高一・一学期 37
乙彦はまず、呼吸を整えた。
準備運動のようなもの、アキレス腱を伸ばす程度のもの。
「立村、顔をあげてくれ」
ずっと俯いたままの立村に呼びかけた。同時にはっと反応する立村。顔には戸惑いのようなものが現れていた。
「この機会に、俺なりに聞きたいことを聞かせてほしいんだが、いいか」
立村は返事をしなかった。ただ黙って見返した。感情は読み取れなかった。麻生先生が叱咤した。
「立村、返事をしろ」
「はい」
棒読みの反応のみ。これを返事とは言わない。
「本当にいいのか」
静かに立村は頷いた。OKの合図と取っていいだろう。乙彦はもう一度立村の整った口許をじっと見据え、そこにぶちこむべく、言葉を発した。
──やはり、雰囲気があるからな。俺なりに、立村がこれ以上どつぼにはまらないようにするためには、準備をしておいたほうがやはりいだろうしな。
かつての乙彦とは違い、ある程度、準備が必要だと自覚はしていた。
直球をいきなりぶつけるやり方では通じないだろう。
本当だったら有無を言わさず乙彦のいいたい放題で立村を頷かせたいのだが。
これでも一ヶ月で乙彦は、青大附属のやり方を学んだつもりだ。
ただし、言うべきことは言わねばならない。
「今朝のことだが」
乙彦はじっと意識を立村の目に向けた。
「どうしてお前が、ひとりで外にいたのか、C組の天羽が教えてくれたんだ」
明らかに立村の視線は揺らいだ。かすかに首を振ろうとしている。膝に置いた手が少し緩んだ。
「立村が部屋に戻った後、天羽が俺に言ったんだ」
「なにをだ?」
尋ね返したのは立村ではなく、麻生先生だった。慌てて「ですます」調に切りかえた。
「最近の、俺の言動が目にあまるものがあるから、少し反省しろということです」
「天羽がか?」
次は藤沖。まずい奴に聞かれてしまった。後から後悔しても遅い。しかし嘘は言えない。目の前の立村がこわばった目つきで乙彦をにらみつけるのを、乙彦は逸らさず答えた。
「俺が一ヶ月、青大附属で目立つことが多い半面、迷惑を他の人たちにかけているらしいということで、忠告されたらしいんだ、立村が」
「はあ?」
男子たちの群れが一斉に疑問の声を挙げた。
「立村が、か? 関崎、お前にじゃないのか?」
さらにしつこく問う藤沖。本来この一対一の対話は、こういった藤沖のように茶々を入れさせないために行われるものではないのだろうか。乙彦は両手で×の形を作り、黙るようサインを出した。しかし伝わらなかったらしい。
「俺は全然気付いてなかったが、どうやら他のクラスでは顰蹙を買っていたらしい。そのことについては俺ももう少し知りたい。反省すべきことがあれば、俺はきちんと直すつもりだ」
ここまで一気に言い切り乙彦は改めて立村の反応を伺った。
全く答えがない。
唇を結んだまま、ただ乙彦の様子を見つめている。
──どうして何も言わないんだ? こいつは?
ここでははっきりと自分なりに主張があってもいい場面だろう。
乙彦なりに賭けに出たつもりなのに、まったくのれんに腕おし。
ただ切なそうに乙彦を見つめるだけだ。
──こんなに女々しい奴か、立村という奴は?
立村の性格がいくら内向的とはいえ、男子ならばもう少しなにかあってもいいはずだ。
本来ならば天羽の発言は乙彦のみに向けられたことであり、周囲に言いふらすべきではないだろう。実際、乙彦からしたらそれは言いがかりにしか聞こえない。状況が許せば、どこかに呼び出すか何かして、一度きちんと話し合いを天羽と取るべきところである。
しかし、立村が乙彦に対する不満の数々を押さえ込み、なんとか丸く治めようとし、そのために自分が理不尽な叱られ方をしている以上、当事者の乙彦には責任がある。
天羽たちの乙彦に対するブーイングには、学校に戻ってから対処するとして、まずは身近な青大附属高校一年A組の中で立村の居場所を作らねばならない。
乙彦は自分の思うがままに、言葉を連ねた。
「俺がどうして天羽たちに嫌われているのかについては、学校に戻ってから考えてみるつもりでいる。いや、嫌われているというよりも、誤解されているだけだと思うから、話し合えば解決すると思う。そっちの問題はどうでもいい」
やはり一言も返ってこない。
「俺が聞きたいのは、今朝、俺のことをかばってくれたにもかかわらず、なぜそのことを直接俺に伝えようとしなかったか、ってことだ。本来なら俺のしくじりでいやな思いをさせているらしいんだから、俺は俺なりにその話を聞いて、反省する義務がある。ただ、俺はまだ青大附属の流儀を知らないから、勘違いしたことばかりやらかしているんだろう。それは教えてもらえればすぐに直す。郷に入れば郷に従えだと、思っている」
やはり立村は唇をかんだままだ。
「だから、立村、お前が今朝、玄関で捕まった時にはっきり、俺と先生に向かって、説明をしてくれればみなわかってくれたはずじゃないかと思う。もちろん、男子連中の前で俺がつるし上げを食っているといったことは、言いづらいとは思うが、しかしそれは事実なんだから、言うしかないんじゃないのか。仲間を売るわけでもなければ、仮名とかイニシャルとかいろいろあるわけだから、いくらでも説明ができるんじゃないのか。そういうことをせずに一方的にお前の立場が悪化していくのを見るのは、俺はいやだ」
断言した。しかし立村は一切表情を変えなかった。
──どうすればいいんだ。
とことん話し合うのを、立村の方から避けてきている。
一度は語り合う機会もあったけれど、「近寄らないほうがいい」という拒絶めいたものだった。気の合わない奴ならばそれもしかたないとは思うが、乙彦からしたら立村は気のいい奴だし、これから友情を培っていきたいタイプの人間だ。自分の友だちには今までいないタイプではあるけれども、少なくとも不快感は感じない。
ふつうに友だちでいてほしいと願うのは、おかしいのだろうか。
ひりひりと背中がうずく。
「聞きたいのは、俺のどこに天羽たちはむかついたのかだ。教えてほしい」
乙彦の言葉に、誰もが黙った。
「それと、お前がどうしてかばってくれたのか、その理由も聞きたい」
それさえしゃべらせれば、一年A組英語科においての立村は、正義感の強いいい奴だと、誰もが理解してくれるはずだ。まっすぐ、目を逸らさずに乙彦は刺した。
立村は何も言わなかった。それが答えだった。
「ちょっと待て。関崎、今の話よく理解できないんだが、どういうことだ!」
割り込んできたのは予想通り藤沖だった。
「俺の解釈でいくとつまり、お前、C組の連中に因縁をつけられたということか!」
「いや違う。たぶん誤解だろう」
麻生先生の存在などお互い無視している。その麻生先生は無言で生徒たちの様子を伺うだけだった。いったい何を考えているのか想像がつかないがそんなのはどうでもいい。麻生先生は話せばわかる人だと、乙彦は知っている。ここで無理に言い訳しなくてもいい。問題は藤沖の方だ。立村のだんまりをまずは放っておき、藤沖に向いた。
「端的に説明すると、俺がいろいろと目立つことをやらかしたせいで、周りが迷惑しているのに気付かなかっただけだろう。藤沖も前からそれはよく俺に指摘してきただろ? それと同じだ。ただ今回は俺が知らないところでそういい方はお前らしくない」
一蹴し、藤沖はきっぱりと言い放った。
「すなわち、ここで問題にしなくてはならないのは全く別のことだろう。関崎に対しての不満や鬱屈がもし、附中上がりの生徒に広がっているのならば、そちらを最優先で考えるべきことじゃないかと俺は思うぞ。先生、どうですか?」
麻生先生に向けた言葉だけは「ですます」調だった。このままではまずい。乙彦は割って入った。
「そういう話にもっていくな。今、俺は、この場を借りて立村に聞きたいことを聞いただけであって、それ以上の何もない」
「関崎、お前がいい奴だというのはよくわかっている。気遣いがうまいのもわかっている」
──どこがだ。
全く自分にない美点を誉められてもうれしくない。藤沖はたぶん勘違い大王なのだ。続けた。
「麻生先生、今ここで考えるべきは、立村に質問を投げかけるのではなく、現段階で関崎が置かれた立場について一年A組の中でまず把握することではないでしょうか」
「そうなのか、藤沖」
よくわからない問い返しをした麻生先生に、藤沖自身が戸惑ったようだった。
「あの、つまり、今回先生が仕掛けた一対一の対話ですが、それを追及するよりもまず、そこで出てきた緊急の課題をまず考えるべきではないかというのが、僕の意見です」
──まずい、完全に話が逸れているぞ。
勘違いもいいところだ。割り込もうとするが、藤沖ににらみつけられ黙るしかない。そっと後ろで正座したままの立村に目を向けた。やはり身動きひとつ、しなかった。
──どうすればいいのか?
今、動いている現実。
乙彦が意図した方向から、藤沖がかなり乱暴なやりかたでもって方向転換していく。
それを取り戻したくとも、この場は大人の麻生先生がこしらえたもの。
一生徒の乙彦がかき回すことはできない。
本来ならば乙彦も、男子の仁義として、売られたけんかは買うのが流儀。
天羽には自分自身で向かい合うつもりだった。
それをあえて、教師の同席する場において暴露しさらけだすなんてことは、立村の立場を逆転させるためでなければ、決して打てない手だ。
直球で突っ走りすぎるとか、シーラカンスとか、ブルトーザーとかいろいろ言われてきたけれども、この場ではしくじってはならないと思って、ちゃんと自分なりに計画を立てて実行しただけなのだ。
なのに、なぜ、こうなるのか?
本来持っていくべき場所から大幅にずれたまま、問題はいつしか、乙彦を一方的に責めたてた……ように見えた……天羽たちC組への戦火に変わっていく。
「藤沖、やめろ」
「なぜだ」
「もういい。そういうクラスの大問題にしなくても、それはそれで俺ひとり解決できる」
「だが、これはかなりまずいだろう」
藤沖がそれでもしつこく拘るようにこぶしを作るのを、乙彦は両手を握り締めてシートを叩いた。
「違う、そういう問題を語りたいのではないんだ。俺はただ」
「立村をかばいたかっただけなんだろう?」
割って入ったのは麻生先生だった。穏やかな表情を浮かべたまま、あぐらをかきなおし、軽く平手でシートを撫でた。
「今の展開なんだが、関崎が立村を指名した段階でだいたい予測はついていた」
麻生先生は乙彦と立村を交互に見ながら他の連中に話し掛けた。
「今朝のこともそうだが、関崎がなんとかして立村を仲間に迎えよう、なんとかしてクラスの一員としてとけこませようと力を尽くしているのは知っていた。だから、この場で説得しようとしたんだな、そうだな、関崎」
声を出せない。返事を待たずに麻生先生は続けた。藤沖を見やった。
「いい悪いは判断できないが、関崎は精一杯のことをした。ただ、この場でやるべきことではなかったんじゃないのかな、という気も俺はする」
「どうしてですか」
尋ねたのはなぜか片岡だった。今度は片岡の頭を撫でた。
「つまりだな、関崎のやろうとしていることは、すぐに片付くことではないだろう。そうだろう、立村。お前がそれは一番よく理解しているはずだ」
立村は最後まで黙りつづけるつもりのようだった。
「だから今回に関しては、あえて水入りにすると、行事軍配として判断したわけだ。藤沖もあせることはない。まだ三年間あるんだ。これからゆっくりと、自分なりに時間をかえて考えていけばいい。俺はA組の担任としてお前らに、言いたいことは包み隠さず言う。また怒鳴る時はこっぴどく怒鳴る。だが、いそいですべてのことを処理するつもりはない。まだお前らにはぴんとこないかもしれないが、時間をかけて考えることが、今のお前らには一番必要だな。まずは、自分なりにやれることをやってみろ」
麻生先生は乙彦に正座して向きあった。
「関崎、お前は今、非常に貴重な経験をしているのはわかっているな」
「はい」
「お前が精一杯走りつづけていることで、周囲の状況が不安定になっているというのは、正直言って、確かにある」
面と向かって言われると、やはり答える。俯いた。
「悪いことではない。青大附属にきて一ヶ月、まだ迷いもあるだろう。だが、迷っていけないわけじゃない。C組の天羽が面白いことを言ってきたようだが、それに対してお前はどう思う?」
先生に言うべきことではなかったのだが、しかたない。嘘は言えない。
「きちんと一対一で話に行きます」
「そうか。天羽ならたぶん、言うべきことをきちんと言うだろう」
立村に皮肉っぽい視線を向けた。
「自分でこれから先、どうするか。それをまずは考えろ。それと藤沖」
今度は藤沖に向き直った。足を崩していた藤沖が慌てて正座する。おかしくて笑ったら周囲もつられたようだった。
「お前も、関崎の面倒を見てもらってありがたいと思っている。だが、少しお前は自分の方に目を向けるべきじゃないのか? 気になっていたんだが」
「いえ、俺は別に」
口篭もる藤沖。何か思い当たる節でもあったのだろうか。
「今すぐ話すことでもないな。学校に戻ってからにしよう。それと」
言葉を切って、立村に前かがみになり、呼びかけた。
「お前とは、三年間かけて、話をする。覚悟しておけ」
有無を言わせぬ響きが底に敷かれていた。
いきなり片岡が手を挙げた。
「どうした片岡」
「提案なんですけど」
藤沖に話し掛けた。めずらしい。雅弘に似たどんぐり眼をくりりとさせ、
「どうせだったら、麻生先生に質問することにしたら。全員が」
「はあ?」
お間抜けな相槌を打った麻生先生に、藤沖は大きく頷いた。親指を立てて片岡をねぎらい、
「俺たちもこの機会にぜひ、先生に聞きたいことがあります。予定を変更して、今回は麻生先生の質問攻めではいかがですか。みな、賛成か?」
笑い声と共に賛同の挙手。挙げなかったのは立村だけだった。
「ほぼ、絶対多数により決定しました。あとは先生のご了解だけです」
「お前らなあ」
しかし顔は笑っていた。片岡からなる藤沖の提案を受け入れる準備はできているようだった。麻生先生はもう一度片岡の頭をぽんと叩き、
「妙なところで団結力が芽生えてるぞ、このクラス。できてからまだ一ヶ月も経ってないっていうのに、すげえクラスだ」
もう立村が膝を崩したのか、それともかかえたのか、誰も興味を持っていないようだった。
答えを最後までもらえぬまま、乙彦の質問は終了した。
──三年間あるったって、そんな長いこと待ってられる、わけがないだろ。
とにかく、時間を見つけて、これからは捕まえていくしかないだろう。
まずは、天羽との対話を考えよう。
片隅にそっと戻っていき、膝を抱えたまま黙って座っている立村に、乙彦は胸の内で宣言した。
──俺は、お前と三年も待たずに話をする。覚悟しろ。