高一・一学期 38
新歓合宿が終わってからは今まで以上に周囲から、じろじろ見られることが多くなった。
「いい意味でも悪い意味でも、有名人だからな」
その通りだと乙彦も自覚していた。
藤沖が笑いながら、合服と呼ばれるブレザーを脱いだ。すでに半そでだ。
「しかし、うちの学校はなんで」
「お、うちの学校、か」
言いかけたことを忘れてしまい黙ると、藤沖は、
「染み付いているな。心配するなもうお前は青大附属の学生だ。外部だとか内部だとか余計なこと考える な」
「あ、そうだな」
乙彦は不承不承ながら頷き、やはり半そでのシャツで襟のボタンを開けた。すぐに締めた。話すことを 思い出した。
「GWからせいぜい六月半ばの間だけ着る服を、なんであえてそろえなくてはならないのか、俺には理解 できない」
「ああそのことか」
いつものこととはいえ、金のかかることの多い学校ではある。藤沖もそのあたりはよく理解していくれ ているようだ。
「結城先輩の命で揃えただろう」
「揃えた、というよりも、もらったというべきだ」
アイドルマニア……もとい、評議委員長として名高い結城先輩になぜか気に入られた乙彦は、いろいろ と卒業生たちの残した制服や教科書などを譲ってもらい、なんとかやりくりしていた。両親もさすがにそ こまで生徒同士で融通してもらえるというのに驚き、一度結城先輩のご自宅へ挨拶に行かねばとあせって いるようすだった。礼儀としては当然だが、もうひとつ見せてはいけない先輩の一面を知る乙彦としては 、悩めるところである。
「だが、大抵の場合、冬服と夏服の二種類で十分なんじゃないか」
水鳥中学の際はそうだったはずだ。工業高校に進んだ雅弘も同じことを話していた。
「どうせ半そでで過ごせばいいことだろう」
「いや、うちの学校の生徒はやたらと潔癖な奴が多い」
藤沖は襟のボタンをふたつ外した。合宿が終わってから三日もたたぬうちに天気はくずれ、雨が降り続 くことの多い季節に入った。もともと青潟は、梅雨がないはずなのだが。
「におうとか汚れるとか、やたらと神経質だ。俺からしたら一週間くらい風呂に入らなくても死にはしな いと思うが、この前の合宿のように、一日三回も風呂やらシャワーやら浴びたがる人種もおるわけで」
「だいたいわかった」
視線を窓辺の立村に向けた。確か合宿の時は五枚以上アイロンをかけたシャツを持ち込んでいた奴だ。
「この調子だと近い未来は香水をつけろとか言われそうだな」
「ああ、近い未来」
乙彦は汗ばんだ首筋を軽く叩いた。
「それはそうと、これから補習だな。わからないことはないか」
もう入学してから一ヵ月半なのだから、そういう念押しをする必要はないと思うのだが。
「別にないが」
返事に拍子ぬけした表情でもって藤沖は、付け加えた。
「ああそうだ。お前に言うのを忘れていた」
さて、はてな? 乙彦は立ち上がりかけた。振り返った。
「C組の連中の件だが、俺がきちんと話をつけてきた。安心しろ」
「なんだそれは」
「合宿で言っていただろう。お前にいちゃもんをつけてきた奴がいたとな」
立村相手に詰め寄った一件のことだ。いやな予感がする。口は災いの元か。
「それがどうした」
「難波に一言、言っておいた。もう余計なことをすることはないだろう」
「どういうことだ?」
気色ばむ乙彦にしてやったりという顔で、
「たいしたことじゃない。ただ、俺は人に露骨な嫌がらせを行うのはいかがなものかと伝えただけだ。難 波も天羽たちと同じグループだ。そのあたりはすぐに納得したようだぞ」
「別に俺は何もされたわけではない」
「いや、十分すぎるほど証拠は挙がっている。とにかくこれ以上のどたばたは起こらないだろうし、また 何かがあればまた俺にまず伝えろと言っておいた」
かちんとくるものがある。うまく言えないのだが藤沖は乙彦が単独行動を取ろうとすると、かならずひ とつダメだしをしてくる。決して悪意ではないし本質が単純勘違い野郎であることも理解しているつもり なのだが、やはりむかっとくるのは否めない。
「俺は頼んだつもりはないが」
「A組の評議委員としてやるべきことを行っただけだ」
──評議委員。
葵の御紋だ。言い返せない。思わずすくむ。藤沖は満足げに立ち上がり、ブレザーを肩にかけた。
「補習、がんばれよ。先に帰るぞ」
乙彦よりも先に教室を出て行った。
──余計なことしやがって。
だいぶ慣れたつもりだが、それでも藤沖の兄貴分吹かしにはいらいらする。
第一、天羽とのいざこざうんぬんは直接乙彦が談判する内容であって、第三者の藤沖に割って入られる ようなことではない。あえて当事者がいるとすれば緩和材の役割を果たした立村だろうが、当の本人は一 切係わり合いを拒絶している。現に乙彦は立村と新歓合宿二日目以降一切口を利いてもらっていない。
今もその通り、ちらと立村の顔を覗き込んで片手で合図をしても、気まずそうに頷いてそっぽを向くだ けだ。きついことを少々ぶつけすぎたかとは思うのだが、もう合宿が終わって二週間近く経ったのだから 過ぎたことだと流せばそれですむだろうに。藤沖ではないが、やはり立村はわからない奴だ。
いや、立村よりもいらだつのは藤沖の方だ。
──この上下関係、なんとかならないのか。
もちろん乙彦も上下の関係をしっかと持っているつもりだし、先輩には頭を下げ後輩の面倒を見る、こ れは普通のことだと思っている。しかし、同級生同士で階級差をつけるというのは少し違うのではないだ ろうか。あくまでも、平等であるべきだ。
──俺だけじゃない、それは。
英語科クラスに関して言えば、たとえば片岡。本人は特に気にも留めていないようだが、麻生先生のか わいがりぶりは目に余る。えこひいきとささやかれないのは、もともと男子同士そんな細かいことにかま っていられないからであり、乙彦も本来ならば一日で忘れる。気になるのは自分が、クラス内の階段下で 腰掛けているような気持ちにしょっちゅうなるからだ。
しかもみな、善意でやることだから、始末が悪い。
乙彦はもう一度立村に軽く手を挙げた。やはり、無視された。
補習教室はころころ変わる。一番多く使われる教室は一年A組だが、時には二年B組、また時には美術 室などと指定される。この日はなぜか職員室脇の準備室なるところまで来るよう指示されていた。そうい う部屋が存在すること自体が乙彦には謎である。
名倉時也が先に席へついていた。狭い教室だがまだ名倉しかきていないのですっきり広く見える。
「早いな」
「用事がない」
ぶっきらぼうに名倉は答えた。
「今日はお前と俺だけか」
「わからん」
こいつはもともと笑わない奴なのだ。入学してから数少ない外部生のひとりとしてつきあってきたのだ が、馬鹿話で盛り上がることはなく、むしろ真面目に授業の進度について相談しあうことの方が多かった 。かといって場がしらけるわけではなく、名倉はどことなく茫洋とした雰囲気をかもし出し、いつのまに か乙彦が一方的に語る形となる。
「どうだ、クラスの様子は」
「よくわからん」
名倉は「わからん」を繰りかえした。ということは、あんまりなじんでいないのだろう。話をもっと聞 きたいのだが、はたしてどこまで関与していいのかわからない。普段から藤沖に干渉されているゆえの苛 立ちかもしれない。乙彦は名倉の席まん前に座り、筆記用具を一式取り出した。
「この前の数学小テストにはまいった」
「本当だ」
「俺は英語科だから語学関係で苦しむのは覚悟していたが」
「普通科でも英語はきつい」
全くだ。名倉との会話で楽なのは、思いっきり勉強に関する愚痴をこぼしても無理やり前向きに話を持 っていかれないところだろう。藤沖あたりに同じことを言ってみろ、きっと兄貴面して「さあ、なんでも 相談に乗るぞ」とか重たい言葉を押し付けられるに決まっている。
「中間試験ではまともな結果を出したいもんだ」
「もっともだ」
ブレザーをぐちゃぐちゃにして空いた机の上に置いた。同時に戸が開いた。
「あれ、今日はふたりだけなんだ」
さらっと声をかけてきたのは、髪を横側にひとつまとめに束ねた静内菜種だった。
乙彦よりも早く、名倉が
「と、お前だけだ」
あっさり答えた。
静内とは合宿以来、顔を合わせると二言三言挨拶はかわしていた。もちろんその際にさっぱりした会話 ですれ違うだけなのだが、笑顔だけは忘れなかった。それを見かけたクラスの女子たちに噂をされている らしいがそんなのは知ったことじゃない。もちろん会話は交わしたけれども。
ただ、ゆっくりと話をするひまはなかった。どうしても周囲の視線が気になるし、乙彦と同様静内もク ラスの女子たちとの交流が大切そうだったからだった。
乙彦にも片手を挙げて挨拶をした後、静内は名倉の隣に座った。自然と、斜め正面に顔を見る形となる 。
「今日は私たちだけみたいね」
「なんでだ」
「この前のテストで平均点以下、外部生では私たちだけ」
「よく知ってるな」
実際苦労したのは事実なのだから、何も言えない。名倉が異論を発した。
「俺はまともな点を取ったはずだ」
「私たちにはその判断ができないのよね」
静内はため息を吐いて乙彦に問い掛けた。
「全く持ってこの学校の概念って謎」
「もっともだ」
短く会話を交わすのが、静内とのパターンだった。
女子に話し掛けられる時、ほとんどの場合はセンテンスが長く、まただらだらとわかりづらいことが多 いのだが、静内だけは違う。五十文字以内で話が終わる。それが心地よい。
「どうなんだ、クラスは」
乙彦もそれなりに短く尋ねると、すぐに反応が返ってくる。
「悪くないけど、大変」
「大変か、たとえば」
言葉を溜めて静内はかばんからノートを取り出した。
「人のプライバシーをなんで知りたがるんだろう」
「は?」
「中学時代彼氏がいたかいないかとか、聞かれるのよね」
名倉が咳き込んだ。ずいぶん打って響く反応の奴だ。乙彦にはぴんとこない。
「ふつう中学時代そういう付き合いをするのは、一部だけじゃないか」
「そうよね、でも聞かれるの」
「どう答えるんだ」
「ない」
きっぱり、一点張り。また名倉がうつぶす。呼吸困難になりつつある名倉に笑ってみせ、静内はまたた め息をついた。頬杖をついた。ストレートのさっぱりしたひとつまとめの髪を動かさず。
「この学校では男女交際経験のない人がいないみたい」
「それはないだろう?」
「普通はそう思う」
名倉にも同意を求めた。名倉は頷かなかった。もしや男女交際の経験あるのか? 信じがたい。
「友だちがいるかどうか、と同じレベルの話みたい」
「なにが」
「男女交際が」
「だが、男子としゃべったことがないわけではないだろう?」
乙彦だって、そういう付き合いは別としてクラスの女子と話したことがないわけではない。
そのレベルのことを求められているのか。
静内は首を振った。
「男子とは仲良かったけど付き合うのとは違うでしょう」
「その通りだ」
いきなり口を開いた名倉の、断言口調に驚いた。今度はふたりで名倉を見つめた。返事がないので、乙 彦が求めた。
「悪いがその理由を言えよ」
「人気のある女子はいるが付き合いとは違う」
「よくわからんが」
「性格のよい女子ならばそういうのもあるだろう」
乙彦の言葉にはぴんとこないらしく、かわりに静内が返した。
「男女の友情は、あると言いたいんでしょう、名倉」
苗字を呼び捨てにした。きりり、と音が響いたような気がした。
──男女の友情。
性格のよい女子相手ならばもちろんあるはずだろう。
乙彦もそれを認めないわけでは決してない。
ただその概念をつかめない。友情とは男子同士との間にあるものだと解釈している。たとえば雅弘であ り藤沖であり、また立村であり。そいつらと同じ感覚を持つ女子ならばもちろん、友だちとしての付き合 いもするに違いない。しかし今まで乙彦はそういう感覚を女子の中に見出すことができなかった。古川こ ずえにせよ、清坂美里にせよ、いや、水野五月にしても。それぞれ好ましい一点がないわけではないけれ ども、やはり違う。
──そんなもの、あり得るのか?
乙彦は問い掛けた。
「ひとつ聞きたい、静内」
身を静内の方に乗り出し、乙彦は尋ねた。
「男女の友情とは、中学時代、存在したか」
静内菜種の返事は一言だった。
「存在したわよ」
付け加えた。
「してる。名倉と関崎となら存在するよ」
開いた窓から冷たい風が吹いた。べたつかないさらりとした感触だった。
──それはどうしてだ?
乙彦の問いを口にする前に、静内の返事が続いた。
「理屈じゃないよ。他の子みたいに理由を追求しないでほしいよ」
「理屈じゃないとは」
「説明しろと言われたら、外部生同士だからってことになるよ。でも」
少し真面目な顔に戻り、静内は指を窓に向け、
「友だちの概念を無理やり説明して何が楽しいのよ」
「もっともだ」
乙彦ではなく、名倉がまた頷いた。
「時間がもったいないよ」
今度は乙彦も納得した。
──時間がもったいない。
「青大附属に来てから、自分が何をしたかをすべて説明しなくてはならないという場面は、あるな」
「聞かなくてもいいことを聞かれるのが面倒なのよ」
「それは正しい」
「女子同士では波風立てるのも時間の無駄だから適当にあわせるけどね」
「いろいろと面倒なことだな」
「関崎、わかる?」
二度目の苗字呼び捨てで、ぽんと出た言葉。
「この学校では女子でも、本人に確認するまでは呼び捨てすることが許されない雰囲気がある。面倒だ」「私は呼び捨てOKよ」
「ありがたい」
名倉は答えず頷くだけだった。乙彦の目にはそれが、了解のしるしに見えた。
静内がそれなりに女子たちとうまくやっていることは知っていた。一方的に清坂美里からつっかかって こられて閉口しているということも気付いていた。
言い返せないわけでも、周囲に合わせられないわけではない。ただ、面倒。疲れる。時間がもったいな い。だから、時間を節約できる方向を選ぶ。口で説明するよりも、心地よい方を選びたい。男女の友情論 を熱く語っている暇があれば、ここでもっと静内と語りたい。男子の友だちと同じように、気の合う同士 苗字なり名前なりを呼び捨てにして、しゃべりたい。
この日、関崎乙彦と名倉時也、そして静内菜種との間になにかの調印がなされた。
なぜか、なんでかなどと野暮な確認などしない。
いつでも苗字で呼び捨てること、それが印だった。