外の光景を見て一瞬で絶望に表情を変えたすずさんがいた。
「おかえり」
「……ただいま戻りました」
改札を抜けて小走りで駆け寄ってくるすずさんの眉がへにゃりと下がっている。叱られた犬を彷彿とさせるその顔に頬が緩みそうになるのを必死にこらえ、そんな表情になった原因にあたりをつける。
「朝持ってたよね、傘」
「会社に忘れてきました……」
朝の見送りの時、「今日は夕方雨が降るみたいですよっ!」と自慢げに傘を見せて来たのに。本当、しっかりしてるんだか抜けてるんだか分からない人だ。思わず笑いそうになる。
しかし、朝そんな話をしたのに忘れてくるとは露にも思わず自分の傘しか持ってきていない。
どうしたものかな……まあ幸い雨脚も弱まって来たし、すずさんに傘貸して俺はパーカーのフードでいいか。
そう結論付けてすずさんに自分の傘を差しだそうとした。が、
「……あ、あの、はるかくん。……不躾なお願いだとは分かっているのですが」
くん、と俺のパーカーを摘まんで控えめに引くすずさんは、おずおずと俺を上目遣いで見上げた。
「……傘、入れてください」
エッ?
◇
「すみません、迷惑ばかり……」
「いやいや、気にしないで。俺も気利かなくてごめん」
タタ、タタタッと雨粒が傘にぶつかる音を聞きながらすずさんと並び立って歩く。大きいとはいえ傘の中で並べば自然と彼女との距離はいつもより近くなり、時々肩が触れてしまう。
全く気にしていない風を装って、鞄を抱きしめて申し訳なさそうにするすずさんの眼差しを余裕そうな微笑みで受け止めた俺だが、その内心は大変えらいことになっていた。
───落ち着け。いいか俺は仏、いい人日本代表。いい人日本代表は隣からするいい匂いに反応したりしない。これは人助け、そう人命救助。
自分にそう言い聞かせ、動揺を表に出さないように必死にこらえていた。
『一緒に傘入りましょう』ととんでもない提案をなされ、キャパオーバーし呆けた俺はすずさんに誘導されるがまま一緒に傘に入って帰路についていた。
いやもう駅前のコンビニで傘買うとかあったじゃん……何流されてるんだ……。
まさかすずさんがそんなこと言うとは思っておらず、というかちょっと恥ずかしそうに頬を染めて上目遣いでお願いされたのがクリーンヒットしてしまって思考停止してしまったのが全ての失敗である。
友達なのにこの距離感正解なのか?というかやっぱりすずさん男との距離近すぎる。他に好きな男……かは分からないけれども、シェアハウスを考えている男がいるのに思わせぶりなことするのはどうかと思う。
いや待て、まさかいつもすずさんが言う「いい人日本代表」ってもしかして一種のけん制なのか?「いい人日本代表なはるかくんは私に酷いことしませんよね」って、言外でそう言われていたのだろうか。まさか、だとしたらとんだ策士だ。まともな精神性をしている奴なら「貴方いい人ですね」と言われたらいい人であろうとしてしまう。
加えてあんな安心した笑顔で言われて裏切れる奴等皆無だろう。もしいるなら連れてこい。教えを請うてやる。
「……くん?はるかくん?」
「ハッ!ご、ごめん考え事してた。なに?」
すずさんに顔を覗き込まれて我に返る。危ない、現実を直視できなくてトリップしていた。脳内で俺に謎の講釈を垂れようとしていたどこぞのクソ野郎を蹴り飛ばしてすずさんになんでもないと首を振る。
自分の名を呼んだすずさんに目線を合わせる。するとすずさんは突然傘を持つ俺の手をグイッと引っ張った。
「なに?じゃないですよ。濡れてます。ちゃんと入ってください」
「……っ、っ、っ……ハイ……」
何故か少しむくれた顔をしたすずさんに引き寄せられたせいで、あえて空けていた俺と彼女の間のスペースが埋まる。肩がぶつかるどころか密着するような状態に笑顔を張り付けたまま奇声を飲み込んだ。
何してんのこの人。ねえ。なんで更に密着すんの?しかもちょっと男前な感じで。なんなの拷問?何かの耐久実験か?平然と前を向くすずさんに内心が台風が襲来したように荒れ狂う。
マジでその距離感どうにかした方がいい。俺だから勘違いしないで済んでるだけだぞ、と危機感の無さに怒りすら募ってくる。
しかし、俺のことを『余裕のある大人』か何かと思っている彼女に情けないところを見せたくなくて外面を必死に保つ。そしていつも通りであると示すように、今日の夜やる約束をしているゲームの話を持ち出してみたり。
若干レスポンスがいつもより悪い気がしつつも乗ってくるすずさんとの会話にようやく内心が落ち着き始めた頃、俺はふと、正面から歩いてくる人物に気が付いた。
「────」
さりげなく傘をすずさん側に傾けて隠しつつ、傍らの細い肩を引き寄せる。僅かにぴりついた俺の雰囲気を察したのかすずさんは小さく息を飲んで押し黙った。
すれ違う『そいつ』と目を合わせないようにしつつも、感じる刺すような視線に緊張感が募る。しかし何を言われるでもなくパシャパシャと水を蹴る足音は遠ざかっていった。
小さく息をつく。
予想こそしていたものの、想定以上に早い行動に危機感を覚えスマホをポケットから取り出す。とりあえずすずさんを送り届けたら異常が無いか確認して、それで……とスマホを操作しながら今後の対応について考え込む。
「…………………し、ぬ」
───無意識に俺が起こした行動のせいで、すずさんが顔を真っ赤にして死にそうになっていたとは気づかずに。
亀より遅っせえなこの二人の恋愛。




