高一・一学期 31
腹いっぱいでいい気分で戻ってきた後、まさか、
「じゃ、お前ら全員、短パンとTシャツに着替えろ」
麻生先生に命令されるとは思っても見なかった。
もちろん、中華料理チームのみである。女子はかろうじてジャージで許されたようだが、みな男子連中はすね毛丸出しの格好で行かざるを得ない。そんなの気にしちゃいないが、どういうことが待っているのか、不吉な予感はあった。
「せめてなあ、膝丈にしてほしいよなあ」」
呟く男子たちの声を聞きつけた麻生先生は、ひとりひとり軽く頭をはたいていった。
「あとで後悔するぞ。一時間前たっぷりゴージャス気分を味わったんだ。覚悟しとけ」
乙彦は素直に覚悟することにした。藤沖と顔を見合わせ、なんだかバランスの取れないTシャツとランニングパンツのセットで宿を出た。まだ体調が優れないらしい立村は、部屋の隅で眠りつづけたままだった。誰も気を遣わずにばさばさ着替えをしたにも関わらず、一切身動きしなかった。
本当はA組の片割れチームが何を食ったのか興味しんしんだった。
「いいな、絶対あそこの餃子、美味しいんだよ」
片岡が乙彦にだけ、小声で囁くのを耳にした、というのもある。
「そうか、餃子か」
乙彦の呟きに藤沖も相槌を打った。
「さっきから片岡、食い意地張ってるようだが、そんなにうまいのか」
「うん」
藤沖に対しては控えめな片岡でもある。
いろいろ事情があるとは聞いているが、なぜ乙彦にだけ片岡が懐いてくるのか不思議だった。藤沖や立村と違い、麻生先生の肝いりで友情を培うこととなったふたり。しかしそれが決して嫌ではない。こういうのも、まあ、悪くはない。したいようにしとけばいい。
「それにしても関崎、ずいぶん楽しそうだな」
またさりげなく突っ込まれる。言いたいことはわかっている。さっきの静内菜種とのことだろう。帰り道でやいのやいの言われたけれども、そのあたりはクールに無視したつもりだった。が、すぐにまた顔を合わせる羽目になると、また悩ましい。自分はそんなの気にするつもりなどないが、静内がおそらく、戸惑うことだろう。面倒なことでもある。
「再会がそんなに嬉しいか」
「しつこいぞ、藤沖」
怒ったわけではないが、言葉を少し荒立ててみる。藤沖もそのあたりの呼吸は飲み込んだようで、
「怒るな怒るな。しかし悪いが、これから先はむさい男子連中のみとの合同作業のはずだぞ」
「合同作業とはなんだ。また試合でもするのか」
次の展開をまだ聞いていなかった。藤沖も首を傾げながら答えてきた。
「いや、俺もまだ詳しい話は聞いていない。俺が聞いているのは、腹ごなしにボランティアかなんかをやるらしいという程度だが。たぶん、ゴミ拾いでもするんじゃないのか。このあたりの公園で」
ゴミ拾いなら納得だ。乙彦もそれには異存ない。
「そうか、いい運動だな」
だが、そう考えるとまた疑問が生じる。乙彦は続けた。
「それでこんな短パンをはく必要性があるのか?」
「確かにそうだ」
「ゴミ拾いだったら、学校のジャージで十分じゃないか。修学旅行ではジャージで寝るのが普通だぞ。みな、それで着たきりすずめになればいい」
「そうか、水鳥中学ではそうなのか。俺たちはみな、ホテルの浴衣を着て寝たはずだ」
さりげなく青大附属中学の修学旅行状況が垣間見えた。
「さらにゴミ拾いだけならば、なぜ細かくチーム分けする必要がある? 全校生徒で拾ったってかまわないだろう」
「場所が狭いんじゃないのか。サボる奴がいるとか」
「なるほどな」
それぞれ想像をたくましくさせてみるが、やはりしっくりこない。
風が冷たく足の間をすり抜けた。ぞくっとする。
「しっかしな、女子連中はまた、観察して騒ぐぞ」
「何を観察するんだ」
「古川あたりがいたら大変なことになっていたぞ。短パンからなにがみえるかにが見えるとかな」
藤沖は意味ありげにくくと笑った。
麻生先生の指示に従い、乙彦たちは五分ほど歩いた先の大きな公園で全員、整列した。
並んでいるのはA組とB組の、中華料理を一緒に食した連中のみ。つい三十分前まで一緒にいたのだから、空気も和む。後ろでおしゃべりする連中が、麻生先生に軽く拳固を食らわされていた。
「さて、ここに何があるか、わかるか」
公園ではあるが、取り立てて何か目立つオブジェがあるわけではない。向こう側には小さな子どもたちが錆びたブランコで遊んだり、低めのジャングルジムによじ登ったりしているのが見える程度だ。いわゆる、普通の正方形な公園に過ぎない。
「公園です」
片岡が見たとおりの答えを返した。麻生先生は満足げに頷いた。時折腹を撫でた。
「で、これが何か、わかるか?」
麻生先生は次に、すぐ側の少し大きめの建物を指差した。かなりすすけているが、それなりに存在感はある。特別難しい問題ではない。乙彦は挙手して答えた。
「公衆トイレです」
「そうだ、関崎。なぜここに来たか、少し見当ついたか?」
しばらく乙彦は公衆トイレの薄汚れた建物を見つめていた。見当がつくようでつかない。まさかとは思うが、やはりその必要性がわからない。恐る恐る、自分なりの答えを出してみる。
「あの、トイレ掃除ですか」
「鋭いな。そうだ、その通りだ。関崎、じゃあまず、お前から先にこれを使え。まずは手にクリームを塗って、準備しろ」
全員からもれる言葉は「まじかよ」「ふざけんなよ」「なんで俺たちが」などなど呪いの数々。だがそれでも、みな言われるがままに麻生先生の差し出すハンドクリームを指先にすりこみ、薄いビニールの手袋をはめていく様は、どことなく哀愁が漂っていた。
──よりによってあれだけ豪華な食事した後に、なんでトイレ掃除なんだ!
呪いたいのはよくよくわかる。見れば、女性教師が引率している女子集団が反対側で絶叫している様子が伺える。それはそうだろう。天国から地獄に突き落とされたようなものである。
──静内はどうしてるんだ?
つい、視線を向けてしまう。存在感のなかったはずの静内が、今はすぐにストレートヘアと一緒に視界へと飛び込んでくる。絶叫女子とは一線をひいているようだが、それでも穏やかに話し掛けている様子だった。宥めている、ともいう。その姿にほっとした。
「先生、女子たちも同じですか」
「そうだ。もちろんあいつらは女子トイレをぴかぴかにするわけだが」
手際よくバケツとブラシを用意した麻生先生は、自分のズボンを膝までたくし上げた。同じく短パンでもよいと思うのだが、さすがに歳を考えたのだろう。女子たちの視線も意識したのかもしれない。そう考えれば自分たちの方が潔いとも言える。
藤沖の溜息と同時に、ぐいと肩を張る姿に、背すじが伸びた。
「わかりました。よろしくお願いします!」
乙彦はまず、自分から一礼した。なぜかそうしなくてはいけないような気がした。つられたのか片岡、藤沖、その他一同がみな、腰低く頭を下げた。
小さな公園のわりに便器の数は多めだった。しかもみな、いかにも磨いてほしいといわんばかりに汚れがこびりついている。もう昼下がりと言ってもいい時間帯なのになぜ、こんなに汚れているのか理解できない。しかも麻生先生の一声でもって、小便器はB組男子、大便器はA組にと振り分けられてしまった。要するに、優勝チームが一番しんどい仕事をしろちうわけである。あきらかなる差別だ。とはいえ受けた以上は仕方ない。それぞれバケツに水を汲み、なぜか真っ白な雑巾を浸し、まずはごしごしとこすり始めた。幸いなのはみな水洗トイレだというところだろうか。
時折掃除最中に親子連れが飛び込んできて、いたしかたなく掃除の手を止めることもあり。大抵の場合せっかく磨いた便器が元通りやり直し、もまたやりきれない。
麻生先生がひとりひとりサボりチェックをこまめにしていく。わざわざトイレの掃除の手際よいやりかたまで指示を出していく。あまりにも酷い黒ずみには、なんとサンドペーパーまで渡され、こするように言われた。目の細かいもので、やってみると意外と落ちる。感動だ。
「ほらほら、水の溜まっているところまで手を突っ込んで磨けよ」
隣の個室で……おそらく片岡だろう……麻生先生が説教している声が聞こえる。最初はひたすらしゃがみこすり続けていた乙彦だが、腰と足が痛くなるわ、床の汚れが気持ち悪いわでだんだんいらいらしてくるのを感じる。なんといえばいいのか、かゆいところに手が届かない感覚と言えばいいのだろうか。ゴム手袋自体がうっとうしくてならない。
──どうせこんな格好だ。帰ったら着替えりゃいい。
それなりに和式便所の汚れは落ちてきた。足もしびれる。こうなったらもうやけだ。
乙彦は手袋を取り去った。素手でブラシの先端を握った。もろ、汚れた部分に触れるはめになる。幸か不幸か乙彦は潔癖症ではない。
──顔突っ込んで、磨いてやる!
両膝をつき乙彦はぐいと、右手を水溜めの部分に突っ込んだ。入れてみるとひやっとする感触と同時に腹が座ってくるのを感じる。ひたすら取れない汚れをこすり続けた。
「おい、関崎、すごいぞ。ほら、お前らも見習え」
麻生先生が他の連中に乙彦のトイレ掃除姿を見るよう声をかけている様子だ。しかしそんなの気にしちゃいなかった。何度か水を流し、見違えるように汚れが落ちていくのが、
──すげえ、面白い。
そう感じてしまう自分に驚いた。もうこびりついた汚れも、黒ずみも、床のタイルの色みも、清清しいほど綺麗になったのに、まだこすり足りなかった。
「関崎、なんであそこまで本気だした?」
窓と壁までご丁寧に水ぶきを行い、結局一時間近くトイレにこもるはめとなった。とことん納得するまでやらないと気がすまない自分の性格だった。麻生先生からもお褒めの言葉をもらったものの、同じレベルの掃除を要求された他の連中には申し訳なさも感じていた。みなに「悪い」とだけ頭を下げた。藤沖も片岡も、それほど怒っているわけでもないにしても、ずぶぬれのTシャツと短パン姿でどことなく落ち着かないようだった。
「中途半端がいやだったんだ」
「いやいや、それだけではなさそうだったぞ」
藤沖は石鹸をつけてあぶくをこしらえたっぷりと水で流した。当然、洗面所もB組男子たちの努力のかいあって、いつのまにか銀色に蛇口が光り輝いていた。
「俺もわからない」
「まあ、これでまずはさっさと風呂に飛び込みたいところだな。臭うぞ」
隣の女子トイレはまだ掃除が続いているようだった。声は聞こえないがまだまだ時間がかかりそうな気配ではあった。麻生先生も特に何も言わず、男子連中を引率していった。公園の芝生まで連れて行き、腰を下ろすように指示した。みな、言われる通り、円陣を組んだ。
「みなの衆、ご苦労さん」
まずは一言、ねぎらいの言葉。
「いきなり何事かと思っただろうが、まずはみな、文句も言わずよくやり遂げてくれた。さすがうちの生徒だ。誇りに思うぞ」
──反抗できるわけがないだろう。
心でつっこむが、あえて何も言わない。疲れで気力がない。
「今の段階ではよくわからないだろうが、今回のトイレ掃除と豪華絢爛中華料理ランチとは、実はイコールなんだぞ」
──どこがだよ。
乙彦の心の突っ込みよりも早く、B組男子のひとりが丁寧に「どこがですか」と問いかけた。みな、わからないことは自分たちですぐに尋ねる習慣がついている連中だ。
「まず、お前らはドッジボール大会で全力を尽くし、優秀な成績を収めた。それゆえにだ、フカヒレ入りのスープだの、黒豚入りのシュウマイだの、胃袋が舞い上がるほどうまいもんを食ったわけだ。それは当然の褒美として、受け取ってよし、だ」
──だからなんでトイレ掃除なんだよ。
青大附属の教師が考えることも理解しがたい。乙彦はあぐらをかきかけの格好でじっと見据えた。答えを知りたい。
「だがそれとは別に、バランスを取る形でこのように便器に顔を突っ込むはめになったわけだ。なんでかわかるか?」
片岡に問い掛けた。首を振る幼い片岡。藤沖が口を開いた。
「いいことがあれば、悪いこともある、そういうことを学べということですか」
「近いが、ちと違う」
乙彦の想像していたことともどうやら違うようだった。かなり藤沖の意見は近いものがあると思うのだが。麻生先生は手の甲で汗を拭きながらゆっくりとあぐらをかいた。乙彦も安心して膝を崩した。
「今はわからないでもいい。だが、この社会の仕組みは学んでおいても損はないぞ」
「社会の仕組み?」
また、なんだかわけのわからない顔をして見あげる片岡に、麻生先生はさらに話し掛けた。
「そうだ。よいことがあれば必ず悪いことがある。だから調子こくな、というのも一理ありだ。しかし、よくよく考えてみろ。たった今、お前らが臭い思いしつつトイレ掃除に打ち込んだ結果、どうだ、あの気持ちいいばかりの白さと便器の輝きは、思い出せるか?」
乙彦は顔をあげた。麻生先生の言葉に、何かがぴんときた。どうやら自分だけらしい。
「お前らに負けた連中は安いラーメンを食いに行ったはずだ。値段だけ考えれば、まあ、不公平だな。努力した結果負けちまったんだから、そりゃあしょうがない。だが、あとで食った感想を他の連中から聞いてみろ。絶対にうまいと思っているはずだぞ」
片岡が大きく頷いていた。
「そうか、桂さんから聞いたか。高級料理ももちろんうまいが、世の中には安ものと思われているようなものでも、めちゃくちゃ美味というもんもある。腹ぺこ時の揚げたてコロッケ一個八十円のとろけるようなうまさをお前らもよく知ってるだろ? それと一緒だ」
つながりそうな気がする。藤沖は微動だにせず耳を傾けている。
麻生先生は締めくくった。
「つまりだ。これから先、高級中華料理のようなもんを食うこともあれば、いきなりトイレ掃除を押し付けられることもあるだろう。けどな、どんなものが与えられたとしても、そこでどんな『うまみ』を見つけ出せるかによって、お前らの人生はぐんと変わってくる。『喜び』とか『めっけもん』とか言い変えてもいいな。どんな出来事にぶつかっても、そこから得るものは確かにある。それを、まずは身体で覚えとけ。ま、そんな気分じゃねえだろうが、それはそれだ。さ、行くぞ。まずは一風呂浴びろ。それから臭いシャツとパンツを洗濯場で洗え。もちろん、手でだぞ」
──手で洗濯かよ! 小学校の家庭科でしか習ってねえぞ!
乙彦の心なる叫びはみな他の連中が代弁してくれたので、それ以上のことは控えた。
宿に戻ってみると、まだ女子たちは戻っていなかったが、片割れA組男子たちはすでに風呂場に直行している様子だった。
「立村、大丈夫か」
まずは目を閉じている立村に声をかけた。他の奴が「寝てるこいつ」と囁く。
「目、腐らないのかよ」
乱暴に呟く奴もいる。結局まだ昼飯も食べていないのだろう。返事もなかった。こんな状態で次の日の行動は可能なのだろうか。評議の藤沖はちらと一瞥した後、一切無視している。何か意味があるのかとは思うのだが、このままでいいとは正直思えない。
「それはそうと関崎、さっきはずいぶん、仲のよろしいことで」
風呂に入るにあたっての必需品、下着類をひっぱり出していると、いきなり背中にかぶりついてくる奴が約一名。藤沖でも片岡でもない。一テンポ遅れてどうやら静内菜種との関係について邪推したいらしい。タイミングがずれて反応が遅れた。
「何を言いたいんだ」
「いやーお前、もてるなって、なあ」
片割れチームの男子たちが仔細を聞こうとする。いいかげんにしろと怒鳴りたいが、その一方で自分のしたことが誤解を招くのもまた事実である。しかたない。潔く受け入れるしかなさそうだ。藤沖にちらと目配せした。
「ははあ、関崎、また女子といちゃついてたってわけか。ずいぶん硬派と思いきや、女子にもてもてのご様子で」
ちっともいやみが混じっていない風に聞こえた。腹を立てるほどではなさそうだった。
「悪いか」
「悪くはないぞ。ただなあ」
いきなり藤沖が割り込んできた。助太刀を頼んだわけではないが、やはり痒いところに手の届く奴である。新しいトランクスを握り締めた手で、乙彦の肩を組んだ。
「ま、事実は事実だ。俺も見た。お前、相当惚れてると見た」
──こいつ、なんだよいきなり!
てっきり味方に回ると思いきや、藤沖の奴、いきなり一発食らわれるようなことを言う。
その癖、肩に手は回っている。外そうとしても離れない。藤沖は耳元でさらに続けた。片岡がきょとんとして目の前で座っている。
「青大附属に入学して一ヶ月、関崎を巡る女子たちの群れを粒さに追った俺だが、今回こそは落ちたと見たぞ」
「ふざけるな。誤解だぞ」
「いやいや、あれだけ熱烈アピールしている清坂にはつれない態度だったこいつがだ、B組の静内に対してだけは、自分から声掛けてるんだぞ。これはすごいことじゃないか?」
誰もが大きく頷いた。からかう気配がないからわめくわけにもいかない。顔が自然と火照ってくるのがうっとおしい。藤沖はさらにぐるりとギャラリーを見渡しながら、
「それはそうと、片岡。西月、元気なのか」
いきなり目の前にいる片岡に尋ねた。一瞬、息を呑む気配がした。今までない空気だった。
片岡の口許を思わずじっと見つめた。
──なんなんだ、この状況?
乙彦の疑問を打ち消す、あっさりした答えを片岡はまっすぐ発した。
「うん、元気」
ただ、それだけだった。
みな、かたずを呑んで見守っていた。
藤沖はどう出るか?
「よし、わかった」
短く受け答えし、藤沖はそっと片手を片岡の頭に載せた。すぐに離した。まだ沈黙を保っている男子連中に向かい、言い放った。
「よい機会だから宣言しておく。人の色恋沙汰、邪魔はするな。やりたいようにやらせろ。それがA組ポリシーだ」
いきなり視線を逸らし、そっぽを向いて呟いた。
「俺も人のことは言えん」
乙彦は腕を首に回されたまま、藤沖に問い掛けた。
「お前、惚れた女子がいるのか?」
藤沖は返事をしなかった。それがひとつの答えだと、乙彦は解釈した。
みなが急いで風呂場に急ぐ中、乙彦は最後に部屋を出ようとした。
立村にもう一声かけたかった。布団に近づき、
「しんどいようなら俺が先生に言っとくか」
くるりと寝返りを打ち、立村が目を開いた。
「やっぱり起きてたのか」
「いや、今」
嘘ではない風に、水の中で呼吸しているような声を出した。立村はまた目を細め、乙彦に何かを伝えようと口を開いた。荒い呼吸で口を抑えた。
「どうした。吐きそうなのか」
「いや違う、あのさ、関崎」
急いで洗面所かトイレに運んだほうがいいのだろうか。動けず様子を伺うと、立村は小さな声でまた問い掛けた。
「さっき、藤沖が言ったこと、本当か」
「なんだそれ」
「いや、なんでもない。早く風呂行ってこいよ」
また口を抑え、囁くように立村は「ごめん」とだけ付け加えた。
「藤沖が言ったことって、なんだそれ。ありすぎてわからん。もっと端的に言ってくれ」
尋ねても立村は、弱々しく首を振り、
「いや、なんでもない」
繰り返し、目を閉じるだけだった。
仕方なく乙彦も立ち上がり、風呂一式道具を抱え廊下へ出て行った。
──藤沖は何を意図してあんなことを言ったんだ?
人の色恋沙汰に口出しするな、とは見事だ。
そういうのに疎い乙彦にも意は通じる。
──これで、片岡が過去の恋愛沙汰で揶揄される心配はなくなったってわけだ。
青大附属の連中が、乙彦とは全く異なる恋愛観でもって物事を捉えていることは薄々感じていた。男女仲良く付き合うのはごく普通のこと、男女が友情オンリーで繋がることも、またいちゃつくのも極々日常なのだと知り始めてそろそろ一ヶ月が経つ。
水鳥中学で同じ出来事が起ころうものなら最後、さぞすさまじいからかいの嵐に見舞われたことだろう。乙彦と静内菜種との語り合いも、本人たちがどう考えていようがもっとひゅうひゅうの嵐に見舞われたことは間違いなかっただろう。
しかし、乙彦にはごくごく自然なからかい文句だけしかぶつけられなかった。
──ガキくさい言い方でスケベネタもなかった。
それが青大附属なのだろうか。ごく自然な流れの中で、クラス内で、何かが認定された、そんな判を押されたような感覚が乙彦に残っていた。クラス評議である藤沖が釘をさしたのだから、おそらく暫くの間、しょうもない突っ込みはされずにすむだろう。人の色恋沙汰に口ばしを突っ込まず、相手を尊重していろという、それはA組ルールとして定められた瞬間だった。
──つまり、藤沖はそう言いたかったのか?
──余計な突っ込みがこれ以上入らないようにという、思いやりか?
乙彦なりに読みはしたが、しかし答えは出せなかった。
──立村もそのあたり、気になったんだろうか。
立村の向けた問いにも答えられず、乙彦はすっかりかゆくなった指先をぼりぼりとかいた。