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第2話

先日の食器をポスト経由で返したものの、除湿機を借りっぱなしのまま翌週を迎えていた。


巷ではサザエさん症候群に陥っている人も多いであろう日曜の午後、家事を終えて買い出しに出た帰り道。

もう一個角を曲がればアパートという所で揉めている声が聞こえてくる。


「なんで無視するんですか?高梨先輩、連絡するって言ってくれたじゃないですか⁈」


先日知ったばかりの隣人の名前にピクリと体が反応する。


興奮した女性の声が辺りに響いていた。


意識的にそちらを見ないようにしようとしたが、男性の方の声が聞こえてくる。


彼は、女の子に腕を掴まれていた。


「俺、ちゃんと断ったはずだけど。その後の連絡は緊急じゃなさそうだったから返さなかっただけだよ。」


高梨君の声は先日と同一人物か疑うほど淡々としていて冷たい。

感情のない言い方が、逆に本気で拒絶していることを示していた。



その空気に、女の子は逆上したように声を荒げる。


「ご飯に誘ったのに、それにも返してくれなかったじゃないですか!私に優しくしてくれたのは何だったんですか?」


紗奈はその場から動けずにいた。

買い物袋が、先ほどまでよりも重たく感じる。

可能なら、彼らに見つからず部屋に戻って荷物を置きたいが、完全にタイミングを失っていた。

誰かの恋愛ドラマの裏側に、偶然入り込んでしまったような気まずさだ。


このまま、目を逸らして通り過ぎたいところだった。

けれど―――高梨と目が合う。


最悪のタイミングだった。

女の子の方も彼の視線を辿りこちらを振り向く。


「誰?」


女の子の困惑した顔が見えた。

高梨君は、何を考えているか分からない表情で女の子に掴まれた腕を静かに降ろすとこちらに近づいてくる。


「荷物、持つよ。」


そう言うと、買い物袋を私から奪い取る。


「行こう。」

「……は?彼女いたんですか?」


空気が凍った。

女の子の顔が、怒りから悲しみに変わるのがわかった。


「いや、えっと………違います、これは。」


咄嗟に何かを言おうとするが、高梨君はそそくさとアパートの方へと向かっていく。


「最低。」


女の子の瞳にうっすらと涙を貯めながらこちらをキッと睨みつけて来た。

こういうたぐいの揉め事は苦手だ。

恋愛は人を狂わせる。

感情的になって、周りが見えなくって、なりふり構わず相手に感情を押し付けるのだ。


“あの人”みたいになりたくは無かった。そう思って長らく避けていた。


ただ、何よりも私を苦しめるのは、そんな恋愛をしている彼らの方が私なんかよりもずっとキラキラしていて、人間らしいということだ。その事実が無機質なフリをした自分を苦しめる。


そんな感情を剝き出しにして、傷ついて、何がそんなにいいのだろうかと冷淡に思う自分と羨ましいと思ってしまう相反する自分が混在する。


「その人は彼女じゃないよ。けど、俺は普段からこういう風なんだよ。」

「なんですか、それ………私が勝手に勘違いしたって言いたいんですか?」

「…そこまで言いたいわけじゃないけど、まあ、そうだね。」


突き放したような言い方だった。

女の子はそこで耐えられなくなったのだろう。


「最低!高梨さん調子のってるけど、全然お金持ちでもないし、頭いいだけで、人の気持ちわかってないくせに!」


女の子は吐き捨てるように言って早足で路地の向こうに消えていった。

アスファルトに残されたヒールの音が、不規則に遠ざかっていく。


紗奈は、何もできずにただ呆然とその場に立ち尽くしていた。

高梨君は静かにその様子を眺めながら彼女が角を曲がったことを確認すると扉へと向かっていく。


手に持った買い物袋だけが、不自然に重く見えた。


「……ごめん。とりあえず部屋、上がってって。お詫びするから。」


彼の部屋に入るのは、当然これが初めてだ。


間取りは自分の部屋とほぼ同じはずなのに見慣れない。

意外にも彼の部屋は、整頓されていて、無駄がなかった。

机の上に並んだ専門書とノート類が、彼の努力をしっかりと物語っている。


「飲み物とか……いる?」

「いい。…あの、良かったの?」


紗奈は、勧められただの床に腰を下ろす。無意識に、膝の上で手を握りしめていた。


高梨君は冷蔵庫から麦茶を取り出すとコップに注いで飲み干した。

彼も緊張してのかもしれない。

軽く髪をかき上げると溜息を吐きながら事情を説明してくれた。


「……あの子、バイト先の後輩でさ。人見知りで仕事覚えるの苦手だったから、最初ちょっと面倒見てたんだよね。」


なるほど、彼らしい。

見ず知らずの私にも手を差し伸べるような人なのだから、バイト先などで関われば困っている人間を助けようとするだろう。


「それで、なんでか知らないけどああなっちゃってて…。」

「なるほど…。」


二人の間に沈黙が落ちる。


「俺、人との距離感を測るのが下手なんだよね。あの子の誘いもちゃんと断ったし、返信も控えてたんだけど、難しいね。」


―――“いい人”には”いい人なりの苦労”がある。


彼は、その端正な見た目からこちらがする妄想に反して、何の裏表もなく親切にしているだけなのだろう。しかし、その容姿や、通っている大学、そう言ったものに勝手に人が寄ってくるのであろうことは容易に想像が付いた。


「巻き込んで、ごめんなさい。」


高梨君は、潔く頭を下げる。


「いや、全然大丈夫だけど、バイトは大丈夫なの?」

「就活もあるし、そろそろそのバイト辞めるつもりだったから。」


彼なりに対応しようとしていたようだ。


「でも、最後シフト被ってたから誰かに変わってもらわなきゃなんだけど、誰も変わってくれないんだよね………。」


そう言いながら彼はスマートフォンを手に取る。

少し心当たりがある。

そういう時大抵誰かが気を利かせたつもりで、彼らの間を取り持とうとしていたりするのだ。


私らしくない行動だった。

余計なお節介かもしれない。

もしかしたら、彼のお節介がうつったのかも。


でも、先に社会に出ている先輩として助言した。


「それ、社員の人に言っていいと思うよ。彼女まだ高校生みたいだし、高梨君も就活があるならお互いこれ以上関わらない方がいいと思う。…間違っても“ちゃんと話した方がいいかも”とか思わない方がいいから。火に油を注ぐだけに、なると思う…。」


そこまで言って、これでは自分が話して欲しくないから言っているようではないかと気づき焦る。余計な親切心が身を亡ぼすのだ。


しかし、高梨君は、心底、救われたような顔で笑っていた。


「……マジで的確。紗奈さんありがとう。」

「いえ。」


紗奈がそっぽを向いた瞬間、高梨の表情に、ほんの少しだけ安堵の色が混じっていた。



次の週、高梨君は無事にバイトを辞めた。

シフト責任者へ連絡し、静かに最終日を迎えたそうだ。

元後輩からの個人的な連絡も来たが、「ブロックした」と、律儀に伝えてきた。


「……ちゃんと終わったから。報告だけ。」


どこかバツの悪そうな顔で高梨はそれだけ言ってきた。


「はあ…良かったね。」

「うん。ねえ、良ければ銭湯、行かない?」


不意に言われて、紗奈はまばたきをした。

予想していなかった言葉。だけど、嫌ではない。


「ちょっと疲れちゃったんだよね。」


高梨がこちらを伺うように見ていた。


「…いいよ。」


数日ぶりに銭湯までの道を歩く。

その距離は、あの日よりも、少しだけ近づいていた。



§



その日は、朝からずっと寒気がしていた。

体の奥に氷水が流れているみたいで、首筋も背中も、じっとりと汗をかいている。



今日は皆忙しそうで、特に誰からも顔色が悪いとは言われなかった。


(誰も、気づかなかったんじゃなくて、誰も、関心がなかっただけ)


普段よりもずっとネガティブな感情が押し寄せて来た。

夕方、無理やり勤務を終えて電車に乗る。

座席を逃し、無理やり開いているドアの四隅に身を寄せる。立ってるだけでふらつく。


駅の階段でもつれる足を無理やり動かした。

なんとか玄関前まで辿り着いて、バッグを漁るが、鍵が見つからない。


(こんな時に………)


はやる気持ちでポケットに手を入れて、何かを掴んだ瞬間―――


視界が、真っ白になった。ぐらりと重心が傾く。

体が、玄関のドアに沿ってずるずると崩れ落ちていく。

冷たいコンクリートに頬が触れたところで私の記憶は途切れていた。



§



次に目を開けた時、天井が見えた。


見慣れた天井。

けれど、嗅ぎなれない匂いがして居心地が悪い。

照明は落とされていて、外の光がカーテンの隙間からぼんやり差し込んでいた。


「……起きた?」


低い声がして、ゆっくりと首を動かす。

高梨君だった。


「……ここ?」

「俺の部屋。鍵握ったまま玄関前で倒れてたから、家に勝手に上がるのも申し訳なくってうちに来てもらった。」


紗奈は言葉を探したが、すぐには見つからなかった。

喉が乾いていて、頭がぼんやりしている。


「……ごめん、なさい……。」


たどたどしく口にしたのは謝罪の言葉だった。

熱が上がっているのかゾクゾクとした寒気がしているが、しんどさよりも、気まずさと自己嫌悪が先に出た。


六畳しかない部屋はシングルベット以外の空間は少ない。

家主よりもスペースを取っているはずだ。


「体調どう?少しだけでも飲めそうなら、飲む?」


そう言って、軽く蓋を開けた青いラベルのボトルを渡される。


「上着は脱がせたけど、それ以外は触ってないから。バックは足元ね。」

「え……あ、うん、ありがとう……。」


ふわっとしてる頭で、なんとかそれだけ答える。


「……ほんと、ごめん。迷惑だったよね……。」


紗奈が絞り出すように言うと、高梨君は眉をしかめて首を横に振った。


「たまたま俺が近くにいただけだし、倒れてたら普通、助けるでしょ。」


事も無さげにそう言うとキッチンへと下がっていく。

だしの香りが部屋にじんわり広がっていることに気が付く。


「おかゆ、もうちょいで炊けるから。食べられそう?」

「え、そんなことまで…。」

「俺の飯のついでだから気にしないで。」


キッチンの方で、器によそう音がした。

少しして、トレーに乗せられた、お粥そして小鉢が運ばれてくる。


「はい、もし食べれそうならこれも食べて。がめ煮、好きだって書いてたから。」


その一言に、紗奈の目を見開く。

“がめ煮”というのはぱっと分からなかったが、以前もあった煮物だった。


「……ちゃんと、読んでくれたんだ。」

「ああ。食器返すときわざわざ書いてくれたの嬉しかったから。紗奈さん、字ちっちゃいんだね。」


銭湯まで行ったものの、その後どうやって話し出して良いかわからず、洗った食器をポストで返した時、手紙を添えていたのだ。


「あれは、美味しかったから……。」


自分でやっておきながら恥ずかしい気がしてしまった。


「今どき手紙とか、小学校以来だったよ。俺、普段は気を付けてるからあんまりバレないけど、こう見えて九州出身だからさ。がめ煮好きって言ってくれて嬉しかった。」

「え、そうなの?」

「うん、福岡。大学こっち来るまでは母子家庭なこともあって兄弟に料理作ったりしてたから結構自信あるんだ。」


さらっと言ったその一言に、紗奈の胸がきゅっとなる。

風邪で弱っていたんだと思う。

自分の“普通じゃない家”のことを、ふいに思い出した。


「……うちは、逆だった。母親はいるけど、昔から借金まみれで、家にお金入れても取られるのが当たり前だったから。」


「人を信用するの、すごく苦手で。なんか、優しくされると、後で取り立てられる気がして……。何でこんな話してるんだろう。」


ぽつぽつと、つながらない言葉が口から出ていく。視界は生理的な涙で滲んでいた。


(今まで誰にも話たことないのに)


高梨君であれば受け止めてくれると思ったからだろうか。

そう言えば、病気の時誰かに近くにいてもらうのも始めてだったことに気が付く。


彼はただ静かに小鉢を差し出した。


「味見よろしく。俺の地元のがめ煮は、けっこう甘いから。」


こちらの負担にならないように考えてくれた結果の言葉なんだろう。

紗奈は、ゆっくりと箸を取った。


相変わらずやさしい味だ。

彼の優しさが体に染み込むようだった。


「……おいしい。」

「俺のがめ煮、兄弟にも人気だったから。」


そのうち、彼も隣で食事をし初めた。

テレビもつけず、音楽も流れていないのに、不思議と静かすぎなかった。


「……ありがとう、ほんとに。」

「うん。」


食器を持ち上げるとき、手が少し震えた。

けれどそれは、発熱のせいだけではなかった。



§



その日は珍しくまともにお弁当を持って言っていた。

風邪で倒れて想定外に高梨君に迷惑をかけてしまったこと、佐々木君の言葉も合間って近所のスーパーで購入した惣菜も使いながらだが、少しだけ健康に気を使ってみようと思った。


「あら、金井さん今日はお弁当なの?」

「はい、体調を崩して皆さんにもご迷惑をかけたので。」

「そんなこと言ったら私なんか子供が倒れるたびに迷惑かけてるからいつもありがとう!」


先日のパートの女性は、気づかわしげな表情で言ってくれた。

その言葉に、周りの女性陣も反応する。


「そうそう、パートとはいえ、金井さんにいつも最後引き取ってもらってるから申し訳なくて。」

「ホントね、一人暮らしだったわよね?ちゃんとお弁当作ろうだなんてそれだけで偉いわよ。うちの子も金井さんぐらいちゃんと出来るようになるのかしら?」


口々に日頃の感謝を述べられた。

どうせこの後の話題は家庭の愚痴になっていくのだが、それでも悪い気はしなかった。


午後、いつも通り仕事をしているとオフィスがにわかに騒がしくなる。

佐々木君が新規の大型受注を決めたみたいだ。


部長から肩を叩かれている彼の姿があった。


(後輩なのに偉いなぁ)


そう思いながらも、大卒の彼と図らずも高卒となってしまった私とではそもそも社会で引かれているレールが違うことを意識する。

眩しいものを見るような眼で遠くから眺めた後、仕事に戻る。


金曜日だと言うのに、今日も定時で帰宅するパートさんたちを尻目に、まだ自分の仕事は終わりそうになかった。


根気で仕事を終わらせる。

ふと視界に影がかかった。


「金井さん、良ければどうぞ。」


そう言って差し出されたのは、某有名なチョコレート菓子だった。


「あ、ありがとう。」

「いえいえ、金井さん今日お弁当だったって安藤さんたちから聞きましたよ?」

「え、うん。」

「うわ、ホントだったんだ!俺、金井さんのお弁当食べてみたいです。絶対、美味いんだろうな。」


佐々木君は自然な動作で開いていた隣の席に座った。


「全然、大したものじゃなくって、佐々木君が言ってくれたお惣菜とかたまにはいいかなって思って詰めて来ただけだよ。」

「え、ちゃんとスーパー行ってくれたんですか⁈」


佐々木君のおかげであることを伝えたかったのだが、彼は大袈裟に感動して見せた。

こういう所が彼の好かれるところなのだ。


「週末はどこか出かけるんですか?」


さりげなく挟まれた質問に、一瞬だけ返答に窮する。

だが、嘘をつくほどの理由もなかった。


「家電量販店に行ってみようかと思ってる、かな。」

「へー、ガジェットとか興味あるんですか?」

「いや、ちょっと除湿器を見たくって。」

「除湿器ですか?」


ピンときてなさそうな顔だった。


(あ、皆んな浴室乾燥とかある家住んでるのかな)


佐々木君の方が初任給も高く、今は営業としてインセンティブもあるだろう。

額面も手取りも自分とは大きく違うだろう。


「うん。」


短く切り上げて、仕事に戻ろうとする。

このままでは終電も見えてくるかもしれない。


「…俺、家電とかも好きなんで一緒いきましょうか?」


思ってもいない提案だった。

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