推しと遭遇、そして私の異変
食堂は活気に満ちていた。鉄製の食器がぶつかる音、粗野な男たちの笑い声、肉を焼く香ばしい匂い。杏の体内時計は確かなようで、ちょうど昼食時のようだった。
「おお!チアキ、美人…?連れてどうしたんだよ~」
上げた左手が見る見るうちに下がっていく。全く羨ましそうじゃない声が聞こえ、杏はとっさに腰を曲げて俯いた。学生時代、苦手な人物から身を隠すために習得した秘技だ。
チアキが何かを言おうとしたが、杏はそれを聞く前に、食堂の一番隅にある、壁を向いた席に座った。
差し出された食事は、パンとシチュー。一口食べただけで、胃がキリキリと痛み始めた。人前で食事をすることが、こんなにもストレスになるとは。中学の頃、「食べる姿が気持ち悪い」と心ない言葉を投げかけられた日の記憶が蘇る。
「……口に合わないか?」
背後から人気声優のハスキーで魅力的な声がして、杏は肩を震わせた。振り返ると、そこには騎士団総帥のカイルが立っていた。プロフィール欄に190cmとあっただけあり、背が高く、威圧感がある。艶やかな黒髪を後ろに流していて、肌は白皙だった。彼の深い紫の瞳は、杏と視線が合う前に手元の食事に向けられていた。
「い、いえ、そんなことは……」
杏は慌ててスプーンを口に運んだが、喉を通らない。野菜がごろっとしていて、にんじんの味が口の中に広がった。
「無理に食べなくてもいい。今後どうするか、話し合わねばと思ったが、そう急いでもいない。その派手な服装から隣国のスパイでは無さそうだし、大方渡り人だろう」
カイルはそう言って、杏の隣に座った。彼のアルファであることを証明するフェロモンが、わずかに鼻腔をくすぐる。それは、ゲームで想像していたよりもずっと甘く、そして力強かった。杏は何も言えず、ただ俯くことしかできなかった。
Ωを惹きつけるために出すものだと思っていたが、ベータの杏も、その存在ははっきりと分かる。このフェロモンは、アルファであるカイルの力強さを証明しているようだった。
そんなことより…推し、推しだ!
「すまない。抑制剤を飲んではいるんだが、香りを完全に抑えきれない時がある。近くのオメガが発情してしまうこともあるからな」
カイルが口にした「発情」という言葉に、杏の心臓はバクバクと激しく鳴り響く。まさか、そんなご褒美が。ん?もしかして、私はオメガだと思われている?
「え?私、ベータですよ」
杏がそう言うと、カイルは訝しげに彼女を見てきた。ゲームの設定では、第二の性別しか存在しない。だから、自分はベータとして転生したのだと杏は信じ込んでいた。
視線が合った瞬間、杏の全身の毛穴が開き、肌が粟立つような感覚に襲われた。カイルの甘いフェロモンに包まれ、彼女の身体は熱を帯びていく。この場から一刻も早く立ち去りたい衝動に駆られた。