高一・一学期 47
家に帰ってから親兄弟に、「カラオケというものの衝撃」について語りつづけ、あっけにとられた家族をよそに今度は雅弘に電話をかけた。残念ながらまだ学校から帰ってきていないようだったので、また改めると連絡した。
──これは、なんとしても、校則を遵守するという形のもとで、家族を巻き込んで通うしかない。
夕食中もカラオケにおける、腹から声を出すことの快感についてしゃべりつづける乙彦に、しばらく黙って聞き入っていた父が、ぽそりと呟いた。
「それなら、乙彦、試験が終わったら連れて行くか」
兄、弟、三者で顔を合わせて頷いた。母が笑いをこらえるようにしてご飯のお代わりを盛っていた。誰も、校則違反を犯したのではとか、無駄遣いしたのではとか、怒鳴る者はいなかった。やはりそこが、我が家なのだろう。
「私には、関崎の家庭環境って信じられないよ」
次の日、さっそく静内と名倉を捕まえて「今度ぜひ、カラオケにいこう」と誘ったのは言うまでもなかった。バイトが終わってすぐに学校へ向かうから、必然、朝一時間目までは余裕がある。生徒玄関で静内たちに事情を説明すると、ぽかんと口を開けたまま静内が呟いた。
「父さん母さんが、OK出したの?」
「もちろんだ。俺もやはり、こういうことはきちんと許可を得て、みんなで楽しむことこそ義務だと思う」
「義務かよ」
また隣で唖然としたままの名倉が続く。乙彦は力強く断言した。
「そうだ。俺も昨日は事情があっていかざるを得なかったが、純粋に歌うことの楽しさを思い出させてもらえる場所というのは、やはり快感だ。ただ、どうしても金がかかるのと、あまり教育上よくないと思われているのも確かだろうし、それなら大人たちにきちんと筋を通して、一緒に楽しむことを勧めただけだ。たぶんうちの親たちも、歌うことは好きなはずだ。しょっちゅう宴会でカラオケに付き合わされていると聞くからな」
「だけどさあ」
そこまで言いかけて、静内がくくっと声を立てた。
「それ、想像がつくから、妙におかしいよ」
「だな」
名倉はそれ以上言わなかった。ふたりとも「じゃあ次回はぜひ一緒に」と続かなかったのだけが乙彦には不満だった。あの闇の中、とことん語り合いたい友だちといえば、まずは雅弘、そしてこのふたりのはずだった。立村とは昨日、少しだけだが本心を垣間見ることができたし、歌うこと自体が苦手そうなので別の場を設けてもいい。
カラオケの話はもちろんしたけれど、それ以外のことはさすがに口に出せなかった。
中学の修学旅行で寝小便をしでかした女子がらみの問題、なんていうのはやはり、まずいだろう。静内、名倉はもともと外部生だし、仔細を知る機会もそうないだろうが、乙彦の倫理からすると黙っているべきではと判断した。
ただし、いきなりふたりとの約束を破って古川こずえと行動を共にしてしまったのも事実だ。埋め合わせをしたい気もした。持ち出してみた。
「埋め合わせ?」
「そうだ。俺の記憶する限り、いきなりの予定変更でお前たちに迷惑をかけたのはこれで二度目だ」
いつもタイミングが悪い。なぜかわからないが。
「そんなの夏休みでいいよ」
「いや、それだとたぶん、俺が忘れる」
忙しいとつい、後回しになる。静内と名倉、ふたりとも困った顔でもって首を傾げた。
「でも、三人で一緒になんかするってのは、面白いね」
「だろう?」
「提案」
いきなり静内が笑顔で手を挙げた。もちろん、教室と同じように、指名した。
「夏休みの自由研究一緒にやろうよ」
「自由研究?」
名倉と同時に聞き返した。
「この学校では夏休み、自分たちのやりたい研究を自由にレポートにして提出するというのがあるらしいよ。他の子から聞いたけど、ファッション研究とか絵とか写真とか、なんでもありなんだって。だったら、私たちも好きなことやるのはどう?」
「釘刺しておくが、カラオケ研究はだめだ」
名倉が厳かに言った。
「悪い、俺もそこまで路を踏み外していない」
しかし、静内の話ももっともだった。夏休みに宿題が出ないわけがないと乙彦も覚悟はしていたが、いきなり自由研究とぽんと出されても、きっと途方に暮れていただろう。乙彦の性格上、何かの提案を出してそれに集中するのは得意だが、全くさらの状態で「何かをやれ」と言われても困る。これは中学時代、悔しいが思い知らされてきたことである。
そのたたき台を、三人で相談しつつ、作る。
面白い。
乙彦はもちろん賛成した。
「静内、お前、何をやるつもりだ」
「あんたたちが反対しなければ、青潟の街にある銅像の写真撮影と、その歴史とか面白いと思うんだ。それか青潟という街の歴史をもう少し突っ込んだりとかね」
──やはり歴史がらみだな。
静内の考えからすると、それも当然だろう。乙彦はさほど歴史に興味がある方ではないが、全く知らないことを頭ごなしに無視はしたくなかったし、なによりも静内の価値観を深く知る機会じゃないか、とも感じる。思えば顔を合わせることは多くなったけれどもなかなかクラス別の弊害で、語る機会は少ないと思う。
「名倉、どう思う」
「一口乗った」
異存はない。この段階で夏休み自由研究は決定した。
あくびをしながらA組の教室に足を踏み入れる前に、くっと息を止めた。
──これからどうするかだ。
カラオケで歌いまくりすぎて、今朝になるまで気付かなかったのだが、はたして古川は、
──藤沖に、俺が事情を知っていることを、伝えてあるのだろうか。
ひっかかるところがあった。
もちろん藤沖も、問題の渋谷という女子を見張りがてら連れ歩いているということだし、乙彦以外でもその話は流れている可能性がある。たまたま気付かなかったのは乙彦が外部生だったからだけかもしれない。内部上がりの連中同士ではまた別の情報が流れているのだろう。
──だが、しかしだ。
とりあえずA組の状況は問題ない様子だ。誰も藤沖のことを「やーい、お前の女は寝小便たれだ!」とかいってからかうことはない。また立村についても同様。陰口は叩かれているらしいがそれだけのようでもある。とにかく、うまくはいっている。
──まずは知らん振りで通すがいいか。
ポーカーフェイスは苦手だが、事情が事情だ。しかたない。
「藤沖、おはよう」
無理に顔をひきつらせて声をかけたこと、気付かれなかったようだった。
「ああ」
片手を挙げて机に向かい、藤沖はなにやら英語の問題集を解いていた。見たことのない表紙の副読本っぽいものだった。日本語は混じっていない原書のようだった。
「熱心だな」
「仕事だ」
短く答えた。あまりしつこく聞くのはためらわれた。
乙彦のみた限り、藤沖の様子には昨日に引き続き憂いのようなものが漂っている。ほんのかすかだが、いつものような兄貴風ふかす態度がなくなっている。もちろん乙彦にはそれでちょうどいいのだが、昨日古川たちから聞いた話と重ね合わせるとやはり気に掛かる。
「藤沖、ちょいと顔、貸しな」
タイミングよく、古川が藤沖の頭を軽くはたいた。男子たちにはそれが彼女なりの挨拶だという。それに続く下ネタトークも欠かさない。
「どしたのあんた。ちゃんとしぼってきたのかい? フレッシュミルク」
一瞬、男子たちの頬にゆるみが漏れる。みな、わかっているわけだ。
「何だ」
「廊下、悪いけど出な。例の件」
それだけの会話だった。ちらっと乙彦に片手を振り、古川は藤沖の腕をがっしり取り、廊下へ出ていった。
「古川がやると色気ねえよなあ」
聞こえよがしに誰かが呟く。
「腕組んで歩いてるって感じじゃあねえよ、あれ。連行するって感じだぜ」
さっきまで潤んでいた空気が、一気に笑いで和らいだ。確かに、藤沖と古川は評議委員コンビとしてカップルに勘違いされても不思議はないはずだ。なのに、そうならない。昨日の立村と古川との間もそうだった。
期末試験も近い。かなり気合を入れて勉強しなくてはならないのも自覚している。バイトもだいぶ慣れてきて、作業の流れも頭で考えず体で進められるようになってきた。ひとつのサイクルができるまでが一苦労だったが、今はその流れがつかめているせいかだいぶ楽になった。
その分、放課後以降は若干余裕も出てきている。
夕方バイトするよりもその点はよかったのかもしれない。
ただ、成績がどうしても上がらない。どうしても平均点を越すのがやっとの自分の点数には、目が慣れてこない。中間試験が乙彦の学生生活において最低の数字だったことを考えると、今度の期末こそなんとかしなくてはならない。
乙彦はぎりぎりにもぐりこんできた立村へ声をかけようとして腰を浮かした。同時に立村も振り向いた。目が合った。薄い制服のジャケットを脱ぎ、椅子の背にかけた。珍しかった。立村がYシャツとネクタイのみで授業を受けるのは、あまり見たことがなかった。さすがに暑かったのだろう。そろそろ短い雨の時期も終わり、一気に太陽の照りつけがちくちくささる感覚が残る。
やはりぎりぎりに古川と藤沖も戻ってきた。話が終わったのだろう。
古川から聞くまでは、やはり黙っていることにした。
「関崎、悪いけど相談」
何時来るか、待ち構えていた。たぶん昼休みあたりに声がかかると思っていたのだが、意外と早かった。なんと授業二時間目終了後だ。乙彦が顔を挙げると、
「ちょっと交換日記しよ」
「交換日記?」
「そ、かわいいじゃん。ってことで、このノートよろしく」
差し出されたのはちっとも可愛くない大学ノートだった。灰色の表紙で一回り小さい。文庫本タイプといえば近いだろうか。古川は声を潜めた。耳元にしゃがみこんだ。誰かの視線でちくりとやられたような気がしたが、それは気のせいだろう。
「絶対、なくすんでないよ。さっきの理科、私、ノート全然取らないでこっち書いてたんだからね。わかった?」
「それはまずくないか? 期末試験の山になるところがかなり出てたぞ」
「だからそれはあとであんたにノート貸してもらえばいいだけ。悪いけど関崎、次の世界史の授業、今度はあんたがノート取らないでそっち読んでてよ」
──そんな自殺行為、できるか。
乙彦は受け取り、古川の目の前で一気にノートを開いた。外に見えないよう立てて素早く読み取った。古川の書いた文字は、思ったよりも読みやすく、行動よりもはるかに女子っぽかった。
──関崎、昨日は君のワンマンショー、楽しませていただきどうもね。とりあえずその後の結果と今後の予定について全部書くから、覚悟するように。
まず、結論から言うと、今朝私が私の提案で杉本さんが納得。および関崎の案ですべてが決まったという形。ぱちぱちぱち。と言いたいとこなんだけど、立村だけがご機嫌ななめ。そりゃしょうがないよね。とにかく、話はついたけど、問題はこれから山積み。
「今朝?」
「そ。あんたがひたすら古本と格闘している時間帯にね、彼女とあいつと三つ巴で話し合いしたってわけ。関崎の提案通り。悪いけどあとはあんた、ノートで読んでちょうだいな」
別に口頭で話したってまずくないだろうに。しかたなく続きに目を通した。側に藤沖と立村がいる。ふたりにもしこの内容がばれたら古川はどう、言い訳するつもりなのだろう?
やましさいっぱいで溢れそうなまま、ページをめくった。
──あんたの熱唱をたっぷり聞かせてもらった後、さっそく立村と杉本さんと連絡を取り、善は急げってことで朝六時に学校で話し合いを持ちました。期末も近いしさ、片付けるんだったら早めの方がベストと思ってさ。で、一時間半くらい語り合った結果、杉本さんがあっさりと納得してくれた。杉本さんは、信頼できる人たちが信じてくれればそれでいいから、勝手な噂にはこれ以上噛み付かないって言ってくれたわけ。
ただ、この点が重要なんだけど。
杉本さんは本当だったら、渋谷さんを捕まえて白黒はっきりさせたい。本当だったら生徒会室できっちり話を付けたいんだけど、そんなことしたら渋谷さんが手首をまた切ってしまう恐れあり。だから学校内ではしない。それは納得してくれた。
ただし、杉本さん個人としては、どうしても直接、渋谷さんと決着をつけなくちゃ気がすまないとこもある。そりゃあまあそうだよね、杉本さんとしたら、濡れ衣着せられてただでさえまいってるのに。さらにその濡れ衣をもう少しがまんして着てもいい、と覚悟してくれたんだから、お礼のひとつくらいあったっていい、とは思うよね。
どちらにしても杉本さんの希望としては、渋谷さんとさしで話をしたい。
きちんとふたりの間ではっきり話し合いを持って、その上で受け入れたい。
彼女の要求はね、つまり関崎の提案と一緒よ。ほんと、びっくりしちゃったよ。
そこで次の問題として、杉本さんと渋谷さんをどこで話し合わせるか。
難題ってのはそこなのよ! 関崎!
だってそうじゃないのさ。学校内じゃあまずだめじゃん。中学校舎だったらその内容がばれちゃて、かえって修羅場になっちゃうかもしれないしさ。
かといって、どこかの喫茶店も、やっぱり他人の目があるし。
関崎の提案通りこの前のカラオケボックスがベストかな、とは思うんだけど、問題はお金がかかるってこと。やはり、そう簡単には連れて行けない。まさか関崎の家を借りるわけにもいかないし、ほんと困ってる。私の家でもいいけど、弟がいるからあまり後輩の下ネタをしゃべるわけいかないしさ。私のことなら別にいいけど。
夏休みに入るのを待つのもひとつだけど、できればお互いのためにさっさと片をつけたいし、まずは場所探しで頭の痛いこの頃。関崎、なんかいい案ないかな?
それと、もうひとっつ。
立村がご機嫌斜めな理由はね、私が杉本さんにぶつけた殺し文句なんだわ。
「関崎は、杉本さんが潔白なんだって信じてくれてるよ」
ってね。軽い気持ちで言っただけなんだけど、どうもそれが杉本さんにはきゅーんとしちゃったみたいで、こっくり頷いてくれたんだ。
しばらく立村があんたに変な態度取るかもしれないけど、それはさ、単なるやきもち。大目に見てやりなよ。どうせあんたは静内さん一筋だしそれは時間が来れば杉本さんもわかるはず。立村しか選ぶ相手がいないんだって覚悟してくれるはず。そこんとこだけよろしく。
最後に藤沖について、ひとこと。
あいつがなぜ、あんなに渋谷さんへ拘るのかは私も謎のままなんだけどね。
どちらにしても、関崎の案通りにまずは五人(私、杉本さんと付き添いの立村、渋谷さんと付き添いの藤沖)でどこかで集まることにします。杉本さんはふたりきりで、って訴えたけど、絶対にとんでもないことになるからそれは却下。たぶん渋谷さんの保護者と自認してる藤沖は許さないだろうね。で、立村もそうなるとくっつけなくちゃいけないし、あの四人だけで語り合うなんて想像するのも怖いから私が中立でお立ち合い。
どうだろう? 関崎? いい案あったら、ノートに書いて返してちょうだいな。
───
以上、ノートに綴られたものをすべて読み終わり、乙彦は古川に顔を向けた。
まだ、授業は始まっていなかった。藤沖の「起立・礼・着席」も聞こえていなかった。
古川の心配は取り越し苦労だったというわけだ。ついでに乙彦の読みがぴたりと当たった、そういうわけだ。
──よかったじゃないか。
まず、一安心というとこだ。乙彦からすると後輩女子たちの問題よりも、立村がこれ以上問題を大きくしたくない、と判断したことの方が大きかった。杉本梨南なりに判断した結果を尊重したのは正しいと思う。不必要に外野をたきつけることなく、かといって泣き寝入りするのではなくきちんと話し合いを持ち、白黒ははっきりさせる。どちらにしても杉本には不利な結果ではあるけれども、渋谷の命を救った……というのは大げさか……という事実は偉大だ。自分で泥を被る代わり、きちんとそれなりの礼を尽くしてほしいと願うのもまた本心なら、それはそれできちんと決着をつければいいことだ。
──それに、立村と藤沖ともうまく話し合いのテーブルにつかせることができる。
なによりも、これが一番だ。
ふたりの不仲で一年A組の空気はかなりよどんでいる。その状況を打破するきっかけともなればそれはそれでベストだ。立村も昨日のカラオケボックス討論会において、かなり本音で古川に言い募ったように見えた。藤沖の性格上、表面でつらっと流されるよりも、包み隠すことのない気持ちでぶつかって言いたいことを言えば、きっと理解し合えるのではないだろうか。おそらくふたりのこれまでの展開を聞く限り、単なる誤解に思える。心から憎みあって縁を切ったわけではなさそうだ。それなら、後輩たちのトラブルを解決するのと一緒に、自分たちのわだかまりも押し流してしまえばよい。一対一で語り合うこと以上に、人間関係を良くする方法はないと乙彦は思う。
──あとは、話し合いの場所の確保だな。
カラオケボックス内では「俺の部屋を提供する」と口走ったが、知らない女子をふたりも家に入れるわけにはいかないだろう。関崎家の連中に割り込まれる可能性大だ。これも却下となると、夏休みを待って空教室を押さえるか、それともカラオケボックスか、だろう。金がかかるとはいえ、話の内容からいって五人が演歌をうなって盛り上がるとは考えにくいので、一時間でなんとかなるのではないか。
──立村と藤沖のためにも、場所確保は慎重に選ばないとまずい。野郎ふたりが腹を割って話し合えて秘密が保たれる場所となると、あとは公園か、神社か、図書館か。
自分ひとりではいい場所が浮かばない。これはひとつ、事情を伏せた上で静内、名倉に相談してみたほうがよさそうだ。どうせあいつらとはまた放課後、顔を合わせるだろう。今朝の自由研究の話ももう少し煮詰めたい。それに、もしそういった秘密の場所が見つかれば今後は、自分たちも利用したっていいわけだ。
乙彦はノートを世界史の教科書下に隠し、すぐ授業ノートを開いた。あせることはない。考えるのは放課後でいい。まずは期末試験を乗り切らねば。