高一・一学期 1
合格通知と一緒に「入学者オリエンテーション」案内が届いていた。二月下旬に受け取った際、両親ともども仰天したのは、
「入学前なのに、もう教科書買わねばなんないわけなの? それも問題集から副読本からこんな大量に?」」
「冬服夏服それぞれ一着ずつというならまだわかるけど、なんで四着も買わねばなんないの?」
「まあ鞄を統一するのはわからなくもないけれどもねえ、ジャージもなんで二着ずつ?」
とにかく、スペアを用意しろという項目がやたらと多い。雅弘にも公立高校の準備状況について聞いてみたが、どこも制服はガクランにシャツのみ、ジャージは一着のみ。こんなに二重に買わされることはない。
母が溜息をつきつつも、貯金通帳を広げて電卓を叩いているのが見えた。
「おとひっちゃんは心配しないでいいからね、まあ、青大附属だからこのくらいの金額は覚悟していたし、お父さんの貯金もあるし」
「あ、俺のお年玉、貯金そのままあるからそれ使って」
乙彦は郵便貯金の通帳を差し出した。特に使うものもないし、もらう額もたかがしれていたのでそんなに貯まってはいない。しかし、ないよりはましだろう。
「いいよ、あんた、これは大学の入学金にしなさい」
やんわりと首を振られた。でもやっぱり溜息は続くものである。
「入学前でこのくらいかかるんだから、入ってからがまた大変だろうねえ」
──まさかこんなにかかるとはな。
入学してから、奨学金の有無を確認し、もし試験を受けられるようだったら受けてみるつもりではいた。しかし、入学の前段階で費用が想像以上にかかる以上、乙彦としても少し早めにアルバイトを
「佐川書店」の店長こと雅弘のお父さんには、古本屋でのアルバイトへの快諾を伝えた。
母と一緒に乙彦も頭を下げた。
「やっぱりねえ、雅弘の友だちがここで働いているというのは、お互い落ち着かないものがあると思うのよ。おとひっちゃんはしっかりしているから、きっと戦力にはなってくれると思うんだけどねえ」
雅弘のお母さんを交えて話をした。お父さんも頷いた。
「いやあ、ほんと向こうさんは助かると思うよ。おとひっちゃんなら太鼓判押して送り出せるしなあ。それに、午前中だけだから学校にもそれほど影響もないだろうし。なあ、雅弘にも見習わせたいよな」
そんなことないだろう、雅弘はすでに、家の手伝いとしてレジ打ちをしているじゃないか。
乙彦がそう言い募ると、ふたりは顔を見合わせて笑顔で答えた。
「おとひっちゃんが来てくれると、雅弘の仕事もなくなってしまうからね。そうそう、古本屋さんの情報というのは新刊を扱っているうちのような書店にもかなり影響があるからね。そのあたりも時々顔を見せて、教えてもらえると助かるよ」
そういうものなんだろうか。乙彦は改めて深く頭を下げた。
とりあえず四月からアルバイトという形で今のところ話は決まっている。例の古本屋にはオリエンテーションが終わって次の日にでも、雅弘の父さんに連れられて挨拶に行くことになっている。
しばらくは親のすねをかじりつつ、学費以外の金額を押さえるよう努力しないとならないだろう。同じ英語科に進学予定のエスカレーター入学生・立村によれば、
「よっぽどのことがなければ自転車通学で大丈夫だよ」
と言われている。定期券の必要性はない。
給食も出るはずだし、買い食いする必要もない。
電車鳩のように往復さえしていれば、たぶんさほど問題はないと思われる。
しかし。
乙彦はもう一度オリエンテーション用のプリントを眺めた。
──部活動見学か。
最初から諦めていた。
──無理だな、やはり。
ぎりぎりまで古本屋での早朝アルバイトを迷ったのは、その点においてだけだった。
中学一年の二学期半ばまで、乙彦は陸上部に所属していた。だから運動関連の部活動に必ず「朝練」と呼ばれるものが必要なのは承知していた。朝五時半から授業開始直前までトレーニングを行い、その後放課後夜遅くまで走りこみを続ける。場合によっては先輩たちの特別トレーニング……別名しごきともいうが……を受けることもある。
乙彦の場合長距離専門だったので、どうしても走りこみが多くなる。それは苦痛ではない。しかし、生徒会副会長に当選してからはどうしてもそちらの仕事がらみで練習に時間を割けなくなった。立候補を勧めたのは先生たちなのだから、決してそのことで嫌味を言われることはなく、かえってそちらに力を入れるよう激励された。しかし、二年、三年の先輩たちからは直接張り手を食らわされたり、さらには嫌がらせも受けたりとさんざんだったこともあり、見切りをつけた経緯がある。
決して、走るのが嫌いだったからやめたのではない。
できれば高校入学と同時に再開を考えていた。
──だから走りこみ毎朝続けてたってのにな。
また溜息が洩れた。雅弘を子分にして、卒業まで毎日早朝トレーニングを続けていたのも、やはり無駄になるのだろう。しかたないことではあるけれども、しょうがない。
早起きは苦にならない。しかし今までランニングを続けてきた時間をそのままアルバイトに持っていくとしたら、まず朝練に参加することは絶対に不可能だ。
いわば鍛えるために使っていた時間をそのまま、学費に換算するだけのことだ。
前日の夜、立村に電話をかけてみた。
持ち物のチェックを行ったのだが、少し話がかみ合わない。
「あれ? オリエンテーション、午後からだと思っていたけど」
きょとんとした声で立村に答えられ、乙彦も何度もプリントを読み返した。
「いや、俺のもらった紙には確かに、八時半からと書いてある」
「どうしてだろう?」
暫く議論を交わした後、結論としては、
「外部入学者を午前中呼び出し、午後から中学からの進学者と顔合わせという流れなのではないか」
というところに行き着いた。
「青大附属は公立と違う決まりがたくさんあるから、まずそれを説明してから、ということなのかもしれないね」
立村は穏やかに答えた後、
「それでは、午後に」
短く締めた。
立村も自覚している通り、青大附属高校は公立から来る入学者にとって戸惑うしかけがかなりなされているのだろう。制服を大量に用意させたり、教科書を二月の段階で購入するよう指示したり、宿題用の問題集を大量に渡されたり。乙彦には予想もつかない展開だった。
このような状況がさらに待ち構えているというのならば、自分の本能赴くままに行動するのは、家計に多大な負担をかけるだけのことだ。改めて乙彦は気を引き締めた。
──余計なお金を使ってはならない。
──俺は、すっげえわがままを言って、青大附属に行かせてもらったんだ。
財布の中には三千円分、まだ小遣いが入っている。出来る限りこの中のお金は使わないようにしなくてはならない。
次の朝、乙彦はいつものように雅弘をひっぱり回してランニングを行った後、すぐに学校へ行く準備をした。三月半ばとはいえ、かなり空気は冷たい。さすがに雪は解けきっていたが、それでも時折霜が残っている土壌を見かける。思わず踏んでしまう。
「おとひっちゃん、あんた、今日はまずお風呂に入ってからにしなさい」
「いい、シャワーで」
「いいえ、あんた、今日は青大附属のいいとこの子たちと初めて会うんだからね。びんぼくさい格好してっちゃだめよ、ほら、パンツとシャツ用意してあるから、すぐ入りなさい」
まだ兄、弟が寝ている中、乙彦は言われる通り一番風呂に入った。別にそんな気合入れるつもりもないのだが。それに、「いいとこの子」とはいったいなんぞや? 立村を代表とする青大附属の連中の性格を見る限り、少しのんびりしたところはあるかもしれないが、それほど上流家庭のお坊ちゃんという気はしなかった。まあ、一汗かいたことだし、さっぱりするのなら、それもまたよしだ。
「じゃあ、行ってくる」
乙彦はさっさとカラスの行水を終わらせた後、自転車にまたがった。慌てて母が追いかけてきた。何を言うかと思ったら
「あのねえ、おとひっちゃん。あんた、あまりお金お金って貧乏くさいこと言っちゃだけだからね」<
「別にそんなこと」
「うまく合わせるんだよ、あんた、馬鹿正直だからねえ」
正直でどこが悪いんだ。乙彦は頷き、そのまま自転車のペダルを踏んだ。湯上りの身体に冷たい風が気持ちよく背を押してきた。
到着までさほど時間はかからなかった。約十分弱か。青大附属の校舎近辺に到着し、まずは校門を潜り抜けた後、「高校校舎はこちら」と用意された矢印に従い自転車をこぎつづけていった。おそらく附属中学の生徒だろう。自転車で反対方向に向かう生徒もいた。コートやジャンバーを羽織っているのでそのあたりの区別はつかない。
──しかし、ずいぶんと身体がかぽかぽするな。
制服がぶかぶか過ぎるというのが正直なところだった。学校の指示通り、冬服を四着用意というのは間に合わなくて、まずは冬と夏、各一着ずつ揃えるだけにしておいた。その代わり、長く使えるようにということでかなり大きめに仕立ててもらったはずだった。学生服がわりと身体にしっくり馴染んでいただけに、この感覚は気持ち悪い。のりの利きすぎたワイシャツも、縛りなれないネクタイも、みな硬い。
やがて高校校舎へと到着した。合格発表以来だろう。青大附属の場合、中学校舎、および大学校舎が完璧に分かれているせいか、学年ごとの交流が殆ど行われていないと聞く。立村が言うには、「合同で使う機会があるのは、たぶん生徒食堂だけだよ」とのことだが。
──と、いうことは、中学の生徒と会う機会もないのか。
自然と肩から力が抜けた。何度か中学の校舎に足を運ぶ機会はあったが、今立っているこの高校校舎から、中学の匂いは感じない。
「青潟大学附属高校・外部入学者オリエンテーション会場はこちら」
また矢印だ。とりあえずは自転車置き場らしきところにつけた後、乙彦はそのまま校舎に入っていった。よかった、上靴を忘れてはいなかった。
すでに先客が三名ほどいる様子だった。現在の高校一年、二年たちがそそくさと自分用の靴箱にスニーカーを投げ入れてのんびり歩いていくのも見かけた。乙彦がしばらくロビーできょろきょろしていると、黒ぶちの眼鏡をかけた、小太りの男子生徒に声を掛けられた。
「そこの君、オリエンテーションかな」
ずいぶん砕けた言い方である。
「はい。本日からお世話になります」
「午前中から、ということは、外部で来たのかな」
またずいぶん、なれなれしい言い方でもある。
「はい、その通りです」
「まあまあ、そう硬くならずに。さて、普通科かな、それとも英語科かな」
「英語科です」
ふむふむと黒ぶち眼鏡の男子生徒は頷き、やがてにこやかに笑顔を向けた。
「せっかくだし僕が案内するとしよう」
──別に案内されなくてもいいんだが。
乙彦の頭の中には、すでにきっちりと教室の位置関係が組み込まれていた。子どもの頃からそれは得意なのだ。案内されるまでもない。いつもだったら断るだろう。しかし。
──ここで不要なトラブルを起こさないほうがいい。
自分なりに判断し、乙彦はおとなしく頭を下げた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「これが僕の、高校最後のご奉公だからねえ」
──ご奉公?
やはり、青大附属、この学校は変だ。よりによって初めて口を利いた青大附高の生徒がこんな奴であるとは。もしもこういう奴が水鳥中学にいたらどうなっていただろう? 考えてみたが想像がつかなかった。いるわけがないのだから、しょうがない。
「麻生先生のクラスだな。あの先生は悪い人じゃないから安心したまえ。それと、クラスの連中もかなり面白い奴が揃っている。少なくとも陰湿な嫌がらせをしたり、靴に画鋲を入れるような生徒はいないはずだ。まあ、これも僕の印象だけどね」
「あの、なんでそんなこと」
知ってるんですか? そう尋ねたかった。さっきからちらちらと胸の名札を覗き込もうとし、ようやく黒ぶち眼鏡の生徒の名が読めた。「結城」と金に黒く彫られていた。学年バッチは「2ーA」。つまり来年は三年に上がるはずだから、ふたつ上の先輩と見た。
「ああ、それは僕の趣味。後輩はみんな可愛いからねえ。もちろん君も」
「ありがとうございます」
鳥肌が立ちそうだ。何も「可愛い」なんて言葉使わなくたっていいだろう。
「ただ、たぶん戸惑うだろうね」
階段を三階まで昇り、少し暗めの廊下をてくてく歩きつつ、
「この学校は先輩後輩の仲が非常に良くてね。いや、良すぎて困るといった方がいいかな。だから何かがあるとすぐ、後輩を守るために先輩たちが飛び出してくる。いわゆる先輩のいじめというのは殆どない。ないならそれはめでたいことなんだが、いかんせん闘争心にも欠けるところがある」
「闘争心、ですか」
「興味ある?」
にやりと笑うのはやめてほしかった。また鳥肌が立つ。
「うちの学校、運動系の部活動がどうしようもないくらい壊滅しているだろう? 知ってる? 知らないならそういうもんだと思っていてほしいんだけどね。たぶん、がむしゃらに何かをしようとする、意志が薄いんだろうなあ。人はそれを、お坊ちゃまお嬢ちゃまの楽園だからというけれどもね」
「はあ」
なんとなくそれはわかるような気がする。
「だが、その一方で仇花というのかな。活発に活動しているのは委員会活動であり、まあ生徒会もかな、ってとこなんだ。君、そういう活動、好きかな」
「はい」
即、返事をした。気が楽になった。
「生徒会で副会長二期勤めました」
満足げに頷く結城先輩。もう、先輩と呼んでいいだろう。
「そうかそうか。それは結構だ」
結城先輩は片腕をいきなりぐいと挙げた。
「まあ最初のうちは、外部の生徒の定めってことで、いろいろガリ勉させられるだろうし、苦労も多いと思うが、まずは最初の一学期を死に物狂いでがんばればなんとかなる。青大附高に合格するくらいだからそうとう賢いと見ゆるが、いかに?」
この人、何か言葉遣い、時代劇がかっている。乙彦はこちこちになりつつも答えるしかない。
「一応、学年トップでした」
間抜けだが、事実ではある。
「人間は挫折も大切だよ。この言葉、よおく、覚えておいたほうがいい。外部の生徒が最初ショックを受けるのはそのあたりだからなあ。でも。それはな、しょうがない」
わけがわからず問い返したくとも、どのあたりに意味があるのかわからない。
「そのためにみな、先輩がこうやってうろちょろしているわけなんだ。そういう時はどんどん、遠慮なく声をかけてくれたまえ。失礼、忘れていた。君の名前は?」
「関崎乙彦です。結城先輩、よろしくお願いいたします」
フルネームで答えた。口をつぼめてほうほうと頷く結城先輩。
「僕の苗字をすでに覚えてくれていたとは、光栄だ」
「胸のバッチを見ました」
別に驚くべきことでもなさそうだが。過剰に満足している様子にどう対応すればいいのか乙彦にはわからなかった。
「それならせっかくだ。僕のフルネームも覚えていただこうか」
胸から結城先輩は手帳を取り出した。手帳の表でも見せてくれるのかと思ったら、なんとこの人、手帳を開いてなにやら紙を取り出したではないか。
「僕の写真は写りが良すぎて別人と呼ばれるので、あまり見せたくないんだ。それに君のことだから、すでにクラスもチェックしていることだろうしね。僕のプライベート情報を一通りご覧いただけると、さらに何かの折り、声をかけてもらいやすいんでないか」
名刺を受け取った。そういえば名刺、青大附中に交流会で訪問した際、誰かから渡された記憶がある。立村とあと、本条さんとかいう人だったが、そんなのとっくに処分していた。乙彦は片手で受け取ろうとした。とたんぴしと、指先で叩かれた。
「こういう時は、両手で押し頂くのがマナーって奴よ。もっかいプリーズ」
「押し、頂く?」
いわれた通りにもらい直すと、結城先輩はまた満足げに頷いた。
「そうそう、こういうとこからいろいろ突っ込まれるのが、青大附属に入学する外部生の定めってとこ。落ち込みなさんな。いくらでもうちの学校の連中は、教える準備できてるから。困った時には遊びにおいで。その前にはまず、この名刺をじっくり読み込んでもらえると助かるが、では、また会おう!」
結城先輩はしばらくその時代劇がかった言葉を操りつつ、最後は手を振りつつ背を向けてもと来た道を戻っていった。気がつけば、目の前の扉には「生徒相談室」と札がかかっていて、紙に太く、
「外部入学生オリエンテーション会場入り口」
張り紙がなされていた。縦に長くぶら下がっているその文字は、刑事ドラマに出てくる事件の捜査会場にも似た趣があった。
──悪い人ではなさそうだが。
今まで水鳥中学にいたタイプの先輩ではなさそうだった。乙彦にとって先輩とは、いわば陸上部時代にいろいろ足枷をされた苦痛の思い出を与えられた人間でしかない。本当だったら二束のわらじを完璧にはいて暴れまわりたかったのに、できなかったゆえの記憶。苦さしか残っていない。だから、後輩の内山が入ってきた時には、決して同じ思いをさせたくないと心に誓ったのだ。もっともあいつは生徒会長に選出されてから、脳天気なアホのキャラクターを目覚めさせてしまい、時代劇マニアの道をひた走っているのだが。いい奴だけに、乙彦としては心配だ。もしかしたら今の結城先輩と話が合うかもしれないが。
改めて受け取った名刺を読み直し、乙彦は絶句した。
──あの人………?
以下、結城穂積の自己紹介名刺である。
・結城 穂積 ゆうき ほずみ
・学年 二年A組
・8月10日生まれ しし座
・現在 評議委員長・「日本少女宮応援クラブ」会長
・プレゼントはぜひ、「日本少女宮」に関するグッズを所望。
・その他、女性アイドルに関する情報も随時募集中。
・五教科プラス三教科、質問いつでもOK
・好きな飲み物 いちごミルク
・その他困った時はいつでも電話OK
・先着五名様に、「青潟大学附属高校ファッションブック」最新版プレゼント中(期間限定)
──この人、何者なんだ?
「評議委員長」という肩書がついたことすら、乙彦の記憶には残らなかった。
思わず、完全なるアホの御代官様ごっこに興じていた後輩の内山を思い出し、乙彦は額を押さえた。やはりここは、乙彦の知らない世界だった。