高一・一学期 23
「で、何がどうしたってわけよ」
「怒らせただけだが」
古川こずえは深く溜息を吐き、乙彦の渡した缶ジュースをこくんと飲んだ。
「なんで怒らせたか気付いてないよねあんた」
「理由は大体見当ついている」
いつもの学生食堂だが、今日は夕方にも関わらずかなりの賑わいだった。席を押さえるのもやっとでしかも相席。古川はたいして気にしていないようだが、乙彦としては少しばかり気を遣う。女子がらみの話はできるだけ人のいない場所でしたほうがよさそうな気がするし、もともと乙彦は地声が大きい。うっかりばれてしまったら大変だ。
「ああ、今夜ね、大学の人たち、新歓のお花見やるんだって。お酒が入るから大学生以下は禁止なんだけどね。でサークルの新入生を集めて、親睦を深めるんだって」
「詳しいな」
「毎年のことだもん。で、陰でかならずひとりかふたり、急性アルコール中毒で病院に運ばれるってわけ。なんだかねって感じよ」
よく知っているものだ。青潟大学の学生については全く想像がつかない。久田さんのイメージでは夜桜で酔っ払うといった風情でもないし、いったいどういうことなのか返事に困る。
「あーあ、私だってね、本当は今夜ゆっくりデートの予定だったのに!」
「悪かった」
──別に俺が頼んだわけではないんだが。
ちろっと横目で乙彦をにらんだ後、古川は指でOKサインを出した。
「いいよ、今日は夕方のデートをしたんだってことで納得しとく。ってことで、関崎、詳しい話、聞かせなさいよ」
要は清坂美里が一方的に激怒してしまったという、それだけの話だ。
「もちろん俺も言い方を考えるべきだったとは思うし、それは反省している。だが」
伝えた内容については嘘はない。
一通り説明した後、古川こずえは「どうすんのこれ」、一言呟いた。乙彦に話し掛けるというよりも自分に言い聞かせるかのようだった。
「謝るつもりだ。もちろんだ」
「そういうんじゃなくって、関崎、あんたね、彼女今までいなかったって言ってたよねえ」
「そうだが」
確認しながら古川は押し進めるように質問してきた。
「じゃあ、水鳥中学時代は女子をかなり怒らせてきたでしょう」
「怒らせたことはほとんどない」
小学時代はまた別だが、中学時代は女子とほとんどといっていいほど接触しなかった。同じクラスで礼儀正しく話し掛けてくる女子にはもちろん返事をするが、乙彦が自分から、というのは殆どなかったはずだ。よって、怒らせるもなにもない。
「経験なしなんだもんねえ。童貞以前よね」
だから人前でその「童貞」などと口にするのはいかがなものか。
注意すべきか迷った。タイミングを逃し古川は指をぽきぽきならしながら、
「今までは硬派を通してきてよかったと思うよ。まあね」
「別にそのつもりはない」
「けどね、これから青大附高で生活していく以上、それでは話が通じないよ」
「通じないとはどういうことだ?」
指で缶を弾いた。
「神経質になれとは言わないけどねえ、少しは女子の気持ちも慮りなさいよって私は言いたいわけ。わかる? 美里に限らず、他の女子に対してもすべて。これ、『紳士たれ、淑女たれ』っていううちの学校の校訓だよ」
──どこが関係あるんだ?
校訓に反しているなら反省するしかないが、どうも古川の言い分は理解が難しかった。
「世の中例外はあるかもしれないけど、ふつうの女子はまず、話をとことん聞いてもらいいたいもんなのよ。正しいかどうかは別としてね。あんた、美里がいきなりなんかからんできた時、何求めていると思った?」
求めていると言われても理解できない。乙彦は答えなかった。古川の返事の方が早いからそれを待てばいい。
「何してほしいか少しは考えたのかって聞いてるの」
「アドバイスじゃないのか」
「ばっかねえ、関崎、根本的に女子を知らなすぎ。この調子だと被害者を美里以外に大量生産しちゃう可能性大だよ。ったくねえ、まず説明すうるから聞いてなさいよ。黙ってな」
缶をテーブルに置き、周囲に聞こえわたりそうなでかい声で始まった古川の「女子の心について」の講義。幸い、夜桜見物で盛り上がっているらしい周囲の大学生たちには一切聞こえなかったらしい。乙彦は拝聴した。
「まず、女子の話はどんなに間違っていようがなんであろうが、まずはとにかく聞くこと。わかる?」
頷いて聞いている旨、まずは伝える。
「そりゃあね、美里も八つ当たりしてたとは思うよ。静内さんだったっけ、B組の女子評議、彼女に完璧水をあけられててさ、親切のつもりでしたおせっかいを思いっきり撥ね退けられて、誰かに『うんうん、そうだったんだ、わかるよ、すっごくむかつくよね』って言ってほしい気持ちだったんじゃないの。だからさ、こういう時はそう言ってあげるべきだったのよ、わかる?」
「わからない」
口を挟むなとはいわれたが異議を唱えたい。
「どうしてさ」
「親切のつもりが実はおせっかいだったと古川も認識しているんだろう。それを間違っていると伝えるのが本来の役目じゃないのか」
「役目? 誰のよ」
「友だちとしてだ」
古川こずえは首を振った。缶を握った。
「あんたさ、美里がそんなこと聞きたいと思ってるか、考えた?」
「考えるもなにも、間違っていることに対していいかげんな答えはできないだろう」
乙彦は繰り返した。
「もちろん清坂が苦労していることは聞いている。それは大変だろうとは思う。だが、そのB組の女子が責められる筋合いはないだろう。実際清坂は規律委員に選ばれたわけだし、そこで全力を尽くせばいいことだ」
「あんた、正論だね」
「正論で悪いか」
ぐうの音も出ないだろうと思いきや、
「悪い。絶対悪い」
両手で×を作った。
「男子ってどうしてこんなことで引っ掛かるんだろうね。悪いけど美里はそんな正論聞きたくないの。正論よりもむしろ、傷ついた自分を癒してほしいの。ただそれだけなんだよ。あんたは美里に何も責任取るわけじゃないんだから」
「それはおかしい」
なんでそんな意味不明なことを言うのだろう。間違っていることをきちんと伝え合ってこそ、本当の友人ではないのか。
「あんたもしつこいねえ。そうだよ、正論は基本として正しい論だもんね。あんたの言いたいことはわかる。私もはばかりながらあんたと考えは一緒」
「だったらなぜだ」
意外な反応に乙彦も言葉が詰まった。
同じ考えだったらなぜ、賛同しないのだろうか。
「私も女子としてはそうしてほしい時あるからね。お互い様。まあ言うべき時ははっきり言うよ。けどね、今回の件についてはまだ様子見ってとこだし」
「様子見?」
「だから黙って聞きなさいよ。つまりね、美里がなんで評議委員になれなかったかってことがね、私もまだ把握できてないわけよ。例の静内さんがすんごい秀才であっという間に菰田先生のめんこになっちゃった、その理由がね」
その女子評議の苗字が静内だということだけは覚えた。
「美里がもともと女子たちから総すかん買いやすかったのは事実だしねえ。男子とはうまく行ってるんだけどさ。ほら、羽飛と幼なじみなもんでかなりそちら方面でもやっかまれてるのかもね。けど、それならなんで、いきなり外部生の静内さんがしゃしゃり出て来ているのかが私もわかんないのよ。関崎、静内さんのこと、覚えてる?」
記憶になかった。外部生だけが集められた補習がないわけではなかったが、女子の顔は興味がない限りじっくり見ることもなかったから。
「そうかあ。まあとにかくね。静内さんが美里よりも高く評価されてしまったことで、立場がないってのは想像つくよね。プライド、傷つくよね」
「そうだな」
もちろん、自分が間違っていることを認めるのは辛いことである。
しかし、だからといってなあなあで済ませていいことにはならない。
これから先その静内という女子に対して、清坂がまた余計な手出しをした場合、話がこじれる可能性だってあるわけだ。話し合えればもちろん解決はするだろう。しかし、女子のことだ。そのあたりは断言できない。
「要するに美里は、あんたに正論でお説教なんてしてほしくなかったの。だから適当に流してやればよかったのよ。一生付き合うわけじゃあないんだからさ。それよかむしろ、なんか楽しくなるような話でもして気をそらしてやればよかったのよ」
「相手が真面目に話しているのに茶化せってことか」
──かえって失礼じゃないのか?
「失礼じゃあないよ。かえってそれの方が美里もほっとしたと思うよ」
全く理解できない。頷くのも苦痛だ。
「たとえばさ、あんた、相手が本命の彼女で、あんたも将来結婚を考えているとかそういう関係だったらまた話は別かもしれないけどね。考え方ぴたっと合ってないとまずいし、男としてそうするのはわかるよ。けどね、あんた、美里とそんなに長い付き合いじゃあないし、しかも彼氏なんかじゃない。そんなことを真剣に話されても美里としたら、何様のつもりって思って当然じゃないの。いい、関崎。彼氏と友だちとはそこんとこ、違うんだから」
「立村だったら、かまわないのか」
反動で飛び出した一言に、思いっきり古川は顔をしかめた。見た感じ、しわくちゃばばあと呼びたくなる。
「ランクが上のお友だちだから、そのあたりははっきり言うかもね。あいつなりに。あと羽飛とか私とかも。けんかしたって元に戻ることできる間ならそれはそれでいいよ。けどあんたと美里はそうじゃないでしょうが」
「そうだな」
不承不承乙彦は受け入れた。確かに、彼氏彼女でない。
古川の言い分によると、彼氏彼女の付き合いをしているのならきっちり指導するのもひとつだが、単なる委員会の同期程度ならば余計なことを言うべからず、らしい。そのくせ古川自身はまず例外として置いているのだからたちが悪い。乙彦が言うべきことをきっちり伝えただけなのに、結局自分が悪者にされてしまうわけだ。間違っていることは間違っていると伝えることがなぜ悪いのか、正直飲み込めない。清坂相手でなくても、他の女子であっても……古川であってもだが……おそらくそうするだろうに。
「とにかく、この件は一件落着。あんたは余計なことにくちばしはさまないでいた方がよいってことよ。ほんと関崎、あんた入学してから一ヶ月経つけどずいぶん女子とのトラブルが多いねえ。そんな手、早そうに見えないのに」
「早いわけがないだろ、俺は」
言いかけた乙彦を古川はすぐ制し、唇を両端、持ち上げた。
「バイトと補習とでそんな暇ないって言いたいんでしょ。あんた自身はそう思ってるかもしれないけどねえ、周りじゃあ、そんな風になんて見てないよ。私もずいぶんあんたに関するいろいろな情報を耳にしたけどね。もう水鳥の関崎ったら全校生徒に名前知れ渡ってるよ。まさに仁王様君臨って感じでね」
「別にそんなことは」
また遮られる。缶の尻でこつこつテーブルを叩きながら、
「自覚がないのがやっかいだよね。公立中学から青大附属に入っただけでも目立つのにさ。バイトの許可を麻生先生に直訴するわ、自己紹介では笑いを取るわ、そうだ、なによりも結城先輩の弟分にされてるしさ。あ、それ自覚ない??」
「そんなつもりではないが」
初耳である。結城先輩の部屋に遊びに行っただけで、「弟分」などといった大それた扱いはされていない。古川は缶を握りつぶしながら笑った。
「お呼び出しを食らった段階でもう、目をつけられてるって理解しなさいよったく。普通だったらさ、元評議委員長だった立村か天羽に声をかけるでしょうよ。それがさ、いきなりの外部生よ。あの結城先輩が本気で仕込むつもりだってこと、もう上級生の間では知れ渡ってるんだよ」
「立村じゃだめなのか」
つぶやくとうんうんと頷いた。
「結城先輩、立村を評価してないからね全然。本条先輩っていう有名な伝説の評議委員長のことは知ってるよね。あの人が公立高校に進んでから、結城先輩特定の男子生徒を仕込もうとはしてないのよ。それがね、いきなりじゃない。そりゃ大ニュースよ」
噂だけが一人歩きしているだけじゃないのか。そう言いたくなる。
「なわけないわよねえ。さらに、轟さんに対して正論でぶちかました一件。話聞いた時はてっきりあんた、女子から軽蔑されるかと心配してたんだけどさ、蓋開けてみたらあらら、あんたの方がずっと票集めてるじゃないの。たぶん轟さんの件は、『ごみあさり』っていうとこが、潔癖症女子から嫌われたんだろうね。私の聞いている限り女子からはあんたの悪口一言も聞いてないよ」
──そんなわけないだろう!
自分ひとり、言葉を発せず、たた唇だけを動かした。
「まあ、轟さんは男子たちからなぜか受けがいいから孤立することはないだろうけどね。けどあんまりやりすぎたら今度は足をすくわれるよ。いい? お姉さんらしくアドバイスするとだねえ」
「悪いが俺には姉がいない、兄と弟だけだ」
また吹き出した古川。面白いことなど言っていないのにだ。
「こういうとこがあんた面白いのよ! とにかく! あんたはこれから、怒涛のごとく女子たちから色目遣われる運命にあるんだからさ。妙なことでしくじらないようにしときなさいよ。はっきり言って、結城先輩の後ろ盾があれば今年一年はうまくいくよ。青大附高で生きていくならそれは大切だからね」
「後ろ盾なんかほしくもないが」
「そんな血迷ったこと言うんでないの! 結城先輩があんたを応援したがってるんだから、それはありがたく受け取りなさいよ。それとさ」
ずいぶん果てしなく古川こずえのお説教は続くものだ。
「ここだけの話だけど」
ちっともここだけの話じゃない大声だった。そうしないと聞こえないからしかたないのだが。
「後期評議を藤沖から引き継ぐつもりだったら、一緒にやってく私が少しは楽になるようにやってほしいのよね」
「聞いていたのか」
藤沖もちらと、根回しをしているとは聞いていたがやはりそうなのか。いきなり肩をぽんと押された。
「ばっかねえー、知らないわけないじゃないこのこずえ姐さんが。今日わざわざデートをすっぽかして関崎に説教してるのはね、十月以降の波乱な日々に向けて、心積もりしていただきたいってただそれだけよ。誰が羽飛とのデートを」
そこまで言いかけ、すぐに飲み込んだ。どうやら言い過ぎたと反省したらしい。
「とにかくあんたは黙っていてもニュースの種になる男なんだから、まずは様子見しな。そろそろ宿泊研修の準備なんだけどね。今回は藤沖と私が全部段取り組むから他の委員にお願いすることはほとんどないはず。この機会にじっくり青大附属がどんなとこかをつぶさに観察しなさいよ。あんた、口より手が早いタイプだよね見た感じ。とにかく最初は黙ってなさいよ。あんたが騒ぎ立てなければ、火種は大きくならないからね」
「火種なんか蒔いていないが」
「あんたが落としてるの。馬糞みたいにぼとぼとと」
汚い比喩である。
「南雲がいろいろ規律委員として指示を出すだろうから、しばらくはそれに逆らわない方がいいよ。多少納得いかないことがあっても、まずは黙ってな。たぶん南雲のことだから、男子のご用達エロ本を各クラスに一冊用意させる手はずを整えているんじゃないの。ほーら関崎、あんただんだん頭にきてるでしょ。違反してるって。そこをがまんするのよ。いい、わかる? うちの学校が今までどういうふうにして委員会活動やらクラス行事をやってきたかを、まずは見なさいよ。余計なこと口出さずにさ」
──余計なこと、なのか?
「あんた今、一番いい時なんだよ。いい関崎、まだあんたはいい意味でも悪い意味でも『外部』の人なわけ。だからわからないことはどんどん聞いてもらってOK。美里と静内さんの関係も、立村がなんで麻生先生にあそこまで嫌われてるかも、藤沖がなんで応援団に命賭けてるかとか、結城先輩がなんでアイドルマニアになったのかとか、とにかくいろんなとこにあんたもぐりこめるのよ。妙なことやらかして、出入り禁止にさえならばければ外部生の特権を生かしていろんなことできるのよ。まさかと思うけどあんた、青大附属の内部生に劣等感なんか持ってないでしょうねえ」
「なんだそれは」
怒るもなにも、いきなりすぎて戸惑うばかり。
「あ、これ捨てて。空だから」
缶を受け取り後ろのゴミ箱に捨てた。
「どっかの立村とは違ってそういう心配はないと思うけどさ。ただね、関崎、あんたは運良く静内さんと違って相手にやっかまれない性格だから。そのまんまでいけばただぼーっとしている内部生よりもずっと人気出るよ」
「歌手じゃないから人気はいらないが」
「ああ欲しいのは学費ね。ま、これは冗談だけど。無理に青大附属の校風に馴染む必要はないってことを私は言いたいだけ。あんたはそのまんまで青大附属から両腕広げて迎え入れられてるんだってこと、忘れるなって。忘れるとねえ、ほら、立村みたくいじけちまうから」
どこかひっかかる「いじけちまう」なる言葉。思わず見返した。
「あいつはね、青大附属から満面の笑顔で迎え入れられていながら、自分から逃げ出してとうとう相手からも愛想つかされちゃた大馬鹿野郎なのよ。自業自得といえばそれまでだけど、ほっとくわけいかないっしょ。悪いけどそんなお馬鹿さんを二人も抱えたくないからさ」
「それは立村に対して失礼なんじゃないか」
「さあね、とりあえず話は終わったところで、ほら、さっさと行こ。ここにいるとどっかの大学のサークルにとっつかまっちゃって、未成年アルコール中毒にさせられちゃうよ。バージンは奪われないと思うけどねえ」
最後はやっぱり下ネタで締めた。
促されて立ち上がり、学生食堂の入り口に戻ろうとし、立ち止まった。
目の前に青大附高の制服を来た女子がいる。私服大学生ばかりが集う学食だけにやたらと目立った。
「関崎くん」
呼びかけられて、乙彦は頷いた。向こうから近づいてきた。よく見ると後ろには背の高い男子が突っ立っている。横向きに、ニヒルなシルエットが夕陽に冴えた。顔はよく見えなかった。当然、その女子の表情も伺えなかった。逆光だ。
「さっきはいきなり、ごめんなさい」
真正面に立ったのは清坂美里だった。泣いてはいないように見えた。古川に脅かされてひやひやしていたのだが、どうやら取り越し苦労だったらしい。
「ああ」
あっさり返事するしかない。それにしてもなぜ、わざわざ戻ってきたというのだろう。
清坂はしばらく黙ったまま乙彦を正面から見上げていた。
「あのね、関崎くん、この前ね」
いきなり話の方向転換をし出すのについていけず「は?」と問い返すと、
「お母さんが『おとひっちゃん』って、呼んでたでしょ?」
──いきなりなんだよこれ!
見るとかなり離れたところで古川がベンチに腰掛け様子を見ている。声は通らない距離がある。清坂だけが八十センチ、七十センチ、六十センチと少しずつ距離を縮めようとしているのに気付き、一歩、片足、引いた。
「私も、そう呼んでいい?」
見上げた瞳に、何か痒くなりそうな何かが体に伝わった。気持ちよいものではなかった。
「だめだ」
反射的にそう答えていた。
「悪いが、中学時代の習慣は青大附属に持ち込みたくない」
「私、ただ」
「申し訳ないが、やめてくれ」
乙彦は背を向け、一言だけ重ねた。清坂の瞳からまた何かが揺れそうなのを、あえて見ぬふりし、
「さっきは言い過ぎた。悪かった」
縮められた距離を乙彦は美里から一気に広げた。足早なのは他意などない。背を向け、古川に向かい片手を挙げ、食堂から出た。
薄いもやのような橙色と桃色の光がが溶け合い、満開の桜を照らしていた。桜はピンクではなく、薄い灰色に広がって見えた。乙彦はもう一度振り返った後、首を全力でぐるぐる回し自転車置き場まで歩き始めた。大学側の広場から、校歌を朗々と歌い上げる声が響き渡った。もう夜桜の下、大学生たちの酒盛りは始まったようだった。
──校歌、早く覚えないとならないな。
まだ校歌についての説明は受けていなかった。入学式で流れたのを聞いただけだった。
──少なくとも、新歓合宿までには。
乙彦はまだ校歌を歌えない青大附高生だった。