束の間 壱
山頂まで辿り着くと、そこにはただ月明かりに照らされた、草原が広がっていた。
「なにもないのう」
「当たり前だ。ここは確かに水龍池の現れる場所だが、それ以前にアレは満月の夜にだけ見ることの出来る幻だからな」
「あくまでも実物ではないのじゃな」
「そうだ。何故かこの山は満月の夜にはいつも以上に霧が深くなる。だから、水龍がその深い霧で幻を見せているだけだとも言われている」
「さっきの岩のようにか?」
ヤンロンが頷く。それを見て天珠は「ふむ」と考え込んだ。
「なんだ? あんた、気になることでもあんのか?」
「いや、満月の夜に霧がいつもより深くなるなら日没前にはここまで登ってきた方が、空をそうぽんぽん飛べない今は良いのじゃろうと思うてな」
「それはそうだが……」
「雨にそう長いことあたりたくないかえ?」
「…………」
図星だったヤンロンは無言でそっぽを向く。それを察した天珠はまた大声で笑った。
「はっはっはっ! ならばここに降りる前に清明に水弾きか何かの術をかけて貰えばよかろう」
「あいつに頼むのが嫌だ」
「妾は嫌じゃぞ。そんな事に力を使っていざ戦う時に力が足りないなど、御免じゃからな」
「ちっ……。タオか梅が出来ないだろうか」
「童に頼むなど情けない」
ヤンロンに睨まれようが、天珠はどこ吹く風で完全無視である。
「ババア……」
「なんじゃ、小童? ここで一度戦ってみるかえ」
「『白龍の宮』に戻ったらな!!」
「はっはっはっ!! そこまで雨が嫌か!! 戦いたい時に戦えぬとは厄介じゃな?」
負け惜しみのようにヤンロンから放たれた言葉に天珠は笑いながら返した。
そしてそのまま二人は空に飛び上がり、白龍の宮に戻ったのだった。
「え? どこか戦える場所を貸せだって?」
「いやなに、ヤンロンが妾と戦いたいらしい。じゃから場所を貸せ」
「……君たちは私の宮を壊す気なのかい?」
「なぜそうなる。模擬戦じゃ、模擬戦」
模擬戦だろうと二つの天災だ。どこかを壊す気なのかと心配にもなる。だが、天珠は事も無げに言った。
「壊さない程度の力加減くらいできる。我らをなんだと思っておるのじゃ」
「二つの天災」
「…………」
それはそうだろう。昔の二人を知っている人物などは誰もが、力加減をすると言っても、しかし二つの天災であると思って当然。
なぜなら、二人が長い間海の上で戦っていたせいで海は荒れ、漁業は上手くいかなくなった。二人が得意な火の術をぶつけ合ったせいで流れ弾が畑や田に落ち、人々が育てた野菜や米は全て灰になった。そうして食糧難になり、戦が頻発し、戦士以外の人々は毎日飢え、大人も子どもも関係なく餓死していった。
「だから……君たちには、できれば目の前の目的に集中して欲しいね」
「……はぁ、仕方ないのぅ。では清明、のんだ者に降る雨をはじく飴玉でも作ってくれぬか」
「雨をはじく……? 作るのはいいけれど……何故だい?」
「……ヤンロンがのう、雨で弱体化してしまうのじゃ。今、水神山は雨と霧に覆われて、アレではヤンロンがもたぬ。暴走状態の水龍とまだ全然力が出せぬ状態で妾一人でやり合うのはちと心配でな」
「なるほどね、分かったよ」
白龍が大きく長い首で頷いたのを見て、天珠は部屋を後にする。廊下へ出て一番最初の角を曲がると、ヤンロンが壁に背をあずけ、腕を組んで天珠を待ち構えていた。
「ヤンロン。どうした、そんなところで格好付けて。いい歳をした者が」
「あんたよりは若い。……その、有難う……」
珍しく気恥ずかしげに素直に礼を言ったヤンロンに、天珠が大袈裟に肩を竦めて天を仰ぐ。
「これは……。これから槍でも降るのかのぅ?」
「っ、黙れババア! 人がせっかく素直に礼を言ったのにそれを……!」
憤慨したヤンロンの肩をぽんぽんと叩いてから、天珠は彼の横を通り過ぎた。
「さて、なんの事に対しての礼じゃろうか? 妾には検討もつかんなぁ」
「は……っ!?」
そう言い残して、ひらひらと手を振りながら去っていく小さくなった背中と尻尾をヤンロンは呆然と見つめていた。
数日経った昼下がり、梅が天珠に声を掛けた。
「天珠さん、暇じゃないか?」
「うむ、まあ暇じゃなぁ」
シュイロンと戦うにはまだ数日ある。しかし、模擬戦など、己の力を解放して発散することもしてはならないといわれている。戦いが暇つぶしであった天珠やヤンロンには少々どころか、随分退屈な環境だ。
(昔は何をしておったかのぉ……)
天珠は恋人と出会う前、天狐になれたばかりでどんな場所も新鮮で毎日のように眠くなるまで走り回っていた。恋人と出会ってからは彼と共にいれば瞬く間に時間が過ぎていた。恋人を失ってからは神々に怒りのまま戦いを挑んでずっと戦っていたし、ヤンロンに力比べを挑まれてからは、ヤンロンと色々な技で戦い続けていた。
「思えば、妾は戦ってばかりじゃったか」
「天珠さん……」
感慨深そうに言う天珠に、梅は呆れを隠すことなくため息をつく。そのため息に天珠が楽しそうに笑いかければ、梅は少し照れくさそうに頬をかいた。しかしすぐはっと思い出したように、天珠の手を取る。
「天珠さん、着物作らないか?」
「ほう、着物とな」
「うん、私もこんなナリだけどさ、着物を作るのは好きなんだ」
「暇であるし、やってみようかの」
「ホントかっ? じゃあこっちだ!」
天珠の答えに無邪気に喜ぶ梅は、紛うことなき年頃の女の子であった。
梅に手を引かれながらやってきた場所には、機織り機が1台と、多種多様な糸や針が並ぶ机とがある工房だ。
「ほう、反物から作るのかえ?」
「ああ、そうだよ。でも初めてだと難しいだろうから、今日は私が作り貯めてた反物を使う」
そう言って楽しそうに笑う梅と、幼子や妹を見る目で笑う天珠は、早速着物作りに取り掛かった。
「そういえば梅よ」
「ん?」
裁断した反物を慎重に縫い合わせながら、天珠は梅に尋ねる。
「何故、お主は男子のように振舞うのじゃ? 」
「あー、それはね。タオを守ってあげたいし私は長女、第1子だ。父様が人間として生きた時代でも第1子は跡継ぎだろう? 白龍を継ぐのかは分からないけど、いつか……数千年後かな、父様が居なくなったら私がこことタオをひとりで守らなきゃいけないからさ」
「……そうか」
「うん。それにさ、私は着物の仕立てが好きだけど、それ以外は武術の方に才があるから。それに女子らしくしたって旦那が弱い可能性があるなら、やっぱり私は自分の力で守ることを選ぶよ。守られることに憧れがないといえば嘘になるけど、私龍の娘だし、そこらの人間より強いからね」
針の手を止めて、肘から下の腕を上げ、まだ小さな筋肉の盛り上がりを見せると梅は笑った。
「はっはっはっ。それもそうじゃな。しかしやはり守られることにも憧れはあるのかえ? ならば、古龍のヤンロンでも婿にどうじゃ 。お主より強いぞ」
「いや、ヤンロンさんは……まあ、いっか。でも私は好みじゃないな。もっと怒りっぽくない人……いや龍……? がいい」
「あやつは本当に怒りっぽいからのぉ……。あの短気と沸点の低さはどうにかならぬのか……」
やれやれ、と肩を竦める天珠に梅が笑みをこぼす。
「天珠さんはどうなんだ?」
「妾か? はて、どれがじゃ?」
「恋人……いや旦那。前話してた恋人さんが妖として転生するまで待つのか? それとも自分が転生するまで?」
天珠は少し考え込むが、首を振って切なげに口を開いた。
「妖として転生か……。そうなるにはあやつは、人が良すぎたのう。妾も、人として生まれ変わるには業が深すぎる。もしもう一度巡り会えたとて、また人と妖じゃろうて」
「……そっか。じゃあ、それこそ今世の最期はヤンロンさんとかどうだ?」
「ないのお……、あの短気な小童には、そんな気は露ほども起きぬ。情がわくとしたらば、それは恋情ではなく弟や息子に向けるような愛情じゃな」
「ははは……そっか」
苦い顔をした梅に天珠は首を傾げる。
そんな会話をしながら、束の間の休息は終わったのだった。