第4話
アパートが近づいてくる。
安心するべきその事実をひどく寂しく思っている自分がいた。
もう角を曲がれば、それぞれの家が見えて来る。
「さーなー!!!」
聞き覚えのある声に足が止まった。
(聞き間違え…?)
そう思おうとしたが、再度聞こえてきた。
「さーなー、いるんでしょ?出てきなさいよ!」
「お母さん………?」
声の主は、紗奈の実母だった。
明らかに場違いな、けばけばしい格好。夜のネオンが似合いそうな濃い化粧。
その姿を見ただけで、心臓が握られるような痛みを感じた。呼吸が浅くなる。
「……なんで。」
自然と震えが走る。
隣で歩いていた高梨が、その異変に気づいて立ち止まった。
「知り合い?」
答える事ができなかった。
けれど、表情がすべてを物語っている。
声の方へ、もう一度目をやる。
母は、アパートの住宅に手当たり次第にインターホンを鳴らしているようだ。
(やめて、やめて……お願いだから……)
「……ごめん、先行ってて。私、ちょっと」
そう言って引き返そうとする手を、高梨君が軽く引く。
「……ちょっと外そう。」
彼の静かな声に、驚いて顔を上げる。
また彼に手を引かれ、2人で来た道を引き返す。
(せっかく助けてもらったのに、また迷惑をかけた)
向かい合って座ったファミレスで顔を上げられずにいた。
少なくともあんな事をやってくる人間が身近にいると言う事を知られてしまった。
恥ずかしさと、何より彼がもう自分とは関わってくれないのでは無いかと思うと胸が締め付けられた。
(また、あの人に人生を邪魔されるんだ)
そう思うと、抜け出せない沼の中に引きずりこまれる感覚に襲われる。
そんな紗奈の様子を知ってか、知らずか高梨が尋ねた。
「あの人は、どういう知り合いか聞いてもいい?必要なら、警察に対処してもらおう。」
努めて冷静な声でそう言ってくれた。
(この人は、まだ私を見捨てないのか。)
ノロノロと顔をあげる。
驚きと感謝、喜び。それでも、拭い切れない不信感。
高梨も自分の事情を知ればめんどくさくて、イヤになるはずだ。
佐々木の件で疲れ切ったと思っていたのに、本当の底なし沼は抜け出すことを許してくれない。
「……母です。実の、ね。」
ようやく出てきたその一言は、自分でも驚くほどかすれていた。
高梨は表情を変えなかった。ただ黙って、続きを待ってくれているようだ。
「大学、決まってたんです。……でも、入学金、勝手に使われてて。気づいた時には取り消されてて。………男に貢いでたみたい。私そんな事知らずに入学式まで行っちゃって…バカだよね。」
自嘲するように笑った。
声に感情を乗せないようにした。
そうしなければ、涙が止まらなくなる気がしたから。
「それで、家を出ました。保証人もいなかったけど……今の会社、面接で全部話して、なんとか正社員にしてもらって……。」
乾いた笑いが漏れる。
「その時空いてたのが、今のあのアパートで。ボロだけど、住めただけありがたかった。……それから、ずっと。」
生活のすべてを語るように、ぽつぽつと。
高梨は、何も言わず、ただ聞いてくれていた。
「……ごめんなさい。ほんと、何から何まで巻き込んでばかりで……。」
手元を見つめながら、力なくそう言った時だった。
「じゃあ、一緒に考えよう。これからのこと。」
まっすぐな声が、空気を切った。
「え……?」
「紗奈さんがひとりで抱えることじゃないよ。もう乗りかかった船だし、一人で対処するのにも限界あるでしょ?……解決法、一緒に探そう。」
その言葉が、じんわりと胸に広がっていった。
まるで、張り詰めていた膜が破れたように、気づけば頬に涙が伝っていた。
「あり、がとう………。」
グズグズとなく男女が向かい合って座っている気まずい雰囲気のためか、周辺には誰も案内されなかった。
閉店ギリギリまでファミレスに居座らせてもらい、この後の作戦を立てる。
ホテルなどに宿泊するという案も出たが、お互いお金の無い気持ちは分かるので却下する。
一旦は相手も人間なので帰宅している可能性も考慮して、まずは状況を確認する事になった。
家の近くまで行ってもらって高梨君に様子を確認してもらう。
問題なければ、家に入れる寸法だ。
今更ながら連絡用のアプリを交換した。
「…よろしく、お願いします。」
「もちろん。また、敬語戻ってる。」
「あ…迷惑かけてるし、ちゃんとした方がいいかなって。」
「うーん、あの男に対してはタメ語使い慣れてそうだったの地味に傷ついた。」
何のことかと思えば佐々木君の事らしい。
「あ、いやごめん。嫌な事思い出させて。」
高梨君の手が口元を覆った。
余裕のない表情に彼の優しさを感じる。
「ううん、大丈夫。」
その気遣いが嬉しくて、思わずクスリと微笑む。
もう、佐々木のことは頭の片隅に追いやられていた。
「………そっか。」
言葉少なげに並んで歩く。
会話は無いが、それがまた心地よかった。
例の角に辿り着くと、ちょっと待っててと言って神妙な面持ちで高梨君が先へと進んでいく。
すぐにアプリに連絡が来た。
急いで家の前に行くと高梨君が手招きしていた。
「大丈夫だったね。」
「うん…ありがとう。」
あたりを見回すが母の姿はない。
ほっと胸を撫で下ろす。
少し安心したが、明日もまた母が現れる可能性を考えて不安が募る。
下を向いていると、高梨君は少しだけ迷ってから口を開いた。
「……あのさ。もし、不安だったら……今日、俺の部屋に泊まる?」
ぴたりと足が止まった。
「えっ……でも、それは……。」
「何もしない。ベッド使っていいから。俺、床で寝るし。そばに誰かいた方が、安心できるでしょ?」
焦ったように言葉を重ねる彼の声は真っ直ぐで、思いやりだけがそこにあった。
こんなにも甘えてしまっていいのだろうか。
言葉に詰まる。
高梨のことは信用している。
けれど、ここまで来て、心の奥でまだ誰かに“頼る”ことに対する罪悪感がくすぶっているのだ。
「俺が不安っていうのもある、かな。何かあったら後悔しそう。」
「あ、無理しないで。ただ、もし必要なら選択肢としてあるよってだけ。」
あくまで提案だった。
何かあった時無償で支えてくれる存在など、これまでの人生にはいなかった。
もし、“家族”というものがいればこんな感じなのだろうか。
ジェットコースターのような1日だった。
もう少し、もうほんのちょっとだけ、甘えてもいいのだろうか。
「……ありがとう。……ちょっとだけ、甘える。ほんのちょっとだけ。」
紗奈がぽつりと言うと、高梨は少し微笑んで頷いた。
§
翌朝。
少し早めに目を覚ました湊は、彼女がまだ眠っていることを確認してそっと床から起き上がる。緊張している様子だったが、昨日は色々あったので疲れていたのだろう。
彼女が無事、寝れていた事に安堵する。
湯を沸かし、インスタントの味噌汁を用意していた時だった。
―――ピンポーン、ピンポーン
アパートの隣でインターホンが複数回鳴った事がわかる。ガチャガチャと扉を外から開けようとする音がしていた。
ドアスコープを覗くと、案の定、視界の端に昨日の女性が立っていた。
紗奈の母親。
日頃からその細身を小さくして、息を殺すように過ごしているのを知っている。そんな彼女の親とは思えないほど粗野な態度だ。
相変わらず派手な服装にケバケバしい化粧だった。
「さーなー、いるんでしょ?ちゃんと話しなさいよ!昨日はアンタのせいで散々だったんだから!」
湊は深呼吸し、ドアチェーンをかけたまま扉を開ける。
「お隣さんなら、もういませんよ。」
「……は?何言ってんの?あんた誰よ?」
「見ての通り隣の住人です。最近引っ越して行きましたよ。」
「急だったみたいで、あんまり物は持って行ってないみたいですけど、大家さんが片付けるそうです。多分、今後、ここを訪ねてきても会えないと思いますよ?」
さも、自分は関係無い野次馬であると言わんばかりの態度を心掛ける。
「はぁ?夜逃げみたいなことして……じゃあ、あの子、今どこにいるわけ?」
「知りません。昨日も騒いでた人ですよね?迷惑なのでこれ以上接触を続けるなら、警察への通報を含めた法的措置を取ります。」
声色を変えず、淡々と告げた。
「はぁ?何なのよ!こっちはお金が無くて困ってんのよ!“家族”なんだから助けるのが当たり前なのに、あの子、勝手にいなくなったの!」
母親は顔を歪め、聞くに堪えない言葉を吐いた。
(これは、キツイな………。)
大学に入る年まで、ずっとこんな母親と一緒に過ごしていたのかと思うと胸が締め付けられる。
思わず言ってやりたくなった。
紗奈の気持ちを代弁するだなんて差し出がましいとは思うが、一言言わずにはいられなかった。
「…相手を追い込むような事をして、よくそんな事が言えますね。」
思ったよりも威圧的な声が出た。
「何なのよ!…こっちはね、あの子の下着売らなきゃいけないぐらい金に困ってるのよ!」
開いた口が塞がらない。
まさかこんな親がいるだろうか。
聞き間違いかと思ったが、彼女はギリギリと爪を噛んで、喚き立てている。
「…金井さんの下着盗んだのってあなただったんですか?」
「…そうよ!何よ、その目!イイじゃない!ちょっと若い女が身につけただけで金になるんだから。買った時よりも高く売れるなんて楽な商売よ!あんただってお世話になってるんでしょ⁉︎」
こちらをあざ笑うような表情をしているが、ひどく醜い表情だった。
全く悪びれた様子もなく言い切る。
―――自分とは別の世界の人だ。
紗奈の母親であるとかそんなことは置いておいて嫌悪感が募る。
「…それってつまり犯罪ですよ。」
「は?親が子供の物をどうしようと勝手でしょう⁉︎」
「…住居も違う、成人している娘の下着を家に侵入して盗む事のどこが犯罪じゃないのか俺には分からないので、早く此処から立ち去ってください。さもなければ、今すぐ警察に電話します。」
湊は携帯をあえてかざした。
母親は自身の不利を悟ったのか、イライラとした様子で立ち去る。
しっかりとアパートの前から消えた事を確認して、扉を閉めた。
途中で起動していたスマホの動画を止める。
うまく撮れているかは分からないが、彼女が叫び出した瞬間念のため撮っていたことが功を奏した。
立派な犯罪の自白だった。
後ろで布団の擦れる音がする。
振り返ると、紗奈さんがベットでうずくまるようにして座り込んでいた。
「……聞こえとった?」
気まずい。あんなもの出来れば聞かせたくなかった。
「うん…あの人、声大きいから。」
「…そうだね。」
事実なので否定は出来ない。それに紗奈さんももう“お母さん”とは呼ばないだろう。
「…変な人の対応させてごめんね、ありがとう。」
彼女の声は暗いが泣かなかった。
それがよりこちらを心配にさせる。
「ううん、大丈夫。ちゃんと追い返せたし、実はさっきのビデオ撮ってたんだ。多分、警察に持っていけば証拠になると思う。」
「………うん。」
紗奈は言葉を失っていた。
彼女の座るベッドの前に自分も座り込む。
膝を抱える彼女の手に自分の手を重ねた。
「実は昨日色々と調べたんだ。今日のビデオを持って行けば警察に被害届を出せる。それに市役所で住民票の閲覧制限を出来るみたいなんだ。家族だからって何処に住んでるかとか追われずに済むと思う。」
そこまで言うと彼女が顔を上げる。
「今後のこと考えてみない?」
出来るだけ不安にさせない事を願いながら告げる。
彼女の顔が涙を堪えるために歪んだ。
昨日も見たその表情はこれまで、彼女がどれだけ我慢を強いられてきたかを象徴するものだ。
「紗奈さんは、自分の人生を生きていいんだ。」
そういうと、彼女は目をギュッと瞑って何回も頷いた。
鼻は啜っていたし、何も喋れこそしなかった。涙を流したかったはずだ。だが、その固く瞑られた瞳は、歳後まで涙を流すことはなかった。
そこには彼女なりの意味が込められていたんだと思う。
§
色んなことがあった週末の後、月曜日は休暇を貰うことにした。
高梨君に連れられて警察に行ったり、役所に行く必要があったからだ。
様々な事を聞かれ、佐々木の件も含めて相談し、結果として巡回を増やすこと、直接の定期訪問を実施する事を約束してくれた。
だが、警察では少し嫌な思いもした。
実の母親なのだから行き違いではないかと。
「親だから子に対する犯罪をしていいのであれば、刑事さんはDVや家庭内暴力も全て許すんですか?」
毅然とした態度の高梨君に助けられた。
口籠る警察を無視して私は書類を記入することが出来た。
結局1日がかりで全てを終えると、疲れてはいたが思っていたよりも清々しい気持ちだった。
「何だか生まれ変わった気分!高梨君、本当の本当にありがとう!」
珍しく、私にしてはテンションが高い。
「そう思ってもらえたならよかった。そうだ、紗奈さん銭湯行こうよ。今日はいっぱい喋ったり書類も多くて疲れただろうし。」
「うん、そうしよう。今日はちょっとだけど奢る。」
「え、いいの?やった!」
さっきまで頼もしかった彼の笑顔がクシャリとしたものに変わった。
随分彼にも無理をさせてしまっていた事を申し訳なく思いながらも、本当に心の底から感謝していた。
銭湯の帰り道、またミルクティーを買った。
以前よりも美味しく感じるのはこれまでの自分から解放された喜びだろうか。
いや―――彼が隣にいるせいかもしれないとの考えが浮かぶ。
お互いの手が触れそうな距離のまま、2人で帰路に着いた。
§
昨日までの非日常が嘘のように、翌日からはありふれた日常へと戻っていく。
会社へ行くと、それまで騒ついていた空気がシンと静まり返る。
偶然かと思ったが、何故か私に視線が集中している気がした。
急に休んで迷惑をかけたせいだろうか。
昨日感じていた自信や安心感が一瞬にして消え失せる。
周りの人たちに急に休んだ事を謝罪したが、どことなくよそよそしい態度で問題ないとだけ返された。
昼休みになっても、誰も「一緒にどう?」とは声をかけてこなかった。
なんとなく視線を向けた給湯室では、女性パートたちがひそひそと話しているのが見える。
(……私のこと?)
気のせいだと思いたかったが、すれ違いざまに聞こえた。
「年下の子をたぶらかすというか、そういう関係だったんだって……。」
「え、佐々木君ともっと若い学生さんと二股だったらしいわよ、ねえ。」
「まあ、ああいう顔してる子って意外とね~。」
心臓がバクバクする。
(違う、そんなこと、してない……)
咄嗟に浮かんだ否定の言葉は口にすることが出来なかった。
(もしかして、あの時、拒絶したことに腹を立てて?)
午後の仕事中も、皆の態度がぎこちなかった。
頼まれごとは最低限、世間話は一切ない。
先週まで当たり前のようにあった「お疲れ様です」さえ、まるで宙に消えた。
タイムカードを押し、オフィスを出た瞬間、全身の力が抜けた。
誰も何も言ってこないからこそ、怖い。
陰口だけ言われ、否定も、擁護も、ない。
弁解の機会も与えられず、まるで、存在を抹消されているような居心地の悪さだった。
暗い気持ちのまま家に帰る。
これからいつまでこんな状態が続くのかと思うと不安で仕方なかった。
§
なんかと週末を迎えたが、金曜日まで状況は一切変わらなかった。
いや、むしろ悪くなっていると言っていい。
何故か、営業にまつわる事務作業がこれまで以上に紗奈の元に集まるようになっていた。
(多分、わざとだ………)
だが、そう思ったからと言って、簡単に言えるはずもない。
営業マンと事務職では当然数字を引っ張ってくる営業マンの方が会社での立場は強い。しかも、今広がっている噂を考えれば、誰も自分の味方をしてくれないことは容易に想像がついた。
ため息を吐きながら洗濯物を回す。
高梨と笑い合ったあの日が遠い昔のようだった。
§
「金井さん、ちょっといいかな?」
その声にビクッと肩が跳ねた。
(……また何か、言われるのかもしれない)
作業の手を止め、恐る恐る部長のデスク前へ向かうと、予想外の言葉が飛んできた。
「最近、残業が多くないか?少し効率も考えたほうがいいと思うんだけど。」
驚きと困惑で、思わず口が開く。
(…これ、私のせい? わざと業務を回しておいて、今度は残業を責めるって……)
だが、反論などできるはずもない。
「……はい。気をつけます。」
口から出たのは、自分でも情けないほどの従順な返事だった。
帰り道、いつものように駅まで歩く足がやけに重い。
スマホの画面には誰からの通知もない。
自分が世界から切り離されたような気持ちになる。
(帰ったら、あれ飲もう…)
やっとの思いでアパートまで戻ってくると、いつもより遅い時間だったにもかかわらず、前に見慣れた姿がしゃがみ込むように座っていた。
「……高梨君?」
彼は顔を上げたが、その表情はいつものように明るくはない。
「……あ、ごめん。待ってたわけじゃなくて、ちょっとだけ……話せたらなって思って。」
彼の声は少しだけ掠れていて、ほんのりとアルコールの匂いがした。
「飲んでたの?」
「珍しく。……最終、落ちた。そこそこ行きたかった所だから、友達と呑んでた。」
どうやら落ち込んでいたらしい。
「やっぱ俺なんか、だめだな。自信あったんだけどな。」
その言葉が、紗奈の胸に痛いほど響いた。
彼は、私の事情に巻き込まれていたが、れっきとした就活生なのだ。真面目な彼の事だ、彼なりに、ずっと頑張っていたのだろう。
だが、彼もまた、立ち止まっている。
ふたりの間にしばし沈黙が落ちる。
「……部屋、来る?」
紗奈は言った。
いつもの彼の優しさに、今は少しでも返したかった。
一人きりで傷を舐めさせるには、彼はあまりに優しい。
部屋に上がってきた高梨君は、部屋の端に静かに腰を下ろした。
ほんのり酒気を帯びているとはいえ、足元もふらつかず、言葉もはっきりしていた。けれど、目元には確かに疲れが滲んでいる。
「ごめん。部屋まで上がらせるつもりじゃなかったんだけど……甘えてるな、俺。」
「……いいよ。」
冷蔵庫から取り出したのはあのミルクティーだ。
「今日はアイスだけど。」
そう言いながら差し出すと高梨君が目を見開き笑い出した。
「紗奈さん、気に入ってくれてるんだ。」
何故か、したり顔だ。
「…まあ。」
「嬉しいかも。」
その一言に紗奈が赤面する羽目になった。
一緒に過ごしていなくても、このキツイ状況の中、無意識に彼と共有した時間を思い出すものを買っていたのだ。
彼の存在が、どれだけ紗奈に影響を及ぼしているかを感じる。
少し余裕のある表情が戻ってくる。
彼は黙って受け取り、一口すすって、ほうっと小さく息をついた。
「……なんかさ、自分の限界が見えた気がした。努力じゃ超えられない壁ってあるんだなって。」
「…。」
安易に慰めることなど出来なかった。
選択肢が無かった紗奈と違って、彼にはいくつもの輝かしい未来があるはずで、でもそれを一つ打ち砕かれたのだ。ショックなはずだ。
彼の姿を見続けてきたからこそ、卑屈な気持ちにはなりようが無かった。
「私、高梨君のこと何も知らないと思うけど……それでも、こんな人間をわざわざ助けて、支えて……そういうことができる人が沢山いるわけじゃないのを私は知っているから。高梨君は、特別だよ。」
今、紗奈に伝えられる精一杯の言葉だった。
彼が元気になってくれるかは分からない。
けれど、紛れもなく紗奈を何度も助けてくれた。
その事実以上に紗奈と彼の関係において重要なことはなかった。
高梨君はゆっくりと目を閉じた。
そして小さく、けれど確かに、微笑んだ。
「……特別か。」
口の中で大切な飴を転がすように繰り返す。
「ありがとう。」
少し雑談をすると、彼は隣の部屋へと戻っていく。
薄い壁一枚を隔てた距離。
それは、以前と何も変わっていないが、特別なものに感じた。