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70話

ソファーの上でちんまりと座るすずさんの前にグラスを置く。


「ごめん、大したものないんだけど」


「い、いえっ!お構いなく!」


 ぴょんっとその場で小さく跳ねたすずさんの顔には疲れが浮かんでいる。あんな事態になれば無理もない。隣に座るのは憚られて、ローテーブル近くのラグの上に座る。


 部屋の中に沈黙が落ちて、そこでようやく男に怯えさせられてる彼女を、同じ男である俺の部屋に連れてきたのは間違いだったのではないかと自分の失態に気づいた。


 しかし、かと言って例の元恋人が通りがかるかもしれない近所のコンビニにそのまま居させるのは危険だ。居心地悪いかもしれないが、とりあえず葵が来るまでは我慢していて欲しい。


「……悪い、勝手に警察呼んじゃって。でもこういうのは初動の早さと相談したっていう実績が大事だから」


「えっ!?いやいやいや!むしろ巻き込んじゃってすみません!し、しかも泣いちゃって……気が動転してました。色々ありがとうございます」


 ぺこん、と頭を下げるすずさん。怖くてしょうがないだろうに、それでも俺に気を遣わせまいと微笑む彼女は強いと思う。()()()()()()()気丈さを眩しく思いながらも、心配が募る。


 そっとグラスを手に取ったすずさんは、揺れる麦茶をじっと見つめながらここ最近自分の身に起きていたことを語ってくれる。


「……実は、家族や友達に相談してたんです。警察行った方がいいんじゃないかとも言われてて……でも今日まではメッセージと電話が来るくらいで実害はなかったので、無視してれば諦めるとたか括ってました」


「まあ、気持ちは分かるよ。実際に何かされないと警察は動かないとかよく聞くし、余計な」


 すずさんの気持ちは痛いほどよく分かる。本当に。警察を動かすと言うのはやっぱり平和に生きてる人間からしてみれば大事だ。こんな事で連絡していいのかって迷いはどうしても生じる。

 昔そう言ったら井上さんにしこたま怒られたけど。『税金払ってんだからその分ちゃんと使え』って。


「……とはいえ、あのメッセージは異常だ。かなり過激な内容もあったし。……多分警察が出張れば大人しくなるとは思うけど、それでもまだ来るようなら引き続き相談したほうがいい」


 見せてもらったメッセージを思い出す。最初こそ縋るような言葉であったが、日を重ねるごとにその口調は強く、見るものに恐怖心を植え付けるような言葉が多くなっていった。


 極めつけは今日、出かけている最中に送られ来たであろうメッセージだ。

『あの部屋にまだいるってことは、お前も俺と元に戻りたいと思ってんだろ?』

『無視してんじゃねえ。殺すぞ』


 すずさんがどこに住んでいるか分かっていると諭すような言葉。そして殺害を仄めかすようなものも───あんなメッセージ送られてきたら、気が動転するのも仕方がない。

 しかも実際に居たのだから、彼女が恐怖を覚えて思わず逃げ出すのも当然だ。


 脳の奥で思い出したくもない記憶がチリチリと熱を発する。奥歯を噛み締めて込み上げる色んなものを飲み込み、軽く頭を振った。


「……あの、はるかくんは……」


 俯いていたすずさんが、おずおずと口を開く。しかし、彼女は俺の顔を見て悲壮な表情を浮かべた後「何でもないです」と静かに笑んだ。


───きっと、井上さんと……警察と関わりがあることに疑問を覚えたのだろう。だが踏み込みすぎてはいけないと思ったのかもしれない。




 俺たちは、ただの顔見知りでしかないから。




 葵という仲立ちがいるからこそ成り立っているだけの関係だ。彼女が迷ったように、俺もどこまで踏み込んでいいものか分からず二の足を踏んでいる。顔見知り程度の男が、『俺を頼れ』なんて言っちゃいけない気がしている。


 顔見知りと友人の境界って何なのだろう。俺は彼女の友人を名乗っていいのだろうか。大人になると友達を作るのが難しい、というのもあるが───俺なんかが、異性の友人なんて作っていいのだろうか。そんな迷いが生じてしまう。


 この顔見知りという関係に俺は迷いと同時に安堵も覚えてるのは確かで。


『****、はるくん』


「……」


 迷う自分を咎めるように、自分に縋る細い腕が脳裏に蘇る。赤い血に塗れたそれと、ぞっとするほど黒い目と───。


 ぐっと拳を握って、開く。

顔見知り程度でいいんだ。でないと、また。


 ふと顔を上げると、考え込むように俯きグラスを握るすずさん。その指に僅かに力が籠るのが見えた。未だ顔色の悪いそれを見て口を引き結ぶ。


 顔見知りの男程度でしかなくて、彼女に助けを求めて欲しいと言えないような立場な俺だけど。だからこそ今やるべきことをやるべきで。


「……すずさん」


 力なく顔を上げたすずさんにスマホをかざして見せる。


「……アニメ見ない?」


「は?」


素っ頓狂な声を聞いて、とりあえず意表をつくことには成功したようだと俺は笑みを浮かべるのだった。







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