高一・一学期 21
ひとまず一夜明けて熱も下がり、家族がスーパーへ買い物へ出かけたお昼過ぎ、乙彦は身支度した後外に出た。まだ治りかけだというのに遊びにほたほた出て行こうなんて、親がいたら絶対に許してもらえないだろう。乙彦からすればひとりでテレビをつけっぱなしにしたまま横たわってぐうたらしているよりも、外の空気をたっぷり吸い込んで鋭気を養うのが一番だとも思う。まあ、宿題を片付ける方が先と言われればそれまでだが、それはまたあとでなんとかなるだろう。
──それにしても日が照ってるな。
トレーナーだとそろそろ汗をかきすぎてしまう。中は半そでのTシャツでもよいくらいだ。上にやや厚めの黒いシャツを羽織り、駅前までまず歩いてみることにした。いつものパターンで、まずは「佐川書店」に寄ってみるのも手だろうか。
──いや、今日はまずいな。
雅弘に声をかけてみるのも一案だが、佐川書店の店長さん……雅弘の父さん……と顔を合わせればかならず「みつや書店」の話になるだろう。そうなったらまたいろいろと話が弾みすぎて抜けられなくなる可能性もある。乙彦は格好の話し相手になってしまう。暇な日だったらそれでもいいが、病み上がりの自分としてはできればそれは避けたい。
運動不足解消をかねてランニングをしたいところだが、どうも息が上がっている。
しかたない。その辺を散歩していれば、誰か中学時代の友だちと行き会うことだろう。
会わないなら会わないでもいい。バッティングセンターに行くのも手だ。
ゴールデンウイークに一度、雅弘を始め仲の良かった中学時代の連中と、公園でドッチボール大会をやろうと話はしていたのだが、なんとなく立ち消えになっているのが気に掛かる。乙彦も本当だったら仕切り屋としてきちんと連絡を取り合いたいのだが、いかんせんバイトと補習の嵐のため何もできずにいる。誰かがなんとかしてくれる、という甘い発想は通じないのも、奴らとの永年の付き合いでよくわかっていることだ。かくなる上は一学期の中間試験後をめどに集まろうと考えている。
──しっかし誰も連絡よこさないよな。
野郎同士の付き合いはそんなものだけども、雅弘くらいは「おとひっちゃん、どうしてる?」くらい電話をよこすもんだと思っていた。工業高校といえば乙彦の兄が通っている学校。兄のようにわりと大人しい奴もいれば、バリバリのヤンキーも揃っていると聞く。雅弘の性格として果たしてあの校風が合うのか、いささか心配なところもある。元兄貴分としては聞いてみたいこともないわけではない。しかし全く音沙汰なしというのはどういうことだろう?
昨日までまだ冬の気配が残っていた街が、一転して春の陽気に染まっている。桜もようやく満開となり、時折頭に降りかかる。電信柱のあちらこちらには商店街の提灯がぶら下がり、今日明日が花の見ごろとばかりに揺れている。近所のおばさんに声をかけられそうになりすぐにちょろっと横の小路に入ってみたりもする。やましいことをしているわけではないが、やはり母にばれると後々面倒だ。
昼食はすでに母の用意してくれたおかゆをすすって終わらせていた。はっきり言うが全然足りない。小銭入れをまさぐって、コロッケを三個ほど購入した。くちくなったところで駅前通りに出ようとしたが、今度は青大附属の制服を着た連中がうろついていたのでまた別の道に飛び込んでしまった。いや、これもまずいことをしているわけではないのだが、顔を合わせるとまた面倒な奴がいるかもしれない。女子だし、また自分の気付かないところで覚えられていたりしたらこれまた恥ずかしい。青大附属の敷地内ならまだ仕方ないが、ここ水鳥中学通学圏だとその、いわゆる、「認識の違い」の差に気付かされそうでこれまたみっともない。すいすい、水鳥中学の通学路を辿って歩くことにした。通学路はあえて繁華街から外れた道を使うように指導されていたから、ここまでくるともう静かだった。
しかし、誰とも顔を合わせなかった。
水鳥中学時代の友だちはおろか、相性最悪だった連中、さらに下級生たちとも遭遇しなかった。もちろん同年代の男女はそれなりに繁華街をうろちょろしているのだが、この辺にすんでいる連中は誰もいなかった。すれ違うのはほとんどが近所の人かもしくは幼児・小学生くらいだった。なんだか拍子抜けしてしまった。
──まあいい。今度雅弘を捕まえてみるか。
ブランコやジャングルジムで遊んでいる小学生たちを横目に見ながら、さらに奥へと進んでいった。かつて三年間通った道だけども、実のところ細い路地にはあまり足を踏み入れたことがなかった。寄り道をしなかったと言い換えてもよい。伝書鳩のように学校と家との往復で過ぎたわけだ。でも今ならば、もう寄り道が校則で禁止されているわけでもない。
せっかくだ、知らないところを探検してみよう。
ひとりだからできること、乙彦はさっそく試してみることにした。
──あの路地の奥に確か、なんか建物あったよな。
小学時代に社会科の校外授業で連れて行かれたっきり、入ったことのない「青潟市郷土資料館」という地味な建物が潜んでいるはずだった。
一度立ち寄っただけとはいえ、道筋を忘れるわけがない。
道端の桜並木と街路樹に挟まれた通りをてくてく歩き、曲がりくねった道にもぐりこんですぐに辿り付いた。木目のたて看板に「青潟市郷土資料館」とどでかく黒い文字で彫られているのですぐわかる。近隣の街並みがわりと普通の住宅地と子ども向けの公園のみということもあり、全く人気がないわけではないのだが、知り合いはいなかった。確か、昔使われていた海鮮問屋の蔵を再利用したものとかで、三角屋根に白い漆喰、真中に屋号が残っている。見た目は目立つが、中はごく普通の博物館だったのであまり印象には残らなかった。
入り口で入館料百円を払い、すでにもいであったチケットの半券を受け取る。
そのまま中に入ってみると、以前来た時と同じく青潟市近郊の立体地図やら、水害の歴史やら、成り立ちやらがたくさんパネルとして掲示されていた。遺跡らしきものも、半ば壊れかけた形で存在している。歴史はそれなりにあるもんだと思ったくらいでそれほど興味あるものでもなかった。もともと乙彦は歴史があまり好きではない。歴史よりも未来。そういうタイプだ。
人気は殆どないが、中でかすかに声がする。やはり誰か物好きがいるのだろう。すれ違いに五十代くらいの男性がメモをとりながら粒さに地図を観察している。歴史関係の本をまとめたコーナーにもまた一人、白髪の男性が座っていた。とてもだが花見の盛りに覗き込むような施設ではない。
──なんか陰気臭いな。
乙彦およびではない世界ということだけはよく理解した。百円が高いのか安いのかは判断つきかねるが、どちらにしてももう来ることはないだろう。元を取るためまずはぐるっと回るだけ回ってみようか。そう判断し、館内の「青潟市立体地図」という、かなり精緻な地図を一通り見ようとし、ふとソファーに目が行った。
目を疑った。
茶色のソファーが立体地図を背にする形でちょこんと置いてある。
ふたり、無言でこちらを見ている。
「雅弘?」
思わず発した言葉に、すぐ答えが帰ってきた。
「おとひっちゃん」
やはりそこにいるのは佐川雅弘当人だった。チェックの黄色いシャツにジーンズ、やたらと髪の毛があやつけているように見えるのは気のせいか。乙彦が立体模型を回って近づいてみると、そこにはお下げ髪姿で黙って頭を下げている女子がいた。一瞬誰かわからなかった。名前が即座に出てこなかった。
「あの」
「関崎さん、こんにちは」
雅弘よりも戸惑っては居ない様子で、その女子は立ち上がり一礼した。
「佐賀さん、か」
「はい。青大附高ではこれからもお世話になります。どうかよろしくお願いいたします」
青大附中現生徒会長、佐賀はるみが雅弘の隣で礼儀正しく顔を挙げた。
──髪、なんでこんな形にしてるんだ。
髪型が違うからわからなかった。雅弘の隣でお下げ髪にして座っている女子といえば、乙彦の記憶内にはひとりしかいなかったし、その女子が顔形を変えて座っている可能性も今は殆どないはずだったから。佐賀はるみの顔立ちは可愛らしさというよりも凛とした気品がある。一年前、新井林健吾と一緒に座っていた時とは違う、一本すっと立ったような竹の雰囲気だった。
かぐや姫でもないのに、なぜか舌がこわばる。
なぜだか自分でもわからない。
「おとひっちゃん、あのさ」
「お前こそどうしてここに」
しばらく無言で乙彦と雅弘はにらみ合った。
「俺、たまたま学校の宿題で調べなくちゃいけないことがあってそれでさ」
「もうそんなややこしい宿題が出てるのか」
それはまずありえないことだろう。あるとすれば社会の歴史関連だろうが。その事実の真偽よりもなぜ雅弘が、見え透いた嘘を言わねばならないのか、そちらの方に興味がある。乙彦はさらに畳み掛けた。
「それだったらなぜ、佐賀さんがいる?」
「それはさ、たまたま」
妙である。あまりそちら方面には不案内な乙彦ではあるけれども、女子とふたりで人気のない博物館のソファーにて語り合っているのはやはりおかしい。仮に相手が水野五月だとしたらまだわからなくもない。一時期ふたりは付き合っていたのだから。しかし、今雅弘の隣にいるのは、すでに交際相手がいる佐賀はるみである。学校も違う。もちろん生徒会関係での繋がりがあったのも事実だし、ほんの一時だけ雅弘が彼女に熱を上げていたのも乙彦は知っている。とはいえ、一年前のこと、いきなりなぜ再燃しねばならないのかわからない。
「関崎先輩、あの、私、今日、関崎先輩にどうしてもお話をしたくて佐川さんに相談していたんです」
不穏な中、すすっと割り込んできたのは佐賀はるみだった。いきなり乙彦に対して「先輩」をつけている。雅弘に対しては「佐川さん」と「さん」付けなのが奇妙だった。
「私、関崎先輩が青大附高に来てからどうしても一度、直接お話したかったのですが、先輩のいらっしゃるクラスには古川先輩とか立村先輩とかいらっしゃって、なかなかいい機会が見つからなかったんです。藤沖先輩を通してとも思ったのですが、やはり事情が事情だけにどうしても、うまく切り出せなくて」
お下げ髪を揺らさずに、落ち着いた声。壇上で出す声と同じなのか。聞き入る。
「私、どうしても、お話したかったんです」
念を押すかのように佐賀は一度言葉を切った。
「梨南ちゃんのその後のことです。関崎先輩とかなりかかわりのあることなので、どうしても」
隣で雅弘がうんうん頷いていた。そうか、そういうことなら話は通じる。雅弘は一年下で現在青大附中の評議委員長である新井林健吾とも付き合いがある。そちら経由では話ができなかったのだろう。しかたなく雅弘経由ということならば、理解できなくもない。
「そうか、ならここで聴かせてもらったほうがいいか」
「はい。そうしていただけるとありがたいです」
予定通りの言動なのか、それともハプニングなのか。判断つきかねるものがありつつも、雅弘は佐賀はるみの隣に腰掛けた。雅弘が乙彦にだけわかるような目配せを送ってきた。理由があるならこれ以上文句を言う必要もない。
隣に座った時、かすかに桃の香りがした。
「実は、梨南ちゃん、今、不良っぽい女子たちと付き合っているんです」
いきなり切り出された。乙彦と杉本梨南とのつながりが希薄なのを知っているかわからない。佐賀はるみから杉本梨南につながる理由も言われてみなければ気付かなかった。つまり、そういう程度の認識しかない。頷くしかない。
佐賀はすでに乙彦が杉本梨南とそれなりのかかわりがあるという前提のもと話しつづけていた。
「梨南ちゃんは二年の段階でE組という特別クラスにまわされて個人指導を受けてきたのですが、この四月からまた私のクラスB組に戻ることになったんです。私たちもそれは歓迎すべきことだと思っていますし、クラスみんなが梨南ちゃんを刺激しないように注意深く振舞っているので今のところ問題はないんです。ただ」
「ただ?」
たいていそういう場合は問題があるというのが繋がる言葉「ただ」 。
「どうしてもB組の子たちが相手にしづらくなったので、梨南ちゃんは別のクラスの人たちと遊ぶようになりました。それはそれでいいと思います。ただその子たちというのが、いわゆる『不良』と呼ばれる人たちで、先生たちが持て余しているタイプの人たちなんです」
「不良か」
一瞬浮かんだのは総田幸信とその配下。
「青大附属には基本として、悪いことをする人はいないと思ってます。もしそういう人がいたら早い段階で退学か転校しているはずなんです。でも、私の代にはなぜか、陰でいろいろ違反をしている人たちが多くて、噂もあまり、いいものではありません」
「先生を殴るとかそんな感じか」
「暴力ではないんです。もしお目こぼしを受けているとすれば、彼女たちが周囲に迷惑をかけていないからだと思うんです」
「迷惑?」
校舎破損および因縁付けとかか。水鳥中学の価値観でいうとそのあたりだろうか。佐賀はるみは笑顔のまま首を振った。
「私が耳にした話ですと、女子の場合その、外でお小遣いをもらうために声をかけてもらってご飯を御馳走してもらったりとか、そのあといろいろとか、そういう話です。その子たちは学校であまり目立たないので、陰でこそこそしているようです。気付いていないこともないとは思うのですが、むしろそういう子たちよりも梨南ちゃんの方が学校内で目立っているのでみな、そちらに集中してしまうようです」
杉本梨南については殆ど乙彦も関心が持てなかった。それだけのことだが佐賀はるみは執拗に「梨南ちゃんが」と繰り返す。
「新学期が始まってから梨南ちゃんはその子たちと一緒に帰ったり、遊んだりしてます。もちろん彼女たちと同じように髪の毛を染めたり、教室をこっそり出ていったりはしませんし、成績も相変わらず学年トップのままです。まだ、真面目なところは変わっていません。でも」
言葉を切り、乙彦を見つめた。片手をお下げの房に当てた。
「おそらくこのままだと、梨南ちゃんは彼女たちの価値観に染まってしまうと思うんです。クラスの人たちは梨南ちゃんとつかず離れずの関係のままだし、もう私と話をするのもいやみたいですし、私も生徒会活動で忙しくてこれ以上梨南ちゃんの面倒みる余裕はないですし」
それはそうだろう。
「でも、一度は一番の仲良しだった梨南ちゃんを見捨てることはどうしてもできません。だからこれから私のできる範囲において、梨南ちゃんを見守っていこうと思ってます。ただその時何をすればいいのか、私にはまだわからないんです。もう少ししたら今度は修学旅行ですし、一緒に行動するグループはたぶんその不良の子たちと一緒でしょうし、それに」
また言葉を区切った。隣で雅弘が食い入るように佐賀を見つめている。
「梨南ちゃんは、クラスの男子たちには嫌われてますけど、大人の人には好かれそうな気がします。もし周りの子たちが梨南ちゃんをおだてあげたりしたら、もしかしたら同じようなことをするかもしれません。そんなことして穢れてしまうのはいやなんです」
「穢れる?」
言われた意味がわからない。オブラートでくるんでいることが何かはどことなく感じ取れなくもないのだが、具体的に何かを説明してもらわないと困る。
「関崎先輩、噂で聞いてませんか。青潟の駅前近辺の繁華街で、中学生の女子たちが陰であの、その」
「売春か」
思いついた言葉を口にしただけだが、佐賀は頬を両手で押さえて黙りこくってしまった。うつむく姿にこちらの方が焦る。
「いや、違うか」
「いいえ、そうです。関崎先輩のおっしゃる通りです」
今度は乙彦が硬直する番だった。雅弘だけがきょときょとと自分および佐賀を交互に眺めていた。言葉を挟もうとしない。
青潟駅前を校区とする水鳥中学では、多少なりとも噂で流れてはいた。
どこかの中学生たちが制服をコインロッカーに詰め込み、私服に着替えてそのまま不良連中とうろうろし、たむろう話を。もちろん噂でだが、かなりの信憑性を持って他の生徒たちの話を耳にしていた。なんでも、お付き合いで一時間女子を独り占めすると、三千円かかるという。その額が高いのか安いのかはさておいて、乙彦には信じがたいことである。
しかし、あくまでも「噂」であって、実際そういうことを平気でできる同世代の女子がいるとは思えない。少なくとも自分の身の回りでは想像しがたい。水鳥中学はもとより、青大附属においてもだ。
──いや、先入観で物事を見てはいけないぞ。
──まずは冷静に話を聞いておくべきだ。
「つまり、その不良と呼ばれる連中は、そういうことをしているということか」
まずは確認を取ることにした。あの楚々とした風情の佐賀はるみの口から「中学生売春」という言葉が出てくることがまず信じられない。話の流れからいくと、おそらく彼女をかつていじめたらしい杉本梨南に対する複雑な感情があるようだが、それでも一度は親友だった彼女をかばいたいという気持ちは素直に素晴らしいと思う。
そう、友情というのは、そういうものだ。
たとえ一度道を踏み外した友としても、やはり心を許しあった以上は一生繋がっていくものだろう。男子の乙彦ですらそう思うのだ、ましてや感情最優先たる女子はなおのことだろう。
佐賀はるみははにかむように俯き、ちらりと雅弘の方をみやった。すぐに視線を戻した。
「噂なので私も判断できないのですが、その子たちが駅前近くの、その、あまり雰囲気よくないところで遊んだりしているのを見た生徒は多いようです。青大附中の生徒はは露骨にそういう不良っぽい子たちをいじめたりはしませんが、なんとなく避ける傾向はあると思うんです」
「いじめはせずに、避けるのか」
「そうです。ただそれがいいのかどうか、わからなくて」
言葉を切りつつ、また雅弘をちらと見た。
「私、本当だったらそんな人たちと関わるのはいやです。でも、梨南ちゃんがこのまま不良の子たちと一緒にとんでもないことをしてしまったら、私、見殺しにしたことになってしまいます。きっと梨南ちゃんは私のことを許してくれないでしょうし、それはしかたないことです。でも、私は梨南ちゃんと一時期は親友だったんです。間違った方向に進みそうな友だちを止める義務はあると思うんです」」
「で、何をしたいんだ?」
いつも思うのだが、女子というものは一体何を要求してくるのかわからない。
おそらく乙彦の直感でいくと、佐賀は杉本をなんとかしてまっとうな道に戻したくてならないのだろう。それを懸命に説明しているのは理解できる。しかし、なぜ改めて乙彦に話さねばならないのだろう。それも、雅弘と一緒に。
隣で真剣な顔をして聞いている雅弘にも問いただしたい。
なぜ、こんなところで、人目を避けるように落ち合っていたのかと。
全く戸惑うこともなく、それでいて押し付けがましくない口調で佐賀はるみは答えた。
「私、思い切って、言おうと思うんです」
「何を」
「そんなことしていたら、梨南ちゃん、関崎さんと面と向かって話ができなくなるわって」
「なんで俺の名前が?」
何をいきなりそんなわけのわからない展開に持っていこうとするのだろう? またお下げ髪の房の根元に手を当てる佐賀はるみ。どう答えればいいのかわからない乙彦、そして隣でまた黙って様子をみやる雅弘。
真後ろの立体青潟市地図がぶっ倒れてきてもおかしくない展開に、また熱がぶり返してきそうだった。汗をじんわりかいていることに気付く。
「今日、関崎先輩にどうしてもお話しようと思ったのは、私、ここできちんとお願いするつもりだったからなんです。私何度も立村先輩の名前を出して注意したつもりなんですけれども、梨南ちゃん、立村先輩だと全然ばかにして言うこと聞いてくれません。でも、関崎先輩にふさわしくない行動だ、と言えばきっとわかってもらえると思うんです。でも」
背を伸ばし、じっと乙彦の目を見つめた。思わず受け止めたとたん、身体の奥で何かがかちっと繋がった。考えても見なかった生理現象のようなものだった。慌てて止めたくても止められなかった。ただ黙ったまま佐賀はるみの言葉を聞くだけだった。
「関崎先輩、私、生徒会長としてももちろん、梨南ちゃんの元親友としても、決して御迷惑をおかけしません。ただ、私が梨南ちゃんを真っ直ぐな道に引き戻すために関崎先輩の名前を出すことを、許してほしいんです。たぶん、梨南ちゃん、中学三年の間は決して関崎先輩を追い掛け回すことはないと思います。でも、心の奥でずっと思いつづけているはずです。思いつづけているからこそ、その人にふさわしくなりたいと、女子なら思うはずです。だって、そういう先輩だと私も思うからです」
──そういう先輩、か。
もう何も他のことは関係なくなった。今目の前で、お下げ髪で真摯に語るひとりの女子しか目に入らなかった。誰かの姿と重なるのがわかる一方、明らかに違う自信のようなものもある。それに押されていた。
「関崎先輩、どうか、梨南ちゃんを救うために私にお名前を貸してください。お願いします」
「名前を貸すったって、そんなのは断る必要ないんじゃないか」
それだけ返事するのがやっとだった。
「別に、会話の中で出てくるのだったら、それが自然だろう」
雅弘が助け舟を出してくれた。おそらく本人は気付いていないだろうが。
「おとひっちゃんの言う通りだよ佐賀さん。気にしないでいいって。おとひっちゃん、そういうことに神経質じゃないし、怒らないよな、ね、そうだよね」
少しばかり馬鹿にされているような言い方だが、嘘でもないので静かに頷いた。
「それにしても雅弘、ひとつ聞きたい」
「なんだよおとひっちゃん」
「なんでこんなところで会ってたんだ?」
語尾が荒くうねっているのに、自分で発してみて初めて気がついた。
なに、焦っているんだろう、自分。
思えば雅弘は前から、この佐賀はるみという女子に熱を上げていた。
たぶん好みのタイプではあったのだろう。どことなく礼儀正しくそれでいて芯の通った、心根の優しい少女というのはもともと雅弘の好むところだろう。いや、男子なら誰でも好きになるに決まっている。総田のように訳のわからぬ川上女史のような奴を選ぶ男子もいないわけではないが、それはごくごく例外といってよい。
しかし手が届かないと気付くとすぐ、かねがね想いを寄せてくれていた同級生の水野五月を受け入れ、一年間付き合ったというわけだった。それは親友としても嬉しく思うところがあった。男女ともに好かれるタイプの水野五月ならば、乙彦の親友たる雅弘にふさわしい。中学卒業後別れたとは言うけれども、それはいわゆる惚れた晴れたの関係ではなく、これから先それぞれの学校でベストを尽くそうという意味での前向きなものだったのではないか、と乙彦は解釈している。
しかし、やはり、自分のタイプと重なってしまうと、どうしても執着が取れないものなのだろうか。噂を聞く限り、佐賀はるみは今だに新井林健吾と付き合っているはずだし、相変わらずの高嶺の花のはずである。無理やり付き合いをかけるなんていう非常識なことを雅弘がやらかすとは絶対に思えないので、何か訳があるとは思うのだが。
「おとひっちゃん、なんか勘違いしてる? 佐賀さん今日たまたま、うちの店に本買いに来てくれて、それでうちの父さんから小遣いもらって、よかったら少しその辺散歩しろって言われて、それでなんだよ。佐賀さん歴史が好きだって話してたから今日ここに連れてきただけだって」
「だからといってこんな陰気な」
ソファー前をを通り過ぎる年配の男性がじろりと乙彦を睨み、去った。
「いや、だって外、青大附属の人たちがたくさんいるし、佐賀さんの知り合いだってたくさんいるんだよ。俺は水鳥と工業の連中と顔合わせても困んないけど、佐賀さんは生徒会長やってるし、また変な誤解受けて新井林くんに怒られたくないよ。新井林くんいい奴だし、俺、友だちでいたいしさ」
友情を強く訴える雅弘の言葉、信じぬわけにはいかなかった。
──そうだ、雅弘は何よりも、男同士の友情を大切にする奴だ。ガキの頃から、そうだった。
無言で見据える乙彦の隣から、すっと立ち上がった佐賀は、正面に立ち丁寧な礼をした。
「ありがとうございます。関崎先輩に今日お会いできて、うれしかったです」
立ち上がろうとするのを首振って制し、もう一度今度は雅弘に礼をした。
「佐川さん、ありがとうございました。また本を買いに立ち寄ります」
お下げの束が自然に下がり、また上がった。結びのゴムが薄い桃色だったことに気付いた。桜色のワンピースに白い手提げバック。佐賀はるみの髪ばかり見つめていて服装に全く気付かなかったことに気付き、乙彦は思わず赤面した。
──顔ばかり見ていたわけじゃないが。
「うん、じゃあ、新井林くんによろしくね。おとひっちゃん、せっかくだしこれからどっか外で、他の奴誘ってバドミントンやろうか」
追いかけるでもなくあっさり見送る雅弘の表情に、なぜかほっとした。
やはり、男同士の友情を重んじて、その上で女子への思いやりをも忘れない奴が雅弘なのだ。水野五月のこれからを案じ、親友の行く末を心配する佐賀はるみを応援したいと思う、そういう奴なのだと思う。
「いや、いい。雅弘せっかくだ。今日はここで少し、学校のことで話を聞こうか」
乙彦は無理やり雅弘をソファーに座らせた。この機会に詳しく、青潟工業高校の状況について相談にのってやろう。悩んでいないわけがない。ましてや新しい環境で馴染むには時間がかかるだろう。そういう時こそ親友たる乙彦の出番である。
──俺は雅弘の兄貴分だった男だから。
当然のこと。雅弘も素直に座りなおし、力が抜けたようにふにゃりと笑った。




