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プロローグ

「あー、クソ。油断した」

 声に出すと余計に苛立ちが増し、彼は整った眉目を歪ませ舌打ちをした。


 自由の利かなくなった左足をずるずると引き摺りながら、当てもなく雑草の生い茂る夜の林を進み続ける。

 左足の腿に刺さった矢には毒が塗られていたらしく、刺された足の感覚は既に麻痺してとても歩ける状態ではなかったが、それでも彼には進まなくてはならない理由があった。


 自分の血で汚れた右手に握りしめる革表紙の書を、協会に手渡してこそ任務終了。

 それは、世間に出回ってはいけない魔術書であり所謂『禁書』と呼ばれるもので、博物館に展示されていたそれを盗み協会に届けることが、怪盗を生業にしている彼の今回の仕事だからだ。


「グッ」

 だが根性だけで森を彷徨っていた彼も、ついに地面に膝を付き蹲る。

 毒に掛かっただけでも厄介な話だが、毒を少しでも身体に回さないため矢を抜いた左足からは、応急処置をしても止まらぬ血が流れ続けていた。

 判断を誤ったかもしれない。


 このままでは視界の悪い夜の林に逃げ込んだからといって、血の跡もしくは匂いを辿られすぐに追っ手が来てしまう。

 そう思いながら何とか奮い立とうとした彼は、結果ごろんと仰向けに寝返りをうっただけに止まり、大きく肩で呼吸をしながら星空を見上げた。


 こんなところで捕まってたまるか。任務を失敗に終わらせてたまるか。

 心の中でプライドがそう訴えるのに、身体はうんともすんともがんばってくれそうにない。


「クソッ」

 ダンッと音を立て、動く左手で地面を殴りつけた――その時


「――、~~~~」


 透き通るように美しい声が、優しい音色を奏でているのが聞こえてくる。

 その歌声が、痛みや貧血、毒による発熱、さまざまな理由により意識を手放しかけていた彼の身体を癒すように包み、不思議な活力を与えてくれる。


 僅かに身体の自由を取り戻した彼は起き上がると、再びよろよろとだが左足を引き摺り歩き出す。歌声の聞こえる方へ――。


 木々が乱雑に生える林の先には、夏草が生い茂る野原が広がっていた。

 広大なその場所に、ぽつんと佇む白いシャンタンドレスを纏った女の後姿が見えた。

 濃紺の空に大きく浮かぶ満月に照らされ、亜麻色の長い髪をふわふわと風に靡かせている後姿は、どこか儚げでけれど気高さを感じる。


「――っ、誰!?」


 人の気配を察した歌声の主が振り向き、ばっちりと二人の視線がぶつかる。

 振り返った少女は遠目でも見惚れるほどに美しかった。

 歌声を盗み聞きしていたのは彼の方で、少女にはなんの非もない。

 そのはずだったが、まるで悪事が見つかってしまったかのように青ざめ、怯えた表情で逃げ出したのは少女の方だった。


 少女の年頃は十六、七歳程か。確かに真夜中この場所に一人でいることは不自然だが、ただ夜遊びが見つかって逃げ出したという表情でもなさそうだ。


「待っ――」

 呼び止めてどうしたかったのか自分でも分からない。

 怪盗である自分がこんな状態で姿を見られるなど、あってはならないことのはず。

 けれど彼はそんな思考とは別の何かに突き動かされ、待てと声を上げかけたのだがそのまま左足の激痛に顔を歪め倒れこんでしまった。


 ああ、本当になにをやっているんだ。こんな姿を見られるなんて。

「毒にやられて思考まで錯乱してきたのか、俺は」

 投げやりに苦笑した。

 あの少女が兵士を連れて戻ってくるかもしれない。そうしたら全てが終わりだ。それなのに自ら歌声の、人の気配のある場所に近付くなんて。


 だが彼の考えは杞憂に終わった。

 少女は恐る恐るといった足取りで、逃げるのをやめ彼の元へ近付いて来たのだ。


「……怪我をしているのですか?」


 仰向けに倒れる彼を、少女はしゃがみ覗き込んでくる。

 数日前に盗んだ小国の宝石よりも、彼を見つめる少女の瞳は美しい紺碧色で……


「意識は、ありますか?」


 桜色の唇から紡がれるのは、ずっと聞いていたくなるほどに心地がいい声で……


「まぁ、熱が」


 頬に触れてきた色白の華奢な指は、ひんやりとしていて火照った肌には気持ちがいい。

 鑑定士の眼でどこから査定しても、SSランクの芸術品。それも彫刻の像とは違って動く、生きている芸術品だ。


 ――欲しい。


「今、誰か助けを――っ」

 呼んでくると言い掛けた少女の手を掴んで止める。


 咄嗟に掴んだ少女の左手が、キラリと光った。

 眩しい月の光に照らされて、薬指のリングに埋め込まれたダイヤが輝いたのだ。

 窮地で見つけた上玉は、誰かの所有物のようだった。


「誰も、呼ぶな……それでも行くなら、今ここでお前を始末する」

 これは脅しではない。少女もすぐに察したのだろう。彼の側から離れるのを止め、その場に腰を下ろした。

 彼は少女が自分の脅しに屈し、腰でも抜かしじっとしているのかと思っていたのだが、よくみるとそうでもなさそうで、少女は静かになにかを思案している様子だ。調子が狂う。


「おい……さっきの歌は」

「え?」

「お前、こんな真夜中に一人でなにをしてたんだ」

「……鎮魂歌を捧げていたの。このずっと先は国境線で……戦場に繋がっているから」

 遠くを見つめる少女は、触れたら壊れてしまいそうな硝子細工のように儚げな顔をしている。


「せめてもの罪滅ぼしよ。こんなことで罪は消えないけれど」

「お前、何者なんだ?」

 困惑している彼にお構いなしで、少女はその問いに答えることなく彼に膝枕してきた。

 気安く触るなと言いたかったが、再び歌いだした少女の夢心地な声音に抵抗する気が削がれてゆく。

 なんなんだ、この感情は。なんなんだ、この変な女は。自分は天使のような顔をした悪い魔女に囚われてしまったのかもしれない。彼は本気でそう思えてきた。


 ――歌に魔力を宿した女……もしも、そうなら、そうか、お前は……


「戦場の歌姫、セラフィーナ・エヴァレット、か」

 名前を言い当てられた少女は少しばかり驚いたようだったが、くすりといたずらっ子のような笑みを浮かべる。

 その微笑みは、今まで彼が盗んできたどんな宝よりも完璧な美しさを放っていた。

 そんな少女が歌を捧げてくれるのは自分。自分のために癒しの歌を。


「なぜ、俺を助けようとする。得体の知れない男を無償で」

「それは……無償じゃないかもしれませんよ」

 思わず奪いたくなるような唇を、そっと彼の耳元に近づけ囁いた少女の言葉を聞いて、彼は微かに不敵な笑みを浮かべた。


「ふふふっ、本気にしました?」

「……いいよ」

「え?」

「お前の願い、なんでも一つだけ叶えてやるよ」

「まあ、どんなことでも?」

「ああ、どんなことでも」

「貴方面白い人ね。お名前を聞いてもよろしいかしら」

「俺の名は――」




 それが歌姫と怪盗の出会いだった。

 温かい風が流れる夏の夜の出来事。

(歌姫セラフィーナ。この国、ウェアシス王国王太子の婚約者か)

 自分は今、厄介な宝に手を出そうとしている。

 そう思いながらも、自分の中に沸きあがった感情を噛み締めるように彼は瞳を閉じた。

 歌姫の声に身をゆだねて。


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