高一・一学期 51
騒ぎは視聴覚準備室の中に封印されている。
──聞いてはならない。
乙彦は意地でヘッドホンから流れる英会話を聞き取ろうと努力していた。
いったんテープが最後まで回りきると、すぐに立ち上がりカセットデッキでひっくり返す。
うっかり聞いてしまうんでないかとひやひやしたが、すでに隣の部屋で声は潜められている様子で、それ以上約束を破ることはなかった。
三人の間でも、暗黙の了解でヒアリングのこと以外の会話を控えていた。
静内がかすかに笑って書き込んだ英語の答案を乙彦に渡す。乙彦は真後ろの席の名倉に、名倉は静内に。それぞれ解答集を用意して、赤ボールペンでチェックする。
「静内、俺が言うのもなんだが、お前、もう少し英語勉強したほういいと思うぞ」
返しながら乙彦は正面から伝えた。
「苦手なのよしょうがないよ」
「半分以上、書き取れてないだろ」
苦言だが誰かが言わないとしょうがないだろう。実際乙彦が赤を入れた静内の答案だが、全くといっていいほど、文章の書き取りが完璧に行われていない。主語、述語まではなんとか拾えているのだが、それ以上のセンテンスになると全く聞き取れなかったらしく、単語の頭文字をかろうじて書き取るのみ。これが本番だったら、断言してもいいが赤点どころの騒ぎではない。
「俺も人のこと言える身分じゃないが」
乙彦は名倉から渡された答案をちらっと見た。ほぼ百パーセント書き取ったつもりだったが、かなり単語のスペルミス、およびケアレスミスの嵐だったようで、五十点台。自分も本当は静内相手に説教なんてしている暇なんてないのだ。
「静内、お前そんなに英語苦手だとは思わなかったが」
「頭にあることを書くだけなら平気。聞き取るのが苦手なのよ」
「だからあんなにヒアリング特訓にこだわったわけだな」
泣きそうになりながら必死に静内が、麻生先生に向かって視聴覚教室を借りるべく頼み込んだのはおそらく、自分の弱点克服を切実に願っていたからだろう。そうとしか思えない。
「名倉、それにしてもお前は何点だ?」
確か静内が点数をつけたはずだ。最初に静内をちらっと見てから尋ねると、
「ほぼ満点」
「九十八点だ」
名倉はてらいもなく答えた。こいつはやはり、秀才なのだ。どうみてもそうは見えないが。
「お前、どういう勉強している?」
「ラジオの英語講座を聞いている」
「それだけか?」
「それだけだ」
信じられない。もっと何か特訓しているに違いない。静内がつんつん名倉を指差して、
「名倉、例の彼女から教えてもらってる?」
「教えてもらってはいない。ただ、参考書や問題集、どういうものを使っているかは聞いた」
もう半分以上食べ終わった、やたらとバターのきいたクッキー。乙彦はつまんで口に放り込んだ。外部生同士、成績の差をさほど感じることは今までなかったのだが、期末試験前日になり初めて気づく、それぞれの差。静内が手抜きをするタイプの女子ではないと知っているし、おそらく単にヒアリングが苦手なだけなのだろう。しかも、乙彦のように英語科で特訓しているわけでもなければ、名倉のように例の彼女からの協力を得ているわけでもない。青大附属において、勉学という点では頼るものがないわけだ。
──このままだとやはり、まずいだろう。
別に人のことだ、おせっかいだとは思う。思うのだが、
──俺も立村に受験の時、いろいろ協力してもらってここまできたんだ。今度は俺が静内に、立村みたいなことをしてやる番かもしれない。
勝手に使命感が湧いた。
「静内、俺の提案だ。ぜひ呑んでほしい」
ついでに、名倉にも。言葉には出さず頷きあった。
「自由研究の時間をもう少し増やして、俺とヒアリング訓練をやろう」
「関崎、と?」
いったん息を飲み、静内の表情が空になった。
「名倉、お前ももちろん来るだろう」
「来るが」
「だったら話は簡単だ。名倉、お前が聴いてるラジオの英語講座のテープ、録音して毎日持ってこい。ラジカセは俺が持ってくる。どこかの公園か図書館かで、やろう」
同じくぽかんとした名倉は、突然唇を震わせた。笑っているようにも見える。いきなり乙彦のクッキーをまとめて三枚持ち去った。
「了解した」
ちらっと静内に頷いてみせた。だからどうしてこのふたり、やたらと意思を通じさせているんだろうか。乙彦の知らないところで、やはり何か語り合っているに違いない。
──何話しているんだろうか。
「関崎にしごかれるわけよね」
「でないと、まずいだろう?」
「了解。よろしくお願いします」
ふたたび静内は頬にえくぼをこしらえた。
その表情が糸として乙彦の何かをひっぱった。きゅうと、前かがみになりそうだった。
準備室の戸が開いたのは、その直後だった。
視聴覚教室は窓を開けっ放しにしていたのでさほど暑苦しくはなかった。あったかい、そんな感じだった。しかし準備室から固まった熱気の雲みたいなのが流れて来て、さすがに乙彦も振り返った。人間の汗が濃縮されたようなにおいがつんとした。臭い。
最初に出てきたのは藤沖だった。やはり壁際にヘアバンドをした女子を隠すようにしたが、乙彦と目が合い立ち止まった。
「関崎」
「ああ」
「期末試験が終わるまで待ってくれ」
「何をだ」
問い掛けてみて愚問と悟った。藤沖の性格上、黙りっぱなしで通すわけもない。すぐに乙彦は答えた。
「わかった」
額には麻生先生ばりの汗が流れていた。藤沖が身体を斜に向けて女子を促し、鞄をぶらさげたまま外に出るのを乙彦は見送った。どうしてもその女子の顔を見てしまったわけだが、わりとさっぱりした、うりざね顔の品のある雰囲気とそのしでかしてしまったこととのギャップに戸惑った。
──さっき泣いていたのが、あの女子か。
生徒会役員というだけなら素直に「ああ」と納得するが、布団に派手な地図を描いてしまいおろおろしてしまうようなタイプには見えなかった。
──藤沖は、きちんと立村と話をしたんだろうか。
乙彦が一番気にしていたことを、本当は確認したかったのだが。
次に現れたのは、予想に反して古川こずえだった。
静内が慌てて机に向かい直している。気を遣っているのだろう。まあ、この件に関してはそうしてもらった方が助かるのも事実だ。古川が乙彦の通路脇に立ち、小声で報告してきた。
「終わったよ、一通り」
「無事、か」
「まあ無事に、ね」
後ろを振り返った。相当暑かったのだろうと推測する。スカートを両手で心持もちあげ、ぱふぱふと揺らした。もちろん見せるようなみっともない真似はしなかった。
「ご協力、感謝」
「立村たちは?」
唯一中に残っているのはあのふたりのはずだ。古川は頷いた。
「話をしているよ。悪いけどもう少し残っててよ」
「俺たちが、か?」
「当たり前じゃないのさ。ま、これで無事にことが済んで、めでたしめでたしよ」
ちっともめでたしめでたしとは思えない目つきで古川は乙彦の持っている残りのクッキーをくすねた。もう残りは一枚しかない。
「ほんと彰子ちゃんのクッキーは美味しいよね。それにしてもあんた、ずいぶんお勉強はかどったようだねえ。明日の試験対策万全?」
「万全とは言えない。やはりヒアリングは難しい」
「あっそう。もう私、今回の期末捨てる覚悟だからどうでもいいけど。あんたのことだから今回は満点狙ってるんでしょ」
「もちろん毎回満点を狙うつもりで受けている」
生真面目に答えたように見えたのだろうか、古川はお得意の溜息を吐いた。
「あんたの性格だったら、どういう事件の当事者になっても、試験では全力尽くすんだろうね」
当たり前のことをなぜ聞くのだろう。乙彦は片手を振って出て行く古川を見送った。少なくとも古川に関してはそれほど、気兼ねなく眺めることができた。
「関崎」
「なんだ?」
古川が姿を消すのを待つように、静内が顔を挙げた。
「英語科の人たちとは、私たちみたいな勉強会やったりしないの」
真顔で問い掛けてきた。素直に答える。
「しない」
「なんで?」
「授業で顔を合わせて、休み時間に情報交換する程度だ。みな、苦労しないでやれる連中だ」
よく考えると藤沖と立村以外と、勉強方法について語り合ったことはない。ヒアリング対策など、静内が言い出さねば考えることもなかったろう。いや、名倉を含めたこの三人の話題がどうして学業中心になり、しかも楽しく盛り上がってしまうのかが不思議だった。他の奴からみたら異様かもしれない。
「そう」
「人のことより静内、お前は明日のヒアリング試験のことをもっと真剣に考えろ」
「なによ、いきなり偉そうに」
「俺と同じく奨学金を狙うんだったら、今からやらないとまずいぞ。俺は二年以降の奨学金を狙うからな、お前もそうだろう」
後ろでまた笑いを噛み殺すような声がする。名倉の奴、いったい何を考えているのだろう。妙にもやもやする。帰り、聞き出してやろう。
「奨学金か、ほしいよね」
「茶化すなよ」
静内は否定しなかった。その後黙って、乙彦の返した答案に目を通していた。指で間違いの印がついたトメハネの赤を、押していった。
見るべきか見ないべきか迷った。
残りの二人はなかなか現れなかった。
話し合いが長引いているのだろうか。
古川は無事に話がついたと言った。だが古川の視点はあくまでも、第三者としてのものだ。
あれだけ激しく泣きじゃくった女子がいた以上、何も起こらずに片がついたとは思えない。
それに、「話がついた」のは杉本梨南と渋谷という女子のふたりだけかもしれない。乙彦の望んでいる、立村と藤沖との間の問題はどうだったのだろうか。それが片付かない以上、問題は解決したとは言わない。少なくとも乙彦の中では。
食い入るように準備室の出口を見つめた。会話が聞こえてきた。聞かないふりはできなかった。はっきりと立村と杉本梨南との声を聞いた。姿は見えないが、はっきりと棒読み口調の声が聞こえた。
「立村先輩、先ほども申し上げましたように、私は平気です」
「本当に、いいのか? 何度も聞くが」
「私が真実しか述べていないことは、私が一番よく知っております。ですからあの頭の悪い男子たちや、話をゆがめようとする生徒会の女子たちが何を言おうが、私はまっすぐ真実を貫いて参ります。先輩にこれ以上、ご心配いただかなくても結構です」
──科白みたいな喋り方だな。
いつぞやの、葉牡丹を手渡された時の告白科白を思い出した。あまり楽しい記憶ではない。
立村が弱々しくも、叫ぶように呼びかけている。
「これから周りが、誤解を煽り立てても杉本は言い返す権利がなくなるんだぞ、それを受け入れられるのかよ!」
「はい、かまいません」
全く揺れることなく棒読みの科白は続く。
「私は、あの方が信じてくださっていることを知ってます。それで十分です」
「高校の奴らが杉本を信じても、中学の奴らが嘘を信じたらどうするんだよ。だから俺が言った通りに」
言いかけた立村を、杉本は遮ったようだった。
「完璧な方に私の真実を認めていただけたのです。それ以上何も必要ございません」
教室中にその宣言は響きわたった。さっきの泣き声とはまた別の次元で、くっきりと焼きついた。そして現れたのは、ポニーテールに結い上げた杉本梨南の真正面からの姿だった。
ふたたび乙彦と顔を合わせた。同じくふたたび、後悔した。
──なんてこっち見てるんだ……。
二回も同じミスをやらかすとは、学習能力なし。あやうく自己嫌悪に陥りそうだった。
杉本梨南は乙彦をまた、にらみつけるように見つめた。
何度されても慣れない、その瞳。
突如、口が丸く動いた。身体が硬直したように、まさに人形のような動き方で歩を進めようとしている。運動会で行進時、足と手が一緒に出るかのようだ。乙彦に深く、一礼をしたが急にまた顔を覆った。入ってきた時と同じように目を隠してジグザグに戸まで歩いていった。なぜ、いきなり顔を隠すのか。照れ隠しというには少し、奇妙な仕種だった。恥ずかしいというよりも、顔を押さえることに決めているというような機械的動作だった。
──なんなんだ、いったい。
人間というよりも、ロボットが歩いていくのを眺めたようだった。
杉本梨南という女子の特徴を知らないわけではないのだが、何度接してもやはり人間らしい雰囲気が感じられず、戸惑うばかり。一度は恋心を告白されたのだから乙彦も、もう少し別の感情が動いてもよさそうなのに、なぜか「人間」かつ「女子」への興味が湧かない。杉本からは「好意」ではなく「興味」をもたれているだけのような気がしている。そう言う場合にどう反応すればいいのかわからない。
姿が消え、ほっとしたのもつかの間、隣と後ろの席で同じく見送っていた静内と名倉に、返す言葉もなかった。
「関崎、『あの人』って」
静内が小声で問おうとしたが、乙彦は拒否した。
「俺は『完璧な奴』じゃない。だから、違う」
乙彦は立ち上がった。
「悪い、様子見てくる」
立村ひとりならば乙彦が様子を見に行っても問題はないだろう。改めて開け放しの準備室に足を踏み入れた。大量の電子器具とシンセサイザーの器具のようなボタンだらけの機械と、大量のビデオテープと。押しつぶされそうな圧迫感の中、やはり立村は床に座り込んでいた。脇に鞄を置いたまま、ひざを抱えていた。
「立村、終わったか」
黙って立村は乙彦を見上げた。カラオケボックスの際と同じ仕種だった。
「話し合いは、できたか」
もちろん乙彦の意図することは「藤沖と」だった。頷いた。
「ならよかった」
「よくない」
吐き出すような口調で、横を向き立村が言い捨てた。
「嘘をつかせて、真綿で首を締めるような真似して、これが話し合いなのかよ!」
「お前さっき、終わったと言っただろ?」
「不平等条約を呑まされただけだ」
「不平等条約とは日本とアメリカのあの条約か」
「そんなこと違うのはわかっているだろう」
怒る気力も無くしているかのようだった。半そでシャツが完全に汗で透けていた。顔色は紙のような白さそのもの。すべてのエネルギーを使い果たし、立てない状態と見た。
「関崎、お前はどうなんだ?」
いきなり問われた。
「お前だけは、杉本を信じてやってくれたか? 俺が知っている情報はすべて両サイドから提供した。その情報を比べてみて、やはり、杉本の言い分が正しいと判断したか?」
──判断するもなにも。
乙彦は首を振った。さっき自分が静内に向かって答えたものとおなじことを答えねばならなかった。
「俺は、信じるもなにも、事情を理解できていない。だから、彼女が思っているように、彼女の真実を信じているわけではない」
決して、立村以上に杉本梨南の身の潔白を信じているわけではない。
ただ、知らないだけだ。
杉本梨南が思い込んでいるような「完璧」な男では、ない。
杉本梨南が見ている関崎乙彦は、「完璧」でかつ「杉本を理解し、信じている」男子のはずだ。違うのに。その二点を備えているのは今、準備室の中でひとり取り残されている立村ひとりしかいないのに。
乙彦は立村と同じ目線で座り込んだ。
「立村、お前は信じていると伝えたんだろう。それで十分じゃないか」
一瞬、立村の瞳が大きく動いた。ぬめったような光がゆらいだ。
「十分なわけないだろう!」
かすれた声でそれだけ答え、立村はよろりと立ち上がった。立ちくらみで壁にぶつかり頭を打っていた。
「お前大丈夫か?」
「痛いだけだ」
手の甲で目を拭い、鞄の柄を握り直し、立村はそれ以上乙彦を振り返らず出て行った。
乙彦も追わなかった。男子同士、これは鉄則だった。
涙が出るほど悔しい時は、自分で自分を解決すること。それを見守る。
親友と思える男への、当然の礼儀だった。
──こんなかっこうで膝をかかえたまま、立村は何を考えていたのだろう。
──本当に、すべてことがすんだのか?
疑問は残る。乙彦もさっき立村がしていたのと同じ格好で、膝をかかえた。低い視線に映る物は綿ぼこりと大量のコードの山。絡んだコードがあちらこちらに見受けられた。
──藤沖は約束を守る奴だ。試験が終わってから、あいつからの話を待とう。
もう少し、クラスの平和を期待するには時間がかかりそうだ。判断した。
立ち上がり、乙彦は準備室の戸を締めた。静内と名倉がまた、ひそひそ話をしていた。
──だからいったいなんで、俺のいない時に限ってべたべたしてるんだこいつらは!
乙彦の内心を知ってか知らずか、静内菜種は鞄を抱えて立ち上がった。名倉に頷いてみせた後に
「関崎、今日は一緒に帰ろう」
まっすぐ、少し硬く声をかけてきた。
」
いつものことなのになんで静内の奴、妙に緊張した顔しているのだろう。そして名倉もなぜ、やたらと静内を相手に内緒話ばかりしているんだろう。
「あたりまえだろう」
乙彦もそのつもりだったから、それだけ答えた。今からひとりで帰ろうなんてそんな選択肢、最初からあるわけがない。