第2話 助けてほしい
リリリリーン リリリリーン
リリリリーン リリリリーン
携帯の呼び出し音が鳴っている。
毛布の中から手を伸ばし、イザはシングルベッドに突っ伏した姿勢のまま、手探りで携帯を探した。
しかし寝ぼけているために、どこに置いたか思い出せず。なかなか見つけられない。
イライラしながらも寝ぼけ眼で耳を澄ますと、ベッドの下から呼び出し音が鳴っているような気がした。
ベッドから身を乗り出して下を見下ろすと、あった。
イザのスマホがバイブしながら、設定してある黒電話音を鳴らし続けていた。
本物の黒電話なんて、見たこともないが。
携帯はおそらく、枕元に置いて寝たものの、寝ている間に寝相が悪くて落っことしたのだろう。
ベッドから身を乗り出して画面を見ると、アドレス帳に登録されている名前からの着信だった。
『糸目』と表示されている。
携帯を万が一盗まれたりして他人にアドレス帳を見られても、本人特定ができないように、アドレス帳の大部分は名前を隠語で登録してあった。
この『糸目』は、目が細くて糸みたいだからこう付けた。
香港マフィア三合会の一人、楊だ。
何度も闇取引で関わったことのある相手だった。
「……はい」
不愛想な声で電話に出る。
元々愛想のいい方ではないが、低血圧のため、寝起きはすこぶる機嫌が悪い。
イザの声を聞いて、電話の相手は笑ったようだった。
『なんて声出してんですか。いままで寝てたんでしょう?』
楊の軽口に、イザは益々不機嫌そうに返す。
「そうだよ、寝てたんだよ。俺がこの時間は寝てるって、お前知ってるだろ?」
軽く頭痛がする。部屋の時計を見ると、今は午前10時を若干過ぎたところだった。寝たのが朝の7時過ぎ。娘が出かけるのを見送ってから寝たから、3時間程度しか寝ていないことになる。正直、もう少し寝たかった。
夕方から明け方にかけて仕事をして午前中に寝るというのは、イザが若いころからずっと続けている仕事のスタイルだった。その方が、自分の仕事には適しているから。
イザの仕事は、闇ブローカーとか仲介屋とか言われるものだ。扱うのは、主に国内での持ち込みが禁止されている銃火器やドラッグ。
そういったものを、海外の運び屋から受け取って、国内の暴力団や売人に卸すことを長年生業にしてきた。
イザは携帯を耳に当てたまま、ベッドに仰向けになり、少し白髪の交じりはじめた黒い前髪を掻きあげる。
青緑の相貌を眇めて虚空を睨んだ。本人は睨んでいるつもりはないのだが、目つきが悪いのは昔からだ。
幸か不幸か、一見、モデルだと言っても通ってしまうだろうほどに、イザは整った顔つきをしていた。
その顔つきで時に目つきだけ悪くなるので、本人が思っている以上に周りには近寄りがたい印象を与えてしまうのだが。
イザという名も、別に本名と言うわけでもない。長年使ってきたから、親しい間柄や古い付き合いの人間にはそう名乗っているだけだ。
なんとなく、子どもの頃に母親からそんな名前で呼ばれていた気がするから、本名もおそらくそれに近い名前だったんだろうなとは思う。
しかし、白人系の難民だった母親はイザが子どものころに死んでしまったし、ジャパニーズだと母親に聞いてはいるが父親は見たこともなく。自分がどこの国で産まれたのかすら、イザは知らない。
とはいえ、とりあえず日本に不法入国状態でずっと暮らしてきたことだけは紛れもない事実だった。
10歳頃に母親に連れられて日本に不法入国し、もう30年以上日本で暮らしてきたのだから、筋金入りの不法滞在者だった。
俺はこの時間寝てるって言っただろう?と言ったイザの言葉に、
『はい。知ってました。許してください』
悪びれもせず、楊は電話の向こうで屈託なく笑う。
それがまた、イザには腹立たしく、自然と口調が荒くなった。
「……で。何の用だよ。俺をたたき起こしてでも、言わなきゃいけない用事ってことは、相当大事な用事だったんだろうな?」
『そう、怒らないでくださいよ。いい話があるんです。というか……助けてほしいんです』
助けてほしい、という楊の言葉に、イザの青緑の目がすっと細くなる。
楊は、生き馬の目を抜くような香港の黒社会でのし上がってきた男だ。常に自信を漲らせ、荒事から犯罪行為まで手広くこなしてきたその男から、泣き言のような話を聞くとは珍しい。
「……どうした?」
イザは一呼吸おいて、聞き返した。
楊は、何から話そうかと逡巡するようにしばし沈黙した後、話を続ける。
『私、……というか私たちは今、日本にいます。先ほど、上海から船で大阪港に着いたところでして。これから東京に向かうつもりですが、会えないでしょうか?』
詳しく話を聞くと、新大阪から新幹線に乗って東京に来るんだそうだ。それ以上の話は電話ではなく会って直接話したいと言われ、イザは話の要点もなにもつかめないまま会うことを承諾した。
密室で会いたいとのことだったので、とりあえずレンタカーで7人乗りの国産ミニバンを借りて東京駅に向かう。
ホテルなりレストランなりに部屋を借りてもいいが、手軽で機動力があって、何より人の出入りが不自然でなくかつ盗聴対策にもなるので、こっそり話したいときは車を利用することもよくあった。
東京駅八重洲口のグランルーフ北側。
一般車両用の車寄せにミニバンを寄せると、すぐにスーツケースを引いた数人の男たちがこちらに近づいて来るのがバックミラー越しに見えた。彼らの先頭を歩くのは、ハーフ丈の黒いトレンチコートに身を包んだ見覚えのある顔の男。楊だった。
コンコンと、指で助手席側の窓ガラスを叩いてきたので、パワーウィンドウを下げてやる。楊は身をかがめて窓を覗き込み。見知ったイザの顔を確認すると、元から細い目をさらに細めて小さく笑った。
「イザさん、久しぶりです。わざわざ来てもらって、ありがとうございます」
「いいから、乗れよ」
スライドドアを開けると、男たちが乗り込んでくる。一番初めに入ってきた若い男の肩を叩いて、イザは親指で運転席を示した。
「運転代われ。適当に都内流せるようにナビ入れてるから、その通りに運転すりゃいいからさ。あ、日本では車は左側通行だからな……って、香港も同じだっけか?」
確か、イギリス系の国は左側通行だった気がする。
イザに運転を代わるように言われた男は、「知道」(わかりました)と小さく応えると、イザと席を代わって運転席に座る。
そして、イザは3列シートの真ん中、楊の隣に腰を下ろした。
ほどなくミニバンはロータリーを出て、外堀通りを北へ向かって道なりに走り出した。すぐに左手には皇居の堀が見えてくる。
楊のほかには、運転席と助手席に一人ずつ、後ろのシートには二人。
後ろの二人が先ほどからコソコソ声を潜めて話している言葉を聞くと、どうやら広東語らしい。
ということは、こいつら皆、楊と同じ香港マフィア三合会の人間か?とイザは当たりをつけた。
「で? 俺に何をしてほしいって?」
楊が東京駅の売店から買ってきた缶ビールをビニール袋から出して渡してきたので、それを受け取ってタブを開ける。
楊は、前と後ろの男たちにも缶ビールを渡すと、自分はミネラルウォーターのペットボトルを開けて一口あおった。
そういや、こいつ、酒飲めないんだっけ……なんて思い出しながら、イザも缶ビールに口をつけつつ楊の話を待つ。
「……実は、困ったことになってまして。本当は明日、成田空港からウラジオストックに飛行機で飛ぶつもりだったんです。だけど、季節外れの寒波が日本の北部を襲ってるとかで飛行機が欠航になりそうで」
ああ、そういえば昨日みたニュースで、北海道から東北にかけては4月初旬にしては記録的な大雪だとか言ってたなとイザは思い出す。
真っ白な雪景色に沈んだ札幌の町の映像が、ネットで流れていた気がする。
ウラジオストックは北海道からほど近いロシアの街だから、そりゃあ飛行機も飛ばないだろう。
東京は雪こそ降ってはいないが、寒気の影響だろうか、4月にもかかわらず冬物コートが必要なくらいに外気は冷えていた。
亜熱帯の香港から来た楊たちには、少々辛いかもしれない。
「明日の便が欠航になると、次に飛ぶのは木曜です。それまで、安全に留まれる場所を確保してほしいんです」
なんだ、そんなことか。と、ビールを喉に流し込みながら、イザは内心思う。楊たちに合わせて車内の暖房を高めに設定してあったから、喉が渇いた。
ホテルを取るくらい訳がない話だが。
「ホテルくらい、自分でとりゃいいじゃん。ある程度のホテルなら英語サイトもやってるだろ?」
楊は日本語はごく片言で、今こうやって話している二人の会話も実はすべて英語だ。
「足跡を残したくないんですよ。日本のホテルは、外国人が止まるときはパスポートの提出を求められるでしょう? コピーを取られたりしたら、困るんです。かといって、身分証の提示を求められないような融通の利くホテルは、私たちにはすぐには探せない。こんなに寒くては野宿もできない」
そう言って、楊は言いにくそうに苦笑した。
「まぁ……お前らどう頑張ったって、話してるとこ見たら外国人にしか見えないもんな」
外見だけで言えば、黒髪黒目で純極東アジア系の顔つきをしている楊の方が、青緑の目をして日本人以外の血の半分混じったイザよりも日本人ぽくは見えるのだが。口を開いてしまえば、すぐに外国籍であることがバレてしまう。
「適当なホテル紹介してやって、チェックインとチェックアウトしてやるくらい簡単にできるけどさ。……ウラジオストックに何しに行くのかくらい、教えてもらわないと何か気持ち悪いんだけどな」
香港黒社会の男たちが、雁首そろえて、日本経由してロシアに行こうとしてるんだから、観光旅行のはずもないだろう。
そもそも、なんで入国審査の厳しい日本を経由してロシアに行こうとしているんだ?
持ってるパスポートも偽造だろうけど。なんとなく、日本よりも中国を経由した方が危険が少ない気がした。そのことを楊に尋ねると。
「何グループかは、中国本国を経由してロシアに向かいました。でも、私たちのひとつ前に出発したグループが北京で中国当局に捕まって、荷物を没収されたんです。それで、私たちは急きょ、もともとの計画になかった日本経由に変更したんですよ。計画では月曜の朝に上海から大阪港に着いて、その日のうちに成田に移動して空港のロビーで夜を明かした後、翌日にはウラジオストックに飛べるはずだったんですが」
「へぇ………荷物?」
空になった缶を潰しながら問うイザの言葉に、楊は「そういえば、貴方も気に入りそうなものですよ。あとで少しお見せしましょうか?」と一人で薄く笑った。
イザは携帯で適当なホテルに連絡を取ってみる。
しかし、寒波で足止めされた人が多く出ているのか、空き室なしと断られるホテルが相次いだが、5件目に電話したホテルでようやくツインを2部屋取ることができた。5名様御一行なので、一人はエキストラベッドを使ってもらうことにする。
一瞬、いっそのことラブホにでも連れて行ってやろうかと思ったが、こんな不愛想で強面な男ばかり5人でラブホに泊まるって、想像するだけで笑けてくる……ではなくて、目立つことこの上ないので止めることにした。
それに、なんとなく今日の楊はいつになくピリピリと緊張しているような気がする。普段は、もっと鷹揚な空気をまとう男なのだが。
こんな時にはくだらない冗談なんて通じそうにない。うっかり変なことをしたら、青龍刀でなます斬りにされそうだ。