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ツツミ

作者: 三塚日月

 小講堂の窓から射す六月の陽が眼鏡のフレームに反射して、藤川智沙は目を眇めた。人間科学Ⅰ。猫背の講師の声はマイクを通しても小さい。

「えー、罪という言葉は、ものを包むのツツミに由来するという説がありまして。古来、ひとの悪行、または世の凶事を神よりツツミカクスことをすなわちツミとしてですね……」

 よれた毛糸のような声を追ってボールペンを走らせながら、智沙はひとりごちた。

 ――ほら、やっぱり包み隠すほうが罪なんじゃない。

 視線は後方に座る彼らを見る。だが、彼らはクラスメイトに囲まれて、対して智沙の左は窓で右は空席。罪を犯した者として罰を受けているのは智沙のほうらしい。

 やがて、講義の終わりと昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴って、講師はマイクを口に近づけた。

「レポートの提出がまだのグループは、きょうの五時までに――……」

 智沙の傍らをクラスメイトらがすり抜けていく。

「チクリ魔」

「だから友達いねえんだよ」

 囁きは肌に刺さるようだった。智沙は大きなトートバッグを掴んで、急ぎ足で扉へと向かった。前列にいた長身の男がこちらを見た気がしたが――、だからこそ、顔を深く伏せた。


 *


 事件は三週間前、この人間科学Ⅰのクラスで起こった。

 大学に入って初めての課題はグループでのレポート作成だった。講義が終わると、智沙のグループのひとりが笑顔で言った。

《じゃっ、今回は全部、藤川さんにお任せってことでー?》

 なにを、と訊くと、彼女はくすくすと笑った。彼女の横の男が智沙の肩を無造作に叩いた。

《別に全員でやんなくっても、こんなの持ちまわりでやればさあ》

 くすくす笑いはグループ内に伝播していた。決定済みの気配。智沙の黒いままの髪やセルフレームの垢ぬけない眼鏡が、彼らを強気にさせたのかもしれない。ひとり暮らしに慣れず、いまだ友人を作れなかったことも。

 拒んだ。彼らと会うたびに全員でレポートを作成しようと主張した。だが、四対一では勝ち目はない。そして、先週の講義後。グループワークなんだから、ひとりでやって、の応酬は、質問を受けて残っていた講師の耳にも届いた。どうしたの、と尋ねられ、思わず智沙はぶちまけた。ひとりでやれって言われました――!

 山の上の小さな大学。噂はあっという間にコース内に広がった。最初はばらばらだった反応は、やがてひとつにまとまっていった。

 なにも先生に言わなくてもいいのに。

 つまり、ツツミカクセなかった智沙が悪い。


 *


 購買でパンを買うと、智沙はひとの多いテラスに背を向けた。また『チクリ魔』の声が聞こえるのが怖かった。

 ――このままじゃ、友達だってできない……。

 智沙は唇を噛んだ。被害者と加害者が入れ替わった思いだった。あのとき、黙っていればよかったのか。だが、包み隠したままいれば、グループで課題はできなかった。

 五人中四人が嫌々取り組んだ課題は、さんざんな出来だったけれども。

 空きベンチを探すうちに智沙は校舎裏へと迷いこんでいた。庭とは呼びがたい草っぱら。どうやら大学の裏手はそのまま山へと続いているらしい。ひとに会いたくない気持ちと昼の陽の高さが、智沙の足を裏山に続く小径へと向けさせた。

 土の道をしばらく歩くと、広い池に出た。側壁には青草が生い茂り、どうやら古いため池のようだ。一歩一歩進むたび、靴の下で落ち葉や枯れ枝が鳴る。水の上を風が渡り、水面に散った木漏れ日が踊った。暖かな陽射しに、強張っていた肩がふと緩んだ。

 智沙は池の縁に腰を下ろすと、トートバッグから水筒を取りだした。

 ――これから、毎日ここに来ようかな。

 ここならば誰に見つかることもない。友達づくりなんてどうでもいい。大学には勉強をしにきたのだから。

 膝の上にハンカチを乗せ、ロールパンの袋を開いたときだった。

「なにをしている」

 低い声が耳に滑りこんだ。

 いつの間にか背後に男が立っていた。短髪、中背。三十半ばほどか。カーキ色のトレンチコートにグレイのスーツ。肩が厚く腕が太い、柔道部員のような体格だった。ただし、柔道部員の躯がなめしたばかりの革ならば、男の躯は使いこんだ革だった。傷つき、手脂に塗れ、しなやかさを増している。

 嫌な圧に背が震えた。だが、やっと見つけた場所を追いだされたくはなかった。

「なにって、お昼を――、た、たまたま散歩に来たから――……」

 ひとりで昼食をとっていることが恥ずかしくて、つい一言付け足す。

「帰れ」

 一方的な低音にかちんときた。

「は? あ、あなたの土地なんですか、ここ?」

 男は冷たい双眸で智沙を見下ろすと、平坦に続けた。

「……現場を荒らされては困る」

「現場?」

 工事でもするのだろうか。こんなところで。

 彼は智沙に答えぬまま、池に向かって歩を進めた。

 ふ、と首筋を冷えたものが撫でた。

 さっき、自分はなんと思ったか。

 ここならば誰に見つかることもない――。

 無意識のうち、唇が開いた。

「現場って、なにか事件が……?」

 そうだ。智沙はこういう男を知っている。ドラマや映画のなかでだが。

「捜査の邪魔をするな」

 男はすべてを断ち切るように言った。智沙は彼の視線を追って池を見た。

 銀の水面はぴくりとも動かず、なにかを覆い隠しているようだった。

 なにか、いや。

「だれ、か……ここに…………」

 太い首が頷いたように見えた。

 瞬時に震えが走り、智沙は立ちあがった。そして、そのまま水筒やバッグを引っ掴むと校舎のほうへと走りだした。


 *


 午後の講義を受けるうちに恐怖はおさまり、代わりに悔しさと好奇心が疼きだした。

 誰かが、あそこに誰かを――誰かの遺体を遺棄したのだ。

 池や湖から遺体があがった話は、ニュースで定期的に見聞きするように思う。だが、大学付近でそんな事件があっただろうか。

 インターネットを検索してもそれらしい記事は見当たらなかった。オンライン記事の掲載期限が過ぎたことも考えて図書館で新聞を検索したが、結果は同じ。検索範囲を市内全域、過去三年まで広げても変わらない。

 一階ホール端、専用端末の前で智沙は唇を噛んだ。

 あの男に揶揄われたか。

 大体、大学の近くで事件などあれば、必ず暇な学生たちの口端にのぼるはずだ。智沙の件といい、みんな噂話が大好きなのだから。

 狭めた眉間を汗が伝った。六月ともなれば西日は厳しく館内はやや暑い。智沙はトートバッグに手を入れハンカチを探った。ない。バッグの底まで浚い、念のためスカートのポケットまで調べたが、やはりない。

 最後に使ったのは、昼にパンを食べたときだ。パンくずが服につくのを嫌って膝の上に乗せた。池から戻るときに、慌てて落としたのかもしれない。スカイブルーの大判のハンカチ。使いやすくて気に入っていたのに。

 壁の時計を仰いだ。六時。まだ真っ暗ではないとはいえ、ひとりで人気のない場に行きたい時刻ではなかった。

 ――もっと早く気づいていたら、明るいうちに取りに行けたのにな。


 気づいていたら――?

 もし、誰も気づいていなかったら。

 もしも、事件が包み隠されていたとしたら。


 *


 翌日。

 午前の授業が終わるなり、智沙は急ぎ足で教室を出た。向かう先は裏山の池。ハンカチを探したかったし、なにより事件が気になっていた。無論、行ったからといってなにがわかるわけでもないが、もういちど現場を見ておきたかった。

 渡り廊下の真ん中、背後から低くけぶった声が名を呼んだ。

「藤川さん!」

 振り向けば、背の高い男が集団を抜けてやってくるところだった。同じコースの丹野晴哉(たんのはるや)。さっぱりした顔だち、なにより嫌味のない気質が好かれて、いつもひとの輪の中心にいる男だ。

 智沙と接点があったのは例の人間科学Ⅰの講義初日。講師があげた参考書籍を図書館に探しにいって、書棚の前で鉢合わせた。彼は長い指で本の背を示して肩を竦めてみせた。

《先、どうぞ? なんか読むの早そうだしさ》

 返却したから、と彼に告げるために智沙が大急ぎで本を読んだのはいうまでもない。もっとも、そのころには彼は既に人垣の向こうで、智沙は一声かけるのがやっとだったけれども。

 その後もしばしば図書館で顔を合わせた。人気ない書架の間でなら少し話すこともできた。

「やっと捕まえた! ……あれ、だいじょうぶ?」

 長身の彼は膝を折るようにして、智沙と目の高さを合わせた。嫌になる。どうしてこんなときにぱっと笑えない。それどころか陽の下に見る瞳の透明さに顔は強張った。

「な、なに」

「……こないだのレポートの件。いろいろ言われてるでしょ」

 彼は声を潜め、切れ長の目を遠い背後に向けた。同じコースの男女がこちらを凝視していた。知られていないわけがない。だが、あんなみっともないこと、知られたくなんてなかった。

 悔しさと恥ずかしさで口がへの字に曲がりそうで、智沙はそっぽを向いた。

「ぜ、ぜんぜん? 平気。私、もともと群れるのは苦手っていうか、ああいうので凹むようなタイプじゃないから!」

 心配してもらえた嬉しさも、先週からずっと胸にある不安も、ぜんぶ素っ気なさで包み隠した。それでも内側にあるものは出たがって胸を引っかく。まるでその音が聞こえたかのように丹野は眉を顰めた。

「でも……ん、あのさ、ここで話しにくいんなら、俺、昼早く食って図書館行くつもりなんだよね、だから」

「平気っ!」

 空気の塊を吐きだすように言って、次が出ないよう口を結んだ。耳の先まで熱い。慌てて顔を伏せ、バッグを握りしめた。

「ごめん」

 丹野は慌てたように身を起こす。智沙は小さく頭を下げて踵を返した。彼の周りにクラスメイトが集まる気配を感じて、どんどん早足になった。

 せっかく、心配してくれたのに。

《だから友達いねえんだよ》

 そうなのかもしれない。いつだって見栄を張って本心を包み隠す。レポートのときだってそうだ。全員でやらなきゃだめ。そういう課題なんだから。頑なに主張するばかりで、一度だって正直に言ったのか。みんなの意見も聞きたい、一緒にいいレポートを作りたい、と。

 言ったって、結果は変わらなかったかもしれないが。

 ――でも、ツツミカクスことがツミの由来だっていうなら…………。

 つま先は強く地面を蹴った。半ば駆ける足は、まっすぐに裏山に向かい、青草を踏みため池を目指した。

 そういえば、ため池は堤とも呼ぶと講座で聞いた。堤も包みに由来するという。

 林を抜けると、きょうも男はそこにいた。

 初夏の陽の下、広い背の周りだけが暗く陰っているようだった。

 刑事ドラマなどによれば、警察官は必ず二人組で行動するそうだ。だが、男はひとりだった。彼は単身、隠された事件を追っているのだろうか。誰の協力を仰がず、いや仰げずに――。

 ふと、その背との距離が縮まったように感じた。トレンチコートの広い背に孤立した自分を重ねたらしい。

 ――莫迦みたい。

 と、足許で小枝が鳴って、男が振りかえった。丹野のそれとは違う、暗く不透明な双眸が智沙を捉えた。

「た、立ち入り禁止だって書いてません」

 一瞬怯んだ足を大きく前に出した。こちらにだってハンカチを探すという目的がある。智沙は顔を伏せ、昨日座っていたあたりにざっと視線を這わせた。目立つはずのスカイブルーはどこにも見当たらない。風に飛ばされたか、まさか、この男が拾ってくれたのか。

 声をかけようとしたとき、低い声が響いた。

「帰れ」

 男はこちらに向き直っていた。正面から相対するとやはり寒さに似た圧を感じる。だが、それより好奇心と反発心が勝った。

「どうして? 捜査って言いますけど、あなたひとりでなにをしてるっていうんです?」

 舌打ち。男は大きく一歩を踏みだした。彼はその背になにかを隠そうとしているように見えた。

「なにがあったか知れば、逃げ帰るぞ」

 急に場の静けさが怖くなった。いくら警察官とはいえ、ひとけのない場所で見知らぬ男とふたりきり。怯えが智沙の言葉を早くした。

「そ、それが気になるから来たんじゃないですか。いったい、ここで誰が」

 男は口許を歪め、智沙を睨みつけた。

「……現場に来るのは、警察だけじゃない」

 警察だけじゃない?

 この男は警察官ではない――?

 男はさらに一歩踏みだした。その背で風が吹き、池が白く煌めいた。同じ光が額の裏側で弾けた。

「あなたが」

 声が洩れた瞬間、男の瞼が動いた。

 よくいうではないか。

 犯人は現場に戻る――。

 智沙の足が一歩下がった。靴の下でぱきりと小枝が折れた。

 彼が犯人なのだ。だから現場を嗅ぎまわられたくはなかった。だから、警察を装って智沙を遠ざけようとした。

 唇が震える。その震えは飛び火のように拳に伝播した。

「あなた、なのね――!」

 男は目をわずかに見開き、智沙を凝視し――消えた。

「え?」

 蝋燭の火を吹き消したように男は消えた。

 

 *

 

 しばらく動くことができなかった。

 目の前でひとが消えた。確かに消えた。

 智沙の脳はたったひとつの答えしか導けなかった。

 幽霊。

「ないっ……そんなの、ないからっ……」

 両手が糸で引かれたように上がり、頭髪を掴んだ。

 ありえない、幽霊だなんて。

 だが、五感もそのひらめきを支持した。男を見たときの妙な寒気。深い場所から聞こえるような低音。足許がおぼつかなく揺らぎ、積もった木の葉が鳴った。そうだ、男が動いたとき、物音があったか? それに、あのトレンチコート! 六月に、この陽気であんなトレンチコート!

 全身が小刻みに震えた。

 男は警察ではなかった。犯人でもなかった。

 彼は、被害者だ。あの池にいるのは、彼なのだ。

《いったい、ここで誰が》

《あなた、なのね――!》

 あれがきっかけだ。智沙は「犯人はあなたなのね」と言ったつもりだった。だが、男は「池にいるのは、あなたなのね」と受けとった。だから、正体を言いあてられて消えてしまったのではないか。

 智沙は強張る首を上げて古いため池を見つめた。

 彼が真実を包み隠したせいで、智沙のなかで被害者と加害者が逆転したのだ。

 いや、彼はわざと自らを警察や犯人だと誤解させたのではないか。

 ――な、なんでそんなややこしいことっ……!!

 憤りながらも、智沙には彼の気持ちがわかる気がした。

 言えない、そんな格好の悪いことは。

 智沙が丹野に本心を包み隠したのと同じだ。

 被害者だなんて、傷つけられただなんて、言えるものか。

 もしかすれば、だから智沙には男が見えたのかもしれない。見栄っ張りの似た者同士――。

 彼の顔を思いだそうとした。広い背だけがぼんやり像を結んだ。

 助けてやりたかった。この底に――堤の底にいるのなら出してやりたい。

「けいさつ……」

 警察に相談するにしても、幽霊がいたからなんて理由は通じまい。なんといえばいい? 噂? 動物が鳴いていた? 不審な匂いがした? 六月。気温は連日上がっている。池の底に遺体があるとすれば、なんらかの兆候があるのかもしれない。そうだ、一度図書館で調べて……。

 丹野くん。

 ふと、丹野に相談しよう、と思った。

 たとえ信じてもらえなくても、親切な彼ならきっと知恵を貸してくれる。

 みぞおちが緩んだ。

 そのときに、包み隠した気持ちも明かしてしまおう。心配してもらえて嬉しかったこと、本当は、心細くてしょうがなかったことを。

 瞬く。緑が眩しかった。自分を包んでいた膜が熔けて、世界の側が近づいてきたようだった。

 がさり、葉擦れの音が鳴った。

 目を遣ると、左手、十五メートルほど先の木立の間から、ひとりの男が姿を現した。

 大柄な男だった。黒の半袖Tシャツにハーフパンツの軽装。体幹は太く重心は低い。やはり武術の心得があるように見えた。男は胡乱げにゆっくりと辺りを見回した。そして、智沙を見つけると、池に沿って近づいてきた。

「……おい、ここでなにしてんだ?」

 男の手にはスカイブルーのハンカチが握られていた。

 全身の毛穴が開く思いがした。蒼さを伴う痛みが下腹部を刺す。


 現場に来るのは警察だけではない――!


 連日の気温の上昇。智沙が考えたように、犯人も臭気を心配したのではないか。だから、現場にたびたび戻っていた。そして、ふだんはひと気のない場所でハンカチを拾い、誰かが出入りしているのではと疑った。

 ただの悪い想像であってほしかった。だが、トレンチコートの男はこれを危惧して、智沙を早く帰らせようとしたのではなかったか。

 歩む男の足許で小枝が爆ぜるたび、智沙の左胸で鼓動が跳ねた。

「わた、し…………」

 息が喘ぎ、視界が狭まる。周囲の木々が一気に伸びて、空を覆ったようだ。

 落ちつけ。まだ距離はある。

 怪しまれるな。

 智沙は両手でトートバッグを握り、口角を上げた。怯えを隠す愛想笑い。ふだんは強張る顔はちゃんと動いた。その裏、動悸を意識しながら思考を急回転させる。この男は事件を嗅ぎまわられるのを恐れている。二日続けてここに来たことは包み隠さねばならない。だったら、自分がここにいる理由はなんだ?

 咄嗟に言葉が口をついた。

「犬っ……犬が、こっちに逃げてしまって……」

 声が上擦る。構わない。飼い犬に逃げられた女が動じていないはずないのだから。

「犬?」

 ぎょろりとした黒のビー玉のような目が動いた。

 智沙は大きく頷いた。

 逃げた飼い犬を追って偶然ここに来たのだ。そう、偶然に。

 男が拾ったのは、スカイブルーの大判のハンカチ。

 女の持ち物だとは思わないかもしれない――。

 男のサンダルが夏草を踏みしめ、距離が一歩一歩狭まる。大きくなる一方の鼓動に左胸が痛んだ。悲鳴を上げて駆けだしたくなった。だが、いま逃げれば確実に疑われる。智沙は下腹に力を入れ、男をじっと見つめた。左の口端にひくつき。

「見ませんでした? 小さな、茶色の犬なんですけど……?」

 男は見ていないと言うだろう。そうすればすぐに礼を言う。そして、飼い犬を探している女らしく、『犬を探すために』一目散に駆けだす。

 走ればここから大学まではすぐ。

 男は、不機嫌な顔で左右に首を巡らせた。

「見てねえな。……犬ぐらいちゃんと繋いどけ!」

「す、すみません! ど、どこに行ったんだろっ……」

 智沙は男を見据えたまま、半歩下がった。

 会話は終わった。あとは、礼を言って走りだすだけ。

 男が近づく。手が痺れる。心臓は内側から胸を殴っているようだ。脈動がこめかみで煩くて、もうなんの音も聞こえない。

 風か、銀の水面が揺れる。

 だいじょうぶ。背を向け、走って、走って、大学の敷地内に入ればきっとだいじょうぶ。

 そうだ、図書館に丹野くんがいる――!

 智沙は唇を開く。ありがとうございました、の「あ」の音を搾りだそうとする。

 少しだけ、あと少しだけ気づかれるな。

 真実を明かすために、包み隠された罪を明かすために、動揺を、不安を、いまは

 

 ツツミカクセ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 題名 読了後に改めて、良いタイトルだと思いました。 [一言] 罪の言葉の由来、ため池の別名を知って、ぞっとしました。 自分だけでなく、ため池の君のためにも行動する智沙を、応援したいです。ラ…
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