2.悪役令嬢は死に戻る
冷やりとした朝特有の空気が鼻腔を抜ける感覚で目を覚ます。まだ覚醒しきらないぼんやりとした思考の中、己の手を見つめて溜息を零した。
白く、爪先まで手入れされた手は労働とは無縁で、骸の様にやせ細っても、下女の様に荒れてもいない。
また、目を覚ましてしまった。
あの日。聖女を害したとして火刑に処されたあの忌々しき日以来、私はこうして何度も目を覚ましていた。
何度も、何度も。王立学院へと入学する日。同じ日、同じ屋敷の、同じ朝に引き戻される。この国の、筆頭公爵の第一子。令嬢ヴァネッサ・カルヴァートとして。
王太子アルフレッドの愚かさも、アリシアの媚態も、私はこうして幾度となく繰り返す羽目になる。己の、惨めな死さえも。
何度繰り返しても、何度やり直しても私の結末は変わらない。ある時は首を刎ねられ、ある時は暴漢に襲われ、ある時は冷たい地下牢の中で毒杯を呷った。
悪い夢を見ている様だ。これが夢ならば、今際の際に女神が見せる終わりなき幻であるならば、私の罪は何であろうか。それでも、首筋に残る冷たい刃物の感触も、短刀を貫かれた腹の熱さも、毒に侵され徐々に儘ならなくなる呼吸の苦しさも、その全てが私の死を現実のものと自覚させる。
初めは、王太子と向き合おうとした。王太子としての自覚を持って頂こうと、以前にも増して対話を求め、執拗く苦言を申し立てた。彼が己の責務を理解してくれたならば、あのような愚行は決して犯さないと思っていた。
結果は無惨なものだった。私の行いは却って彼の反感を買うばかりで、より一層アリシアとの仲を深めるスパイスに過ぎなかった。
ある時はアリシアと協調しようと努力した。王太子との関係を認めた上で王妃と愛妾として、良き関係を築こうと努めた。
彼女の奔放な行いを黙認し、その後始末に奔走した。けれど彼女は王妃の座に拘り、私の死を己の男に強請った。国を治める器量など、欠片も持ち合わせてはいなかった癖に。
最後は全てを諦め、流されるままに身を任せ、全てに無気力に応じた。疾うに国のことなど、暗愚に翻弄されることになるであろう民のことなど、どうでもよくなっていた。
当然、婚約を破棄され公爵家へと戻った私に、父たる公爵家当主は北の修道院に入ることを命じた。最貧とも評される過酷な地で、最期は流行病に臥せり、呆気なくその生に別れを告げた。
柔らかく豪奢なベッドの上で身体を起こす。肩を滑り落ちる銀髪は艶やかで、老婆の様に抜け落ちることも無い。こうして人生を繰り返す以前は、私はこの嫋やかな銀髪が自慢だった事を不意に思い出した。未来の国母となる為、大勢の侍女達によって整えられた『ヴァネッサ・カルヴァートという美術品』は正しく私の矜恃であり、覚悟でもあった。
今は、もうそんな心も喪ってしまったけれど。
窓の外からは麗らかな朝日が射し込み、広い部屋を柔らかく暖める。鏡台に写り込む私の顔には疲弊と、確かな絶望がありありと浮かんでいた。
もう、疲れてしまった。私はあと何度、身を裂くような屈辱と惨たらしい死を繰り返すのだろうか。
手を替え品を替え、己の矜持を、愛国心をも曲げて繰り返した人生は須らく失敗してしまった。
これはきっと罰なのだ。或いは趣味の悪い呪いか。
初めの頃は女神が私に齎した試練だと思っていた。愚かな王太子から、治世を乱す聖女から、民を、国を守るべく命を繰り返しているのだと思っていた。
けれどあらゆる試みは全て失敗に終わり、私は死に、そしてまたこの朝に戻る。その果てにあるのは只々諦観のみ。
いっそ全てを捨ててしまえれば――。
ふと脳裏を掠めた言葉。その言葉が私の錆び付いた脳を急速に色めき立たせる。そうだ。もういっそ全てを捨ててしまおう。国への忠誠も、民への慈愛も、王妃という地位も、全て。
これが私に与えられた罰ならば、どうせまたこの朝に引き戻される。それならば、全てを投げ出して、自分の為に生きてみてもいいのではないか。
王太子に振り回される事からも、アリシアに掻き乱される事からも、権威に固執する父からも、全ての枷を解き、私の為だけの人生を送る。そんな人生は、国の為と自我を滅し民への奉公の為に生きるよりも素晴らしいと思える。
ああ、ああ。そうだ。私は、私の為に生きよう。あらゆる柵を、枷を取り払って思うがままに。その果てにまた惨憺たる死が待っているとしても、そうやって生きる方が幾分もマシだ。
この繰り返しの人生に一筋の光が差したような気がした。




