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高一・一学期 34

 とことんオールナイトするのがもちろん、合宿での礼儀だと思う。

 だからこそ、きちんと徹夜のために気合を入れねばならないとも思う。

 しかし、いかんせん乙彦の体内時計は完璧に朝四時半起きにセットされてしまっている。

 だから、なのだ。

 布団を敷いてみな用意されたパジャマに着替え、何か話そうとしたのは覚えている。

 藤沖が右隣、片岡が左隣。

 立村の姿はなかったことも記憶している。

 しかしそこまでだった。

 まばたきひとつした瞬間、空にはかすかに朝日が昇りはじめていた。


 ──つまり、そのままぶっ倒れたってことか。

 少し寒さが残るのは、やはり青潟市内よりも気温が低いせいなのか。鳥肌が立っていた。布団をかぶっていたということは、誰かが自分の持ち場まで運んでくれたのだろう。側でみな、死体のように布団を剥いだまま眠りこけている連中をひとさし眺めた後、乙彦はまず大きなあくびをひとつした。腕時計ははめたままだった。覗くとちょうど四時半を回ったところだった。

 片岡がなぜか、大の字で布団をけとばしたまま寝ているのには笑えた。

 藤沖がいびきかいて気持ちよさそうに眠っているのもあいつらしい。

 立村がどこで転がっているのかはわからなかった。


 ──オールナイトに参加できないのは残念だが、まだあと一日あるな。

 前の日はとことん身体を動かし、たらふく飯を食い、一風呂浴び、あれで眠くならない方がまずおかしいだろう。乙彦は寝つきがいい方だし、たぶん、周囲でのおしゃべりも全く聞くことなく眠ったのだろう。いや、眠ったという意識がない。

 ──あとで藤沖あたりに聞いてみよう。

 今日はバイトもない。起床時刻は六時と定められているからあと一時間くらい寝なおしてもいい。しかしそうするにはもう、乙彦の身体が十分過ぎるほど活動したがっている。

 ──せっかくだし、この辺走ってみたいな。

 パジャマのボタンが外れているのをそのまま、乙彦は部屋の開け放たれた窓辺に向かった。なぜか窓のカーテンを閉めずに寝ているところが間抜けである。とはいえ、乙彦はそれに文句を言う気はない。夕焼けに似ていて、ほんのわずかピンク色に染まる夜明けの空を眺めると、やはりいつも通り準備体操をして、ラジオ体操第一までは終わらせ、そのあといつものように町を一周したくなる。乙彦の、中学時代からの習慣だった。

 一応、今日の予定では朝から制服を着て行動することになる。どういう内容なのかは藤沖もよくわからないと話していた。

 ──けどな、やはり走るならジャージだろう。

 素早くジャージに着替え、掛け布団だけたたんだ。

 

 走りたい気持ちだけは先にくる。しかし冷静に考えてみると外にいきなり出るのも問題があるような気がした。この一ヶ月、乙彦もずいぶんやりたい放題やらせてもらい、さほど怒鳴られずにすんではいるけれども、それはもともと校則違反をしでかしていないからのことだ。アルバイトにしてもそうだ。すべて教師サイドに話を通した上で行ったことだ。書類関係もすべて麻生先生の指示通り渡してある。単に、乙彦は大人の言うことを素直に聞いているようでいて、実は自分のやりたいことを押し通しているだけなのかもしれない。他の連中がやるような反抗なんてしていないのに、ほとんどの要求が通じる空間、それが青大附属という場所だった。

 初めて、校則違反したい気持ちに駆られた。

 足首をひねらないように何度も回し、腹筋・背筋・屈伸を十回ずつ行った。

 ──やはり、走りたいよな。

 身体がうずうずしてくる。体中の水分が蒸発してきそうなくらい、求めている。洗面所で水を飲んだ。喉の渇きだけしか満たされない。

 ──やはり、これはこっそり、走るべきか。

 まず常識的には、許されない行為だろう。

 乙彦もその点は十分わかっているつもりだ。

 一生徒が、ただ走りたいというだけで、こっそり早朝宿を抜け出しジョギングするなんていうのは決して褒められた行為ではない。許可をもらっておけばまだ話も違うかもしれないが、もう朝が来てしまったのだから、遅すぎる。

 そこまで考えて乙彦はふと、膝を叩いた。

 ──先生方が寝てるわけないぞ。

 水鳥中学の修学旅行、さらにさかのぼって小学校の修学旅行。

 引率の先生たち、みな、一睡もせずに目の下くまをこしらえていたではないか。

 青大附属とはいえ、のうのうと寝ている奴がいるわけない。

 それなら、話は早い。

 ──だめでもともと、話を通してみよう。

 時計の針はほんの三十度程度、左へ進んでいた。


 もともと乙彦は教師連中を敵だと思ったことがない。教師運が比較的いいほうだったとは思う。青大附属においても、麻生先生にいつのまにかひいきされくすぐったさすら覚える。他の先生たちにしても、今のところは面白い奴程度にしか見られていないらしい。これから先はわからないが、まずはしばらく優等生のままでいくだろう。別に乙彦は優等生だとも思っていない、ただのシーラカンス……総田談……だと開き直っているけれども。

 だから、取り付かれたかのように反抗する連中の気持ちがわかるようで理解できなかった。 最初から話せばいい。納得するまで先生たちに抗議すればいい。それも理屈に合った形で。

 そうすればみな、耳を傾けてくれる。

 百パーセント受け入れてもらえなかったとしても、七割がたは受け入れてもらえる。

 中学時代も教師たちには、受け入れてもらえた。弾いたのはむしろ、全校生徒の方であって、彼らに対してわかってもらうよう語りかけることの難しさの方が、乙彦にはしんどかった。

 ──麻生先生は起きてるか?

 可能性としては七割がた、目覚めているだろう。

 乙彦は足音を忍ばせてスリッパをはき、戸をそっと閉めた。

 部屋の窓は開けっ放しにしておいた。ぐちゃぐちゃのスリッパを直しておくなんていう、お上品なことをする気はなかった。

 そっと、廊下を歩いていく。

 かすかに誰かの喋り声が聞こえる。

 どうやら本気でオールナイトしでかしたクラスが存在するようだ。乙彦がまばたきひとつでなくした貴重な夜を、そいつらはしっかり堪能したらしい。さりげなく悔しさひとつ。どうやらB組の男子部屋のようだった。

 ──ということは、もう起きてるな。

 乙彦が共用の男子トイレ前までたどり着くと、そこにはすでに先客が数名たむろしていた。早起きは乙彦だけではなさそうだ。寄る気はなかったので様子だけ伺った。男子トイレ中でもひそひそ声がしたが、どんな内容なのかは聞き取ることができなかった。

 ──部屋の中にもトイレがあるのになんでわざわざ、外に出るんだ? 女子じゃあるまいし。

 深い追求はしないでおく。急いでいるのだ。


 やたらと目覚めの早い男子部屋を通り抜け、ようやく食堂近くの教師部屋に到着した。

 乙彦の読み通りだった。

 扉をノックし、内側の襖に手をかけようとする間もなく、さっと開いた。出てきたのはやはり、麻生先生だった。乙彦を見て、ぎょっとしたようだった。

「関崎? どうした」

 かなり眠そうではあるが、ジャージ姿てはある。

 すぐに身動きできる態勢でいたらしい。部屋の奥には、ほとんど乱れていない布団の上に他の男性教師が二人ほど、同じように身構えていた。

「おはようございます」

 まずは一礼し、後ろのふたりにもまた同じく九十度の礼をした。

「これから、いつもの習慣でこの辺を一周、ランニングしたいんですが、許可をもらえませんか」

「ランニング?」

 素っ頓狂な声を挙げたのは後ろの若い教師、日暮先生だった。麻生先生は飲み込めないように首をひねりつつ、

「ランニングってお前、まだ夜も明けてないだろう。寝てないのにか」

「いえ、寝ました。七時間睡眠はとったはずです」

 九時過ぎにこたんとひっくり返ったと考えると、だいたいそのくらいは。少なくとも普段の睡眠時間よりは長いはずだ。

「よく眠れたなあ。他の連中は枕投げに命かけてたってのに。何度注意しに行ったか覚えてないのか」

「眼を開けたら、もう、夜が明けてました」

 乙彦は感じた通りのことを言い切った。

「なので、いつもどおり目が覚めました。うちではいつも、朝、青潟駅の周辺を一周してます。一日でもさぼると、身体がなまります」

 本当はいつでも陸上に復帰できるように、との思いもあったのだが、現実問題すでにそのことは忘れている。ただ。身体を動かさないとどうもだるくなってしまいくだらないことに頭が行ってしまうので、あえて発散させてしまうというところもある。そんなことを説明はしなかった。

「一日くらい、いいだろう? 今日もまた疲れるんだぞ」

「はい、それは覚悟してます。ただせっかくなので、提案なんですが」

 乙彦なりの提案を掲げた。

「僕と一緒に、先生も走りませんか」

 後ろで大爆笑が起こった。ぽかんとした麻生先生の背で、日暮先生はひたすら、

「麻生先生と、走るってか、おいおい」

 布団をたたかんばかりにうつぶし、高らかに笑い転げていた。


「いえ、冗談で話しているわけではありません」

 少しかちんときたので、乙彦なりにまずは説明することにした。

「僕は生徒です。ひとりで宿を抜け出して身勝手な行動をするのはよくないことだと思います。集団行動の輪を乱すことはよくないです」

「悪い、関崎、お前が真面目なのはわかるが、明らかに今の提案、冗談にしか聞こえないぞ」

 麻生先生の少しあきれたような口調に、乙彦は首を振った。

「僕は真面目に話をしています。ただ、やはり朝走ることは健康にもいいですし、ここは青潟よりも空気も綺麗ですから、きっと身体にもいいと思います。そこで、僕が問題行動をしないよう見張るという名目で、見張り番としてだれかひとり、先生がくっついてくれれば、問題はないんじゃないかと思うんです」

「見張るって、そんなお前信頼されてないとでも」

 言いかけた麻生先生にまた、乙彦は首を振った。

「違います。僕は、生徒として、きちんと筋を通したいだけです。こっそり抜け出すような姑息な手段を取るのではなく、正々堂々と、きちんと伝えたかっただけです」

「じゃあ関崎、もしお前がそれを許されなかったとしたら、どうする?」 

 口を少しひきつらせるように、麻生先生は額を抑えながら尋ねた。

「しかたないんで、それなら玄関でラジオ体操と、なわとびをします」

「なわとび?」

 また笑おうとする日暮先生を、麻生先生はふりかえり無言で見つめ、また乙彦に向いた。

「縄なんてあるのか」

「はい。運動およびいざという時のために、持ってきました。中学の授業で使ったものです」

 きっぱり告げた。

「関崎」

「はい」

「俺は青大附属で教師をして二十年近くになるが」

 言葉を切り、もう一度日暮先生に目を向けた。

「集団研修中に生徒から、朝のジョギングに誘われたというのは、生まれて初めての経験だ。日暮先生、どう思う?」

 問われた日暮先生は大きく頷きつつ、乙彦をおもしろげに見つめた。

「だろう。筋を通す。きちんと提案する、それは素晴らしい。だがひとつだけお前は学ばないといけないよ」

「申し訳ありません」

「俺が、何歳かということを、もう少し考えてから提案すべきだったな」

 独り言のようにつぶやき、

「関崎のやる気はおおいに買う。だが、朝のジョギングで心臓をパンクさせる可能性のある俺には付き合いきれん。ということでだ、日暮先生、悪いが関崎に付き合って、この辺一周してもらえないか。生徒のやる気にはとことん付き合うが、うちの学校のモットーだ」

「すいません、先生それ、まじですか? 俺が走れっていうんですか?」

「ああ、四十を過ぎると身体もがたがくる。日暮先生はまだ若い。身体を張った教育は、若いうちに経験しておいた方がいい。それにこの関崎は、闇討ちなんぞしないから、安心して走ってきてください。さあ、じゃああとは、まかせたよ」

 さっきまでへらへらしていた日暮先生は、ぽかんと口を開けたままだった。


 日暮先生はD組の担任だった。D組の知り合いがほとんどいないし日暮先生の授業……専門は書道……を受ける機会もなかったので、どういう人柄かはきいていなかった。ただ、まだ若く、二十代半ばということだけは噂で流れて来ていた。しかし、この人柄みるに、どうも精神年齢は中学生以下じゃないかと思わずにはいられなかった。こういう人がなぜ、青大附属の教師にもぐりこめたのか、謎である。

 見た目もかなり細身のかっこつけたがりタイプ男子風。

 どう見ても、運動が得意なようには見えなかった。

 なくなくジーンズとTシャツに着替えた日暮先生は、麻生先生の、

「じゃ、日暮先生、関崎のナビゲーターをよろしく」

 明るい見送りに溜息をつきつつ、玄関へと向かった。乙彦の顔を恨めしそうに眺めて、

「一日くらい、走らなくたってたいしたことないだろう?」

「やはり、違います。無理をお願いして、申し訳ありません」

 深く乙彦は礼をした。慌てて日暮先生が頬をかたくし教師の表情を浮かべる。

「いや、麻生先生の言う通り、青大附属は生徒たちの自主性を最も大切にしている学校だからな。ただできれば前もって、この研修が始まる前に」

「いえ、本当は徹夜するつもりでしたが、何時の間にか寝てました」

 同じ説明を繰り返していると、やはり自分がアホに思えてくる。乙彦はスニーカーの紐を結び直し、もう一度頭を下げた。

「では、先生、よろしくお願いします」

 不安げな顔を覗かせたように見えたのは気のせいだったのだろうか。

 気のせいでは、なかった。


 最初走り始めた段階で、少しまずいとは思ったのだ。

 乙彦も最初は軽く流すつもりでいたのだ。

 昨日、トイレ掃除をさせられた公園まで走り、その後は適当にぐるりと一周するつもりだった。たいして疲れることもないだろうと甘く見ていた。

 気がつくと日暮先生の姿は後ろになかった。どうやら置いて来てしまったらしい。乙彦は結局、あとからてくてく歩いている日暮先生を捕まえて、もう一周走る形でフィニッシュを迎えた。いつものペースでちょうどいい疲れが残った程度。しかし、

「悪い、関崎、もう勘弁してくれ。俺は文系なんだ」 

 などと、わけのわからない言い訳でリタイヤする日暮先生にはなんと言葉をかけたらいいかわからなかった。

 朝の空気、太陽の透明な輝き、頬にあたる少しとがった感覚の風、みな、気持ちよいというのにこの先生は、なに一つ受け止めようとしていない。

「先生、申し訳ありません」

 ただ、あやまらねばならないような気がした。まだぜいぜい息を吐いている日暮先生と一緒にクールダウンで歩きつつ、しばらく無言でいた。

 ──二十代でもこんなに疲れるんだ。四十代なら倒れるかもな。

 別の意味で自分の読みの甘さに失敗を感じた乙彦だった。


 息も絶え絶えの日暮先生を先に玄関へ押し込み、ふとロビーに目をやるとそこには麻生先生が仁王立ちでふたりを迎えた、ように見えた。

「あの、すいません」

 麻生先生の表情には憤怒が現れている。それを読み取れない乙彦ではなかった。と同時に、

「あれれ、まあ、誰が捕まってるんだ?」

 日暮先生が耳元で尋ねてきた。仮にも担任持っている教師なのに、ずいぶんガキっぽい言い方をする。癇に障ったが、答えぬわけにはいかない。乙彦は、ふたりに一切視線を向けず、反対側の方で別の奴を怒鳴っている麻生先生へと様子を伺った。と同時に、その怒鳴られている奴がやはり、うちのクラスの男子だともすぐに気がついた。


「お前、あれだけ個人行動を控えろと言ったのに、なんでまたひとりで動こうとする? 関崎を見ろ! 関崎はわざわざ朝一番で俺たちの部屋に挨拶に来て、ちゃんと筋を通して朝のランニングに出かけたんだぞ。お前みたいに、ひとりでふらふらとこっそり出かけたわけじゃないんだ!」

 乙彦はその男子が、ジャージではなく制服をきちんと着ていることに、少し驚いた。

 皺もなく、シャツも新しくしているようで襟がぴんと張っていた。

 スニーカーだけが少し、青く草木で汚れていた。

 口答えせず、ただ黙って玄関の端で、じっと顔をあげていた。


「うちのクラスの、立村です」

 それだけ呟き乙彦は、すぐに麻生先生の前に駆け寄った。

「先生、立村が、なんかしたんですか」

 麻生先生が答える前に立村は、乙彦に向かい、首を振る仕種をした。 

 ──何しでかしたんだ、またこいつは!

 怒られる理由はどこかにあるのだろう。しかし、一方的に責められたままでいるのを、放置はできない。それが十五年間の人生における、関崎乙彦の矜持だ。

 ──また黙りこくって、すべてを飲み込んで、いじけさせてはならない。それが立村に対する、俺の、やり方だ。

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