第3話
土曜の昼下がり。
待ち合わせた最寄りの駅からも程近いターミナル駅前には、休日らしいゆるやかな空気が流れていた。
佐々木君はきっちりとした服装で現れた。
ジャケットに白リンネのシャツ、シンプルだが清潔感のある出で立ちだった。
結局押し切られる形で、あれよあれよという間に集合場所と時間が決まっていた。
「お待たせしました!」
彼の声に、紗奈は軽く会釈で応じる。
(……なんだか、デートみたい)
もちろん、そういうつもりじゃない。
けれど、街を並んで歩いていると、それなりに楽しんでいる自分に気づいてしまった。
家電量販店では彼が冗談を交えながら各メーカーを比較してくれたし、除湿器の性能も詳しく教えてくれた。
「こっちの方が静かで寝るときにもいいらしいですよ!」
「へえ……すごく詳しいね。」
「付け焼き刃ですけど、元々こういうの見るの好きなんです。……あ、でも、今日は金井さんのためのショッピングですから!」
営業で慣れているのか軽口も滑らかで、店員だと言われても違和感がないほどだった。
少し遅めのランチを終え、駅までの道を歩いていたとき。
「紗奈さん?」
聞き慣れた声に振り返ると、そこには高梨君が立っていた。
私服の彼は、駅前の人混みの中でも目を引く。
少し小綺麗な格好をしているとその顔立ちがより目立つ。
「お知り合いですか?」
佐々木君の方が先に反応した。
何も悪いことをしているわけでもないのに、気まずさがあるのは何故だろうか。
「あ、お隣さん、です。」
「紗奈さんとお隣に住んでいます高梨です。」
彼は丁寧にお辞儀をする。
高梨君の方が私よりもよっぽど大人な対応だった。
「同僚の佐々木です。」
ここで、高梨君が先に行って会話は終わるものだと思っていた。
「紗奈さん、それどうしたの?」
想定外に高梨君が話しかけてきたのだ。
手元のパンフレットに視線が集まる。
「ちょっと、除湿器を見に付き添いを。今度、金井さんが買う予定らしくて。」
佐々木君が代わりに答えた。
(―――あ)
「…除湿器、返そうと思ってたの。」
とっさに紗奈が言う。
「…そっか。今から買うんだったら俺付き合おうか?どうせ同じ方向だし。」
やわらかく言う高梨に、なぜかほっとした。
だが、横の佐々木君の顔色が微妙に変化しているのに気づく。
「いや、今日は購入されないみたいなんで大丈夫ですよ?それに紗奈さんは俺が送りますから。」
「え?」
いつの間にか呼び方が表示から高梨君と同じ名前へと変わっていた。
急に親しい人のように振る舞われどうして良いか戸惑う。
送ると言ってくれているのは優しさにも聞こえたが、佐々木君の家の方向は、反対のはずだ。それにもかかわらずわざわざ自分の方面に来てもらうのは気が引ける。
「え、あの…。」
「そう、なんですね。お邪魔してすいません。紗奈さん、じゃあ、気をつけて。」
高梨君の語調は柔らかい。
けれど、しっかりと線引きのある口調だった。
少女に対する高梨君の態度を思い出す。
突き放されたように感じた。
「紗奈さん、この辺カフェ一軒有名な所知ってるので、行きましょう?」
佐々木君はまるで先ほどの会話など無かったかのように話しかけてくる。
後ろ髪を引かれながらもその場を後にした。
その後は佐々木のペースに飲まれる様に周辺を連れ回された。
いや、色々と紹介してくれて楽しむことができた気もするが、本音を言うと人と一緒にいることに気疲れしてしまった。
「今日は、ありがとう。」
「こちらこそ、楽しかったです!除湿器、良いの見つかると良いですね。」
「うん。今日は、佐々木君のおすすめも聞けたし、お金貯めたら買う。」
「良いですね!お隣さんから借りた(?)除湿器も早く返したほうが助かると思いますし。」
その言葉でお昼まの出来事を思い出す。
「うん、そうだよね。迷惑だよね。…今日は付き合ってくれてありがとう。」
そういって頭を下げると佐々木くんは「いやいや、こちらこそめちゃくちゃ楽しかったです!」と気の良い笑顔を向けてくれた。
「じゃあ、帰りましょうか?」
「うん。また月曜日に。」
そう言って改札で別れようとした時だった。
改札の中、私と同じ方向に彼も付いてくる。
「最寄まで行きましょう?」
「え、そんな、悪いよ。」
「いや、今日会った彼も宣言しましたし、送りますよ。」
意固地になっている様な言い方だった。
私も疲れていたんだと思う。
早めに1人になりたくて、断ろうとするが中々折れない。
「気にしないでください。俺が金井さんといたいだけなんで。」
そう言い切られてしまい一緒に電車に乗る。
電車に乗っている間は、ドアの端で行き来を塞がれる様に目の前に立たれ、精神的な息苦しさを感じる。
佐々木君の目を見るが、悪気は無さそうだ。どうも指摘し難い。
ずっと話を続けている彼に適当に相槌を打って、最寄りまでをやり過ごす。
「あの、ありがとう。本当にここで大丈夫だから。」
やっと解放されるとホッと胸を撫で下ろした。
「いや、せっかくここまで来ましたし、お家まで送らせてください!」
元気に告げられるが、流石にとここは固辞する。
よく知らない同僚に家を知られる事に若干の抵抗があった。
「でも、ここから近いですよね?10分もかからないじゃないですか。それにお家の近くの方がこの辺より街灯少ないですよね?」
ーーーえっ?
(彼に、そんな話をした事が有っただろうか?)
前も似たようなことを想った気がする。
記憶を辿るが、そこまで詳しく話した記憶はない。
精々最寄り駅から数分程度ぐらいまでしか話した事はないはずなのに、何故、さも当たり前かにように家の周辺の事まで知っているのだろう。
少し怖くなり言葉を紡げない。
「というか、紗奈さんのアパートは築年数が古いですし、早めに引っ越した方がいいと思いますよ?うちの近所とかー」
(何を言ってるの?)
うちのアパートも知っているかの様な口ぶりだった。
私が困惑している間にも、何故か彼の中で妄想は広がっているようで、近所に住むならシェアハウス、実質的な同棲をしないか、自分達は相性がいいと思う、とどんどんよからぬ方向へ会話が進んでいる。
怖くなって一歩ずつ彼から距離を取る。
「紗奈さん、一緒に帰りましょう?」
そう言って腕を掴まれた。
ギュッと強い力で掴まれ、恐怖で足が竦む。
改札を引っ張られるようにして出る。
動いてはいけないと思うのに、体は引っ張られるばかりで踏ん張りが効かない。
「あ、紗奈さんスーパーとかよりますか?俺、紗奈さんの料理食べてみたいんですよ!」
まるで今起こっている事など何も無いかのように尋ねてきた。
彼が現状を何も悪いと思っていないーーー恐怖が募った。
「離してっ!」
外そうと目一杯手に力を込めるが、男女の体格差はそれを許してくれない。
周囲を見回すが、皆ただの痴話喧嘩だと思っているのか、景色の様に流れていくだけだった。
ーーーこんな時にも、誰も気づいてくれない。
絶望感に襲われる。
「家に着いたらちゃんと離しますよ。料理を作ってもらわなきゃですし、その、俺も抱きしめたりしたいんで。」
その言葉に呆然とした。
まるで甘酸っぱい青春ドラマのセリフだが、佐々木君の目はギラついており本能的に危機感を煽る。
どんどんスーパーが近づいて来る。
このまま家まで行ってしまったらどうなるのだろうか。
そんな想像に頭が支配されていた。
「ー紗奈さん?」
優しい音色に顔を上げる。
スーパーの入り口。これまでこの場所ですれ違ったことは無かったはずなのに中から出てきたのは高梨君だった。
「ああ、君。」
佐々木君の声が数トーン低くなる。
まるで威嚇する様な声に、紗奈の表情が固くなった。
「...よく会いますね。」
高梨君がチラリとこちらを見た。
「…そうだね、今後少しの間はもっと会うかもしれない。紗奈さんの引越しも俺が手伝うつもりだから。」
高梨君の目が見開かれる。
先程、改札で勝手に話していた内容が既定路線のように話が進んでいる。
思わず首を横に振った。
「ああ、そうだ。引越したら除湿器はいらないから、そのための貯金は引越し費用に回しましょうね。」
佐々木君が笑顔でコチラを振り向いた。
その間も腕は物凄い力で掴まれていて、痛みに顔が歪む。
ここで、否定の言葉を言わなければ。
恐怖で引き攣る喉をなんとか動かす。
「しないです。…引越しとか、しないし、佐々木君と一緒に住むとかもあり得ないから。腕、離してっ。」
ーーーギュッゥ
中で、ミシミシと骨が鳴っている気がした。
「紗奈さん、嫌がってませんか?」
高梨君が慎重に尋ねてきた。
「ーは?君、学生?大人の事情に首突っ込まないでもらっていいかな?」
普段の佐々木君からは考えられないような高圧的な態度で高梨に突っかかる。
「紗奈さん、大丈夫?」
佐々木君のことは無視して高梨君と目が合う。
彼の瞳は一心にコチラを見つめていた。
大人になって、誰も助けてくれない中必死で生きてきた。
人の邪魔にならないように。自分の責任だと言われる世の中で、ずっともがいて、もがいて、何のためにこんなに周りに気を遣っているのかも分からなくなりながらも、こうやってしか生きられないから。
誰にも気づかれず、誰にも迷惑をかけず。
けれど、今どうしようもない中でただ私を真剣に見つめるその眼差しに縋りたくなってしまったのだ。
「ーたす、けて。」
消えそうな声だったと思う。
手前にいた佐々木君にすら聞こえるかも怪しいほどか細かった。
そこからは一瞬だった。
高梨君は、佐々木にタックルするように身体を当てた。長身の彼の勢いに佐々木はよろける。
一瞬緩んだ隙に離れた手を見逃さず、高梨君は私の手を取った。
その手はどこまでも優しく、その背中は私を導いてくれるようだった。
2人で駆け出す。
佐々木が何かを叫んでいるが、関係ない。
私達は、どこへ向かうでもなく夕日の影へと消えていった。
「「はあ、はあ。」」
2人とも息切れしていた。
辿り着いたのは、アパートとは反対側の公園だった。
「家、行くのヤバそうだったから、こっち来たけど良かった?」
高梨君に尋ねられる。
久しぶりの運動でまだ息は整わないが、あの状況で機転を効かせてくれた事になんとかお礼を言うと、近くのベンチを勧められる。
「紗奈さん、何か飲み物買って来るよ。」
そう言って、高梨君は離れようとした。
無意識だった。
腕が伸びる。痛みや湿布を貼らなきゃなとの思いが過ぎるが、気づけば、彼の背中のシャツを摘むようにして引き留めていた。
彼は振り解くこともせず、止まった。
「……行かないで。」
彼は振り返り、覗き込むようにして私と視線を合わせた。
多分とても情けない顔をしているはずだ。
「…1人にしようとしてごめんね。」
彼が謝る必要なんて何処にもないのに。
何処までも相手を気遣う優しさに溢れたその声に、安心感がドッと押し寄せてきた。
あえて隣に座るでもなく、目の前に視線を合わせるようにしてしゃがんでくれた。
目に薄い涙の膜が張る。
元々涙脆い方では無かったのだ。
グッと奥歯を食いしばる。
「…そんなに我慢せんでもいいと思うけど。」
少しだけ訛った言い方だった。
意固地になっていた私は何とか言葉を紡ぐ。
「でも、ちゃんと、高梨君のおかげで逃げれたし、コレぐらい、何でも無くて…。」
「…紗奈さん、全然“コレぐらい”じゃないよ。怖い目に遭ったんだから。…全然“コレぐらい”じゃない。」
彼は私に言い聞かせるようにそう言った。
ツゥーと自然と涙が溢れた。
袖口で拭おうとすると。高梨君に指でそっと撫でられる。
彼の心配した表情が涙でボヤける。
お互いただ静かに向き合って、時折私のしゃくり声が近所に響いて、時間は過ぎていった。
少し落ち着いたところで、再度声をかけられる。
「あそこの自販機で何か買って来るから待てる?」
これでは、どちらが年上か分からない。
少し笑ってしまった。
その様子に安心したのか、コクリと素直に頷く私に彼も口角を上げると自販機へと向かっていく。
戻ってきた彼の手にはホットミルクティーとお水が握られていた。
「半分こしよう。どっちだったら飲めそう?」
おずおずとホットミルクティーを指さす。
初めて会った日も泣いていた。
その時にもホットミルクティーだったなと思いながら喉を潤すとその甘さにホッとする。
「腕、湿布貼らなきゃね。」
彼の視線がそのまま腕に触れているような錯覚を覚える。
あんな事があった後だからかフワフワした頭の中が痺れたようだった。
「うん。改めて助けてくれてありがとう。」
「…俺、偶然だけどあそこにいて良かったよ。」
そう言ってペットボトルを手で弄ぶ。
「何もしたつもり無かったんだけどな…何でこうなっちゃうんだろう。」
いつもそうだ。
可能な限り、真っ当に生きているつもりなのに何故自分はこんな目に遭わなければいけないんだろうか。
大学の入学式の時も、下着を取られた日も感じた感覚に襲われる。
無力で、世界の全てが腹立たしくて、もう何もかも投げ出してしまいたい。そんな感覚だ。
「皆んなたまに忘れちゃうんだ。何か自分がやったせいじゃないかって考えに囚われて。けど、理不尽に火の粉が降りかかることはあるんだよ。紗奈さんは何も悪くない。」
高梨君は、珍しく力強い声で言い切った。
(何も悪くないか………)
これまで誰も、自分でさえも、言ってくれなかった言葉だった。
じわじわとその言葉が自分を染めていく。
緩くなったミルクティーと同じくらい、甘いものが身体中に染み渡った気がした。
「戻れそう?」
「…うん。」
名残惜しいが、席を立つ。
2人でゆっくりとした足取りで安アパートへの帰り道を進む。
この疑問をずっと口にしなかったのは、少し怖かったのかもしれない。
優しさの理由を探して、でもそれが当たり前だと言われてしまったら、その当たり前を持ち合わせない卑屈な自分にとって、特別なものが特別では無くなってしまう気がした。
「何でそんなにいつも助けてくれるの?」
「んー、紗奈さんがいい人だから?」
釈然としない回答が返ってきた。
「どう言うこと?」
「2年ぐらい前、紗奈さんウチで猫飼ってたでしょう?」
ギクリとした。
うちは当然ペットNGだ。
咎められると思って反射的に返す。
「あれは、家の中じゃ無くて…!」
「知ってる。ベランダの下でしょう?」
高梨君の言葉に一瞬強張った体の力が抜ける。
「俺、丁度あの頃、結構捻くれててたんだよね。」
彼には似合わない言葉に、驚きの表情で彼を見上げると苦笑しながらも続けた。
「そこそこ覚悟して東京に行くつもりだったのに、周りは俺なんかよりもずっと、親にも環境にも恵まれてる人たちばっかりで、奨学金とバイト代だけで生活していくのを思ったよりも、苦しくてさ。」
「手当のために夜勤とか早朝で働いて、気づいたらコンビニ飯ばっかり食べて、たまに行った飲み会で浴びるように酒を呑んでみても全然気が晴れなくて。」
そこで言葉を切った表情には見覚えがあった。
自信が無くて、世界に絶望していて、何処と無く“日常”と言われるものに疲れ切っている。
「そしたら、ベランダから鳴き声がするようになって、動物とか好きだけど構う余裕も無いなって思ってたら、誰か食事をあげるようになっててさ。」
「ちっちゃい紙皿に、キャットフード。……あれ、紗奈さんだったよね?」
言い当てられて、視線を逸らす。答えるのが恥ずかしくて仕方がない。
「……うん。」
「最初は誰かの気まぐれかと思ったんだけど、毎日ちゃんと来るようになってさ。雨の日でも濡れないところに置いてあるの見て、ああ、これは誰かがちゃんと見てるんだって思った。」
「気づいたらベランダの下が子猫の定位置になってた。紗奈さんもめちゃめちゃな時間に帰宅してるの知ってたから、大変なのに、誰かこんなやっすいアパートでも面倒見ようとしてるんだって。多分、本人も余裕なんて無いだろうになって。」
高梨君は、ふっと息を吐いて微笑む。
「そしたら、それがすげぇ、沁みたんだよ。その子猫の事、何処か将来の自分だと思っちゃってたから。」
沈黙が落ちる。
彼の気持ちが、想像できた。
まさに高梨君に助けられた時の私だった。
「だから、なのかな。それが紗奈さんがやってたんだって気づいてから、2年も経っちゃったけど、何処かで俺も力になれたらなって思ってて…まあ、紗奈さん見てると、放っておけないっていうか……うまく言えないけど。」
まっすぐな声だった。
取り繕っていない、素の感情のままぶつけられたその言葉に、胸がちくりと痛む。
「……そっか。」
紗奈の声は震えていた。
「私、自分のことで精一杯で、誰かの力になんてなれたと思ったこと、なかったのに。」
高梨は、そっと目を細めた。
「でも、間接的だけど、なってたよ。俺は救われた気持ちだった。」
今日は、彼に助けられてばかりだ。
優しい木綿で包まれるようにささくれ立った心が凪いていく。
大袈裟だが、
―――今、この世界にいる事を許された気がした。