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第5話

数日後。

紗奈の会社での立場は、さらに悪化していた。

コピー用紙が勝手に減っていたり、予定になかった資料作成を急に頼まれたり。


―――皆んながやっているから。


その程度の事だろうが、一つ一つは大きくなくてもチリと積もれば膨大な量となり、終電での帰宅もしばしばだった。

そんな状態では、本当のミスも生まれてくる。

ブレーキの効かない自転車で坂を転がるような者だ。誰も止める人はいない。


誰も直に文句は言ってこない。

ただ、ひたすらに“雑務”だけが彼女の机に積み重なっていく。


(……もう、無理かもしれない)


トイレの個室でため息を吐く日が、また増えた。

けれど、何処かへ行くこともできない。自分の居場所はボロアパートと会社。

この2つ程度しかこの世にないのだ。

擦り切れながらも縋りつくしかない。


息を吐き出して、トイレを出る。

その日も終電間際まで会社を出れない日々が続いていた。



社内の空気は、もうとっくに彼女にとって毒になっていた。

雑務は増え、誰も口をきかず、挨拶すら返ってこない。


(辞めたい。……けど、辞めて何になるの?)


高卒。保証人なし。履歴書にはパッとしない経歴。

他に雇ってもらえる場所があるなんて、とても思えなかった。


「どうせ私なんか」


そう思う日々が続いていく。

もう限界だった。


そんなある日、高梨君から吉報があった。

第一志望だった企業の内定が決まったという。紗奈でも知っているような一流企業だ。


スマホの画面に表示された「決まったよ!最近紗奈さん忙しそうだから、報告!」の文字。


(……すごいな)


「おめでとう」と打つ。

心から祝福しているはずなのに、胸のどこかがキュッと痛んだ。


(元々、住む世界が違うんだ)


思い返せば、高梨君がこちらに歩み寄ってくれただけで、彼は奨学金を貰いながらもちゃんと紗奈よりも規則正しい生活をして、いい大学に通い、兄弟仲もいいらしい。多分、同じ母子家庭といえど母親との関係は随分と違うはずだ。

そして、彼が無事大学を卒業すれば、あんな底辺の巣窟のような家を抜け出して、立派な都心の部屋を借りるのだろう。

あの綺麗な顔だ、自分など比べるのもおこがましい程可愛い彼女を見つけて、“当たり前”の様な幸せを手にするのだ。


羨ましいと思わないのかと言われれば嘘になる。

だが、彼のような素晴らしい人物の努力が報われると言うならば、それはそれで良い事に思えた。


だが、同時に思ってしまう。


(何で、私に構うんだろう)


あんなにも感謝しきれない程の恩人に対しても卑屈になってしまうほど、彼女の心は限界を迎えていた。


お祝いの言葉に「ありがとう」という感謝と銭湯のお誘いが来た。

だが、今彼に会えるほど自分は真っ当な人間だと思えない。


じわじわと追い詰められていく感覚。


この時相談しておけば何か変わったのかもしれない。

けれど、違う世界の住人の仲間入りを果たした彼に、こんな話、出来るはずがなかった。



§




その出来事は、高梨君の内定の連絡を貰ってから数週間経った頃だった。


その頃には普段よりも早く出勤し、終電で帰る生活を繰り返していた。


高梨君から「最近、忙しそうだけど作り置き渡して良い?」との連絡も来ていた。


以前であればとても甘美だったであろうその提案も、砂を噛んだ様にザラザラと紗奈の心を逆撫でした。

美味しかった“がめ煮”の味も思い出せない。


「大丈夫」と手短に返すのみで、以降の連絡は出来ずにいた。


(大丈夫なんかじゃないのに)


そんな事は自分が1番よくわかっている。

けれども、これ以上彼に関わってはいけない。そんな気がした。



そんなある日の朝、その日も早めに仕事場に付き、デスクで仕事をしていると、一階のエントランスの方が騒がしい。


「金井さん。下に来てもらっても良い?」と久々に人から呼ばれ、降りていく。


(何で急に…)


何かもっと直接的な嫌がらせを受けるのでは無いかと不安はあったが、拒否もできず、仕方なく着いていく。


「金井紗奈!いるんでしょ、アンタ!こっちは家族なのよ!家族が迎えに来たって言ってるのよ!」


甲高い声がフロア中に響き渡る。

声の主は、紛れもなく紗奈の母親だった。

相変わらず、派手な化粧に場違いなミニスカート。周囲の社員たちが戸惑い、さっと視線を逸らすのが分かった。


「アンタね!夜逃げみたいな事しても無駄よ!私だってツテがあるんだから!早くお金出しなさいよ!」


母は周囲の様子が見えていないのか喚き散らすだけだった。

彼女を取り押さえようとしている警備員に尋ねられる。


「お母様ですか?」

「………はい。すみません、あの、私の……母です。」


情けない声で伝えたが、何かがもう、取り返しのつかないところまで来ていた気がした。


「…連れて行ってもいいですね。」

「………はい……お願いします。」


茫然自失としながらも何とか応える。


「アンタ、私のこと捨てたみたいな顔してたけどね、親子なんだから!一緒に生きていくしかないのよ!」


警備員の手を振り払おうと抵抗しながら、彼女は最後まで叫び続けていた。

紗奈の体は強張り、足が動かない。

周りの誰も声をかけてくる事はなかった。


(仕事………)


機械仕掛けの人形のように自分のデスクに向かう。

何故この状況でも仕事に戻ろうとしているのかなんて疑問すら湧かなかった。

ただ、義務感とも呼べない何かに突き動かされるようにオフィスへと戻る。


オフィスでは皆噂話のように先程の件を話していたが、紗奈の姿を認めると潮が引くように静かになった。


そんな静寂を破る声がした。


「金井さん、皆んなに迷惑をかけたのにダンマリですか?ちゃんと皆に謝った方が良いと思いますよ。迷惑かけた事ぐらい分かりますよね?」


一瞬、静まり返るフロア。


「ちょっと、それはさすがにー」と止めようとした人の声も聞こえた気もする。


でも、―――紗奈の心は、とっくの昔に限界を超えていた。


連日続く業務の押し付け、無視、視線。会社にまで押しかけてきた母親。噂話。


もう、全てがどうでも良かった。



いつか、高梨君が言っていた。

自分自身が悪くなくても火の粉が降りかかる事があると。


だが、本当にそうだろうか?

本当に何の理由もないのにこんなにも理不尽な目に人間は合うのだろうか?


自分が何らかの原因があり改善の努力をすれば報われる方がよっぽどマシだった。

最近の、いやあの母の下に生まれた時点で何らかの瑕疵を負っていたので無いとすれば、なぜこんなにも酷く荒んだ気持ちにならなければいけないのだろうか。


普段は何も見ていないクセに、こんな時だけ自分を捉える視線が鬱陶しい。


もう、消えて無くなってしまいたかった。


どうすればいいかは分からなかったが、体は崩れる様に床に膝をついていた。


そういえば、アパートで倒れた時のコンクリートも冷たかったなと関係ない事を思う。


けれど、そんなどうでもいい思考とは裏腹に言葉は発せられていた。


「……ご迷惑を、おかけしました……。」


ゆっくりと手をつき、頭を下げる。

気づけば呼吸に嗚咽が混じっていた。

重苦しい沈黙がフロアに満ちたまま、誰も動けずにいた。


「………金井さん、今日はもう帰りなさい。」


部長のその言葉に周囲も騒がしくなる。

紗奈の行動に眉を顰める者、佐々木の行き過ぎた言動を攻める者、黙りこくる者、反応は様々だったが、それら全て紗奈にはどうでも良かった。


「お先に、失礼します。」


そう言って、紗奈は静かに立ち上がり、鞄を取ってその場を後にした。


電車の窓に打ちつける雨粒が、どんどん視界を曇らせていく。


乗客の誰とも視線を交わさないように、ずっと窓の外を見つめていた。

感情はとっくに麻痺していた。

駅に着く頃には、雨は本降りになっていた。


「……傘、持ってない。」


小さく呟いたが、コンビニに寄る気力もなかった。何もかもがどうでも良くて、そのまま駅の階段を下りる。

足早に歩く人々の波に逆らうように、紗奈はただまっすぐ、自分のアパートへと向かう。

髪から水が滴り、靴の中までびしょびしょになっていく。


もう、泣いているのか雨に濡れているのか、自分でも分からなかった。


アパートの角を曲がると、視界の端に人影が映った。


「……紗奈さん?」


呼ばれて、顔を上げる。視界の先には、高梨がいた。

傘を片手に、どこかへ出かけようとしていたところだったのだろう。


「……どうしたの、その格好。ずぶ濡れじゃん……。」


彼の声が優しすぎて、全身が訳の分からない痛みに襲われた錯覚を覚える程だった。

紗奈は何も言えず、ただその場に立ち尽くす。

体の芯まで冷え切っていた。


「どうしたの、ほんとに……。」


何も言わない紗奈には戸惑いながらも、高梨は傘の中に紗奈を招く様にする。


「………イヤ。」


皮肉にもやっと出た言葉は子供のような拒絶の言葉だった。


「紗奈さん…。」


高梨君を困らせている事は分かっている。

でも、また同情されて、他人に期待して、突き放されるなんて真っ平ごめんだった。

嫌われないように生きていたつもりの同僚たちからの仕打ちを考えれば、高梨君にはもっと迷惑をかけている。どんな事をされてもおかしくないと。


いや、そんな事をする人ではない事は誰よりも知っている。

だからこそ、その彼から昔の同僚たちから見た自分のように、もう直ぐ見えない存在になるであろう自分が嫌だった。


「入ろう。うちに。」


普段の優しい提案よりももっと、断定的な言い方だった。


「風邪ひくけん、早く。」


彼が焦っているのが分かる。

こちらに差し伸べられた手をはらった。


「大丈夫って言ったじゃない。イヤだって言ったじゃない!!!」


これまでの人生で出したことがないほどの大声だった。

その叫び声は母親と似ていた。知りたくもない。

けれど、一度言葉が出ると全てが爆発した。


「ねえ、何で私なんかに構うの?」


彼の顔なんか見れるはずもなかった。

顔を伏せたまま絶叫する。


「小さい頃からずっと、自分で全部なんとかしてきたの。母親は借金まみれで、いつも男の人に貢いで、捨てられて。ああはならないようにって必死になって、でもそれもダメで、頼る人もいなくて、やっと入れた今の会社で必死に働いてきたのに、それもよく分からないうちにダメになって!」


息が切れるがそんな事は気にしていられなかった。


「普通のことができないのは、自分が悪いんだって、何回言い聞かせたと思ってるの!? ちゃんと笑って、嫌われないようにして、毎日頑張って……それでも、何にもならなかった!!」

「全部、全部、無駄だった!!!」


声が震えた。

涙が零れ落ちる。

雨に打たれているはずなのに全身が暑かった。


「誰も助けてくれない世界で、自分のこと自分で守ってきたのに……なんで、そんな優しくするの……?私、そんなのに慣れてないんだよ……。」

「高梨君は、優秀で、ちゃんとしてて、直ぐこんな所から抜け出す。こんな面倒臭くてどうしようもない人間の事なんて直ぐ忘れるんだよ…。」

「ねえ、もうほっといてよ。ねえ、もういらないじゃん、私。」


こんな事をしても迷惑で、何の意味もなくて、1番なりたくない人間になってしまった。


ーーー1番私を捨てたいのは、私自身だった。


高梨君が一歩近づく。

私は一歩下がった。


彼は、逃さないと言うように大きな歩幅で近づいてきた。

逃げるように後ずさる。

けれど、詰められた距離に差し出されたのは傘だった。


耳元で鳴っていた不快な雨音がビニールに弾かれる。

顔を上げると、高梨君が雨に打たれていた。


「何で………。」


彼の髪も雨で濡れたせいで、表情がよく見えない。


「………大切だから。」

「………え?」

「…大切じゃなかったらこんな事しないよ。」


その言葉は、まるで暖かい毛布みたいだった。


「俺は、大切な人に1人で泣いてほしくないし、雨にも濡れて欲しくない。」


今まで何も感じていなかったはずなのに、濡れた服の不快感や誰も顧みられなかった日々の感情が一気に押し寄せてきた。


1人は嫌だった。

(風邪を引いたとき、誰かそばにいて欲しかった)


本当は大学に行ってみたかった。

(誰を頼ればいいかすら分からなかった)


本当は、ずっと誰かに「大丈夫だよ」って言ってほしかった。

自分は無価値なんかじゃないって、抱きしめてほしかった。


でも、そんな事を認めてしまえば、苦しい現状の全てを否定してしまうから。自分が壊れてしまうから必死に押し殺してきた。


唇が震える。

もう何も言えなかった。


再度、彼の手が差し伸べられる。


「紗奈さん、帰ろう。」


そのまま、導かれるように彼の胸に顔を埋めた。

彼のシャツはびしょ濡れだったけれど、あたたかかった。

ずっと、欲しかった温度だった。


§



翌日、案の定、紗奈は熱を出して高梨の家で看病されていた。

熱はあまり高くないが、過保護な彼の進言もあり、会社に休みの連絡を入れることにする。紗奈としても今日は全く会社に行く気にはなれなかった。


「会社には病欠連絡入れれた?」

「うん。無理せず休めって。」


昨日の夜は様々な話をした。

これまでの事、最近の会社での事。

会社での話を聞くと何故もっと早く相談してくれなかったのかと怒られた。



「紗奈さん、転職とか興味ないの?」

「…私なんかが転職できるようなまともな企業無いと思う。」


自分で言っていて悲しくなってきた。


「んー、そうなのかな。今はいろいろな企業があるし、紗奈さんみたいな真面目な人だったら、他にも選択肢がありそうな気がするけど。」


前向きな提案だが、乗り気になれず顔を伏せる。


「聞きにくいんだけどさ、大学ってどこに受かってたの?」


唐突な質問に驚くも、合格していた国立大学の名前を挙げる。


「え?学部は?」

「法学部…。」

「それ、人に言ったことある?」

「うんうん。普段聞かれることなんてないし。あ、でも、今の会社の入社の時には聞かれて答えた気がする。」


高梨君が天を仰いだ。


「そもそも国立大学に受かるのは簡単じゃないし、そこの法学部、そこそこ有名だから事情を話せば分かってくれる会社多いと思う。」

「…そうなのかな?」

「うん。紗奈さん、諦めずに転職活動してみようよ。俺、紗奈さんならちゃんと見てくれる会社絶対にあると思う。」


そんな確証、どこにもないのに、彼に言われると不思議と信じてみたくなる。

誰かが本気で応援してくれるって、こんなにも心強いんだと思った。


「…そっか。そうだね、やってみようか。」

「うん、めっちゃいいと思う。」


高梨君が微笑む。

それだけで熱とは違う何かでクラクラした。


「ごめんね、熱あるのに。どうしても気になっちゃって。」

「うんうん、23歳にもなってこんなに情け無くてごめん。」

「え⁈紗奈さんって、俺と2個しかかわんないの⁈社会人にだったからもうちょっと年上だと思ってた………。」


日頃から疲れきった顔しか見ていなかったから、なおさらだろ。苦笑が漏れる。


「高卒、5年目、23歳、金井紗奈です。」


改めて自己紹介をしてみた。


「じゃあ、俺にもチャンスあるじゃん。」


ボソリと呟いた彼の声は、熱で犯された耳には入ってこず聞き返す。


「え?ごめん、聞こえなかった。」

「うんうん。何でもないけん。ねえ、紗奈さん、熱下がったら銭湯行こうよ。それで、ミルクティー飲もう。」


ふふっと笑ってしまう。

最初はアンニュイで軽薄な印象だった彼が今はどれだけ優しく、温かい人かを知っている。

お互いに緩く微笑んでいた。

彼と過ごす時間を断れるはずなどない。


「うん。一緒に行こう。」


(ああ、これを幸せと呼ぶのかもしれない。)


2人が手を繋いで、同じ扉を潜るようになるまで、あと少し。


タイトルもそうなんですが、恋愛を要素でしか見ていない説が小説を書くにあたって浮上してきた今日この頃です。


短編を書くつもりが中編になりましたが、ここまで読んでいただいてありがとうございました。

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