むかしばなし
重い沈黙が、石で囲った場所にある火を眺めていた二つの天災にもう数十分程流れている。
そしてその沈黙を破ったのは炎龍・ヤンロンだ。
「……天珠」
「なんじゃ」
いつもより低い声で答えたのが、九尾の天狐の天珠である。
「あの村に、昔住んでいた幼子の話だ」
あの村とは、山の麓の村だろう。ヤンロンは昔を懐かしむようにぽつりぽつりと語り出した。
「その幼子の名は雨音。そいつは、紅月の国から移住してきた若い夫婦の子供だった。そいつの両親は、紅月の国の神々だけでなく、四神も含めた華の国の神々にも信仰心を捧げ、一方的な願い事など一切しなかったらしい」
「……そうか」
未だ少し上の空だが、先程よりは天珠の意識がヤンロンにも向いているようだ。
「だが、やはり人間。若い夫婦だったが、病に倒れ、死に際にあの世とこの世の狭間にいたために俺が青龍にでも見えたんだろう。たまたま近くを通っただけの炎龍に願った。我が子を見守り、助けてやってほしいと」
今まで一方的な願いを神にしなかった人間が死に際に、たった一度だけ祈ったのは、愛しき我が子のことだったんだ、とヤンロンは話す。
「それから、俺はその夫婦の子供である雨音を見守った。ただ、炎龍の俺がその子供にしてやれることなど少なかった。なにせ炎しか司っていないからな」
ヤンロンはそう言って自嘲混じりの顔で肩を竦め、外を見た。
「そりゃあ、火事だとかそういう火の事なら守りようもあった。だが、流行病を前にして、俺が何か出来るわけなかったんだ。両親に頼まれた後、誰か別の神獣か神に託せばよかった」
そう言ったヤンロンの表情は悔しさを噛み締めているようにも見え、天珠は自然と手を彼の頭に持って行き、そのまま優しく撫でる。
「悔いることなど何もない。人ひとりの病だけを病の神に治させても、後からその子供は、なぜ一人だけと恨まれてしまうか、神の力を使えるだのと言われ、利用されてしまったじゃろう」
「天珠……」
「だから、お主が悔いることなどなにもないのじゃ。その子供をその子の最期まで見守ったのなら、それで良い」
ヤンロンを撫でながら優しく笑う天珠はもう、いつもの天珠だった。
「……では、妾も少しだけ昔話をしてやろうかのう」
ヤンロンを撫でるのを止め、燃えている火に視線を移した天珠は、ゆっくりと口を開く。
「昔々、紅月の国の山に一匹の妖狐が暮らしていた。その妖狐はメスで、妖狐になって九百年程が経過しており、人の形をとり、人語を喋ることが出来るようになっておった」
ヤンロンが静かに聞いていると、天珠はわずかに口元に笑顔を浮かべ、続きを話す。
「ある日、山の麓の村で縁日が開かれている事を知った妖狐は、意気揚々とそこへ向かった。しかし、耳と尾を隠し忘れていた妖狐に、人々は石を投げた」
「…………」
「化け物だ、山へ帰れ、我々に近づくな。妖怪など呼んでいない、我らを攫いに来たのか。と口々に叫び、人間達は怯えながら妖狐に石を投げ続けた」
ヤンロンが痛々しい想像をし、顔を顰めたが、それでも黙って天珠の話を聞いた。
「妖狐は顔をお面屋からとっさに取った面で隠して山へ逃げ帰った。だがしかし、人々に大小様々な石を投げられたことによって出来た怪我が酷く、山奥へ逃げ込む前に倒れてしまった」
「…………」
「そこへ現れたのが、ある人間だった。その人間は長身で、細身な割に力のある男で、倒れていた妖狐を抱きかかえ、傷の手当をしてやった。目覚めた妖狐に襲われるも、なんとか凌ぎ、男はまず恩を仇で返そうとした妖狐に怒るのではなく、傷は大丈夫かと問うた」
天珠は懐かしむように目を細め、さらに続ける。
「そして落ち着いた妖狐は、男になぜ助けたのかと問うた。自分は化け物だと人々に言われた言葉の数々を口にし、男の反応を伺ったが、男は笑って答えた。お前が美しかったからだと」
「うわ」
ヤンロンが思わず口にした事に天珠は半眼になって反論した。
「うわとはなんじゃ、うわとは。まあ、この話はここまでじゃが……。人が話した内容にうわとはまったく……」
「いや、悪い。だがよくそんな事が言えるな、その人間」
「あれくらいさらりと言った方が女は喜ぶのじゃぞ」
「分からねぇな女ってのは。……だが、あんたは綺麗だ」
「当たり前じゃろう、妾じゃぞ。美貌の九尾の妾じゃ」
「…………」
今度はヤンロンが半眼になる番だった。
ヤンロンは大きなため息をついて天珠に問う。
「その話、続きあるだろ」
「あぁ、あるぞ。じゃが、悲恋のようなものじゃ。わざわざ聞かなくとも良いじゃろう。ここの空気が更に暗くなるのが目に見えておる。いつかまた、妾の気が向けば語ってやる」
「そうか……」
「紅月の国に伝わる物語達のように、めでたしめでたしで終わるものではないでのう」
「じゃあ、いつかな……」
ヤンロンは天珠の話した話が全て彼女の過去に深く関わっていることは承知の上で、それ以上を聞こうとしたが、天珠本人が話したくないならば、無理に聞くまいと引き下がった。昔、ヤンロンが一度だけ天珠から聞いた、「彼」の話だと分かっているからだ。
また沈黙が広がるかと思われたが、天珠が立ち上がり、ヤンロンに向かって言った。
「さて、昔話はもう良いじゃろう、下調べに戻ろうぞ」
「いや待て。まだ完璧には服が乾いていない。俺はまだ行きたくない。また体が重くなる」
「情けないのう」
「どうとでも言え。このまま行ったら後から俺が足手まといになるからな、後悔するぞババア」
「今に至ってはババア……いや、ジジイはお主じゃろう小童が」
「俺の方がジジイだと言っておきながら、呼び方は小童なのか……ややこしい」
ヤンロンが頭を抱えると、立ったままの高い位置から、天珠はニヤリと笑う。
「ほう? 妾にジジイと呼ばれたいのかえ?」
「なんでそうなる!! 俺はややこしいと言っただけだ! 一言もジジイと呼べとは言っていない!!」
すっかりいつもの調子に戻った天珠の揶揄いによって、ヤンロンも調子を戻した。
「いっそ自分の炎で自分を包んで着物を乾かせば良いのではないかのう」
「そんな事して着物が灰になったらどうしてくれる!」
「知らぬわ。しかしお主……、その程度の力加減も出来ぬのかえ?」
「あぁん? 舐めてんのか出来るわ。俺は炎龍だぞ」
天珠の分かりやすい挑発にヤンロンはまんまと乗ってしまう。
「ではやってみよ」
「何様だババア……。炎よ俺を包め」
ヤンロンがそう唱えれば、彼を炎が包んだ。
そして暫く炎はヤンロンを包んだ後、フッと消える。
「やってみるもんだな……。乾いた」
「そうじゃろう、そうじゃろう。妾の挑発に乗って良かったじゃろう? 小童」
ニヤニヤと笑いながら天珠はヤンロンの肩をぽんぽんと叩き、叩かれた本人は不本意そうにそっぽを向いた。
「で、行くんだろ」
「ああ、行くぞ」
ヤンロンは立ち上がりながら天珠に聞く。
「あ、俺にも傘寄越せ」
「あるじゃろう。お主の足元に」
ヤンロンの足元を指さし、呆れたように天珠が言えば、彼は「ああ、そうだった」と言いながら足元の番傘を手に取り、そのまま開いた。
「じゃあ、行くか」
「もう差すのかえ? まだ洞穴の中じゃと言うに」
「もう雨にはあたりたくない……」
疲れた顔でヤンロンが呟けば、天珠は大声で笑った。
「はっはっはっ! そんなに嫌か!!」
「笑ってろよ。手前にも何か弱点になるもんが現れたら俺が笑ってやる」
「すまん、すまん。あのヤンロンがたかが雨に負けているのが面白くてのう」
「たかがだと? 俺にとってみればアレは命に関わる可能性があるんだ」
雨を思い出して忌々しげに眉を寄せるヤンロンを見て、天珠はまた笑いだした。