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高一・一学期 35

 俯きながら、立村が何かを呟いていた。

 その言葉を聞き取ろうとしたが、かすか過ぎてできなかった。

「立村、お前も外に出てたのか」

 答えはなかった。麻生先生が面倒くさそうに首を振った。

「関崎、お前は部屋にもどってろ」

「もどりますが、こいつも同じ部屋なので、たぶん他の連中が心配してるんでないかと思います」

 乙彦はまず、立村をちらと見た後、麻生先生に立ち向かった。

「だから、理由をきちんと聞いて、僕から説明しておく必要があると思います」

「個人の問題だろう。お前も疲れているはずだ。少し休め」

「はい、休みます」

 条件反射で答えた。麻生先生の言うことは間違っていないだろう。状況は読めないがどうやら立村は、乙彦と違い自分からひとりで外をうろついていたようだ。乙彦が起きた段階で立村が部屋で寝ていたかどうかは……覚えていない。いないのだが、まさか四時半前に目を覚ますなんてこともないだろう。

「立村、とにかく理由を説明しろ。なんでひとりで、そんな格好で外をふらついてたんだ!」

 やはり答えなかった。小さく何かを、また呟き、俯いた。

「いいか、オールナイトして騒いでいたんだったらまだわかる」 

 麻生先生は乙彦を無視して、立村に問いかけた。

「そういう場合はその場で怒鳴られるのが筋だ。そういう奴もいた。だがその場限りだ」

 立村の表情は変わらなかった。

「だが、お前の場合は違う。なんで靴を履いて、ひとりで夜中ふらふらしてたんだってことだ」

「申し訳ありません」

 ふてくされた風に立村が詫びの言葉を呟いた。

「顔をあげて言え」

「申し訳ありませんでした」

「だから、そういう心にもない詫びを聞きたいわけじゃないと言ってるだろうが!」

 それでも麻生先生は、わめきはしなかった。必死に何かを抑えているようだった。


 ──なんで外散歩したいんだったら、先生に一言言わなかったんだ?

 乙彦は双方の顔を眺めながら、自然に疑問を感じていた。

 ──よくわからんが、俺と入れ違いか、それとも前かわからんが、ひとりでうろうろしたくなったんだろう。いや、もしかしたら朝、身体を動かしたかったのかもしれないぞ。身体のために朝、ジョギングするのはよいことだ。 

 去年、一度、立村の頼みでリレー用の走りをレクチャーしたことがある。確か秋だった。球技大会でクラス対抗リレーの選手に選ばれ、必死だったらしい立村に泣き付かれた。あの時の走りを思い出すと、それなりにいいタイムは出していたような記憶がある。陸上部でばりばり活躍できるほどではないにしても、鈍足ではなかった。男としては朝一番に身体を動かしたいというのは、自然の要求でもある。

 本来ならばここで立村へ「素直に謝れ」としかりつけ、その上で乙彦が連れて帰るのが妥当だろう。自分の立場は規律委員だし、立村がやらかしたことは明らかなる規律違反なのだ。それを厳しく制する必要はある。しかし、一方的に叩きのめすというのも間違っているのではと乙彦は思う。

 ──先生が怒るのはわかるにしても、部屋に戻って立村の立場がさらに悪化するというのもまずい。

 乙彦なりに様子を伺ってはいるのだが、日ごとに立村の立場は悪化の一方を辿っている。自業自得といわれればそれまでだが、このままでは一年A組内のモラルが下がり、乙彦および藤沖のモットーとするクラス運営ができなくなる。色々と後ろ暗い過去を持つ片岡が、無事男子たちの輪に入ることができてほっとしている状態ではあるが、藤沖は立村を自分から迎えいれようとする意志を持っていないようだ。となると、乙彦が陰日向なく面倒を見るしか方法はないのではないか。


「先生、立村の件については、僕が後できちんと問いただします」

 意を決し、乙彦は二人の間に割って入った。見下ろす格好の麻生先生の前に挟まるかっこうとなった。少し身を引いた麻生先生は、乙彦を手で除けるようなしぐさをした。

「お前とは関係ないだろう。とにかく部屋に戻れ」

「いえ、僕は一年A組の規律委員ですから、規律を乱した同級生にきちんと接する義務があると思います」

「ここで規律委員を持ち出すのか?」

 乙彦に話し掛ける麻生先生からは、なぜか身体から発せられる空気がそよいでいるようだった。ついさっきまで立村を怒鳴りつけていた時は、竹刀で思いっきりぶったたいているような気迫に満ちていたというのに。なぜかこの先生は、乙彦に対して不思議と甘い。

「はい。青大附属の規律委員がどういうことを行うのかはわかりませんが、少なくとも間違っていることを許してはならないと思っています」

「それはそうだが」

 言葉に詰まる麻生先生の後ろを、そっと日暮先生がすり抜け、奥の廊下を走っていくのが見えた。そんなの気にしているひまなどない。

「ですが、同時に、僕は一年A組のクラスメートとして立村を守る義務もあります」

「義務?」

「はい、クラスで同じ部屋にいた以上、本来ならば規律委員としての僕が立村の抜け出したことに気付くべきでした。そしてすぐ注意するべきでした」

「いや、関崎には責任は」

 半ばあきれた風に、麻生先生はいつもののどかな声を出した。機嫌はよくなりつつある。理論立ててきちんと話せば、ほらそうだ、ちゃんと大人はわかってくれるもんなのだ。

「先生、ひとつ提案なんですが、僕が立村から詳しい事情を直接聞き出して、その後できちんと報告するというのはどうですか。たぶん何らかの理由はあったかと思うのですが、やはり守るべきモラルはあるわけだから、それでもってこれからどういう形でもって、反省していくかを僕と立村なりに考えていけば、たぶん、再発はないと思います」」

 自分なりに考えた瞬時の発想だ。

 杓子定規で融通が利かない自分の性格。

 本来ならば「自分が誘ってジョギングに連れ出すつもりだったが、タイミングが合わなくて」くらい嘘を言えればいいのだろう。しかしそれは真っ赤な嘘。嘘をついて守るよりは、真実をきっぱりと言い放ち、間違っていることは間違っていると厳しく道を正させることが大切だろう。規律委員である自分に、それはできる。同時に、ひとつのチャンスでもある。

 背中で無言のまま突っ立っている立村に、同意させるべく乙彦は振り返ろうとした。

 ──無理にでも、頭下げさせて。

 部屋に引っ込もう。まずはそれが乙彦の読みだったはずだった。

 廊下の奥から駆け込んでくる、男子がひとり。 

 麻生先生よりも先に、乙彦はそいつの顔を見た。認識した。

 ──あいつは……?

 顔も名前も一致している相手だった。

「麻生先生、すんませんっした、ちょいと説明させておくんなましい」

 ──なんだその怪しいイントネーションは。

 名前は一致していたが、すぐには出てこなかった。乙彦の背で、動く気配がした。肩あたりに空気が隙間を作ったようだった。

「天羽、お前」

 ──そうだ、天羽だ。

 天羽忠文。一年C組男子で体育委員。かつ。

 ──立村の後釜で評議委員長となった奴だ。


 髪の毛がだいぶぐしゃぐしゃしていたが、制服はきちんと纏っていた。立村と違うのは、その制服がかなり皺だらけというところくらい。いわゆる、男子の格好としてはごく普通。立村だけがしゃれっけあり過ぎるだけだろう。

「何だ、天羽」

 すぐに麻生先生は振り返り、半身を向けた。乙彦、立村のふたりにはしっかりと身体をみせたまま。

「C組で何かあったのか」

「いやいや、そんなことではございあせん。てか、立村、お前、タイミング悪すぎるとちゃうのかよ、なああんさん」

 全く理解できない方言を遣う。こいつの出身地は青潟ではないのか。笑わせたいのかどうかわからないが、麻生先生は笑わなかった。代わりに溜息をひとつ吐いた。

「用件をまず言えよ」

「ああ、すんませんがなあ。ただちょいと、ねえ、これは男子同士の複雑なもんもありやして」

 話を逸らそうとしているのか、それともごまかそうとしているのか、それは定かではない。少なくとも乙彦には読み取れなかった。麻生先生にも理解不能だったようで、いらだったらしい。口調だけは事務的に、

「何が言いたいんだ」

 まずはそう尋ねた。

「いやあ、先生、今、俺の提案でもって立村が思いっきりへまやらかしたってことで、ちょいと言い訳させていただきたかったんでやんす」

 口調とは裏腹に、天羽は一歩一歩、麻生先生の前に近づいてくる。妙な圧迫感がある。乙彦に目を向けてはいない様子だった。

「これは男子でないとわからぬ、事情がありましてですね」

「なんだそれは。早く要点だけ言え」

「つまり、朝の、なにですか」

「なに?」

 演技っぽく身体をくねらせようとした天羽だが、ふと乙彦に視線を留めた。一瞬、その目が素に戻った。あ、と思う間もなく天羽はえせコメディアンの仮面をつけた。

「先生、実は俺たち、中学の修学旅行の前からですね、ひとつ、こういう集団活動の時に約束をしとったんですわ」

 おもむろに天羽は語りだした。顔には確かに、人のよさそうな笑顔を貼り付けている。しかし、さっきちらと投げかけた冷ややかな視線を、乙彦は確かに受け取った。

「毎朝、四時半に、人気のない男子便所前に集合し、朝のさわやかなお通じを済ませるってことなんだけど、わかるかなあ、わかってくれますよねえ、先生」

 言われた意味がわからず、理解するのに乙彦は約一分を要した。

「朝一番のうんちかあ?」

 唖然としてたのは、麻生先生も同じのようだった。

 天羽は照れもせず、声のトーンもそのままににやけつつ、話を進めた。


「やっぱし、長期間の旅行ともなると、便秘になっちまって腹も壊しやすいってのがあるわけなんですわ。で、俺たちの先輩にあたる評議の人たちが、前もって朝一番の快腸快便を心がけるよう、早朝一番、きちんとふんばるようにとアドバイスしてやしたんす。ただ、やっぱし、男がねえ、あの集団の部屋のトイレでねえ、派手に個室に篭ってふんばるというのはかなり、苛酷な試練ですよ」

「言いたいことはわかるぞ」

 なぜか麻生先生は納得顔である。

 乙彦は後ろの立村の表情を覗きこんだ。

 目を見開いたまま、真正面から天羽を見つめている。乙彦の存在はお留守だった。

「で、考えたんが、俺たちがまず朝一番でお互いの個室タイムには干渉せず順番で心おきなくすっきりしようってことってわけなんですよ。幸いここでは個室が二部屋あったんで、まずはじゃんけんで順番決めて、まあ、その、何ですか」

「で、お前は済ませたのか、天羽?」

 真面目くさった口調で問い返す麻生先生に、天羽は笑顔いっぱいで答えた。

「もちろんでさあ! すっきり出すもん出して、もうさっぱり。けどですねえ」

 言葉に含みを持たせつつ、立村を指差した。

「こいつ、どうもねえ、厳しかったみたいなんで、そいでリーダーたる俺としては、なんとかしてやらにゃあなあと。ただでさえ一日目は車酔いで半分死人だったわけだし、朝のお通じも詰まっているようならやばいよなと考えたわけであって」

「ずいぶん過保護だな。評議委員同士ってのは」

「友情は血よりも濃いってことですよ。先生。そこで、俺たちとしては立村にまずその辺を一周くらい走って、水を一リットル飲み干して、まずは便秘を解消してこいと指示したんですよ。俺はそれでちょっとしたふんづまりは治る体質なんで、たぶん立村も大丈夫だろうと見積もってです」

 後ろの左肩あたりから声がした。

「違う……」

 声は麻生先生、そして天羽に届かなかった。乙彦だけがその言葉を拾った。

「で、立村を散歩に送り出し、俺たちはすっきりした腹をかかえて部屋で二度寝したわけなんですが、あらら、そうか、そりゃまずかったわな。先生、この件については俺が二百パーセント悪いです。帰ったらそれなりのペナルティ受けますんで、あわれな立村にはそのあたり、お目こぼしを」

「違います」

 今度ははっきりと、立村が乙彦の前に一歩踏み出した。

「天羽の言うことは、そんなわけではありません」

 すぐにちゃらちゃらした口調でもって、天羽がまぜっかえす。

「恥ずかしがらんといてな、立村ちゃん」

「そんな理由ではありません」

「そんなそんな、それよかお前、しっかりと水飲んで、すっきりしてこいよ。くそが出ないとまた車酔いするぞお」

「だから違うって言ってるだろ、なんでそんなありもしないことを」

 怒気を露わに立村が食って掛かろうとしたのを止めたのは、

「いいかげんにしろ、立村」

 やはり、担任たる麻生先生だった。


「立村。お前はわかってないのか」

 さっきの一方的な叱責とは違う、凛とした声で。

「事実かどうか、それはどうでもいい。だが、お前は今、側にいる友だちがなぜ、お前のために駆けつけてくれたのかを、どうして見ようとしないんだ」

「それは違います」

「ばか者、黙れ」

 怒りではなく、冷え冷えたる氷の炎。

「なぜ、関崎がお前をかばおうとしたのか、なぜ、天羽が聞くも恥ずかしいネタでお前の窮地を救いにきたのか、その理由を一度でも考えて、それでお前は、なぜ否定しかできないんだ」

「それは違うから」

「いいかげんにしろ。さっき、関崎が俺とお前との間に割って入ろうとした時、露骨に立村は迷惑そうな顔をしたな。天羽が来た時も同じだ。天羽、お前の言うことをすべて疑うわけではないが、少々話が出来すぎてるぞ」

「そんなあ、信じてくれないんですかあ麻生先生」

 わざとらしく、それでもトーンは変わらない。そこが怪しかった。乙彦は、俯く立村とにやける天羽、それぞれを交互に眺めた。どちらも、それぞれ、自分の役割に徹し続けている。ただそれがすべて、「演技」にしか見えない。「演技」だからこそ、壊れない。

「天羽、お前の芸人根性かつ元評議委員長たるプライドに免じて、これ以上の追求は控える。朝のお通じを意識するというのは、若いながらも健康的でよいことだ。だが」

 くぐもりがちな声で付け加えた。

「残念ながら、伝わらなかったようだ。本当に、残念だ」

 麻生先生は背を向けた。立村には目を向けず、

「部屋にもどれ。合宿終了後、改めて話をする」

 乙彦と天羽にも、有無を言わせずに指で廊下の奥を指差した。


 指示されるより早く、立村がそそくさと廊下を駆け抜けていった。顔を俯けたまま、乙彦と天羽には何ひとつ礼も言わず。さすがに乙彦もその態度にはかちんときた。

 ──あいつ、やはり一度顔を突き合わせて話をしないとまずい。

 面子をつぶされてプライドずたずたなのはわからなくもないが、しかし、それなりに助けようとしたふたりへの態度ではないだろう。思わず握りこぶしをこしらえたのを、天羽が見咎めた。ふたり以外、その廊下には誰もいなかった。

「あのさ、関崎よ」

「なんだ」

「立村が止めたから言わんでおくかとおもったんだがなあ」

 にやけ顔はすでに麻生先生のもとへ投げっぱなし。乙彦に向けたのは、少しも笑みのない、鋭い視線だけだった。身構えた。口調が柔らかいままなので、攻撃できない。

「あまり調子こきすぎるのはどうかと思うぞ、関崎」

「なんだと?」

「そんな気ないのはわかってるけどな。ただ、巻き込まれる奴のことも考えてほしいってわけなんだよなあ。正論では物事、回らないの」

「別に俺は正論なんて」

 ──嘘を言っていないだけだ。

 言い返したいが、目の前の天羽はじっと鋭い針のごとき眼差しのみ。

「立村がなんで、とっつかまったのか、教えようか」

 真正面からバスの深い声で、一歩近づいた。鼻と鼻がくっつきそうなほどだった。

「お前に一言もの申したいという輩を黙らせようと頭下げてたってこと、覚えておいても、損はねえと思ってな」

「どういうことだ!」


 血がかあっと昇り、全身が燃える。握りしめたこぶしで思わず天羽の胸倉をつかみそうになり、必死に堪えた。かわりに爪が食い込みそうなほど、激しく睨みすえた。

「関崎、お前が規律委員たるゆえんを盾に取ってあいつと語ろうとしたちょっと前、立村は、関崎に手を出す奴がいたら、俺たちと縁を切ると言い放ってたんだよ、わかるか、その意味」

 天羽は静かに続けて背を向けた。


 ──どういうことだ?

 部屋に戻るまでの一分間では、消化できない謎の言葉だった。

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