高一・一学期 45
どこで奴を捕まえるべきか、すでに古川は考えていたらしい。
「立村は伝書鳩みたく同じ道しか通らないから、ここで大丈夫」
「伝書鳩というのは失礼じゃないか」
確かに立村の性格上、同じ道を通って帰ることは当然だと思う。
しかし、乙彦が思うにそれは、
「男子なら大抵は、よほどのことがない限り違う道を通ったりはしない」
「ああ、関崎も同類だよ。わかる、わかる」
軽口を叩きながら五分ほど待った。大学の校門前で、少し汗ばんだ額をごしごしこすりつつ、乙彦は古川の様子を伺った。ここに来るまでの間、新しい情報を教えてもらったわけではないし、乙彦もあえて尋ねなかった。ただ静内と名倉には悪いことをした。あとできちんと乙彦なりの気遣いをせねばと思う。
「あんたら、仲いいよね」
いきなり、古川が乙彦につぶやいた。無表情だった。事実だし答えるしかない。
「ああ」
「外部生同士、話が合うわけ?」
「当然だ」
「特に、静内さんとは?」
「当たり前だろう」
自分でもなぜ、そう答えてしまうのか説明ができなかった。古川は何かを聞きたそうに口をしばらく動かしていたが、
「ま、人は人ってことだよね」
またぼつりと呟いた。
それにしても、古川の言動については正直、疑問符がついてしまうところがある。
──内部生の考えは俺にもよくわからないが。
先ほどちらと口走ったところからして、古川は立村を説得しようと思っているように見受けられる。つまり、杉本梨南へ濡れ衣を着せっぱなしにしろ、と言いたいのだろう。
──しかし、それは許されないことだろう。それに古川の性格上ありえないことだろう。
乙彦も同じクラスで三ヶ月近く過ごして来て古川こずえという女子の性格が、なんとなく好ましく思えるようになってきた。好きというよりも、「慣れ」だろうか。古川のいきなりかます強烈な下ネタトークすら、今はごく普通の挨拶に感じられる。また他の女子たちの言動と比較してみるとやはり、正論をしっかりと訴えているところが納得できる。
──少なくとも、べたべたつるむタイプじゃない。
友だちが少ないわけでは決してないし、それぞれのグループでちょこちょこ飛び回り愛想よく振舞っている。しかし特定のグループでべったりと女ボスになるタイプでもない。同じ要領で男子グループにも混じってはしゃべっていく。藤沖とも評議委員同士、それなりにうまくやっている様子だ。第一、乙彦にも平気で「あんた、今日の朝はちゃんとあんたのあれ、仕事してた?」などと声かけていくような女子だ。
八方美人といえばそれまでだが、特定の女子チームに加わって人を叩きたがる性格ではない。その点、静内とはまた別の意味でいい奴と思える。
そんな古川がだ。
──嘘をつけと、立村に勧めるのか?
乙彦の推理からすると、そう言う風にしか読み取れない。
──自殺がどうのこうのとか言ってたが。
この辺もまだあえて聞いていない。
──古川の性格上ありえないとは思うが、しかし。
もしも立村に古川がとんでもない要求をした場合、乙彦はあえて立村の肩を持つ必要がありそうだ。そのための証人であり、第三者ということならば、放課後これからの時間を費やすのも意味のあることだ。
立村は、乙彦の、青大附属におけるもっとも長い友人だ。
友人のためなら期末試験の点数など、諦めても差し支えないものだ。
突然古川が黙って校舎前から現れた人影を指差した。
「なんだ?」
聞いてみてすぐ気付いた。小さな影が校舎の出口からちらついているが遠目から見てもあれは立村だった。大学生たちと違うのは、青大附属の制服を身に纏っているところ。さらに折れそうなほどほそっこいところ。
「悪いけど、あんたは右、私は左で押さえるからね」
「押さえるもなんも」
「あいつ、私ひとりだったらなめてさっさと振り切って逃げるけど、関崎が一緒だったら言うこと聞くよ。さ、行くよ」
走りはしなくて、はや歩き。大またで古川は、真正面から立村に迫った。
いくらでも逃げようのある距離なのに、立村はそこから立ちすくんだまま、動かなかった。
──刑事ドラマかよ。
まるで犯罪者を捕らえにいく刑事コンビのひとりのようだ。しかも、先輩に置いてきぼりにされそうな後輩デカという、情けない役割ときた。古川刑事が立村の腕を静かに押さえた。もちろん手錠はかけなかった。
立村は逃げなかった。ただ乙彦が近づいてくるのをけげんそうに見つめていた。
「立村、言っとくが俺は」
答えを待つかのように立村は頷いた。鞄と一緒に英英辞書を抱えて、古川に押さえられた片腕をそのままにしていた。
「事情がよくわからん。だが、話を聞いた上でお前が正しいと判断したら、すぐに味方につく。それだけは信じろ」
「味方、か」
「たとえ古川相手でもだ」
きっと古川が乙彦をにらみつけた。裏切り者、ユダかお前、とでも言いたいのか。だがこれは関崎乙彦である以上、否定できないことでもある。
「古川、事情をまず聞かせてくれ。その上で俺は、どちらの考えに与するかを判断する」
「あんた、私に協力してくれるんじゃあなかったわけ?」
「俺は結局、お前からも立村からも、それと藤沖からも事実を聞かせてもらっていない。判断材料が少なすぎる」
もう一度、立村を見やった。どういうやりとりが古川との間にあったのか、それはわからなかった。乙彦が感じたのは、立村が古川の挑戦状を受ける気ありということだけだった。それは、自信のなすすべなのだろう。男子たるもの、最初から負けを覚悟して勝負するつもりなぞない。立村も外見のなよなよしたところでごまかされているけれども、内部に存在している核は、れっきとした男だ。乙彦は二年前、それを、水鳥中学の図書準備室でしっかと目撃した。だから、古川よりははるかに深く、それを見通せる。
「じゃあ、立村。言いたいことあるなら、とことん聞くよ。その代わり、デスマッチだから、その辺覚悟しときな」
初めて立村が口を開いた。古川に向かい、
「どこで話すんだ」
確認するかのように、重く呟いた。上に羽織った薄いブレザーが夕陽に透けて腕の形が覗いていた。
「ベストなのはホテルだけどさ、誤解されたくないよね。関崎もいるし、この面子で3Pってのもね」
立村の顔に露骨なこわばりが浮かんだように見えた。
「だからカラオケボックス行こう。歌い放題のとこ、見つけたからさ」
「了解」
「ちょっと待て。カラオケボックスだと金が掛かるだろう」
口を挟むのは、乙彦がカラオケボックスなどといった場所に足を踏み入れたことがないからだった。できるだけ、金のかかるところは避けたいのだが。せめて人気のない公園とか、スーパーの休憩椅子とか、いろいろあるだろう。最悪の場合は乙彦の部屋を提供してもいい。そこまで言おうとしたが、古川に制された。
「安心しな。学生は一時間九百円で歌い放題。三人でボックスに入るから三百円もらえれば終わるよ。ま、それ以上になったら誘った私が払うからさ」
男の面子、丸つぶれである。立村はその説明を聞かずにふたりを置いて、さっさと自転車置き場へと向かった。古川がすばやく乙彦に声をかけた。
「あいつの後ろについて自転車漕いでよ。私が先頭走るからさ。あいつも覚悟決めてるようだし、逃げはしないと思うけど、ケツに関崎がいるだけで圧力かけられるしさ」
「古川、繰り返すようだが、俺はまだ、どちらの味方でもない。おごられる気はない」
「いいよ。とにかく、今日はとことん立村と話をさせてもらう場所が必要なんだって。けどあいつと二人でしっぽりしけこむわけにもいかないしさ。あんたがいるだけで、たぶん話もきちんとまとまるよ。悪いね、関崎」
──カラオケボックス自体、校則違反じゃないのか?
言いかけた言葉を飲み込んだ。古川の言う通り人の「命」が掛かっているのなら、校則違反も今回だけは仕方がないことに思えた。いや、たぶん、行くことそのものは禁止されていないはずだ。思い直して少しほっとした。
──しかし、3Pってなんだ? パズルをやって頭突合せながら話しても、まとまるとは思えないが。
全く、青大附属の内部生が考えることはわからない。
それから先はすべて、古川こずえの思うがままに動いた。立村も不承不承ながら、自転車置き場から銀色の愛車を引っ張り出し、乙彦も中学時代から使っている三段ギア付きの自転車を、古川はいわゆる女子好みの、ハンドル前に籠がセットされているものを。
「三段ギア、ね」
しっかりチェックされてしまった。古川はすぐ立村の肩に手をやると、
「悪いけどあんた真中で走りなよ。逃げる気ないと思うけどさ」
囁くが、すぐそっぽを向かれてしまった。しかたなく乙彦も言われたとおりに自転車へまたがり、立村の真後ろにつく格好で漕ぎ始めた。まだ太陽は落ちていない。夕暮れにも、まだほんのちょっと、間がありそうだ。自転車の輪がからから回る影が、まだ薄い。
乙彦も青潟市の地理については決して疎いほうではなかった。だいたい学校近辺から駅前あたりまではだいたい見当がついた。しかし、駅を過ぎて後、古川が進んでいく道はどこか曲がりくねっていて、もちろん一度も通ったことなどなく、しかも乙彦が今まで感じたことのない妙な息苦しさのただよう空気が篭っていた。
信号で一度止まり、そっと振り返ってみた。
車が一台も走っていなかった。
車用の信号上には「本品山」と札があり。
──品山地区か。
今目の前にいる立村と、その町の繋がりははっきりしていて、でもその道のりはどことなく遠く、別世界のように思えた。乙彦が品山地区について知っていることと言えば、二十年以上前に、子どもが何人か誘拐され戻ってこなかったとされる神かくし事件の現場だったらしいということくらいだが、そこに自分の友人と言える立村が存在していることとその記憶とは、どうしても繋がらなかった。
古川が自転車を留めた。
いかにも工事現場といった風な黄色い柵が張り巡らされ、その奥には貨物列車のコンテナのようなものがたくさん並んでいた。特に彩りはなく、てっきりどこかの貨物汽車停車場かと思ったくらいだった。
「ここだったらあんたも安心して、語れるでしょ」
立村に古川はコンテナを指差した。
「あの中がカラオケボックスになってるのよ。完全個室だからさ」
──カラオケボックス? コンテナがか?
乙彦と立村、ふたりを引き連れて古川は足早にコンテナへと向かった。さっきまで青潟駅近くでは照っていた太陽が、完全に夕闇へと切り替わっていたのを感じた。
てきぱきと古川は受付で手続きをし、すぐに番号札を持って戻ってきた。古川の説明通りここのコンテナが個室となっているのだという。無言のまま三人で「5」と番号が振られているコンテナへと向かった。中に入ると自動でぱちんと灯りがついた。上には頼みもしないのにミラーボールが回り始めた。冷房はしっかり掛かっている。が、息苦しい。
「面倒だから、とりあえずなんか一曲、歌ってみる?」
立村は首を振った。小さな部屋でまず腰を下ろす。
「あんたに歌えなんて誰も言ってないよ。関崎、とりあえず景気付けに、どう?」
「俺が歌うのか? 何をだ」
とてもだがそんな脳天気なことをやらかす余裕なんてお互いないはずだ。手元の黒い革張りバインダーを広げ、縦書きの歌詞をざっと眺めてみるが、題名だけ知っていてもしょうがない演歌ばかり。いまどきの流行歌は一曲もない。
「ここね、まだレーザーカラオケ、入ってないんだよね。でもまあいっか。歌い放題だしさ。関崎も歌いたくなったら勝手に機械を操作してくれればいいよ」
──それはないだろう。
わりと広めの室内だったが、やはり三人入ると空気はよどむ。靴を脱がず、まず奥に立村が、真中に古川、戸口側が乙彦で並んだ。
「時間がもったいないから、さっさと話すよ立村」
ウーロン茶が届く前に、古川が口を切った。
「あんた、藤沖の言い分を聞かないで逃げるのはいいかげんやめなよ」
立村は黙ったまま、テーブルを見据えた。すぐに届けられたウーロン茶にも手を付けなかった。氷がかすかにちろちろグラスの中で音を立てた。
「あの藤沖がプライドかなぐり捨てて、あんたに頭下げてるんだよ。少しそれ、考えてやりなよ」
乙彦は膝に置いた歌詞カードバインダーを取り落とした。
「藤沖が、頭下げてるってどういうことだ!」
立村の表情は変わらなかった。
「関崎、あんたにも説明するから、まずは私の話を聞きなさいよ」
腰を下ろし、まずはストローで一気にウーロン茶をすすった。喉が渇いていた。
「関崎にあえてついてきてもらったってのはね、単に立村、あんたを囲い込むためじゃないってことは、わかっているよね。この問題が、杉本さんに絡んでいるからってことだってこと」
「だったら俺が話すことは何もない」
初めて立村が言い返した。
「俺なりに、自分なりの考えで行動していることを、古川さんに責められる筋合いはない」
──どういうことなんだ?
しばらく乙彦はこのふたりの会話に集中することにした。
青大附属に来て覚えた知恵。
人の話をとことん聞いてから行動すること。
知らない相手だったら仕方がないが、自分は立村をはじめ藤沖、古川、さらに言うなら杉本梨南とも細い糸で繋がっている。だったら、ベストを尽くしてよい方向にもって行きたいのは当然のことだ。
古川が語り始めた。背をぴんと伸ばし、立村だけに身体を向けた。
「立村、あんたが杉本さんを守ってやりたい、ってのはよくわかるよ。あんないいかげんな噂に巻き込まれて傷ついているであろう、杉本さんの味方でありたいってのはね。私もこの前杉本さんに会ってきたけど、あの子は強いね。本当に可愛いよ」
立村は返事をせず、また貝となった。
「それに、言っちゃなんだけどあの渋谷って子、今までの話を聞く限り自業自得だって気がするね。おねしょしちゃったことはとにかくとして、よりによってなぜ、自分のやらかしたことをごまかそうとしてパニックになるかってね。悪いけど私があんたの立場だったらきっと、杉本さんの味方になったと思うよ。冗談じゃない。美里も言ってたけど、当然ぶちぎれてあたりまえ」
「だろう? 古川さん、そう思うだろ?」
じっと立村が顔を上げ、言い切った。
「俺の言い分は間違っていない」
「そうだよ、立村。正論だったら当然そうだよ。けど、それでもさ」
古川の背筋は伸びたままだった。
「それでも私は、あんたに言わなくちゃいけないと思ってるんだ。立村、あんたが杉本さんをかばって、事実関係を中学の生徒全員に報せた場合、人がひとり死ぬかもしれないんだよ」
「死ぬ?」
言葉の終わりが少し消えた。立村の首がかすかに傾いだ。ミラーボールの細切れな光が立村の頬に当たっては消え、すぐに刺さった。
「あの藤沖がプライドかなぐり捨ててあんたに頼み込みにきたのはね、あの渋谷さんって生徒会書記の子を救いたいから、それだけなんだよ」
「ちょっと待て!」
ふたたび乙彦は割り込んだ。そうしなくてはいけない何かが突き上げた。
「藤沖が、例の女子を、救いたいからということか!」
ちょっとだけ黙りこみ、古川は頷いた。乙彦を振り返ろうとはしなかった。続けて語られた言葉を、乙彦は古川の背中にぴったり張り付くようにして聞いた。
「何度も言うけど、私は渋谷さんという子の味方になりたいから言ってるわけじゃない」
しつこいくらい繰り返した。
「なんで杉本さんの部屋におねしょふとんが持ち込まれていたのかとか、そういうわけのわかんないトリックが仕掛けられてたりしたもんだから、最初みな混乱してたらしいよね。もっとも心あたりなんて全然ない杉本さんからしたら、そんな濡れ衣、知ったことじゃなかったようだしさ。堂々としていたとこもあるだろうし。でも、どっちにしても真実はひとつ。立村だってそれは信じていたでしょう」
まだ立村の返事はない。黒い、白い、それぞれのミラーボールの欠片が降り注ぐ。
「もし、渋谷さんが杉本さんみたいに強い根性持っている子だったら、たぶん立ち直れるんじゃないかって私も思う。自分で自分のしでかしたことを責任取るって大切だよ。けど、渋谷さんは、それができなかったんだよ。それ、わかるでしょう」
──それが、まさか。
思い当たる言葉。それが「死」。
乙彦には遠い未来の、考える気もまだない一文字。
「もちろん、私が聞いた内容は本当だかどうだかわからないよ。けど、少なくとも杉本さんは、同じ立場に置かれた時、決して死のうとは思わないよ。きちんと、責任を取ることができる子だよ。女子同士、可愛い後輩として、そう信じるよ。渋谷さんが自殺未遂をしでかしているとか、それでも学校には通おうとしていて、精神的にぼろぼろになっていて。そういう状態を学校側でほっとくわけ、いかないじゃないのさ」
立村が顔を上げ、じっとにらみつけるようにまた俯いた。
古川は動じていない。
「杉本さんを知っている人たちは、あの子がそんなことしでかすわけがないってわかっているよ。そう信じてくれている子がたくさんいる。あんただってそのひとりでしょう、立村。だから杉本さんならきっと、強く生きてくれる。噂なんてばかばかしいって無視してくれる。絶対に死のうなんて思ったりしない。杉本さんなら、絶対に大丈夫。だけど、あの渋谷さんは耐えられそうにないし、今この瞬間にも、藤沖が見張っていない限り、かみそりで手首を切ってしまうかもしれない、そんな状態なんだよ」
「古川さんは言っただろう。それは自業自得だってさ」
立村がかすれた声で言い返した。
「それに、どうして杉本が、噂に負けないで自殺未遂なんてやらかさない強い女子だってこと、決め付けられる?」
「あんた、杉本さんのこと、信頼できないわけ? あれだけ可愛がってたら、それだけあの子の強さ、わかるでしょうが」
「強いなら、ほっといてもいいってことか!」
いきなり立村が鋭く言葉を切り出した。今まで俯いていたその顔には、明らかに火が燈っていた。ミラーボールの光の欠片がさらに立村の表情へ刺青のようなものを施していくかのようだ。身が凍った。動けなかった。古川の背に張り付いたまま乙彦は、次の立村の言葉を待った。
「最初に俺も言っておく。俺もその話を一番最初に聞かされた時、杉本にはっきり言ってある。現場の状況を確認できない以上、俺はその噂を否定はできない。イエスかノーか、その事実がどちらであっても、俺は杉本に対しての態度を変える気はない」
「あんた、それって女子の心を逆撫でしまくる内容じゃないのさ!」
──いや、確かに立村の言い分は正しい。
思わず頷くと、立村の凍った視線が乙彦に飛び、少しだけ和らいだように見えた。
「だから修学旅行で何が起こったかなんか、俺はそんなの関わる気なんてさらさらない。ただ、その噂を黙って耐え忍べと命令する奴らには、堂々と立ち向かえ、とだけ伝えてある。杉本の正義に基づいて、それは当然のことだろう」
「悪いけど立村、あんたの言ってること、全然わからないよ」
女子にはどうしても伝わらないのだろう。乙彦にはよく理解できる思考なのだが。
「古川さん、杉本が去年、どれだけ惨めな思いをさせられたか、話は聞いているだろう」
「もちろん、あんたからも美里からも」
「もしあの時、杉本が手首を切っていたら、同じようにみな、同情したか?」
古川こずえは引かなかった。
「杉本さんは決して弱い子じゃない。そんなことするわけない。私はあの子を信じている」
「いいかげんにしろ!」
一、二度首を振り、立村が立ち上がった。決して物を投げるでもなく、荒々しくもなく。ただ、その燃える炎はかつて乙彦が見たものと同じだった。目の前でストレートパンチを食らわされひっくりがえった雅弘を見ているのと同じ光景だった。
──まずい。
乙彦も腰を浮かしかけた。が、膝を古川の片手で思いっきり叩かれた。力が抜けまた座り込む。大丈夫だろう。あの時は雅弘が相手だったが、目の前の古川は下ネタ好きでも一応女子だ。手は出さないだろう。
「話は簡単だろう。杉本が何もしてないのに、濡れ衣着せられたから、どちらが白か黒かはっきりさせたいと思っている。そこでもうひとりの噂の張本人と一度さしで話をしたい。それできちんとけりをつけて、終わらせたい。それのどこがまずいんだ? 相手が逃げ回っていて、それで曖昧なまま噂だけが飛び交っている。その間の杉本の、いわゆる精神的苦痛ってどうなるんだ? 学校側は杉本が青大附属から来年いなくなるとわかっているから、多少のことはがまんしてもらえばいいとでも思ってるんだろう。けどさ、杉本を勝手に強い女子扱いして、もし壊れたらどうする? 古川さん、杉本が百パーセント、自殺しないと言い切れるその根拠ってなんだよ。ありもしない噂に耐えられるだけのずぶとい神経を持っているって、そう断言できるのはなんでだ? 信じているからって言ったよな。信じているってその根拠はどこにある? 見た目が強そうだから、たかがこの程度の悪口では傷つかないって決め付けてるのか? 自分でもない相手を、勝手にそう決め付けられる、その根拠ってなんだよ。俺には全く理解できない」
「立村、あんた、自分で今、何言ったかよく、覚えておきな。それともうひとつ。藤沖と渋谷さんの関係、一年前の立村と杉本さんにそっくりだよ」
古川こずえは冷静なままだった。
「どういうことだよ!」
「話は簡単だってこと。あんたが一年前、必死になって杉本さんを守るため駆けずり回っているその姿が、今の藤沖とそっくりだってこと。藤沖はね、生徒会の後輩だった渋谷さんを守るため、他の後輩たちの軽蔑も覚悟の上で、あんたに土下座したんだよ。いい、わかる? あんたが藤沖の話を聞こうとしないのは、立村、あんたの逃げであり、みっともない復讐でしかないよ。立村と杉本さんを傷つけた奴らに対して、やっとざまあみろって言い放つチャンスを手放すもんかって意固地になってる、そっちの方がずっと醜いよ」
「醜い? 復讐? 俺はただ」
いきりたつ立村に古川は言い放った。
「復讐したい気持ちはわかるよ。けど、全く理由も聞かないで一方的に藤沖を無視することはないじゃないって言いたいの。藤沖が必死になってあんたと和解したい、あんたの気持ちをようやくわかったって、そう言いたいってこと、どうして想像できないわけ? あんたと藤沖との間になにがあったかは聞かないけど、あいつが渋谷さんのことを通して、ようやく立村の気持ちを理解したと感じたんだったら、また新しい関係が作れるんじゃないの? 私は女子だしさ、男子の気持ちなんて全然わからないよ。けどね、立村のように、やっといばれる立場になったから、藤沖の気持ちを蹴飛ばしたままでいるっていうんだったら、私は悪いけどあんたを軽蔑するよ」
ふたりの言い合いがエスカレートする中、割り込むことすら罪に思える。
──俺は当然、立村の味方だが。
やはり男女の差だろう。明確に立村は、杉本梨南を守るための理由をきちんとあらわしている。ただ盲目的に杉本梨南の味方としてつくのではない。してても、してなくても、どちらにしてもまず人間関係は変わらないことを明言している。その上で、白黒はっきりつけたがっている杉本を支援する。それもまた、もちろん、自然なことだろう。もちろん渋谷という女子が不安定な精神状態のため、それに耐えられないというのならばそれはそれでしかたないことだ。だからといって濡れ衣を着せられたまま、耐えろというのはやはりおかしい。どういう理由があっても、受け入れるべきではない。
しかし、藤沖がからんでくると少し事情も変わってくる。
──あいつが立村に土下座しようとまでした理由が、それなのか。
もちろん古川の言葉を鵜呑みにはできないにしてもだが。
生徒会時代の後輩をかばおうとするその気持ちゆえに、立村と対話を求め、できるだけ穏便に済ませようとする男気は理解できなくもない。藤沖の性格から考えて、おそらく正論で納得できるところは引くだろう。きちんと相手を立てて話をすれば、立村も理解するだろう。しかしそれをあえて嫌がる理由を古川は、「やっといばれる立場になったから、藤沖の気持ちを蹴飛ばしたままでいる」と表現した。立村と杉本梨南との繋がりと、噂に聞く杉本の言動を考えるとおそらくそうしたくなるような出来事が一年前に起こったのだろう。だが、それも決して正しいことではない。お互い、真摯に向かい合い、話し合いをすればそれこそ「話は簡単」だ。立村と藤沖とは理解し合えるだろうし、中学の後輩たちの問題も落ち着く。古川が恐れているような「人が死ぬ」ことへの不安もなくなるだろう。
第三者からみると、こんなに簡単なことなのに、なぜふたりは言い争うのだろうか。
──かつて俺と総田とがやりあっていた時も、こう見えたんだろうか。
こういう時、側で観ていた雅弘はなにをしていただろうか。
──あいつなら、きっとこの場でこうするだろう。
──「おとひっちゃん、いいかな、俺」とか言うな、きっと。
無意識のうちに乙彦は、かつて雅弘が側でしたようなことを、していた。
「悪い、一曲、歌わせてくれ」
立ち上がり、肩ほどもあるどでかいカラオケ装置の電源を入れた。さっき取り落とした歌詞カードファイルを拾い上げ、唯一歌えそうな「砂のマレイ5主題歌」をボタンで入力した。使い方は説明シールを見ながら行えば簡単だ。マイクの電源もONにした。かるくハウリングがしたけれども、指で叩いてすぐ整った。
「とりあえず、聞いてくれ、頭が冷えるだろう」
すぐにイントロから歌詞部分に入ったので、歌うしかなかった。
マイクの使い方は慣れている。しょっちゅう水鳥中学生徒会の行事で握っていたから。
ただ歌ったのは初めてだった。初めて、マイクを通して歌った時の声を聞いた。
身体全体に、力が漲った。目の前のふたりを無視し、乙彦は天井のミラーボールに向かい、何時の間にか覚えていた振り付けでとことん身体を動かしていた。
曲が終わったとたん、拍手が鳴った。
当然客はふたりだけだった。
──少しは頭が冷えたか?
決して自分が音痴だとは思わないが、いきなりわけのわからない言動をしたことに、ふたりがどう反応するか、正直想像できなかった。ただ二人の激しい言い合いを一旦クールダウンさせるためには、なんらかの形で空気の入れ替えが必要だった。それが、乙彦の判断では目の前のカラオケだったにすぎない。
「関崎、お世辞でなくて、本当に上手だ」
「私も同感。あんたってさあ、やっぱり」
言葉を切った古川の顔には、つい三分前までよぎっていた能面のようなものは消えていた。いつものあっけらかんとした笑顔が浮かんでいる。そのままふと、立村をちらりと見た。立村も戸惑った風にまた俯き、それでもまた細かく頷いている。
──今がチャンスだ。
乙彦はすばやく、立村と古川の間に割り込んだ。というよりも、古川を押し出す格好になった。
「古川、今の話を聞く限り、俺は立村の味方になるわけだが」
「あんた、せっかくいい歌歌ってくれたくせに、いきなり現実に戻すってことないっしょうが」
いや、そんなわけではない。改めて立村とも顔を合わせた。気まずそうにまた目をそらす。
「だが、事情は大体把握した。俺も一年A組の規律委員として、一言言わせていただくが、すべてを丸く収める方法はあるんじゃないかと思う。あくまでも俺は立村の味方だが、藤沖にも並々ならぬ恩がある」
ふたり、頷いている。きっと乙彦を藤沖の弟分として見ているに違いない。
「だから、俺なりの案をひとつ、聞いてもらえないか。あ、もしよければまた、あとで歌っていいか? 腹から声を出すってのは、本当に気持ちいいな。部屋でパズルするよりも面白い」
笑いこけている古川を無視し、立村は頷き、ウーロン茶に手を伸ばした。
氷は完全に溶けきっていた。