前編:ずっと願っていたこと
空を覆う灰色の雲に、陽の光が遮られている。それなのに、空気が熱を持ってまとわりつく感覚があるのは、梅雨の湿度のせいだろうか。
少年、汐白の顔が険しいのは、その煩わしさのためではなかった。ショルダーバッグを肩に掛け、放課後の人気のない廊下を進んできた彼は、ある引き戸の前で足を止めた。
白い戸には、円を4つに分けた表が貼ってある。”在室中”や”外出中”と書かれている中、”校内在中”の上に大きな赤い磁石がくっついていた。汐白は引き戸を開けた。消毒液の匂いとさらりとした空気が流れ込んでくる。
白っぽい部屋の左手側、奥にあるデスクには誰もいない。表にある通り、養護教諭は出払っているらしい。汐白は右側、並んだベッドの方へ視線を走らせた。
一番奥のブースがカーテンで囲われている。早足で室内を横切り、シャッとカーテンを開けた。
中のベッドでは少年が寝ていた。ほほは青白く、つぶった目の下にはくっきりとくまが見える。傍らに、少女が一人立っていた。少年の左手、固く握られたままシーツの上に投げ出されているその手に、そっと両手を重ねている。
少女は、突然開いたカーテンに驚いて顔を上げた。汐白の姿を認めて、大きな目にたまっていた涙がはらはらと零れる。
『渡里くん……っ。たー君が、たー君が……っ。』
汐白はぐっと唇をかみ締めた。
彼女とまた話せて、彼女の笑顔を見られて、この力も悪くないかも知れないと、そう思い始めていた。
しかし、何の役にも立たない。涙ひとつ拭ってあげられない。
「綾織。君は、鷲尾から離れないといけません。」
不安そうに眉尻を下げる彼女の向こうに、カーテンのひだがうっすらと透けている。彼女の輪郭は時折風に揺れるようにぼやける。淡く透き通っているその姿は、今、汐白にしか見えていない。
綾織五弦は既に死んでいる。今年の春、二年生になる少し前に。
***
渡里汐白は、時々半透明の人を見る。
小さい頃に、あれは何だろうと母に聞いて気味悪がられた。大きくなるにつれ、テレビや本から知識を得て、あれらは幽霊なのかも知れないと思い至った。あの時の母の顔を思い出すと誰にも相談は出来ず、正体を確かめる術もないので、確証はなかったが。
半透明な人は、汐白が見えていると気がつくと近づいてくる。大半はただ話を聞いて欲しいだけの人だった。けれど、悪意のあるなしに関わらず、彼らに触れられると汐白は体調を崩した。寒気がして、吐き気がして、立っていられなくなる。
その様子を見て、ごめんなさいと謝る者もいた。余裕を持たず、なおすがってくる者もいた。ざまぁない、とニヤニヤ笑う者もいた。
学校でも、どこでも、突如うずくまる汐白は、周囲から病弱な子だと思われた。病院で検査を受けても、どこが悪いのか分からなくて、親を随分悩ませた。
それでも、中学を卒業する頃には彼らを避けるのが上手くなり、被害を受ける頻度は減った。成長して丈夫になったのだと、父も母も喜んでいる。
一年生の秋、ヘマをした。高校生活にも慣れきって、気が緩んでいたのだろう。
その日、四限の体育は体育館でバレーボールだった。同じチームだったバレーボール部の男子に頼まれて、片付けを手伝ったまでは良かった。
ボールで満ちた籠を倉庫の奥にしまう時、跳び箱の影からぬらりと白い手が伸びてきて、汐白の手首をつかんだ。水底からはい出てきたような冷たい手だった。そこから自分の腕が凍りつくと錯覚するほど。
びゃっと飛び上がって大きく腕を振るった汐白を、バレー部員と教師の不思議そうな目が振り返った。
「大きな虫がいたんです……。」
横に目をそらす様子を、虫に驚いたことを恥じていると取ったらしい。教師は気にするな、と笑って汐白の背をたたいた。バレー部員の方は虫が嫌いらしく、早く出ようと青ざめた顔で二人を急かした。
震える体を叱咤して体育館を出る。別のクラスの友人と昼食の約束をしていると、バレー部員は慌てた様子で駆けて行った。汐白もよろよろと更衣室を目指す。
頭がグルグルする。視覚が上手く像を結べなくて、自分がどこにいるのかも曖昧になる。上がらなかった足が、僅かな段差に引っ掛かった。がくんっと前に倒れて、汐白は冷たい床に手をついた。ビリビリと肩までしびれる。
こめかみがズキズキと痛んで、目がチカチカして、そのまま動けなくなる。
「渡里くんっ!」
少女の声に焦りがにじんでいた。たかたかと軽い足音が向こうから駆けてくる。肩に温かいものが触れた。
ゆっくりと視界がクリアになる。まず青いジャージの胸元が見えた。少女が顔をのぞき込んでくる。
大きな丸い目と八の字気味の眉、肩からこぼれる柔らかい髪。見覚えがある。同じクラスの綾織五弦だ。
「渡里くん、だよね? 大丈夫?」
口で応えられず、ただうなずくと、彼女の華奢な手が背に回った。なでつけるようにさすられる。
じんわりと伝わってくる体温が、胸に指先に染みていく。汐白はほっと息をついた。きゅっと引き結ばれていた彼女の唇が、ようやく緩む。
「立てる?」
まだ寒い。まだ痛い。しかし、足の強ばりは解けていた。こくりとうなずく。壁を支えに立ち上がると、五弦が反対の手をすくい取った。後ろを振り返る。
「さっちゃん。私、保健室行ってくるね。」
「ん。アタシも行く。……ねえ、渡里具合悪いんだって。先生に伝えてくれる?」
こちらを見守っていたらしい、後ろにいたもう一人は、さらに通りがかった女子の一団に声をかけた。
一人で行けると断ったが、女子二人、五弦と沙夜は譲らず、汐白はそのまま連行されることになった。
養護教諭は、熱があると言って休むことを勧めた。二人へ目を向け、早くお昼を食べておいで、とほほ笑む。
沙夜が五弦を促して立ち去ろうとした時、バシンッと勢いよくドアがスライドした。一人の少年が駆け込んでくる。
背丈は平均的、体格はどちらかというと細身だが、その他特筆すべき点はない。ただ、カラスのような黒々とした髪と瞳のせいで自然と顔に視線が行く。その髪が乱れていて、切れ長の目は見開かれていた。
五弦がぽかんと口を開く。
「たー君、どうしたの?」
「……保健室、行ったって。」
「? うん。」
ぼそりとつぶやかれた言葉に、五弦は不思議そうにしつつもうなずく。五弦の後ろから、沙夜が眉をひそめてあきれた顔を見せた。
「アタシ達、渡里くんに付き添っただけよ。五弦はなんともない。」
一拍、少年は五弦を見つめていた。硬直が解けるとギッと沙夜をにらみつけ、どしどしと進行してきた。五弦の前に立ち、ふわふわした髪を一房むんずとつかむ。
「え? え? 何? たー君?」
頭皮まで引っ張られないためだろう、髪を片手で押さえて五弦は疑問符を飛ばしている。そんな彼女に構うことなく、少年は相手を引きずるようにして廊下へ向かった。五弦は大人しくされるがままだ。彼は入り口から室内を見渡すと、汐白と沙夜を一回ずつにらんでから去って行った。足音が2つ遠ざかって行く。
「何だったんですか……。」
「心配したなら、心配したって素直に言えばいいのに、鷲尾のやつ。」
汐白が力なくつぶやく横で、沙夜が冷たく切り捨てた。先生は苦笑をこぼしていた。
***
綾織五弦は、容姿も言動も特に目立つ生徒ではない。
ワイシャツは第二ボタンまでとめて、グレーのスカートは膝上、指定された緑のネクタイを締め、上にクリーム色のベストを、と制服の着こなしも同級生に埋没している。
昼食は友人である竹原沙夜の席で一緒にとり、休み時間も教室移動中も沙夜とにこにこ話している。彼女の普段の様子を聞かれて、即答出来る者は、その沙夜くらいだろう。
そんな彼女であるが、名前については早くからクラスメイトに周知されていた。というのも、入学からほぼ毎日、放課後になると廊下からその名が呼ばれるからだ。
「イツル。」
ホームルームが終わってしばらく、五弦は自身の席に座って、隣に座った沙夜と話し込んでいた。柔和な顔ににこにこと笑みを浮かべていた彼女は、低く平たんな声で紡がれた自分の名にはっと顔を上げた。
戸口を塞ぐように、少年が一人立っていた。隣のクラスの鷲尾隆彦だ。
「たー君。」
冷めた目で五弦を見つめていた隆彦は、彼女が一声応えるとふいっときびすを返した。スタスタと教室の前を去る。
「さっちゃん、またね。」
五弦は立ち上がると、カバンを肩に掛けた。友人に手を振りながら慌てて教室を出て行く。ふわふわ揺れる髪を見送って、残された沙夜はため息をついた。
五弦と隆彦は、毎日登下校を共にしている。
教室の前で無言で別れる朝よりも、こうして隆彦が迎えに来る放課後の方が人目を引いた。汐白のクラスでは「鷲尾」だけでは誰だか分からなくても、「たー君」と言われたら、ああとうなずく者も多い。
ちなみに、鷲尾のクラスメイトがふざけて「たー君」と呼んだら、無言で拳が繰り出されたらしい。第一号はみぞおちにヒットしてもん絶する羽目になった。しばらくの間、彼に呼びかけてさっと逃げる遊びが流行ったが、そのせいか、今はどんなに呼びかけても反応しないらしい。
毎日目につくからだろう、ふと話が途切れた時、特に目新しい話題がない時、二人はよく中身のないおしゃべりの標的にされた。寄り添い、特別な呼び方を許す間柄として、恋人同士だと目されていた。
五弦は自分に従って当然だとばかりに、振り返りもせず言葉少なに引き連れる隆彦の様子を見て、女子はこそこそとささやき合う。やれ、俺様だ、亭主関白だ、デートDVだ、と本気ではないだろうが、セーフティー教室で習いたての言葉まで飛び出す。友人である沙夜がいてもお構いなしだ。
むしろ、沙夜に疑問を振ることすらあった。大概の場合、沙夜は隆彦に厳しかった。
「ガキなのよ、あいつ。言わなくても分かって当然って思ってるんだから。甘やかす五弦も悪いんだけどさっ。」
ある日、隆彦の真意を聞かれた沙夜は、そう言ってプリプリ怒っていた。
***
汐白は人付き合いが得意ではない。
小学生の頃、幽霊の話をすれば「うそつき」と呼ばれた。遊んでくれる子がいても、突如体調を崩すせいで徐々に距離が開いた。それを繰り返す内に、すっかり消極的になった。
そのため、雑談をする相手など、春に同じ班だった気さくな男子くらいしかいない。休み時間は専ら本を読んで過ごしている。
ページの半ばでふと集中力が切れて、汐白は顔を上げた。今の席は廊下側の後方だ。首を少し左に向けるだけで教室全体がよく見える。
前方の入り口から、五弦がとことこと教室に入ってきた。細い背中を覆うふわふわの髪が風を含んで揺れている。後方にある自分の席に向かっていた彼女は、沙夜に呼ばれて立ち止まった。座ったままの沙夜へ少しだけ屈む。何を言われたのか、一瞬目を丸くした後、軽く握った手を口元に当ててクスクスと笑った。
あたたかいな、と思う。柔らかそうな髪だとか、まあるい目だとか、それがそっと細められる瞬間だとか、見ているだけで胸の内が温められる。
あの保健室の一件以降も、汐白と五弦の間に接点はなく、あいさつを交わすことすらまれだった。
***
年明けに席替えがあって、窓際の前から二番目の席になった。右後ろには五弦がいる。同じ班だ。五弦と沙夜は通路を挟んで隣同士になり、にこにことうれしそうに顔を見合わせていた。
汐白達の班が教室掃除になって一日目のこと。掃除も終わって机も元に整えたのに、五弦は窓際に立って外を見ていた。他の班員は帰ってしまい、教室には汐白と、おしゃべりしている女子グループしかいない。
汐白はカバンを手にしながら、側に立つ五弦に声をかけた。
「綾織? 帰らないんですか?」
「うん。たー君まだだから。」
「……いつもならもう来てるのに、彼も掃除ですか?」
「たぶん。」
「たぶん……。」
思わずオウム返しにつぶやくと、五弦は困ったように笑った。
「たー君、クラスの話全然してくれないから。」
果たして、他の話はしてくれるのだろうか。
五弦を先導してむっつり口を閉ざしている姿しか見たことがないので、おしゃべりしている彼の姿が想像出来ない。
「それにしても、帰る約束をしているなら、予定くらい話しておくべきだと思いますけど。」
「……約束?」
今度は五弦が言葉を繰り返した。目をぱちくりと瞬かせている。それから、また苦笑をこぼした。眉尻をしょんと下げる。
「約束、してないや。」
「え? してないんですか?」
一緒に帰るだけならそれは習慣かも知れないが、隆彦は毎日迎えに来ている。
それなのに?
「うん。一緒に帰ろうって言ったこと、そういえばないや。」
「一度もですか? 言われたことも?」
「うん。」
「……じゃあ、どうして待ってるんですか?」
口にしてから、しまったと思った。そんなこと、五弦と隆彦の問題だ。他人が踏み込んで良いことではない。
幸い、五弦は特に気分を害した様子もなく、首を傾げた。
「うーん。だって、たー君来てくれるし。それに、」
外、冬の薄青い空に視線を流した。
「やっぱり、一緒に帰りたいから。」
えへへっと、くすぐったそうに笑う。そのほほが赤く染まっている。ほんのりと。彼女の声にうれしそうな色が溶けていたのと同じ様に。
「イツル。」
聞こえた声に、春の日だまりから、薄氷の下へ突き落とされたような心地がした。
いつもより低い、冷たい声に振り返れば、教室に二歩ほど踏み入って件の隆彦が立っていた。眉間にしわを寄せている。にらむ視線を寄越されて、五弦は困惑に目を瞬かせている。
「たー君? 何かあったの?」
「……別に。」
隆彦はぷいっときびすを返し、どしどしと教室を出て行った。五弦は納得していないようで、頻りに首を傾げているが、素直に後に続いた。
「渡里くん、お疲れ様。また明日。」
「ええ、お疲れ様。」
廊下に面した窓から、彼に小走りで追いつく五弦が見える。にこにこと背中に話しかける様子も、涼しげな横顔もいつも通りの二人だ。汐白はほっとした。
次の日に五弦から声をかけてくれたことで、沙夜も交えた三人で話すことが増えた。
しかし、放課後はちょっとしたあいさつを交わすだけでも、背後が気になる。沙夜はあきれた顔をしていて何か察している様子だったが、五弦には不思議そうにされた。
***
普段祖母くらいしかかけてこないリビングの電話が鳴ったのは、春休みに入って少し経った三月末のことだった。
母が電話を取ると、ソファに座っていた汐白はリモコンでテレビの音量を落とした。母の声はひどく動揺していて、何を話しているのか不明瞭だった。やがて、はい、はい、と途切れ途切れにうなずいてメモを取り始めた。
電話を切る。ぎこちなく息子を振り返った。
「汐白。綾織五弦ちゃんって……知ってますか?」
「同じクラスの?」
汐白が尋ねると、母はこくりとうなずいた。血の気が引いていて顔色が悪い。
「落ち着いて聞いて下さいね。その子が――。」
何を言われたのか、一瞬分からなかった。
黒と白ばかりの場所に、紺色のブレザーを着た少年少女が親に連れられて入室してくる。うつむいている者、ぽかんと祭壇を眺める者、不安を顔に浮かべて親から離れない者。大半が今起きていることを上手く処理出来ていないようだった。
つい数日前、同じ教室にいた少女、彼女がいなくなった。
あまりにも、現実味がない。
沙夜もまだ受け止め切れていないのだろう。いや、それどころか目の前のことを遮断してしまっているのかも知れない。並べられた椅子の一つに腰かけて、ぼうっとしている。隣で手を握る母に一べつもくれず、涙もなく、花に囲まれた写真を、にっこりとほほ笑む親友の姿をただ見つめていた。
五弦は交通事故で亡くなった。
隆彦と出掛けた先で、交差点で信号を待っている時に、突っ込んで来た乗用車にはねられた。
病院に運ばれたものの、一度も目を覚ますことなく息を引き取った。
***
薄紅色の花が咲いて、散り始めた頃、少年少女は久しぶりにブレザーに身を包んだ。ぎゅっと緑のタイを結んだ。
汐白の今の席は窓際の一番後ろ。学校教育というものを受けてからこの方、クラス替えの度に戻ってくる席だ。渡里という、出席番号が最後になりやすい名字故である。
この時期は、クラスの対して親しくもないやつが「汐白が後ろだな!」等とくだらないことを言ってゲラゲラ笑ったりするので、名付けた親を恨みたくなる。
汐白の一つ前の席は、この一ヶ月誰も座っていない。
二年生に上がったばかりで名前の通りに並んだままの席順。渡里汐白の前は鷲尾隆彦の席だった。
五弦と共に事故にあった彼は、意識不明のまま入院していた。
前の席がずっと空いていては気になるだろうと、担任が汐白と隆彦の席を交換することを提案したが、汐白は断った。
黒と白に囲まれて、寄り添って泣いていた、二組の男女を思い出す。女性の一人は、五弦によく似たふわふわと柔らかい髪をしていた。
――たー君まだだから。
少女はいつも、当たり前のように幼なじみを待っていた。
隆彦はいつ戻ってくるか分からない。だけれど、戻って来ると信じている人達がいる。彼の席を隅に追いやると、あの泣いていた人達を裏切るようで、何となく嫌だった。
***
五月の最後の週に、隆彦が登校してきた。
退院したことはもっと前から知らされていたし、学校復帰も前日のホームルームで聞かされていた。それにも関わらず、彼が姿を見せた時、汐白は驚いて席から立ち上がってしまった。
一見して、隆彦は事故の前と変わったように見えない。その青白い顔には傷一つない。しかし、瞳は暗く沈み、表情のない顔は以前よりも外界をはね除けている。席順は聞いているのだろう、窓際の空席をにらみつけて、真っ直ぐに教室を横切って来た。
彼の後ろに、少女が一人ついていた。白い両手を胸の前で組み、所在なさそうにきょろきょろと辺りを見ている。
彼女の姿は異質だ。衣替えが始まり、ブレザーを着ている者と脱いでいる者が混在しているとはいえ、皆一様に制服に身を包んでいる中、彼女だけは白いワンピースに黄色のカーディガンを羽織っている。そして何より、向こう側、教室と廊下を隔てる窓や、並んだ机に椅子、雑談を続ける少女達の様子が、彼女の体に遮られることなく透けて見えている。輪郭もおぼろげで、時折風に吹かれるように揺れる。
隆彦がガタンッと乱暴に音を立てて座った。その左側に少女が立ち、眉を八の字にして心配そうに彼の顔をうかがっている。ふわふわとした長い髪が、窓からの陽光に透き通ってきらきらしている。
五弦だ。
死んだはずの綾織五弦が、今も幼なじみについて歩いている。
汐白は素早く教室を見渡した。ちらちらとこちらに視線をやる者がいる。彼らが気にしているのは、二ヶ月近く不在だったクラスメイトだけだ。汐白のように驚いている様子はない。彼らに五弦の姿は見えていない。
五弦はあの透明な人、幽霊になってしまったのだ。
今の状況に、五弦自身も戸惑っているようだった。
彼女は困り顔で辺りを眺め、丁度やって来た女子へふりふりと手を振った。去年、汐白や五弦と同じクラスだったその女子はもちろん気がつかず、五弦に背を向けてすとんっと席に着いた。五弦は肩を落としてしょんぼりした。うろうろと隆彦の周り、汐白の前を行ったり来たり歩き回る。
チャイムが鳴り、教室中に散っていた生徒が席に着く。廊下から飛び込んできた者も慌てて座る。五弦は飛び上がって驚くと、またおろおろと視線をさまよわせた。彼女に座れる席はない。
『たぁくーんっ。』
姿を見せて初めて口を開く。ぎゅぎゅっと眉を寄せて放たれた涙混じりの声は、悲しいかな彼には届かない。
結局、彼女は机の横に立ったまま、日直の号令に合わせてお辞儀だけした。
***
見ていて分かったが、五弦は隆彦から離れられないようだった。いつも傍をうろうろしていて、彼が急に動くとぐいっと引っ張られるのだ。
一度、廊下で隆彦と沙夜がすれ違った。沙夜は心配そうに隆彦を見たが、彼の方は前を向いたままちらとも視線をやらなかった。その後ろで五弦がぱっと顔を輝かせた。足を止める。
『さっちゃんっ。』
にこにこした笑みは、返事をもらえなくとも陰らなかった。歩き去る沙夜を追いかけようと、隆彦に背を向ける。
一歩も踏み出せずに、彼女の体はぐいと後ろに引かれた。ずるずると隆彦の背に引きずられる。五弦はぽかんと不思議そうな顔をしていた。
この一件でようやく自覚出来たらしく、隆彦の傍を離れようとしなくなった。
隆彦が席に着いている間は、日によって座ったり立ったりしながら、五弦はじっと彼の左側にいる。大抵は黒板につづられる白い文字をじっと見ている。
教師の話にふむふむとうなずき、生徒の答えにパチパチと拍手を送る。彼女が席に着いていたなら、その手元にノートとペンがあったなら、真面目に授業を受ける模範生のようだ。
時々彼女は視線を落とす。机の上に投げ出された隆彦の左手へ。固く握られているのを見て、悲しそうにため息をこぼす。
隆彦の左手は、開かないらしい。困っていれば手伝ってあげて欲しいと、あの前日のホームルームに聞かされていた。
入院してからしばらくして、意識のない内に握りしめられていて、以来少しも緩まないのだそうだ。検査を重ねても、骨も筋肉も神経にも異常は認められず、原因を探して医者は困り果てている。
隆彦自身は気にしている様子が見られない。左手が不自由であることで、誰かに助けを求めることもない。ただ、感情を宿さない瞳でぼうっと前方を見ている。
元々、彼と接点の少なかった汐白には、それが正常なのか異常なのかも分からない。
『たー君、大丈夫?』
相手には聞こえないのだと、もう彼女だって分かっているのに。それでも声をかけるのをやめないのだから、やはり今の彼は変なのだろう。
***
隆彦はよく体調を崩す。授業中に机にうずくまっていたり、廊下で壁に寄りかかっていたりする。
周りは事故の後遺症だと見ていた。
教師やクラスメイトが心配して近づくと、彼は鬱陶しそうに追い払う。
「平気。」
「何でもない。」
血の気の引いた青白い顔で、苦しげに眉根を寄せて、そう言われて誰が信じるだろう。生徒はどうすることも出来ずおろおろする。教師がそれでも食い下がると、「ほっといて。」と彼は怒った。
その度に、今にも泣き出しそうな情けない声が上がる。
『たー君、ムリしちゃダメだよっ。』
その声は誰にも届かない。汐白以外には。
***
休み時間は本を読むふりをして、廊下では教室移動するクラスメイトに紛れて、彼ら二人を観察していたのが、いけなかったのだろう。
その朝も、隆彦が席に着いたのを認めて、そろりと文庫から視線を上げた。隆彦の背中に届く前に、大きな目と目が合った。五弦が体を傾げるようにして、横からこちらをのぞき込んでいたのだ。
まあるい目は、親の手元をのぞき込む幼子のように、期待で澄んでいる。汐白がぎくりと肩を強張らせたことで、コンタクトがとれたと分かったのだろう、五弦の目がぱっと輝く。白いほほを上気させてほほ笑んだ。
『おはようっ渡里くんっ!』
「……おはようございます、」
綾織、と口の中で続ける。
あいさつの言葉は他のクラスメイトにも聞こえただろうが、彼らから見れば、視線の先には隆彦しかいない。後ろのやつが前のやつにあいさつを試みて、失敗した図にしか見えないはずだ。
五弦は上体を起こすと、えへへっと満足そうに笑みを深くした。
それは、いつも沙夜や隆彦に向けられていたもの。もう、自分しか見ることは出来ない。
汐白が隆彦に呼びかけては無視される光景が、このクラスの日常と化していった。
* *** *