ハードレズブック
大して暑くもないのに暑いの言葉がでてくるように、好きという言葉は好きでなくても言える。しかも、す、き、これだけの詩である。猿が無限にタイプライターを叩き続けている序盤で登場するに違いない単語。ほら、見てみろ彼氏の腕をひっぱってお店のディスプレイを見ているあの女「わー、これ好きー」この好きは買えの言い換えである。こういうこともある。本当は違うことを伝えようとして、言いやすいものに流れたのである。
「好き好きみあちゃん大好きー」
だからクラスメイトの品野がわたしの隣でわんわんと吠えても気にしない。そう思ったらついに前に飛び出してきてついに足をとめた。
「歩道で立ち止まるのはやめなよ」
「みあちゃんが無視するもん。朝から放課後まですこやかに話しかけていたのに!」
「なぜ早い段階で諦めなかった」
「だってだってだって好きなんだもーん」
殺したろか。
四月にクラスメイトになってからというもの、品野は窓側の席から廊下側にいるわたしの席までやってきて「好き」と伝えてくるようになった。わたしの友だちはそのたびに押しのけられる。そのたびに「その」とは休み時間のことである。もはや授業が終わるチャイムの輪唱の一種である。
「なぜなにどうして好きなの?」
「顔だよ」
「顔かい」
「あっ、スタイルも! 背が高くてかっこいい」
「どうも」
「かわいい服が着れなくて困るようなかわいいコンプレックスがあるんだろうなあ、みたいなところも」
「好きのエピソードがなさすぎて妄想で補っている」
「大好き!」
早く本屋に寄って帰ろう。わたしは街中にある適当な本屋に入った。近くから聞こえる足音はわたしのものしかないが、すこし確認するとぴったり後ろに彼女がついている。怖い。
「好き、好き、好き……」
「本屋だから小声で好きって言ってる……」
わたしは求めていた本を見つけた。その本のある棚の前に立つ。好き、好き、好き、の連呼が止まって彼女がそろりとわたしの顔を覗きこんできた。
「どしたのみあちゃん」
「早くあなたが去らないかと思っただけよ」
品野は「うえーん」と嘘泣きをしたあとでぱっと顔をかがやかせて、ある本を取った。
「わわわー、新刊が出てる! あたし、この本だいすきなんだ!」
わたしが求めていた本を手に持って、品野は迷惑なことにその場でくるくると回っている。
なんだ、ほんとうにかわいいのはあんたのほうじゃないか。好きなものを好きといえて。わたしなんて好きなものを人前で好きといえない、臆病な女。
お題:臆病な女 制限時間:30分