太陽の塔
いつものように電車に乗ったつもりだった。
7時半に起きて、歯を磨いて食事をして制服に着替えて昨日と同じ教科書とノートの入った鞄を肩にかけて、8時には家を出た。アパートの階段をグルグル降りて、駅までは徒歩で5分ほど。それから環状線内回りで3駅目で降りてから、ビルに囲まれた私立高校の教室にいる。
それがどういう訳か逆方向の電車に乗っていた。財布の中に小学校高学年から自己管理を始めた数年分のお年玉が入っていたのだが、気づいたら緑色の電車は飛行機のような窓に変わって、長椅子は進行方向に向いた二人掛けになっていた。時速二百キロで西へ向かっていた。新幹線の切符を買ったのも乗ったのも初めてだった。新幹線に乗り合わせた殺し屋の小説があったなとか思い出したりして、風景は目の前を通り過ぎて、油彩画の絵の具のように重なり合って混ざったりムラになったりしながら、大雨の川のように流れている。
幾つかの駅を飛ばしていく。正確にはJRのぞみで5駅。席を確認した覚えはないが、この時期の所為か平日の午前中の所為か、旅には絶望的な空模様の所為か、車両は7割ほどが空席で、誰かに注意されることも無かった。きっと今やっていることが知られたら、周囲の人間に多大な迷惑をかけるのだろうなと思う。移動も今はいい事ではないようだ。ふと切符を確認する。一体自分はどこまで行くつもりだったのかと切符をポケットから取り出すと、その字を読むより先にアナウンスがその字を読み上げた。ホームに滑り込んだ新幹線はドアを開けて降りるように促す。ホームに降り立ったが特にソースの匂いはしなかった。
大阪も曇りだった。
「ちょっといい?」
不意に声を掛けられて弾かれた様な気分で顔を上げる。制服姿の男子が新幹線から降りて来たと親か学校に連絡されるのかと、逃亡犯気分の僕は逃げ出したい気分になった。けど、その人の顔を見て思考が少し停滞した。
「ここってどうやって行くのか知ってる?」
白い髪に黒い袋のような帽子をかぶっていて、両端が猫の耳のようにとがっている。肌も白く眼は青い。ダボッとしたシャツは左肩が出ていて、ダボッとしたサロペットを肩ひもを通さずにただのズボンにしている。
身長は僕よりも少しだけ高いが、160センチくらいだろう。ヴィジュアル系のバンドマンかとも思ったが、声は女性の様でよく分からない。
「聞いてる?」
「え?ああ」
ふと目の前に突き出されたスマホに気が付いた。この上なく不機嫌そうな顔と目が合う。
「これ、どこにあるか知ってる?」
「すみません、今来たばかりなので」
「そりゃそっか」
その人は最初から期待していなかったのかスマホを眺めてそこまで残念そうでも無いため息を吐く。
「それ、太陽の塔ですか?」
「ん?そうだね」
だからなんだ?というかいきなり話しかけて来るなと言わんばかりに怪訝な顔をされたので僕はどうしたものかと考える前に謝罪を述べて早急にその場から逃げることにした。
「そう言えば、きみは何しに来たの?家出?」
その言葉に足が止まる。マズイかもしれない。
「小旅行です」
「泊まり?」
「日帰りです」
「一人で?」
「一人旅って気楽でいいじゃないですか?自由で」
「自由ねぇ」
何か人を喰ったような不敵な笑みを浮かべている。帽子や雰囲気の所為で猫かなにかが人に化けていると言われたらなんとなくそんな気がしないでもない。
「暇なら付き合ってくんないかね?ほら、あたし地図とか読めないじゃん?」
面倒な人に絡まれているようだとこの時になって気づいた。思い付きで行動するものではないなと思いつつ、もしかしたら面白いかも知れないとも思った。この人は少なくとも、学校や親に連絡するタイプの大人じゃない。というか、大人なのか?
何故か僕がスマホで路線を調べて、地下鉄の駅へ向かった。
「地下鉄なのに地面より上走ってるんだな」
東京だって幾らでもあるだろうにと思いながら鉛色の空を縫うように地下鉄は高架橋の上を進んで行った。終点の駅でモノレールに乗り換えると伝えると、その人は何故か少し嬉しそうだったが、車両を見て少し首を傾げる。
「モノレールって、これか?」
「そうですよ。多分」
「多分って」
レールが一本だからモノレールなのであって、レールにぶら下がっているロープウェイみたいなものばかりではない。というか、これも東京にあるだろうにと思いながら少しがっかりした様子のその人と共に乗り込む。想像を越えるものは特にない。
「東京とあんまり変わんないな」
「あんまり変わんないところばっかり通ってるからですよ」
「ていうか、なんで敬語?」
「初対面の人にタメ口で話さないですよ、普通」
「普通は高校生が新幹線から降りてこないと思うけど?」
「降りて来るでしょ、修学旅行とか」
「この時期に?つか、きみ一人じゃん」
「一人旅ですから」
「あたしは待ち合わせなんだよね」
「そうですか」
モノレールは電車と同じスピードで、電車と似た様な風景を窓で切り取って流し続けていた。
「誰ととか、聞かない?フツー」
その時、ふと高い建物が無くなり、窓の外に不穏な姿を見て僕は一瞬目を疑う。
「おお、あれかー」
それは圧倒的な不気味さを湛えて、そこに立っていた。
万博記念公園駅という迷いようのない名前の駅で降りる。ただ、茨城にも同じ名前の駅があるというのを今日初めて知った。
階段を下りて駅を出る。それから少し歩いて公園に入ると、目の前に巨大なのっぺりとした人型なのかなんなのかもよく分からないそれが牛の角のようなそれをさも両手だというように広げている。腹にある顔は眉間に皺を寄せて至極不機嫌で、歪んだ円錐形の上に乗ったパラボラアンテナのような金色の顔のは表情は無い。後で知ったが、背中にもくすんだ青黒い顔の太陽が刺青のように虚ろな顔をしていた。
「何だろうな、これ」
「太陽の塔だろ」
と言ってみたものの、これが何かと言われるともうよく分からない。自由の女神は元々は灯台だし、東京タワーは電波塔だ。ピラミッドは農作物の不作が続いて職を失った人たちの為の公共事業とも言われている。太陽の塔は大阪万博のシンボル。には見えなかった。
圧倒的に怖い。なんだか勝てそうにない。大きさよりも大きく思えるのは、この異様さから来ているのか。
「そうじゃなくてさ、なんでこれここに立ってんのかなあとか、ヘンなもんだなあとか」
確か、人類の進歩と調和とかが、万博のコンセプトだったけど、岡本太郎は進歩は調和ではなく競争から生まれるとか、調和が嫌で大きな屋根に穴を開けるくらいの大きさになったとか聞いたことがあるが、詳しくは覚えていない。
ただ、僕は誰かと競うのは嫌だ。別にいいじゃないか。どうして一番を決めなければいけないのか。
「ただ、奇抜なものを立てて注目を集めたかったんじゃないですか?」
「なんか尖ってんねえ」
「分からないものは分からないですよ。でも、なんていうか、いい意味で怖い」
「何を伝えたかったとかはどーでもいいと思うよ?どーせ伝わらないんだし」
モルタルの巨体を見上げながら、その人は欠伸交じりに言う。この人は怖いものはないのかと不意に思った。
「本当は万博が終わったら取り壊す筈だったのを、残して公園にしたんだって。観光地化したかったのかねぇ」
「言ってること、大して変わらないじゃないですか」
「芸術は分からんよ。この絵が何億とか言われても。でも、これは何かあるんだよなぁ」
「これを見て、自分も芸術の道に進もうって人はいないでしょうね」
美術系の大学へ進むため、画塾へ通うことになった。でも周りのデッサンを見た時、量産される石膏像には反映されていなブルータスの表情や構図を平然と描く同年代の才能に中てられて、僕は自分の目の前のものをただ書き写しただけの絵に失望した。粗探しなんてすることすら忘れて、捻じ伏せられた。才能を伸ばすには、才能がなくてはいけないのだと思い知らされた。精密なだけの絵なら、写真でいい。
でも、写真のような絵には写真にはないものが宿る。
僕の絵には、それが無かった。
「それが理由かい?」
「まあ、そうですね」
「それで旅行って、失恋じゃないんだから」
「似たようなもんですよ。僕は好きでも、相手は僕を選ばなかったんだから」
1パーセントの才能と99パーセントの努力と言っていた人がいた。それはつまるところ、1パーセントの才能がなければ、99パーセント努力しても無駄だということだ。
「なんていうか、わかりやすい青春の壁にぶち当たってるんだね、きみ」
その人はつまらなそうに欠伸をした。そしてスマホを向けて太陽の塔を見上げて写真を撮る。
「これじゃ何か分かんないな」
スマホの画面を覗き込んで眉間に小さく皺を寄せて不満げにぼやいて、その序でにこっちに片手で放るように言った。
「まあ、好きなこと好きなようやんなよ」
僕は思わず苦笑して、言わなくてもいいことを言っていた。
「無理ですよ。観光とか、価値を見出されない絵に意味なんて無いですよ。ゴッホだって死んでから価値が出ても、本人はそれを最後まで知らなかったんだから」
「人の役に立つってのは、役に立ちたい人がやりゃあいいの。いいかね少年」
その人は人生の先輩面でスマホを向けてきたので、僕は顔を逸らした。
「人のやってることの7割は何の役にも立たない」
「7割は言い過ぎでしょ」
「いいや。テレビなんかなくてもいいし、音楽なんて聞かない人は聞かない。行かない人はコンビニにも行かないし、足ふきマットだって要らないっちゃいらない。生きていくだけなら別になくてもいいものばっかなんだよ。結局、自分の思った通りには受け取られない。前衛芸術の展示で箱を幾つも並べた作品があってさ?それを見た人はみんな町のミニチュアみたいだって思ったけど、実際作者の伝えたいことは違ったり、スリッパを幾つも並べた現代アートを見たお客が、みんなそこで靴を脱いでスリッパに履き替えたとかいう話もある。まあ、テレビで誰かが言ってたのの受け売りだけど」
結局、何が言いたいのか。僕にはわからない。元気づけたいのか教訓めいたことを言いたいのか。それともただ話したいだけか。不意に上を向いた顔の猫のような目がこちらに落ちる様にして僕を捉える。
「ライバル視は勝手にするもんだよ。その才能あふれる同志より、きみの絵が好きだっていう人がいるかも知れない。他人の価値観なんて分かったもんじゃない。きみにとっては駄作でも、誰かにとっては幾ら出しても惜しくない価値のある絵になるかもしれない。写真みたいに精密に書き込むだけでもすごいって言われるんだからさ?」
「だけって、そんな簡単に言うなよ」
「でも、これに比べたらどうよ?」
指差された先を見る人が住むでもなく、巨大で異質なそれは、憮然とした顔をして鈍色の雲で覆い尽された空と、確かに対等に対峙していた。
「勝ち負けに囚われてるやつは必ず負けるって話」
ハッとして顔を上げる。そんなの、勝ち負けにこだわって当然じゃないか。生温い世界じゃない。絵で食べて行けるのは一握りもいない。でも、それが辞める理由になるのか。
好きだから死に物狂いでも続ける。それでいいんじゃないか?
それは、自分自身をどこまでも破滅させていくように思えた。
けれど、悪くはないんじゃないか?
早々に諦めるよりは。
「そう言えば、待ち合わせって誰だったんですか?」
隣を見るとそこにはもう誰もいなかった。不意に雲の隙間から陽光が差して、光の帯は太陽の塔の一番上の金色の顔に降り注ぐ。北風に太陽が勝つ童話を思い出しながら、地上の太陽に目が眩んだ。