初代王がフェンリルを従魔にするまで
我等は、傷だらけの姿で出逢った。
お互いが痩せ細り、今にも死にそうな無様な形でだ。
彼奴は、酷い臭いで地面に転がっておった。
童の屍かとも思うたが、まだ死んではおらなんだ。
我も冒険者に手酷い深手を負わされ、最強の魔物と自負していたというに、雑魚の魔物にまで襲われる始末。
情けなくも冒険者や他の魔物から身を隠し、命からがら逃げる羽目となった。
何年も傷は癒えず、我は死にかけだった。
まともに魔力ある生物を食えておらなんだ。
そんな時に、彼奴が転がっておったのだ。食おう。あれを、食う。むしゃぶりつき、すぐに童の柔らかな肉を味わい、血で喉の乾きを潤すのだ。
やっと、食える肉を前にし、我は涎が止まらなかった。
ただ、腐ってはないか、臭いを嗅いだに過ぎぬ。
厄介な病で死にかけの肉を今食らってしまえば、我も死ぬ。それ程までに我は衰弱していた。
だから、悪臭を放つ彼奴の体に鼻を近付け、食えるか調べただけだ。
「お前も、腹が減ってるの…?」
掠れた、童のの声。
今にも、死にそうなそれは、カサカサの唇を動かし、微笑み我に語りかけた。
死にかけだが、生きていた。
死んだ肉より生きた肉のが柔らかく美味い。
此奴を食う。クウゾ。ヤワラカナニクヲ。
理性が飛びかけておった。傷つき、飢えから我は誇り高き魔物から、ただの獣に堕ちようとしていたわ。
「食べていいよ…」
そっと、我の毛を一撫ですると、目を伏せ力なく持ち上げた腕が、地面へと重力に逆らうことなく落ちていった。
死んだか?
デハ、クウ。クウゾ、クウ。ムサボル、カミチギリタイ――……!!
我の涎が、童の顔に滴り落ちる。
我は、きっと此奴を飢餓状態のまま食らえば、理性を失うだろう。本能と理性が鬩ぎ合い、此奴にすぐに牙を立てるのを止めた。
今の状態で食すのが、我にとって危険だった。
ただ、それだけなのだ。
力なく目を伏せた童が、また薄らと目を開けたのだ。
「我慢、して……くれてるの…?」
気を失ってはいなかったのか。
「おど…ろいた……おり…こー、さん…なんだ、ね」
微かに、口角を持ち上げ、確かに彼奴は微笑んだ。
目の前で、涎を撒き散らし、今にも食おうとしている己の数倍もデカい魔物を前にして。笑ったのだ。
違う。生意気な人間の童に、高等な我に『お利口さん』などと、腹立たしい。クロウテヤロウカ――!
『グルルルルルゥ…』
唸り声を出すも、今此奴を食えば我はただ生物を食らうだけの獣に堕ちる。
「そんなに、耐えなくても…いいよ?」
蝿が、童の目に止まる。薄ら目を開けたまま蝿すら払えないガリガリの童が、悪魔の囁きを我に繰り返し告げる。
「お腹が空いてるんでしょ?」
ソウ――ハラペコダ。イマスグクライタイ。
「早く食べなよ」
アア、タベタイ――。
…此奴は、我の見せる幻覚か?
カサカサの唇から、先程までの掠れた声とは違う、艶かしいまでの滑らかな声音で聞こえてくる、己をさっさと食えという誘い。
どこまでが、彼奴の発した言葉なのか。
どこから、我の葛藤が見せた幻覚なのか。
端から、此奴は我が見せている幻覚なのではないか――。
食らえば、意識は闇に飲まれるのではないかと、我は生まれて初めて、恐怖を覚えた。
ただの、目の前で死にかけているに過ぎない、人間の童に対して、だ。最強の魔物。SSSランクと冒険者には言われ恐れられた、我がだ。
生まれて初めて、危険だと警報が頭に響く。
こんな恐怖を我は知らない。
瞞しの類か。
幻惑魔法の耐性もある我が、己が生み出した幻覚に屈することになるとは――勝たねば、我は我でなくなる。
我は耐えた。涎を撒き散らし、唸り声を轟かせ、空腹に目を血走らせながら、それでも耐えた。目の前の餌を食ろうてしまうのを――目の前の餌に離れることもできず、食らうこともできず、微動だにせず童の傍で涎を垂らし続け、耐えて耐えて、童の上に倒れるまで。我は耐えた。
我に深手を負わした冒険者にでさえ、怨みや憤りは覚えても、恐怖は芽吹かなかった。
それが、皮肉なことに自分を食えと言うことしか出来なかっただけの童に、我は怯んでしまったのだ。なんとも情けない話だ。
「トゥルク殿」
『なんだ?』
「いえ、その…。そのお話だと、我が国の初代王は、ただの餓死寸前の童に過ぎなかった、ということですか…?」
『ああ』
我が恐怖した童は、ただの童。人間の死にかけの餓鬼。なぜ、ああも恐怖してしまったのか…1000年以上経ってもあの時の我はどうかしていたとしか思えなんだわ。
「伝説のフェンリルに深手を負わせるも、とどめを刺せず、まるで天罰かのように天地が荒れ飢饉が襲い、国が荒れた中、フェンリルを従えたのが初代王にして英雄王――アレク様のことですよね?」
苦いものを噛み潰したような顔で、引き攣ったまま何度も確認しおる。鬱陶しい。
まるで、童を守るように覆いかぶさった我を人が見つけ、保護するにも脅威である我の存在に動けずにいた者を前にして、我は意識を取り戻すも武装した人間どもに囲まれる中、抵抗する力も残っておらず、童からそっと離れただけのこと。
人から見るとその行動は、人が来るまで童を守り、死ぬまで離れず、共に死にかけるまで寄り添おうとした従順な魔物に映ったことだろう。
童が手当てにより意識を取り戻し一番にしたことが、我へ食べ物を分け与えることだった。
気が狂いそうな程の飢餓状態から、食べ物を与えられたのだ。童の時とは違い、迷うことなく食らいついた。当然だろう。どれだけおあずけを食らったと思っている。
ますます、その様子に人は誤解した。
なんともまぁ、我を手当したのだ。
治らなかった傷が、治癒魔法で完治した。
どうやら、呪いだったようだ。自然治癒することない傷で、瘴気を発生させるもの。
我の理性が失いかけたのも、その傷の呪いと空腹によるものであった。
怖々ながら、我を治した者が我の頭を撫でる。
我は、無気力状態であった。
何せ、ただの童に、脆弱な人の子に、恐怖を抱いたのだからな。
撫でられようと、そんなものどうでもいい程、己に落胆していたわ。
大人しいと勘違いされた我は、死にかけの童と共に人の国へと連れてこられた。
童が我に抱き着き、頬擦りする。
「君のおかげで、僕は生きてる」
我の鼻に何度も額を押し付けては、我に礼を言うのだ。
「ありがとう。君がいなければ、僕は……今生きてはいなかった」
我の空腹に耐える為の唸り声が、人を呼んだのだ。
なんとも、皮肉な話しよの。
やられるがまま、我は茫然自失であったが故、なかなかに立ち直れずにそのまま人の傍で暮らし続けた。
一度、恐怖した童を前にして、あまりにも簡単に従魔契約がなされてしまった。屈服済みなのだから、当然である。ますます、凹んだわ。
まるで、受け入れていると我が進んで従ったように見えるそれは、成功するのが当然のように王の前で煌びやかな催しの中で執り行われ、人々が盛大に祝福したのだ。
偉大な我を着飾らせたのは、存外悪くはなかったが、されるがまま従魔になった事実は屈辱でしかなく、しかし抗う気力がそもそも削られなくなってしまっていた。
すっかり、骨の抜かれた様で怒るよりも呆けてしまっていたのだ。
それから1000年。童は遠の昔に死によった。三国あった国を一つにまとめ、彼奴は象徴となり、やがて三国の王は王ではなく華族になり、彼奴が一つの国の初代王となった。
彼奴の末娘の声が、あの時の艶かしいまでの滑らかな声音にそっくりな声で我に「おりこーさん」と我を撫でたのだ。毛が逆立った。冷や汗が流れた。
すっかりトラウマになってしまっていたようだ。
彼奴が死ぬ時、我は末娘の従魔となっていた。
末娘の従魔契約の儀式が、彼奴の最後の催しとなった。
それからは、なぜか我を従魔にした者が王位継承をするようになり、我は彼奴の一族に囚われの身となった。
まるで、呪縛のように。なぜか彼奴が死んでも薄れることなく、あの些細なたったあれだけの会話がずっと我を縛るのだった。
『だから、望んで従魔をしてるわけではない』
「はぁ……」
全く、なぜ納得せぬのか。未だに疑わしげに我を訝しんだ目で見るのはなぜじゃ?言葉にはせぬが何か言いたげの様子ではないか。気に食わん。
彼奴と我の絵画を観て「アレク様とトゥルク殿は本当に仲睦まじい様子だったと伝え聞いています。アレク様亡き今、寂しくはありませんか?」と言ってきた人間に、我はなぜこんな昔話をしてしまっているのか。解せぬわ。
「トゥルク〜!!」
「姫様!走ってはなりません!」
チビがやってきおったわ。
「トゥルク!!」
我に抱きつく小さな女童。アレクの孫の孫の、彼奴の血を引く者が、また我に突進してきた。
『我に飛びつくでないわ』
「トゥルク、ふさふさ〜いい匂い……」
『ふん。頼みもせぬのにメイドが我を洗うからの』
我に埋もれるように小さな女童が、顔を埋めおる。小さな人間は脆い。簡単に我が腕をほんの少し動かすだけで、吹き飛んでしまう程に。
だから、この小さな人間が我は苦手なのじゃ。身動きが取れんくなるからの。
「ふふっ、……そうですね。寂しくは、ないですよね。アレク様は、あなたに家族を残されたのだから」
何を微笑ましげな表情で勝手に納得しておるのじゃ。トラウマでしかない者達を、家族、などと。家族…。
克服する為に傍に我はいるだけぞ。
「トゥルクは家族よ。とってもお利口さんっ!いい子いい子〜」
ああ、また我を誘惑する甘い声。我はこの声が苦手じゃ。支配される。ポカポカした甘えてしまいそうになるこの誘惑は、我を屈服させ、ただの犬にしてしまう。
『我は誉高いフェンリルぞ。犬猫のように扱うでないわ』
「トゥルク様、尻尾が……くすっ」
『ぬ?』
我の尻尾が動いていたのか?屈辱である。
「トゥルクもごもごなんて言ったの?お声が小さくて聞こえないよ?」
大声を出すとまた泣かれてしまうではないか。
『メイドが困っておろう。早く戻られよ』
そろそろ時間なのだろう。メイドが呼んでおるわ。
「トゥルク寂しくない?また、明日も来るからね!」
我の頬を撫で、去っていく。
「トゥルク様…尻尾と耳が、下がってしまってますよ」
『うるさい』
「次は、メラ様が…女王陛下ですか」
『我はまだ屈服しておらぬわ』
「ふふっ、そうでしたな」
全く、忌々しい。
1000年囚われたままの我。彼奴のところへ行くのは、まだまだ先になるからな。最後の約束を「家族を頼んだ」と死ぬ直前に我を呼んだ彼奴めに愚痴るのは、血を継ぐ者を見届けてからにするくらい、我にとっては一瞬のこと。
寂しくなど、ないわ。