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第1話

毎朝、目覚ましが鳴る数秒前に目が覚める。

別に几帳面なわけじゃない。たぶん、うるさく鳴る前に止めたいだけだ。

音に反応して起きるのは、睡眠という逃げ道すら奪われる気がして嫌だった。


部屋は六畳一間の1K、風呂トイレ別。築三十五年、家賃五万八千円。

東京の端の端、ベットタウンになることも出来ず、下町と言えば聞こえはいいが、防犯という概念も無いようなただのボロアパートが彼女の日常の全てだった。


隣のくしゃみも聞こえてきそうなほど壁は薄いが、一度だけ会った大家さんは不愛想だが、きっと本当は優しい人なはずで、コンビニまで徒歩三分。


月に何回も、住めば都、ここは良い所だと言い聞かせてる。


鏡の前で髪をとかし、ドラックストアでいつ買ったかも分からない化粧品で最低限の準備を済ませる。


もう数年通い続けた電車に乗り込み、一時間数分かけてやっと会社に辿り着く。


大学への進学を諦めて、なんとか日々の生活をこなすことが目的になった中で、何とか滑り込めたこの会社だけが私と社会を繋ぐものだった。


電話を取り、コピーを取り、理不尽な言い方にも「すみません」と頭を下げる。

怒っても、泣いても、生活は変わらない。

だから私は、感情の代わりに時間を差し出して、生きている。


―――本当は、もっと違う未来があると思ってた。


努力すれば報われるとか、優しければ好かれるとか、そういう“ふつうの幸せ”を信じてた。

でも、それは全部、他の誰かの話だった。


無機質なオフィスを後にして真っ暗なアパートへと戻る。


誰もいないその空間は、今朝自分が散らかしたままの状態で放置されていた。

シンクに溜まる食器にカゴから溢れた洗濯物、疲れ切った体を押して、どうしようもない現実を象徴するそれらを片付けて行く。


無心で洗濯物を干す。

深夜の安アパートのベランダなど誰も気にしない。

洗濯物が日に当たっている姿をついぞ見ていないなとふと思っていると、ふいに声がした。



「干し方、気をつけた方がいいよ。……俺が言うのもなんだけど。」


ビクリと肩が揺れる。

少しハスキーなその声の主は、隣のベランダから身を乗り出すようにしてこちらを見ていた。

こんな、おんぼろアパートとは不釣り合いな、綺麗な顔の軽薄そうな青年だ。

歳は私より幾分か下かもしれない。


「……え?」


私は、仕事着のままストッキングだけ脱いだ状態で、ベランダで洗濯バサミに下着を留めている所だった。


男は困ったように、でも決して見下すような表情ではなく、淡々と続けた。


「外から丸見えになってるし、女性の一人暮らしって何かと物騒だって言うから。下着だけでも部屋干しにしたほうがいいんじゃないかなと思って。」


急に、まっとうな指摘をされて恥ずかしい気分になった。

部屋干しを止めたのは、匂いが気になるとか、浴室に干すとお風呂の時面倒だとか、そんな理由だったと思う。ただ、外に躊躇なく洗濯物を干すようになった時に思ったのだ。


―――どうせ、誰も私のことなんて見ていない。


自分が女性であることを意識して、下着だけ中で干すことも何だか自意識過剰な気がした。

それでも、指摘されると自分がどうしようもなく常識が無い、考え無しの人間のような気がして恥ずかしさが募る。


「……別に、気にしないので。」


私は咄嗟にそう返していた。

声が少しだけ強くなってしまって、自分でも驚く。


男は「そっか」とだけ言って、会話を終わらせるように視線を外した。

ガラガラとベランダのドアを閉める音が鳴る。

私の胸にチクチクと何かが刺さった。


(なに、あの態度)


自分でもわかってる。彼は悪くない。むしろ親切だ。

でも、そうやって”生活の粗さ”を指摘されると、まるで自分の“みすぼらしさ”を見透かされたような気がして、たまらなくなった。


(こっちは、そんな余裕ないんだから)


心の中で毒を吐きながら、洗濯バサミを乱暴に留める。

風が吹いて、洗濯物がゆらゆらと揺れた。


彼は、何のためにわざわざ声をかけて来たのだろうか。

あんな清潔感のあって、親切に見せかけたあの子だって結局は同じ穴のムジナなのだ。

自分も彼も、このアパートと同じようにただ社会で揉まれてボロボロになっていくのだろう。


自分たちの苦労など何も知らないような心地よい風に晒される。

妙に惨めな気分だった。



少しのイレギュラーがあっても、何も変わらず日常は流れていく。

駅までの道を、無言で歩く。


イヤホンの音楽を聴くわけでもなく、ただ世界から自分を切り離すように耳にねじ込む。

ノイズキャンセリングによってぽっかりと作り上げられた無音の世界でも、忙しなく人々は動いていた。


スーツ姿の新入社員っぽい男の子たちが、笑いながら信号待ちしている。

隣に並ぶ気になれなくて、一歩引いて青になるのを待った。


昨日は、どうもささくれ立った心を上手く鎮められずに寝つきが悪かった。


欠伸を嚙み殺して、普段は控えているコンビニに立ち寄って118円のカフェオレを煽るように飲み干す。

ここ最近で随分と値上げされた、私のカンフル剤だ。


出勤の打刻を済ませ、小声の挨拶と共に上司に会釈する。

ログイン画面を見つめながら、周りの人々を見つめると、パートの女性たちが朝から子供のお見送りやお弁当準備がいかに大変だったかを吹聴するように話していた。


彼女たちの元気は、いったいどこから湧き上がってくるのだろうか。

周囲の雑談に混ざる気力もない。


やはり、“家族”が原動力なのだろうか?

だが、私には頼るべき”家族”も無ければ、私なんかと”家族”になってくれそうな人物の当てもなかった。ここの一年会社以外で男性と話した記憶もない。


タイピングの音、空調の音、誰かのため息。

全部、ノイズのように頭に響いて、だんだん麻痺していく自分自身を無視して仕事へと無理やり意識を向けた。


お昼のチャイムが鳴って、やっと一息つく―――ふりをする。

誰かと食べる昼ごはんは気を使う。

でも一人で食べると、余計なことを考えてしまうから、素知らぬ顔で会話に混ざるのだ。


今朝も元気に話していたと言うのに彼女たちの会話は止まる所を知らない。


「ねえ、いい人とかいないの?私達もうそんな話出来ないでしょう?」


パートの中年女性が尋ねてきた。三人兄弟の母親らしい彼女は、男の子はそう言う話は親にしてくれないからと付け加える。


「私、そういうのに疎いので………。」

「あらそうぉ?まあ、おばさんに話したくはないか!でも、きちんとしてるし、可愛いから何かあるかなと思っちゃって、ごめんなさいね。」


曖昧に微笑む。

元気で小ざっぱりした人なので悪気が無い事は理解しているが、普通の子は私と同じぐらいの歳であれば浮いた話の一つや二つあるだろうという雰囲気が透けて見えていた。


(昨日から卑屈になってる)


自分でも分かっていたが、一度転がり落ちた思考を止めることが出来なかった。



パートさんたちが定時で帰ってしまうので残りの仕事は私に回って来る。

とっくの昔に営業周りのメンバーも帰ってしまっていた。居残りで書類整理を終わらせると自分のデスク以外の明かりは消えていた。


誰にも嫌われず、でも、誰にも感謝されず、 ただ、ただの一日が終わろうとしていた。

帰りの駅で、背中が重い。

体ではなく、心が重かった。


玄関のドアを閉める音が妙に大きく響く。

買い置きのペットボトルの水を一口飲んで、バックを投げ捨てるとスカートのチャックを降ろそうとした手を止める。


ふと外に目を向けた。

レースカーテンの奥から物干し竿が覗く。

昨日の青年のセリフもあった。女性の1人暮らし、カーテンぐらい閉めるかと思いベランダまで駈け寄る。


―――何か、おかしい。


ハンガーの本数が、合わない。

タオル、Tシャツ、ジーンズ、靴下……下着が、ない。

よく見れば、インナーも足りない。


最初は、自分のミスかと思った。


ベランダから身を乗り出して外を覗き込むが、一階なので外に落ちてしまったのかもしれない。 風で飛んだ? 洗濯機に残ってる?



けど、どこにもなかった。

そして、気づく。ハンガーが、ひとつだけ妙に曲がっていることに。


「ああ……。」


声が漏れた。

呆れたような、情けないような、どこにも向けられない声だった。


―――誰かが、盗った。


私の下着を、わざわざ。

このボロアパートの、私の生活の、その一部を。

どこの誰かも知らない相手が、自分の中に土足で入ってきたのだ。


吐き気が混み上げてくる。

対して量も食べていないはずの昼食が胃からせり上がってくる。


「……ヤダ、ほんと無理。」


私が何をしたと言うんだろうか。

誰にも気づかれないほど地味に、誰にも迷惑をかけず、生きて来たにもかかわらずその結果がこれだなんて、理不尽すぎる。


震える指先でスマホを握りしめる。


でも、誰に連絡すればいい?


警察――でも、証拠もないのにどの程度真剣に取り合ってくれるのだろうか?

管理会社?――前に水漏れで電話したときも「またですか」って鼻で笑われた。

親?――連絡先は消した。


結局、誰にも連絡できないまま、私は膝を抱えて座り込んだ。


無理やり洗濯物を部屋の中に放り込んで乱暴にベランダの扉を閉める。


気が付くと目から涙が溢れていた。


「あぁ…うぅ………。」


安全ではなくなった部屋の隅っこに丸まるようにして座り込む。

言葉にならない思いが嗚咽が漏れる。


(もうヤダ………何で、私なの?)

(何でこんな目に合わなきゃいけないの?)


自分の不幸を嘆く。

ただただ、涙が溢れてきた。


一時間ほど泣きはらしたが、それでも涙は止まらなかった。


少し冷静になると今度は自分を責め立てる声が頭の中でひたすらぐるぐる回った。


(干すなって言ってたじゃん)


昨日の青年の言葉がよみがえった。

押し付けがましくない態度の彼の優しさをねつけた結果がこれなのだ。

自衛をしていない自分が悪い、そう言われた気がした。


何も出来ないまま刻一刻と時間が過ぎていく。


思考を止めて、ノロノロと体を動かす。


その日は、何もできずに早々に眠りについた。

自宅であるにも関わらず、どことなく安心できない。

不安をかき消すようにギュッと目をつぶり時間が過ぎるのを待つ。


薄い壁から漏れてくる生活音だけは普段通りだった。



§



翌日もその次の日も、私はいつも通りの顔をして会社に行った。

笑えもしないし、誰かと話す余裕もない。

でも休むわけにもいかなくて、ただ“仕事をしてる自分”を演じ続けた。


「金井さん、今日もカップスープっすか?」


給湯室の扉を開けた瞬間、後ろから声をかけられた。


「あ、うん。……なんか、最近食欲なくて。」

「そうなんすか、無理しないほうがいいですよ。金井さん、最近顔色もよくないし。」


気遣うように声をかけてくれたのは、後輩の佐々木くんだ。

「そうかな」と曖昧に微笑んでその場を立ち去ろうとすると、珈琲を勧められる。


彼はわざわざ私の隣に並ぶと、勝手にお湯のスイッチを押した。

珈琲を入れてくれるようだ。


「ありがとう。……ごめんね。」

「いやいや。あ、そういえばこの間、金井さんの最寄り駅のスーパー行ったんですけど、あそこ惣菜充実していていいっすね!そういうの使ってもいいんじゃないですか?」


珈琲にお湯を注ぐ彼の手元を見つめていたが、驚いて彼の顔を見る。


(―――なんで、家の場所、知ってるんだっけ?)


だが、佐々木君は何事もないかのように珈琲を注いでいた。

言葉に詰まっていると彼と目が合う。


「―あ!金井さん引かないでください!前、飲み会で教えてくれたのを覚えていただけで、言ってみただけなんで!」

「…ああ、ごめんね。全然引いてない。けど、よく覚えてたね。」


引いてないと言うのは嘘だった。

正直、もしかしたらという目で佐々木くんのことを見てしまっていた。

昨日の件で敏感になっているのか、過剰に反応してしまう自分が嫌だった。


「いやー、一応これでも営業なんで!人に関することは覚えておくの得意なんですよ!」


ニカっと効果音が付きそうなほど彼は爽やかに笑う。

佐々木君は大学卒業後に入社したが、なぜこの会社にいるのか疑問に思うほど優秀な営業マンだった。


「午後乗り切れば明日は休日ですから、頑張りましょうね!」


珈琲を手渡たされる。いい香りが鼻孔をくすぐった。

少し触れた手も清潔感があり厭らしさは無い。

自分にも笑顔を向けてくれるような彼を疑ったことに罪悪感が浮かぶ。


彼と談笑していると昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。



午後も何とか仕事を終え、深夜、夜道を歩くとまだらに明かりのついたアパートが見えて来る。


溜息を吐きながら部屋のドアを閉めると、狭い脱衣所の扉が開いている。

目の前に広がるのは、あの日から溜まり続ける洗濯物の山だった。


何となく気が乗らずに忙しさにかまけて洗濯を出来ない日々が続いていた。


「あ、タオル……….。」


思わず呟く。

今日は我慢できても、明日は無理だ。

風呂に入る手段も失って、誰にも気づかれないまま、どんどん人間じゃなくなっていく気がする。


仕方なく洗濯機を回す。ドラム式なんて夢のまた夢だ。


ぼーっとスマートフォンを触っているとピーピーと機械音が鳴り響く。

重い腰を持ち上げて洗濯物を取り出す。


あんなことがあったくせに、体は何もなかったみたいに動いてしまう。


―――習慣とは、恐ろしい。


いつもと同じ手順で、ベランダの扉を開ける。

下着だけ中に干せばいいかと思っていたが、物干し竿を見た瞬間、全身が凍りついた。


呼吸が浅くなり、不快感が押し寄せて来た。

視界が一瞬で狭まる。

あの日と同じ、あの気持ち悪さが、皮膚の内側から湧き上がってきた。


「え…、イヤ。」


何に対して否定の言葉を発しているのかも分からないまま呼吸が浅くなる。

自然と涙が出て来た。

たかが下着を盗まれただけで何故こんなにも傷ついているのか分からない。


だが、あの出来事は惨めな私自身を象徴している気がして、消えたくても消える勇気もなくただ存在していたと思ったら搾取される、そんな自分を再認識してしまう出来事だったのだと思う。


扉を閉めることもなくベランダの扉に寄りかかるようにして涙を流す。


―――コン、コン


急な音に、泣きはらした目のまま辺りを見回す。


―――コン、コン


隣とうちを隔てる薄い衝立ついたてが揺れていた。


「おーい、大丈夫っすか?流石に気になるんだけど………。」


あの青年の声だった。

まるで、そこに板なんてないみたいにクリアに聞こえる声に何だか笑い出したくなってしまった。


(……バカみたい)


こんなにも薄く、頼りない板一枚が、私たちの“生活”を隔てている。

この薄い仕切りひとつで、“自分の世界”を守ってるつもりだったなんて。

ちょっと力を入れれば、きっとこんなもの、すぐに壊れてしまう。

そのことが、自分のもろさと重なって見えた。


「………本当にガチでヤバい感じ?」


青年の声が少し焦ったものに変わった。こちらを気遣ってくれているのが伝わってくる。


「ーうるさくして、ごめんなさい………。」


なんとか弱弱しい声で答える。


「いや、全然大丈夫。お姉さんの方が大丈夫?」


返答が返ってきたことに安心したのか、先日の気安い雰囲気が戻って来る。

しかし、彼はわざとなのか先日のようにこちらを覗くことはせず律儀に板越しに話かけてくた。その気遣いを感じ取った時、胸の奥が痺れたようにまた別の涙が溢れだした。


大丈夫だと返すべきだろう。

だが、喉が締め付けられたように言葉が出ない。


「………あー何か、ごめん。」


青年はそう言うと薄い板越しの気配が消える。

めんどくさい状況だと気が付いたのだろう。

誰も自宅のベランダで泣きはらしているような女と関わりたいわけがない。


―――ピーンポーン


(え………?)


普段は誰の訪れを告げることも無いインターホンが鳴った。


私は慌てて涙を袖で拭い、玄関に向かう。



ドアスコープを覗くのが、少しだけ恐かった。

そっと覗くと、予想通り、隣の彼だ。



手には、タッパーを乗せた平たいトレー。

部屋着だろうか、スウェットのようなラフな格好のまま、ちょっとだけ困ったような顔で、でも真っ直ぐ立っていた。


恐る恐るチェーンをかけたままドアを開けると、彼はその高い身長を丸めるように軽く頭を下げた。


「なんか……こういうの、いらなかったらスルーしてほしいんだけど。作り置きしてたやつ、今日冷凍するつもりだったんだけど、もし良ければ。」


差し出されたのは、煮物と、ほうれん草の胡麻和え、見た目にそぐわぬ家庭的な料理の数々だった。


「なんで…?」


純粋な疑問だ。

彼とは、薄い壁一枚を隔てて全く関わってこなかったはずだ。


彼が引っ越して来たのが三年ほど前だろうか。

学生が引っ越して来たとは思っていたが、特に会話をすることもなかった。


学生にも関わらず、彼はバイトのためか朝は早く夜は遅かった。一年程不規則な生活をしてるなと思っていると、少しずつ夜はちゃんと家に帰るようになっていった。


ああ、よかったなと心のどこかで思った記憶がある。

不健康な生活はじわじわと心まで蝕んでいくから。


そんな、顔を合わせることもなく、互いの息遣いだけ感じていた人物が目の前に現れたのだ。ましてや、その青年から料理を差し出されるようになるなど誰が想像しただろうか。


「あーいや、最近、洗濯物干してなかったから、ちょっと気になってて、体調とか悪いのかなって。俺、料理は得意だから良かったら。」


その言葉に息を呑んだ。今、私が一番触れられたくない話題だった。

崩壊した涙腺は、言うことを聞いてくれず涙が自然と溢れてくる。


「…え、ごめん。そんなに人の作った料理とか苦手だった?」


年相応に焦った声に思わず笑ってしまった。

子供の頃のように首を横に振る。

何か言いたいのにしゃくり上げてしまい何も言えない。


何て情けない姿なのだろう。

ひとしきり泣いて何とか答える。


「…苦手じゃ、ない、です。」

「じゃあ、良かった。これ食べて。」


ホッとした表情になると、青年は再度料理を押し付けて来た。

思わず両手で受け取っていた。


「先週も泣いてたし、人生いろいろあるよね。」


青年の言葉は押しつけがましくなかった。

そういうこともあると、事実をただ受け止めている。そんな、音色だった。


誰かに話を聞いて欲しかったのかもしれないし、ただの気の迷いだったのかもしれない。

ただ、先ほどまでつっかえていた喉は仕事を忘れたようで、気づけば口を吐いて出ていた。


「…下着、盗られてて。何日か前に………。」


思わず自分の唇に触れる。名前も知らぬ男性に何を言っているのだろうか。


(俺が言ったのにって思われるよね)


急に思考が覚める。

今しがた貰った料理を重く感じた。

謝罪の言葉を述べて、早く彼と偶然にも繋がってしまったこの扉を閉めなければ。


言葉を発そうとした時だった。


「………そっか。しんどかったね。」


顔を上げる。

彼は、変わらずこちらに酷く同情するでも、馬鹿にするわけでもなく真っ直ぐたたんでいた。

もう涙は溢れてこなかった、それよりも胸に温かいものが広がる。


「その…洗濯物外に干すの、やめようと思って。」

「うん、それがいい。……早くベランダも閉めた方がいいんじゃない。」


その言葉で扉がまだ開いていたことに気が付く。


「ちょっと待ってて。」


彼は、そう言うと隣の扉へと滑り込んでいった。

何だろうと思いながらも、言われた通りベランダの扉を閉める。

洗濯物の心配をしなくていいからか、部屋干しの宣言をしたせいか、ベランダに近づいてもさっきのような発作は起きなかった。


料理を冷蔵庫に仕舞っていると隣からドタバタと音が聞こえて来る。

しばらくして、また隣のドアが開いた音がしたかと思うと律儀にインターホンが鳴った。


「はい、これ。」


そう言って再度手渡されたのは白い箱のような機械だった。


「除湿機、貸すよ。浴室で使うと結構乾くし、良いよ。」

「えっ、でも―」

「返すタイミングはお任せで。あ、ついでにだけど銭湯行く?この辺に、夜中までやってるとこあるよ。」


怒涛の勢いで青年が提案して来た。


「お風呂まだっぽかったから、たまには広い浴槽でゆっくりした方がいいんじゃない?」


疲れ切った私にはそれがとても魅力的な提案に聞こえた。

気づけば、コクリと首を縦に振っていた。

先ほどから普段では考えられないような行動ばかりとっている。


「じゃあ決まり。十分後に来るから、洗濯物干して、荷物準備してて。もし除湿器の使い方分からなかったらその時教えるから。」


そう言って青年はまた部屋へと戻って行く。

彼の勢いに押されるように準備をした。


瞬く間に時間が過ぎ、再度インターホンが鳴った。

ふと振り返った洗面台の鏡に映る自分は、心なしか先ほどまでの疲れ切っていた表情よりは幾分か柔らかいものになっていた。



§



徒歩五分もしないうちに銭湯に辿り着く。

道中、彼が銭湯を見つけたのは二年前で、たまに気分転換に使っていること。

夏のコーヒー牛乳が美味しいこと、他にも他愛のない話をしてくれた。

お互いの核心には触れないような雑談が心地いい。


番台でチケットを買い、それぞれの暖簾のれんをくぐる。

湯気の向こうで知らない人たちの話し声や笑い声が遠くに響く。


タイル張りの洗い場。

年季の入った鏡の前で、誰にも邪魔されず髪を洗う。

お湯をかけた瞬間、背中から心までじんわり溶けていくのが分かった。

広々とした空間で縮こまらずに動けるだけで何だか気が楽になって来る。


ああ、ずっと、あたたかいお湯に浸かってなかった。


いつの頃からか、自分にも他人にも無頓着になっていく。

繰り返しの日常から少しだけ脱出した数十分が、少しづつ、私を人間に戻していった。


―――そのとき、ようやく気づいた。


私はまだ、彼の名前すら知らない。


あれだけピリついていたのに、緊張して、怯えて、何も思考出来ていなかったことに気が付く。彼のことをちゃんと見る余裕すらなかったのだ。


(こんな、ぼーっとしてるからダメなんだ)


自分を責める声がしたが、ネガティブな思考も温泉の中ではその威力が半減した。

髪を乾かし、ほかほかのまま脱衣所に出ると、自販機の前で、缶のミルクティーを2本持った彼がいた。


「ホットしかなかったけど、こっちでよかった?」


私は黙って頷いた。


ひとくち、甘さが喉に落ちて、ふっと力が抜ける。

何を言うべきなのか迷っていると彼が先に口を開いた。


「なんか、やっと人間らしい顔してる。」

「……そうですか?」


気を張っていた事に彼は気が付いていたのだろう。こちらを見透かすような目だった。

缶を持ったまま、視線を落とす。

そして、先ほど浮かんだ問いを投げかける。


「……あの、今更ですけどお名前、聞いてなかったので伺ってもいいですか?」

「……あ、確かに。」


彼は、缶を少し掲げる仕草をする。


「高梨。高梨湊たかなし みなと。東京理工大学の三年。必要だったら学生証も見せるよ。」


思わず目を見開く。想像以上にいい大学に通っているようだ。

どちらかと言えば良い所の家の子が通うイメージの大学だったので、あんな安アパートの隣人が通っているとは意外だった。


彼は、視線をこちらに寄越す。

私も自己紹介をしろと言うことだろう。


「…金井かない 紗奈さなです。」

「紗和さん、ね。……いい名前。」


さらりと嫌味なく褒められる。慣れた雰囲気だった。


「てか、何で敬語?」

「え?」

「紗奈さんの方が年上でしょ?」


急に下の名前で呼ばれて驚くが、大学生であればこんなものかもしれない。

それに対して紗奈は、初対面の人との距離感が分からず、とりあえず丁寧に接することしか出来ない。


「敬語使われるの、ちょっと距離ある感じで苦手なんだよね。」


そう続けて、高梨は缶を指先で軽く転がした。


「……じゃあ、やめます。…高梨くん。」


彼がプッと噴き出す。


「敬語じゃん。」

「あ、えっと………止め、る。」

「いいやん。」


名前を呼んだ瞬間、彼の口元が少しだけ緩んだ。

何となく気安いその言葉に、彼は東京以外の街からこの場所に辿り着いたのかもしれないと少しだけ思った。

短い会話。お互いの名前を呼び合うようになった。それだけで、距離がほんの少し縮まった気がする。


ふと、夜風が吹き抜けた。

それは少し冷たいけれど、不思議と心地よかった。



たった五分の夜道は短い。

互いにそれぞれの部屋の扉の前に立つ。


「じゃ、除湿機、ちゃんと働いてるといいけど。」

「うん。……ありがとう、いろいろ。」

「いいって、お節介なだけだから。」


短い逃避行は終わりを告げ、それぞれの狭い部屋へと戻る。


食事もままなっていなかったが、精神的に限界が来ていたのだろう。

強い睡魔に襲われた。布団にくるまり、目を閉じる。

久しぶりに、何かから守られているような感覚のまま、深く、静かな眠りに落ちていった。

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