高一・一学期 43
「端的に言うとだ。生徒会所属の渋谷という女子が修学旅行中に寝小便したということが、すべての発端なのか」
古川は肩から力を落とし、霧島は堂々と、それぞれ頷いた。
「修学旅行と生徒会活動とは関係ない話のはずだが、その渋谷という女子をなぜ生徒会から追い出さねばならなかったのか、その理由をまず説明してもらいたい。もちろん、なんらかの理由があるからだろうが」
「もちろんです!ありがとうございます」
いかにも「わかってもらえましたか!」と言わんばかりの微笑みを振り向けると、霧島は古川ではなく乙彦に姿勢をただし、語り始めた。
──まじかよ。そんなことあるのか。
乙彦の本心を見抜いたかのように霧島は、しゃちほこばったまま説明を始めた。
「僕は渋谷先輩ががなぜそういう失敗をしでかしたことについては興味がありません。どうでもいいことです。憤りを感じているのはその後のことです」
声を高らかに。
「僕が仕入れた情報によると、その出来事が明るみに出たのは修学旅行が終わって二日目のことだ、そうです。信頼できる情報筋によりますと渋谷、いやSさんとしておきますが」
いきなりイニシャルを使い出す。
「なんでも、宿泊先から弁償の要求があったそうです」
「何を弁償するんだ?」
「お察しの通り、汚れた布団一式です」
「そりゃそうだろう」
それは納得した。霧島はさらに語調を強めた。
「学校側との間でどういうやり取りがあったのかはわかりませんが、その張本人と親が謝るのは当然のことです。さっそく呼び出されたそうです」
「渋谷さんが?」
「の、親が、です」
古川は確認程度の相槌を打っている。何か思うところあるのか、かばんを抱えたまま顎にこぶしを持っていき、首をかしげている。
「ご愁傷様、だとは思うけどね。そりゃ当然そうするしかないよね。けど、素朴な質問なんだけど、その情報って本当に信頼できる情報筋なの? 霧島、確認してないよねえ」
「僕は見てませんが、他の生徒から聞いてます」
言い放ち、霧島はさらに仔細を説明し始めた。
「ただし、修学旅行終了後二日目の段階では、当然何が起こったのかはっきりしたことはわかりません。学校側も好き好んでしつけのなってない女子が存在することを表明したくはないでしょう。当然、隠すつもりだったと見受けられます」
「そうだよねえ、修学旅行でのおねしょなんてさ、私だって死にたくなるよ」
穏やかに、でも鋭くつっこんでいく古川。聞きたいことはあるのだろうが、なぜか霧島に一方的に語らせようとしている。女子にしては珍しい。
「知ったことではありません。その一件が明るみに出たのは、一週間後、別の人がしでかした失態として、噂が広まったからです。その人は……」
「ああいい、これ以上個人の名前出さなくたっていいよ」
いきなり古川が押し留めた。不承不承、霧島も飛ばして話を進めた。
「とにかく、別の三年女子がしくじってふとんを汚してしまい、それを隠そうとして押し入れに布団を押し込んで出発し、しかもその際シーツをSさんのところに押し込んでごまかそうとした、という噂が流れたのです」
よくわからない。乙彦はもう一度聞き返した。
「どういうことだそれは。関係ない女子が濡れ衣を着せられたとでもいうことか」
「その通りです。噂は全く根拠のないところから流れてきたようですが、たまたまその女子が嫌われ者だったこともあり、周囲はその話を信じ込んでしまったそうです。実際、修学旅行から三週間経った今でも、布団汚しの犯人はその三年女子なのに、Sが犯人扱いされてしまい親まで呼ばれてしまったという説を学年ほぼ八十パーセントは信じ込んでいる様子です」
確かに、ややこしい話である。
しかし、ひとつ疑問がある。
──霧島はなぜ、噂を嘘だと断言しているんだ? 八十パーセントが新しい説を信じ込んでいるということは、こいつもそれを鵜呑みにして不思議はないはずだが。
乙彦もおそらく、そう考えるに違いない。何か、決定的な証拠がない限りは。
補足説明および質問をしてくれたのはやはり、古川だ。
「霧島に確認したいんだけど、どうしてSさんが布団版伊能忠敬と決め付けられるわけ。私もいろいろなところから話聞いているけど、どっちにしても証拠がなくてグレーゾーンのままなんだっていうのが現在のところ一番信じられてる説みたいよ。まあ、私も結論はやっぱりSさんだろうと思うけどさ」
「まず、濡れ衣を着せられた三年女子はきっぱり否定しているそうです。当たり前ですよ。また、修学旅行後のSの態度が実にみじめったらしいもので、どう考えてもあれは黒であるというのを体現しているでしょう。その他もっと具体的な証拠も持っていますが、あえてここでは言いません」
──その具体的証拠とはなんなんだ?
聞きたい。古川が振ってくれないものか。
「まあね、濡れ衣の彼女もとばっちりって顔、してたもんね。でもどうしてその濡れ衣がはれないの? 彼女に直接はっきり否定しろって伝えたんだけどね、『信じたい奴らには信じ込ませておけばいいんです。私は何を調べられても恥ずかしいところなどありませんので』って堂々たる態度だったもん。それがかえってまずいのかな、って気はするんだけど」
「そうですね、確かにあれはまずいです。だから僕の方から、きっぱりと意思表示したわけです」
霧島は膝に手をおき、生真面目な顔ではっきり言い切った。
「とっくの昔に、あなたのしでかした姑息な言動を僕はすべて知っているし、そんな人間とこれから先生徒会活動なんぞしたくないと、ですね。それだけを生徒会室にて伝えたところ、さすがにSは狼狽していましたよ。あれから、用事がない限りSは、生徒会室には来なくなりましたね。僕としては、仕事がはかどるので助かります」
すでに霧島は、渋谷のことを「先輩」とも「さん」ともつけず、ただ「S」とだけ呼んでいた。
──つまりこういうことか? 渋谷という女子は修学旅行中に寝小便をしでかして、それを隠そうとして悪あがきしたにもにもかかわらずあとでばれた。ところが中学の連中はあとから流れたありもしない噂を信じ込んでいる。義憤を感じた霧島は、ぶちぎれて渋谷を生徒会から追い出した。これが真相か?
まとめてみれば単純な話だ。
乙彦も確かにその気持ちは理解できる。
決定的な証拠に関する説明がないのは少し説得力に欠ける。しかし、古川の結論も「渋谷=当人」として出ているわけだし、全く根も葉もないわけではないのだろう。霧島本人も、別のルートから確実な情報を得ているとすれば、七割から八割方、渋谷の失態として結論付けてもよいはずだ。
しかし、噂の方が今だに生き残っているというのはどういうことだろう。
「全く根も葉もない噂ならば七十五日で消えるはずだ。まだ三週間だから二十七日しか経っていない以上、黙っていれば噂も消えるんじゃないか」
乙彦は霧島に語りかけた。
「いえ、学校側および、生徒側はできれば噂の相手がしでかしたことであれば一番無難におさまると考えているきらいがあります。青大附属という学校はことなかれ主義で有名です。救いようのない馬鹿な生徒を退学させず、卒業式までおいてやったり、殺人未遂を学校内で起こした生徒を転校させてごまかしたり、下着泥がいるにも関わらずそいつの親の金で結局はうやむやになったりとですね。今回の一件は過去の青大附属事件簿に比べれば、ささいなことではありますが、こういうことが表沙汰になれば少しはこの学校も風通しがよくなるのではないですか」
「下着泥? 殺人未遂?」
思わず問い返す。夕陽がだんだん濃くなる中、石とアジサイの色合いが滲んできた。
「そうです。先輩たちの代ですよね」
古川に問う。無表情のままでいる。
「そうなのか?」
「後で説明するよ」
あっさり流された。むしろ心ここにあらずといった風に、今日何度目かの溜息を古川はついた。
「霧島」
だいぶ人も少なくなった。そろそろおいとましないとまずそうだ。古川は立ち上がりながらまた、やさしく霧島に話し掛けた。
「あんたが怒るのは無理ないよ。わかるよわかる。今日私がここに来たのはさ、あんたを責めるためじゃないんだよ。こんなくだらないことで、生徒会長のポストのがすなんてばかばかしいじゃないのさ。あんたがそういう風にはっきり言い切った以上、渋谷さんももう覚悟決めてるだろうし、それに濡れ衣の彼女もなるようになるさって感じのようだし。だからさ」
肩にぽんと、手を置いた。
「いいかげん、許してやりな。心広いところ見せてやってさ。そしたらうちの学校内で密かに思い当たる節のある女子たちがさ、感謝するよ。霧島くん男前ってね」
「そんなレベルの低い女子たちに騒がれてもなんとも思いません」
「あっそ。それでもいいけどね、ただこれ以上渋谷さんを仲間外れにしていたら、どんなに正当な拒絶理由があっても、即、『いじめ』のレッテル貼られるよ。早いうちに、誤解といておいたほうが身のためだよ」
「古川先輩、ではお伺いしますが」
いきなり霧島が向き直った。きっと目が釣りあがっている。王子さまスマイルなんて過去の話、乙彦も身構えた。
「嘘をついて他人に自分のしでかしたことをなすりつけようとする、そんな人間と同じ空気を吸いたいとお思いですか? 僕はいやです。一瞬たりともそんな人間と席を同じくしたくはありません」
ふかぶかと一礼した後、
「ご助言、ありがとうございます。それでは失礼します」
すたすた中庭の出口へ歩いていこうとし、また振り返った。古川に大声で呼びかけた。
「立村先輩によろしくお伝えください」
──なぜ、立村なんだ?
アンテナがぴくりと反応した。いつのまにか汗も引き、すっかり空も赤味が黒味へと移行しつつあった。かといって暗いわけでもない。
古川にスリッパを職員玄関へ返してもらい、乙彦ひとりだけ先に生徒玄関から出た。
一年前の自分を観るはずだったのに、なぜか霧島の姿には違和感を覚えてしまった。あの口調もそうだが、どうも自分の過ごしてきた水鳥中学と違う空気に戸惑ってしまったという方が正しいのかもしれない。
「お待たせ。悪いね」
「古川、いきなりだが」
「つきあわせて申し訳なかったよ」
古川がすぐ駆け戻ってきた。時計を覗きこみ、「うわ、もうこんな時間だ」と慌てている。
「あの霧島って子ね、やたらととんがってるように見えるけど、結構つらい思いして来てるんだよね。自分で自分を守るので精一杯って感じ? かなり先輩に対して失礼なことわめいてたけど、大目に見てやってよ」
「だが」
乙彦の言いたいのはそういうことではない。しかしくちばしをはさませてもらえない。
「あんたには何がなんだかわからない展開かもしれないけど、私からするとたぶん、だいたい、こういうことかなってことは見当ついたよ」
「どこが?」
またわけのわからないことを言い出す古川に、どう対応していいかわからない。
「俺には、中学旅行の騒ぎがどうして古川に関係あるのかがわからないが」
「そうだよね、まあ、わからなくたっていいじゃない」
「藤沖や立村に関係のあることなのか?」
古川は黙った。ゆっくり俯きながら歩いていた。乙彦もさらに押した。
「古川、お前が今日、あえてここに来ようとした理由とはなんなんだ? なにも後輩たちの思い出話を聞かせてもらうだけじゃないだろう?」
やはり黙っていた。古川にしては珍しかった。
「さっきちらっと話していたな。高校の方にもその話題は影響があるとか。それにだ」
言葉を切り、本当に気になった一点を。
「霧島もやたらと立村の話をしていたが、関係があるのか?」
ぴくんと古川が立ち止まった。目を向けはしなかった。
「立村がこの一件に関係あるんだな。それと藤沖も」
「ちょっと待った関崎!」
語気荒く、古川が怒鳴った。
「これ以上はさ、まだ確定したわけじゃないんだから、うるさく聞くんじゃないよ」
「連れてきたのは古川の方だろうが」
「今日はね、あんたが一度、中学の校舎を見てみたいって言ってたから連れてきたんだって、それで終わらせたっていいじゃんよ。それで来年の生徒会長になるであろう、霧島を紹介したんだってこと、それでいいじゃん」
「そんなことだけじゃないだろう!」
荒れればこちらも荒れる。
「中学のことは俺も正直どうだっていい。寝小便やらかしたんだったら干して旅館に弁償すればそれでいい。俺が知りたいのはそれと藤沖、立村の方とどう関係があるのかってことだ。古川、関係なくてあんな真面目に話をしようとするわけが、ないだろう? 霧島がこれ以上渋谷とか言う女子をいじめさせないようにするとか、その程度の話題じゃないだろう?」
すっかり顔の表情が読み取れない路端、乙彦は真正面から古川を見据えた。立ちはだかった。
「不確かな情報、集めてどうするのよ」
「藤沖と立村を和解させるきっかけになるかどうか、判断する」
「無理かもしれないよ」
もう数え切れないくらいの溜息をまた、ひとつもらした。
「どうせ、あんたの耳にも入ることだしね。私も隠し事は好きじゃない。ただ、もうひとつ確認してからでないとね、すべて話をすることはできないよ」
「ここまで熱心に古川が調べるということ自体に意味があるはずだ」
「じゃあ、関崎。私がいいと言うまで、このことは絶対に他の連中に言うんじゃないよ。ひとつだけ、教えるから、約束しな」
周りを見渡した。古川の顔はもう影のみで薄く揺らいでいた。乙彦はその答えを待った。
「濡れ衣着せられた三年の女子って、杉本さんなんだ」
──立村の出番は、確かにある。
古川の瞳を覗き込み、乙彦は約束を守る証に、しっかり頷いた。