高一・一学期 30
コップにウーロン茶は注がれたが、重々しく麻生先生より、
「これから食事をする際は、紳士として、また淑女として振舞うことを忘れるな。いいか、男子は隣の女子に対してレディーファーストを心がけること。それは習ったな」
乙彦が全く習っていない行動を要求された。レディーファーストってなんだ?
「女子もいつものように人の前に手を伸ばしてはしたなく食べ物を取るのではなく、隣の男子によそってもらうようにしろ。いいな。このランチはあくまでも、学校の延長だということを忘れるな」
──頼むから早く食わせてくれ!
周囲の声なき叫びをみしみしと身体に響き渡らせつつ、乙彦は片手で菜ばしを取る準備をした。他の男子たちも、いや女子たちも同じように見えたが、唯一隣の静内菜種だけは大人しく話を聞いて、手を膝の上に乗せていた。
「では、いただきます!」
「いただきます」
挨拶もそこそこにみな、さっそく盛り合わせの大皿にかぶりつこうとしている。一応は男子たちに与えられた指示もあり、隣同士さっそく麻婆豆腐やら小ぶりの餃子やらシュウマイ春雨をみな、とりわけ合っている。どことなくぎこちなく、中には取り皿から落っことす奴もいた。
とりあえずは真似すればよさそうだ。乙彦は顔を突っ込みたいのをこらえ、まず隣の静内に尋ねた。
「何、取る?」
「春巻がいいな」
言葉を交わしてまだ三分くらいしか経っていないのに、静内の口調はざっくばらんだった。それでいて押し付けがましくないせいか、乙彦も余計なことを考えずに春巻を二個、さくっと取り皿に載せた。箸でつかんでみて驚いた。ふにゃりとしていない。ぱりぱりして、しっかり箸で摘むことができる。
「ありがとう」
さっそく次に静内が乙彦に盛ろうとする。
「何がいい?」
「あ、じゃあ、酢豚、多めに」
とにかく肉っぽいものだけ食いたい。慌ててウーロン茶をがぶ飲みした。
「じゃあ、これだけでいい? これからたくさん並ぶから」
「並ぶって、何が」
「料理。きっと、どんどん入れ替えられるはずだから」
──入れ替えられるってなんだそれは。
受け取り、乙彦は余計なことをそれ以上考えずにまずは一皿、平らげた。
ふと、空いた皿に、春巻がひとつ、ぽんと載せられた。隣の静内からだった。
「どうぞ」
「あ、ああ」
嫌いだったのかそれとも乙彦の激しい食欲に同情したのか、その辺は定かではない。
あっさりと食うのが一番のような気もする。
にっこり微笑むあくのない静内の顔を見ていると、ふと「おかず」という言葉が頭の中に浮かんだ。
「ごちそうさま」
瞬時に飲み込み、小声でお礼を言った。口の中に広がった春巻の味は、今まで食べたものと違い脂っこくなく、皮もあっさりぱりっとしていた。食ったことのない、味だった。
しばらく食べまくるだけの時間が過ぎた。
決して麻生先生の言う「レディーファースト」を怠ったつもりはないのだが、それ以上に空腹が耐えがたかった。それに尽きた。決して乙彦だけの現象ではないはずだった。
斜め前で底なしに麻婆豆腐を平らげている藤沖もいれば、たんめんの汁を会話なしにすすっている片岡もいた。片岡の場合ご愁傷さまとしかいいようがないのだが、隣は麻生先生だった。女子には無視されているようだったが、麻生先生とは妙に盛り上がっている様子だった。
静内の言う通り目の前の回る大皿はさっそく入れ替えられ、毛色の変わったほうれん草入りの餃子やら、シュウマイと思って噛むとやたら熱い汁が口に広がるものだとか、燕の巣入りのスープだとか、乙彦には未知の世界だった料理がどんどん並んだ。デザートに当たる杏仁豆腐をとりわけた段階で、ようやく胃も満腹となったようだった。
小ぶりの茶碗にジャスミン茶を注がれ、乙彦はそっと隣の静内に顔を向けた。
食べつくしてる間、静内には「次はどれを盛る?」以外の会話をしていなかったような気がする。当然なのだが、だが、それだけだとなんだか変なような気もしてきた。
ジャスミン茶というのは花が素になっているものらしい。そんなの知ったことじゃない。やたらと臭いようだが、口の中はさっぱりした。
「学校、慣れたか?」
ふっと飛び出した言葉に、自分でも驚いた。ふつう、女子にそんな馴れ馴れし言い方、したことない。失言。急いで杏仁豆腐のさくらんぼを口に放り込む。静内はやはり杏仁豆腐をちりれんげで掬いながら言葉を返した。
「まだ入学して一ヶ月だから、大変」
「だな」
隣で別の女子がちらりと乙彦を見やる。気付かない振りをした。
「こんなとこで食うのって、普通のことなのか」
「棚氷中学ではこんなことなかったな」
「だよな。水鳥でもなかった」
杏仁豆腐も、スーパーや母の手製のものと違い、甘すぎなくて、腹いっぱいの胃にもするりと入った。美味しいのだが、発する言葉の次元が違っている。
「なんだか毎日が『不思議の国のアリス』みたい」
──なんだ? 「不思議の国のアリス」?
世界名作に疎い乙彦には、なんのことだかわからない。自慢じゃないが本を読むならノンフィクションに限る。想像の世界は全く意味不明だ。
するすると杏仁豆腐を口に運ぶ静内は、ほんのわずか頷いた。
「いつのまにか時計を持ったウサギにひっぱり込まれて、いろいろな不思議な言葉いっぱい聞かされて、いつのまにかトランプの女王の裁判に巻き込まれたり、気がついたら女王にされそうだったり、もうめちゃくちゃ」
小声だった。近くの同級生たちに聞かれるのを、さすがに恐れたのだろう。
「つまり、わけがわからないということか」
「そう。一言でいうと、そうなる」
静内はジャスミン茶をこくりと飲んだ。美味しそうでもなく、ただ義務的に。
──その「アリス」とかいうのはよくわからないが。
ただ言葉の意味をその通りに捉えれば、よく理解できる。
女子たちの発言は基本としてわけのわからないことが多い。感情が溢れていて、理解してほしいとばかりに投げつけられ、本来ならふつうの会話として用いられる言葉に二重、三重の意味が付け加えられ、混乱を生じる。
それがなぜか、静内の用いる比喩にはそれを感じない。
むしろ、その通りと受け止められる。
──女王の裁判、気がついたら女王。つまり清坂がらみの問題だな。
まだ初めての会話から三十分も経っていないのに、自然と話が結びついていく。もちろん乙彦も前もって静内のライバルたる清坂の事情を聞き知っていたからこそ、理解できたところもあるだろう。
しかし、ここでなんともなしに淡々と杏仁豆腐をすする静内菜種。
むかっ腹を立てているわけでもなさそうだし、醒めているわけでもなさそうだ。
ただ、あることをそのままあるがままに受け止めている様子。
乙彦はもともと当てこすったり探りを入れたりするのが得意なほうではない。
いくなら直球を投げる。
「評議委員に選ばれたことか」
だから聞きたいことを、そのまま聞いた。さすがに静内もすくう手を止め、乙彦にけげんな眼差しを与えた。言葉はなかった。やはりまずかったろうか。しかし投げた言葉はもう取り戻せない。続けるしかなかった。
「うちのクラスの藤沖が評議委員なんで、よく話は聞いている。選ばれる時、大変だったらしいとかなんとか」
「そうなんだ。すぐに噂になるのね」
「いろいろな情報は耳にしているが、みな一方的な話ばかりで公平さに欠ける」
「そう思うのね」
静内はイエスともノーとも言わなかった。
「でも、青大附属は不思議の国だからこそ、面白いなとは、思う」
ここで少し声を弱め、
「……ように、してる」
語尾に、乙彦のどこか奥が震えた。
──不思議の国か。
場所が場所だけにはっきりと口にはできないのだろう。
清坂から女子たちの信任を一気に奪い、いつのまにか評議委員に選ばれてしまい戸惑っているというのが正直なところなのだろう。しかも全く未知の大陸に上陸したコロンブス状態で混乱している状態。もちろん乙彦のみた限り、静内は女子たちとうまくやっているようだし、唯一清坂に噛み付かれる時以外はなんとかうまく流しているようだと聞く。こうやって話を聞いてみると、さもありなんと思う。
──だが、それはしんどいだろう。
乙彦は話を変えた。
「中学の連中とは遊んだりしてるか」
「してる。やっぱり楽」
短く、さっぱり、温かく静内が返事した。かなりぶっきらぼうな質問に、特にむかつく様子もなく、答えるからこそ、どんどん話が弾む。
「俺も、この前ドッジボール大会やった」
「優勝した?」
「もちろん」
短い言葉のやり取りなのに、あっという間に繋がっていく。いくら言葉を重ねてもぶつ、ぶつと切れていく清坂や古川とは異なった雰囲気が流れ出した。
「水鳥の公園で仲間と集まったんだ」
「水鳥の公園って、青潟郷土資料館の近く?」
いきなり静内が思わぬところに繋がってきた。思わず頷くと静内は今までのさっぱりした表情と違う、少し笑顔を繰り出した。風呂敷で包んでいた果物をさっと目の前に差し出した、そんな新鮮さがあった。
「私、よく行くの。あの資料館」
「俺のうちの近くだ、あそこ」
「水鳥中学の校区よね」
「けどあまりあそこには行ったことがない」
「それ、もったいない!」
その迫力、勢い、突然過ぎる。乙彦に一気接近しそうなほど、目を輝かせた。
「青潟の歴史って、調べると面白いのよ」
「歴史が得意なのか?」
「得意じゃなくて、好きなの」
ふと、静内ははっと自分に返り周囲を見渡した。ついでに乙彦も様子を伺った。
視線がいつのまにか、集中している。
藤沖、片岡もぽかんとして乙彦の顔を見つめている。
──やばい、なんだこれ。
気がついてもあとの祭りだった。いつのまにか静内とふたりの語り合いは面前でさらされていたことに、気付かなかった。同時に静内がふっと自分の頬を撫でるような仕種をした。
食事が一段落し、麻生先生の合図で席を立った時。
「さっき、ひとりではしゃいでしまってごめん」
ちょっといたずらっぽい表情を静内は浮かべた。あれからひたすら無言で杏仁豆腐に向かっていて一言も口を利いていなかった。さすがにあの場所であれだけの興味津々視線をむけられたら何も言えない。
「あ、いやなんでも」
「でも、関崎くんと話せて、ほっとした」
せきざき、と発音する時、少しどもるように口にした。覚えていないのかもしれなかった。
「ああ、そうか」
「ちょっとだけ、不思議の国から戻ってこれたような気分」
「あっそっか」
気の聞いた言葉が出てこなかった。
「あの、その『不思議の国のなんとか』ってなんなんだ」
「アリスって読んだことない?」
「わからない」
そんな女子好みのものなんて普通男子が読むわけない、そう言い返してもよかったのにそうできなかった。
「男が読んで面白い本か」
「わからないけど、貸そうか」
「頼む」
いつのまにか乙彦は頼んでいた。静内もあっさり頷き、A組の女子たちの列に混じっていった。一時間足らずの会話で、時を忘れたのは青大附属に入学して以来、初めてのことだった。
藤沖がすぐに寄って来て、耳元に注意を囁いた。
「随分鼻の下を伸ばしていた様子だが」
「そんなことはしていない。いわゆるレディファーストを行っただけだ」
「お前なんか勘違いしてるんじゃないか」
最初はしかめっ面で説教しようとしたのだろうが、乙彦の返す言葉に呆れたのか笑い出した。
「関崎が自分から女子に話し掛けるとは誰も思っていなかったからな、驚いた」
「驚くようなことはしたつもりはない」
言い返しながらも、藤沖の鋭い視点には乙彦もたじたじとなった。
否定は出来ない。今まで女子たち……古川なり、清坂なり……が自分から近寄って来て話し掛けてくるパターンとは違う形を作ったわけだ。それは自分の意志であって、流されたわけではない。それを笑うのだったら腹を決めて認めるしかないわけだ。
だが、たまたま隣にいた女子と話をしただけであって、それ以上の何者でもない。
乙彦が黙り込むと、藤沖はまだ顔をにやけたまま、こくこく頷いた。
「さてこれから凄い噂になると思うが、覚悟はしておくように」
「噂とはなんだ」
「わかっているだろう」
そう決め付けられても乙彦にはわからない。藤沖も説明をそれ以上しようとはしなかった。
「まあ、相手は悪くない。露骨な嫌がらせはないだろう」
「藤沖、何を言いたいんだ」
「外部生同士でかつ、女子とうまくやっている静内だったら、女子連中の嫉妬の嵐も受けずにすむだろうということだ」
ますますわからなかった。さっきまで静内と比喩交じりの会話を交わしていた時に比べて、また回りくどくこんがらがった言葉遣いに乙彦はいらだった。無言を通した。
とりたてて深い会話を交わしたわけではない。古川や清坂を相手にした時のように、心をぐりぐり抉るような話をしたわけではない。むしろ上っ面に過ぎない会話だけだった。静内菜種との会話は、彼女の外見とほぼ変わらず、目立たない内容だったはずだった。
なのに、なぜかポイントの単語だけが、しっかり残っている。
──青潟郷土資料館。
──不思議の国のアリス。
──女王の裁判。
何かを訴えかけるようなものはなく、ただ淡々と呟くだけ。それも比喩として。
ただ伝わってくる。確実に、何かが静内の言葉を運んでくる。
「藤沖、お前は世界文学に詳しいか」
本を貸してもらう前に、あらすじだけ聞いておこう。乙彦は藤沖にそれとなく尋ねた。
「一般常識としては」
「そうか、なら『不思議の国のアリス』とはどういう話か知っているか?」
「お前知らないのか?」
さっき静内も、「なぜ知らないの?」とばかりの表情を浮かべたが、藤沖もまたその倍けげんな顔で乙彦に問い返した。
「そういうファンタジーものは俺は興味ない」
「いや、それ以前として、読まないのはまずいんじゃないのか」
藤沖はぶつくさ何か言いたそうだったが、乙彦の求めているあらすじをさらっと述べた。
「イギリスのアリスって子が、いきなり時計を持ったウサギを追っかけていくうちに穴ぼこに落ちて、そこからわけのわからん連中とのごたごたに巻き込まれていって、最後は夢から
醒めて終わるって話だ」
「空想の世界にタイムトリップするという奴か」
まるでテレビアニメの世界である。藤沖は否定しなかった。
「ま、そう考えてもいい。ただイギリスにはいわゆるマザー・グースというわらべ歌があって、その言葉遊びでもって楽しむ物語でもある」
「言葉遊び、か?」
ますますわからない。が、別の回路が開いてきた。
これ以上、「アリス」の仔細を聞き出さなくてもいい。そんな気がした。
「わかった、ありがとう」
乙彦はさっさと話を終わらせた。
──不思議の国。
青大附属はワンダーランド。
その題名だけで、事足りた。
静内菜種が貸してくれるであろうその本は、「不思議の国」へのパスポート。
それ以上のものではない。
──どちらにしても静内とは、もう少し詳しく事情を聞く必要がある。
同じ外部生だ。杏仁豆腐を食いながら語れなかったものを、もう少し掘り下げたい。
思えば入学してから、外部生の連中と膝突き合わせて話をする機会が少なくなっていた。名倉時也とも最近はご無沙汰だし、行動するのも大抵は藤沖と一緒で易きに流されているような気がここのところしていた。
この機会に一度、乙彦は外部生の同期と、情報交換したかった。
──だから、際当たっては。
決して変なことでもないはずだ。静内菜種とふたりで語り合いたいと感じることは。藤沖が揶揄するように、決して変な噂になることでもないはずだ。ワンダーランドに飛び込んで戸惑う外部生同士が情報交換し合うことは、決して余計な詮索をされるようなことでもないはずだ。決して、決して。