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高一・一学期 20

 土曜日、有無を言わせず学校を休まされた。

「熱が下がらないんだからしょうがないじゃないの」

 母は氷枕をタオルに包み、よいっしょとばかりに頭の下へ押し込んだ。

「人様に風邪移す方がもっと迷惑なんだから、おとひっちゃんあんた少し寝てなさい」

「俺が迷惑かけているっていうのかよ」

 憎まれ口を叩くものの、頭が割れんばかりに痛いとその言葉すら突き刺さる始末。

「おとひっちゃんも人の子だなあ」

 兄も信玄袋に大工道具一式を詰め込み、面白そうに眺めつつ学校へ向かった。

「今日のおかずは俺の好きなもんになるよなあ、わあい」

 弟も唸っている乙彦を見下ろし、あかんぺーをして去っていった。

 しばらく乙彦の食べたいものばっかりを食卓に並べてもらっていたものだから、弟はいつも割りを食っていたという気持ちが強かったらしい。食い物の恨みは恐ろしいものだ。今日一日は味のほとんどないおかゆしか食べられそうにない。

 ──生き返ったら見てろよ。

 目眩が続く午前中、乙彦はひたすら毒づき続けていた。


 ──ったく、あんな無様な格好みせやがって!

 自慢じゃないがこの十五年ほど生きて来て、保健室でぶっ倒れるなんてことはこれまで一度もなかった。健康第一ほぼ皆勤賞の人生だったはず。それがこのざまだ。しかも入学してたった一ヶ月でひっくり返ってしまうときた。極めつけが高校生のくせに情けなくも親に迎えにきてもらう始末。これが恥でなくてなんであろう!

 ──しかもタクシー使うなんて何考えてるんだよ!

 思わず母相手にわめき散らしてしまったはいいが、喉もやられてしまい今は何も言い返すことができずにいる。薬の効果もあってかやたらと喉が渇き、水分ばかり取っている。これで何杯目だろう。母に呼びかける。

「母さん、水」

 かすれた声だが、しっかと母には聞こえたらしい。すぐに麦茶ポットを一リットル分運んで来て、枕もとに置いた。

「少し食べたら薬飲みなさい。おかゆあるよ」

「まだ食いたくない」

「薬そのまま飲んだら、胃、悪くするでしょや」

 熱さましを飲むためにしかたなくおかゆを一杯すすった。鮭のふりかけを味付けに、口に運ぶ。

「麻生先生もあんたを褒めてたけどねえ、ただ身体だけは気、つけなさいよ」

「つけてるだろ」

「何言ってるのおとひっちゃん。朝は早いわ、夜ふかしはするわで、寝る時間あんたあったの?」

 今まではそれなりにこなしていたんだから平気だ。いや、平気だったはずだった。

 母は乙彦の食べ終わった茶碗をお盆に載せ、手拭で額の汗を拭いてくれた。

「お兄ちゃんたちには禁句だけどねえ、あんたには言わないとねえ」

 大きな溜息をひとつ。白い錠剤のタブレットをそのまま麦茶ポットの隣に置いた。

「勉強ばかりして、身体壊したらもともこもないんだからね」


 母の言う通り、乙彦はがむしゃらにつっぱしってきたつもりだ。自分で尻に鞭を入れ、すさまじい勢いで三月末から四月一杯まで駆け抜けてきたつもりでいる。理由は明白で、青大附属の生活に慣れるという究極の義務、それに尽きる。たいしたことじゃないとは思っていたのだが、あの強烈な眠気と脳天を突き刺すような激痛の嵐から察するに、相当無理をしていたのかもしれない。

 ──けどあのくらいでへばってられるか!

 幸い土日はバイトが休みなのでなんとかなるが、月曜までにはこの体調、なんとかせねばなるまい。乙彦は一気に二杯麦茶を飲み乾し、もう一度氷枕を後頭部にぴたりとあてた。正直あまり、冷たさが伝わってこなかった。

「それでねえ、おとひっちゃん」

 母が今度はトイレットロールを一巻き、持ってきた。

「麻生先生がお話してくださったけれども、今度の実力試験の結果であまりおろおろするんじゃないってねえ。最初の一年は中学の時みたいに毎回一番なんて取れないかもしれないけれども、それはそれで順調なんだと思いなさいってねえ」

 ──なわけないだろうが!

 全く母は何もわかっていない。顔を背けて寝た振りをした。

 ──俺も何度も言われたぞ、そんなことは。けど、俺がもしもいいかげんな順位で堕落してったらどうなる? 今年はしかたないにしても来年、奨学金狙えないんだぞ。月謝はバイトでまかなえるかもしれないけど、それ以上にこれから死ぬほど金がかかるんだぞ!

 母に八つ当たりするのはお門違いだとわかっている。でも思わずにはいられない。ひりつく喉に鞭打って乙彦は吐き出した。

「寝るから、一人にしてくれよ」

 ほっといてくれ、まずは、そういうこと。


 しばらくうとうとするうちに午前の陽射しはだんだん熱くてらてらしたものに変貌していった。夢を見ない時は全く見ず、時々とっぴょうしもなく口に出せない映像を目にすることもある。ゆれてもいないのに床ががたがた鳴るのも、汽車の発着音もみな、肌から伝わってくる。乙彦は何度か寝返りを打ちつつ目を閉じたままでいた。

 家族のいない部屋は、かえって落ち着く。

 ──同窓会とか、まだ早いのか。

 頭を一本の飛行機雲のような思考が横切った。

 ──水鳥中学の同窓会、ゴールデンウイークあたりにやらないのか?

 まだ一ヶ月しか経っていないというのに、まだまだ時期が早すぎるとはわかっているけれど、むしょうに何か語りたかった。バイトの都合もあって通学時に顔を合わせることもない。雅弘も新しい学校の連中と盛り上がっているようだし、それぞれがそれぞれの高校生活を謳歌しているのならば何も言うことはない。

 ──で、俺が弟分かよ。

 まだ慣れない自分のポジション取り。藤沖が悪い奴とは思っていないけれども、今まで自分が意識していた関崎乙彦とは違った視点で見られてしまう。それがまだ着心地の悪い洗濯のりぱりぱりのシャツといった感じで、落ち着かない。かといって新参者の乙彦が藤沖を差し置いて余計なことをしでかせばまた、面倒なことになるだろう。藤沖も奴なりに、自分の考えがあり、また乙彦への友情も感じているようなのだから。

 ──どうせなら、俺を応援団に誘うとか、そういう形で話してもらえればよかったんだが。

 どうせ委員会活動が精一杯であり、部活動には参加できないことを承知で、それでも藤沖には同等に扱ってもらいたかった。女々しいが恨みかもしれない。


 少し寝て、薬も気持ちよい具合に効いてきた頃だったろうか。隣の部屋で電話のベルが鳴った。一度鳴るとどんなに深く寝入っていても目が覚めてしまう、狂暴な音だ。すぐに母が出ていろいろ話をしている様子だった。

「はいはい、どちらさんですか? あらあら、お友だち? ああ、乙彦ですね、今寝てますよ、起こしましょうか?」

 雅弘だろうか? いや違う。雅弘相手なら母から「ああおとひっちゃんね、よかったらお昼出すから食べてって」くらい言うだろう。なんとなく電話口の口調が控えめなのは気のせいだろうか。誰だろう? 乙彦は身を無理やり起こし呼びかけた。

「誰?」

 話している最中で乙彦の疑問には答えてくれない。まだ話しつづけている。

「あらら、でも悪いわ。そんな遠くから。まあそうですか? なら乙彦を起こしておきますので、どうぞ無理なさらないでね。ありがとうございます」

 誰か来るのだろうか? 受話器を置くと同時にもう一度乙彦は怒鳴った。

「母さん誰?」

 そそくさと襖を開けた母は大きな溜息を吐いた。

「おとひっちゃん、なんか羽織ってなさい。今からね、学校のお友だちがお見舞いに来るんだって。もう部屋も散らかってるしいきなりで困ったわねえ」

「学校って誰? 雅弘?」

「雅弘くんだったらそんなに気遣わないわよ。青大の子みたいよ。ほら、クラスの評議委員の藤沖くんと古川さんだって。あんた知ってる?」

 もちろん知っている。その前に一気に胃が痛くなったのは風邪薬が合わなかっただけではない。慌てて部屋を見渡すと、もう今からでは片付けが間に合いそうにない散乱状態。自分の机と荷物だけはそのまま机に投げたままにしてあるのでさほどでもないが、問題は兄と弟のエリアだ。三人兄弟で現在は八畳分を三分割する形で使用している。それぞれが角を取って分居しているのでそれはそれで慣れてはいるのだが、それでも男くささ満点の鬱陶しさは否めない。兄は工業高校御用達の木工道具が机の上に散乱しているし、現在受験勉強中の弟は勉強道具ならぬプラモデル雑誌が床一杯に広がっている。決して乙彦も片付けがうまいほうとは思っていないが、それでもまだ奴らに比べれば、まし、といったところか。

「ここに来るってたのか?」

「住所わからないだろうからって断ったよ。でもちゃんと、青潟市の地図があるからたどり着けますって自信満々に断言されてねえ。困ったねえ。今からお菓子用意しておかなくちゃ、買い物行ってくるわよ。おとひっちゃんも少し身支度しておきなさい。女の子が来るなんて、ねえ、もうびっくりよ」

 母は物凄い勢いでまくし立て、乙彦の返事を待たずに即、家を出た。


 ──藤沖かよ……!

 たった一日だろう。それも土曜日だ。もちろんあいつがクラスの評議委員であることを考えると全く想像がつかないことではないにしても、でもそんなすぐに見舞いに行くなんて発想がまず、信じられなかった。

 それになぜ。

 ──古川も一緒か?

 これもまた、母ではないけれども「びっくり」というより、信じがたい発想だ。

 いくら同じクラスであっても、ただのクラスメートの見舞いに、女子が一緒にくっついてくるというのも。乙彦からすれば、藤沖から電話が来るであろうとは想像していた。奴の生真面目な性格上、土曜分のノートコピーを用意してくれたとか、連絡事項があるとか、そのあたりの報告はしてくれるだろう。また立村も後からこっそり電話をよこすだろうとも。だが、直接お見舞い道中しに来るとは、まず乙彦の発想ではありえないことである。

 藤沖だけならそれなりにだらんとパジャマ姿で寝転がっていてもいい。

 しかし、古川まで来るのなら、露骨に胸をはだけた格好でいるわけにもいくまい。

 乙彦はすばやく薄手のTシャツをタンスからひっぱりだし中に着込んだ。上からパジャマを羽織り、床に散らばる三人分の靴下類を弟の机下に押し込んだ。

 時計を見た。ちょうど十二時半。ということはすでに二人、青大附高を出発しているということか。

 ──やってらんないな。

 たかがお見舞いに対してそこまで気遣いする必要あるのか、自分でもわからなかった。


 不思議と身体を動かしているうちに、けだるさやめまいはすうっとひいていった。むしろうっすらと汗ばんでくるのが心地よく、寝すぎたゆえの頭の重さもだいぶ落ち着いてきた。やはり自分はただ横たわっているよりも、身体を動かしている方が向いているのだろう。

 母が戻って来て台所でばたばたやっている間に、もう一杯麦茶ポットからお茶を飲み空にした。少しすっきりしたのでまずは横になった。同時にまたけたたましくチャイムが鳴り響いた。家の中だけではなく、外にまで響き渡るのが顰蹙がいだ。

「はいはい、あらあら遠くからどうも……おとひっちゃんですか? 今起きたところなんで、どうぞどうぞ上がってくださいな。ほら、こちらですよ」

 ずいぶんよそ行き声で上ずっているものだ。母がいきなりお上品口調にしようとしてうまくいっていないのが、横たわっている乙彦にも伝わってくる。身を起こし、かけぶとんの上に両手を置いた。客人を待った。呼吸ひとつ置いて、じっと襖の向こうを見つめた。

 ──だから母さん、その呼び方するなよ。

 襖の向こうからは「おじゃまします」とふたり男女の声が連なり、その後で大人しげに「おじゃまします」という別の女子声が続いていた。ふと身体が引きつる。

 ──確か、母さん、来るのは藤沖と古川の二人だけって、言ってなかったか?

 今耳にした声は、乙彦の分析によるとどう考えても三種類のはず。

「失礼しまーす!」

 襖を開けたその向こうには、三人確かに青大附属制服姿の男女が並んでいた。男子ひとり、女子ふたり。そのうち一人は古川だったが、もうひとりなぜ混じっているのかすぐには理解できなかった。

 ──清坂?

 昨日、枕もとでもらった名刺をどこかにやってしまったことに今気付き、慌てて額の汗を拭いた。まずい、清坂美里もセットでくっついてくるなんて想像もしていなかった。

「遠くから、ありがとう」

 まずはそれだけ伝え、乙彦は三人から見えない片手で敷布団の端を握り締めた。


 三人まずは、藤沖、古川、そして清坂の順番で並び枕もとに座った。女子ふたりがきょろきょろと乙彦のいる兄弟部屋を眺め回しているのが勘に触るがしかたない。まずは藤沖にもう一度お礼と詫びを伝えた。

「気を遣ってくれたのか、ありがとう」

「いや、当然だ。評議委員としてはな」

 さらりと答え、藤沖はまず鞄からコピーをまとめて取り出した。

「まず、数学と理科、それから英語の補習とノートだ。だが無理しないでいい。渡しておくだけだ。たぶん来週の実力試験に出てくる内容だから目を通しておけばいい」

「すまない」

 開いてみると、ほとんどがノートの写しだった。しかもやたらと詳しい。ただ黒板を板書しているだけではなく、ところどころ別のメモも残っている。だが藤沖の文字ではなさそうだ。特に英語は、非常にわかりやすい大きな文字で綴られている。筆記体とゴジック体、両方を活用して書き分けている。

「藤沖、このノートなんだが」

「あ、これね、うちのクラスの片岡が書いたのをコピーさせてもらったんだよね」

 古川が即答し、にっと笑った。

「うちのクラスであいつ英語二番でしょ。だから強引にコピーよ。ちなみに数学と理科はまた別の奴。うちのクラスよりもB組とかC組とか、そっちの方に得意な奴固まってるから、そっちからコピーさせてもらったほうがいろいろといいじゃない?」

 ねえ、と清坂の方に同意を求めるべく頷くと、今度は清坂がまくし立てた。

「そうそう。今日、こずえから聞いて私も、関崎くんに規律委員会のことで話あったんでついてきたの。でね、一応週番の順番と一年生会のことで」

 言いかけた清坂を制したのは藤沖だった。ありがたい。

「それは今すぐでなくていいだろう。それよりもだ、関崎、本当に大丈夫か」

 女子の声よりも、今は藤沖の男くさい見舞い文句の方が耳にやさしかった。

「本当にすまない。月曜には復帰する」

「何かあったら相談してくれ」

 何度も聞かされた同じ言葉を発し、運ばれてきた茶菓子に手をつけつつ、しばらく四人で他愛もない話をし続けていた。母がちろちろと古川と清坂を見るのがいらいらするがあえて無視をした。麦茶ポットを半分空にしたあたり、母が襖の向こうに消えた段階でいきなり古川が人差し指で「しーっ」と周囲を静まらせた。

「関崎、あんたさあ、今ほんっとねえ、大変だろうからさあ」

 脇に置いた手提げ鞄から古川は、まず紙袋の端を三角にして覗かせた。

「青大附高に来て一ヶ月、疲れてるんだよ、ねえやっぱ」

 次に藤沖の顔をにんまりしながら覗き込んだ。無表情で見返す藤沖。清坂が古川の鞄に手をかけながら、

「ねえ、こずえ、なに、なに?」

 急かす。

「まあ、私たちが帰ってからゆっくり見てよ。お勉強の道具は藤沖が用意してくれたようだし、女子としては別の角度からのプレゼントってことで、どうぞ」

 ゆっくりゆっくり「ちらりらりん」とか歌いながら白い袋を取り出した。A4版、薄めの紙に何か雑誌らしきものが入っているようだ。両手で受け取った。

「ありがとう」

 同時に藤沖が素早く手を出した。ひったくられた。乙彦も逆らわなかった。

「あのな、古川。なに考えてるんだ。いくらなんでもお前は女子だろう」

「まあね、本当は評議委員たる藤沖の管轄だとは思ったんだけどねえ、ま、いいでしょ。美里には目の毒だからこれはあとで関崎だけで使ってもらえばいいし」

 藤沖が歯軋りしそうな顔で唇の端を片方ぐいと持ち上げた。全く動じないのは古川こずえ。そのまま紙袋を開こうとする藤沖をやんわりと止めた。しかしそばには清坂がぐいぐい古川の腕を引っ張っている。

「なによなによ、私の前では見せられないもの?」

「当たり前でしょうが! あんたねえ、男子の事情くらい少しはわかってるんじゃないの美里」

「なによその男子の事情って!」

 妙にいきり立つ清坂の髪がぐるぐる揺れ、初めて気付いた。清坂は今日、髪をふたつに分け、高く耳の上で結んできていた。小型犬でそういうタイプのがいたような気がする。やはり同じような髪型で整えていた、一年前会ったある女子のことを思い出したのは必然だった。三人で一冊、雑誌らしきものを無理やりひっぱりあいしている間、乙彦は清坂美里の髪の毛にお下げ髪を重ねて見ていた。


 現れたるは、白いセーラー服姿の美少女が微笑む見目麗しき表紙なり。

「なんだこれは?」

 乙彦よりも先に口をあんぐりあけつつ、それでもページをめくる藤沖。

 ──やはり、そういうものか。

 怒る気はしなかった。

 ──さすが藤沖と古川、ここで漫才やるというわけか。


 話の展開からしておそらく「下ネタ女王」の古川が用意してくる雑誌とはその系統のものだろうと想像はしていた。頭痛を押さえつつも、なんとなく先は読めていた。

 しかし古川の女王なり思いやりも理解できぬわけではなかった。

 なによりも、本音では、嫌いではない。


 今度は乙彦の方がポーカーフェイスを気取る番だった。意外にも藤沖が興味津々でページをめくりつづけているところが面白い。てっきり「古川! お前何を考えている! 仮にもお前、評議だろ!」くらい怒鳴るのではないかと思っていたのだが。話が全くわからない奴ではないのだ、やはり。藤沖もまんざら、堅物オンリーの男ではないのだ。

「なあにじろじろ見てるのよあんたさ、藤沖、あんたも相当溜まってると見たね」

 お得意、「下ネタ女王」の突っ込みが始まった。幸い乙彦に話の矛先は向かなかった。なんとなくわざと「向けていない」という方が正しいような気がしていた。乙彦は黙ってふたりの掛け合いを聞いていた。古川の隣で少し顔をこわばらせている清坂が、無言で座っていた。そ知らぬ振りしていた。

「興味ないとは一度も言ったことないが」

「やっぱ男だねえ。まあね、今回用意させていただいたのはわりとエッチ度が低めのものにしたんだけどさ。関崎、古本屋さんだから古い写真集は仕事の合間にちょこちょこ読めるんではないかって思って。だったら新品の方がねえ、気持ちとしては、落ち着くかなって思ったわけよ」

 当然の如く乙彦も言い返した。

「仕事中はそういう暇などない」

「あっそ、そうだよねえ、関崎は真面目だもんねえ。でもさ、真面目な奴ほどいろいろとストレス溜まってるんだよ。自覚ないみたいだけどね。藤沖、あんたもそう思ってなかった? 男子たるものやっぱり、相当、くるかなあって思ってなかった?」

 話を振られた藤沖が堅い顔しつつ真面目に答えた。

「思いやり感謝するが、そういうものは女子ではなく男子が用意すべきものだ」

「あーらそう、じゃああんたさ、今度の新歓合宿、ちゃんと男子トイレにこういうもの用意するの忘れるんじゃないよ。覚えてるよね私たちの修学旅行さ。ちゃんと男子評議が一クラスに一冊ずつ、一発抜き用の写真集もってきたって話、聞いてるでしょうが」

 あっけらかんと語りつづける古川の心臓の強さ。かといってなぜかむかつかないのは人徳だろうか。突撃見舞いで普段ならいらいらするところなのだが、不思議と古川こずえに対しては女子への不快感を感じることが少なかった。その理由もなぜかはわからない。はっきりしているのは下ネタトークの雨が降り注いでも、乙彦は無理にやめさせたいと思わないというそれだけだ。

「ああ、難波からそれは聞いたが、あいつが持ってきたのは『日本少女宮』の写真集だった。あれは使えない」

 やはり生真面目に返事をする藤沖。観察しているうちにだんだんこのふたりのかけあいが面白くなってきた。学校ではやたらと世話好きの硬派を通している藤沖だが、本当のところは勘違い野郎で実はちょっとばかりスケベなとこもある愛すべき男ではないのか。応援団を結成するために乙彦へ近づいてきたなどというけれども、実のところ順番が逆な理由なのではないだろうか。この一ヶ月、いらいらするところもあったけれども、我が家でじっくり観察してみれば藤沖勲、こいつはなかなかわかりやすく面白い男である。対等に古川の下ネタトークを交わす態度も、気持ちよし。

 藤沖はぱらぱらとめくり終えた後、「俺の好みではないが」と余計な一言を付け加えて乙彦に戻した。雑誌名は「いもうとがいっぱい」。見た感じ、芸能人というよりもクラスの女子たちの中でちょっと見た目可愛い子を集めた、投稿雑誌のようだった。

「どうもありがとう。ふたりの気遣い、恐れ入る」

 乙彦も生真面目に礼を返した。吹きだす古川は、膝詰で乙彦の隣に近づき、適当にど真ん中のページを開いた。

「そういや関崎にまだ聞いてなかったよねえ、あんたの好み、どんな子なんだか」

「別にそういうのはない」

「藤沖はプロのモデルタイプの可愛い子でなくちゃ、だめだって言ってたよねえ」

 その言葉にも全く動じない藤沖。堂々と頷いた。

「写真をとらせるならばそれなりのルックスがないとな」

「はいはい、あんたは素人アイドル嫌いだもんね」

 藤沖とからかいあいながらページをまためくる古川の指先を追いながら、ふと視線が止まった。目をそらそうとして、また清坂美里と目が合った。ふたつわけした髪が揺れていない中、ぎゅうと絞り込まれたような瞳に打たれた。

 もう一度写真に目を落とすと、そこには同じく二つ分けして、清坂よりも長めに結い上げたセーラー服少女の写真がひろがっていた。顔形は全く異なっていたけれども。


 清坂がいきなり立ち上がった。

「こずえ、あんまり長居したら失礼だよ、帰ろ!」

 唇を真っ直ぐかみ締め、頬を紅潮させ、片手を握り締めたままだった。勢いよくて立った拍子に空気が揺れた。

「どうでもいいけど、関崎くん、こういう本、人前で読んじゃだめだよね!」

 矛先が突然乙彦に向いた。思わず尻を布団の下で位置直しした。

「だって、こういう本って、女の子のこと、見下すような写真ばっかりだし。変な格好ばっかりしてるし。女子がいるところでこういうの、広げたらだめだよ。それに関崎くん、規律委員なんだし!」

 いきなり脈略のない発言にぎょっとした。

 さっきまで古川の側でじっと黙りこくっていたから妙だとは思ったのだが。

 清坂は唇を尖らせさらに続けた。古川を責めた。

「こずえも、いくらなんでも関崎くんにこんなの持ってってどうするのよ!」

「私、いつもお見舞いの品、雑誌に決めてるって知ってるでしょうが。立村だって羽飛だって南雲だって」

「でもでも、それ、男子同士ならいいけど!」

「美里もなにいきりたってるのよ。藤沖だってOKしてきれたんだからさ」

 しっかり頷く藤沖。乙彦にちらと目配せした。女子の言い分はうるさいぞ、との合図とみた。

「でもでもでも! 関崎くんがこういうので喜ばないかもしれないじゃない! ほんと、恥ずかしいったらないじゃない!」

「別にアダルトビデオを持ってったわけじゃないし。そんなかっかしないでもいいじゃん。美里、なにいきなり清純ぶってるの。いきなり規律委員になっちゃったからってそうそう焦らなくてもいいじゃんねえ」

 怒らず交わす古川こずえの口調に、だんだん空気も柔らかく凪いできた。こういう場だと大抵誰かがヒステリーを起こして収拾がつかなくなるのが常だ。藤沖もだんまりを決め込んでいるのだが、それもそのはず、古川が全く動じていない。どんなに二つに結った髪を揺らして清坂が訴えてもどこ吹く風。ゆえに、苛立ちも感じずにすむ。

 乙彦はしばらくふたりのやり取りを様子見した後、雑誌を開いたまま声をかけた。


「一ヶ月しか付き合いがないのに、わざわざ見舞いに来てくれるだけでもありがたいのに、こうやって話をして盛り上げて、さらに土産まで用意してくれるクラスメートに、感謝するのは当然だ。ありがたいと思っている」

 また何かを言いたそうに口を開きかけた清坂が、息を飲んだ。乙彦に首をかすかに振るような仕種をした。乙彦は続けた。

「規律委員ならば学校では読んではいけないだろうが、部屋の中では別だろう。それに、特に問題もなさそうだ」

 実際見た感じ、中高校生男子向けの雑誌であって、特にいわゆるエロ本といった本ではない。下ネタ女王古川が選んだにしては柔らかい内容だろう。何よりも、みんな服を着ている。

「もしもっと過激なものを持ってきたのだったら俺もこの場では開かなかったが、こうやって気遣ってくれるのならば、一ページでも読むのが感謝の意を表す方法だと思う」

「関崎くん、何言ってるのよ」

 ようやく清坂が言葉をかすれた声で発し始めた。乙彦へは少し呆れ顔を向けていた。

「もちろん学校に持ち込むのはよくないが、ここでは別に問題がないと思う。ありがとう」

 古川および藤沖にもう一度改めて礼を言った。古川がにやっと笑い、耳元でささやく。

「なんだかなあ、照れるよ、もう」

 背中を思いっきり叩かれ、乙彦はくるっと布団にもぐりこんだ。悪いが清坂にそれ以上言う気もなかった。藤沖がかすかに笑みを浮かべているのに片手で答え、乙彦は横たわったまま菓子を進めた。せっかくのカステラなのに干からびてしまう。麦茶もまだだ。


「ほらほら美里、カステラ食べようよ。ったくねえ美里、何もたまたまあんたに似た写真を広げたからってぱにくることないでしょうよ。もうねえ、美里、敏感なんだから」

「そんなんじゃないってば!」

 乙彦は慌てて本を閉じ、枕の脇に裏表紙を向けて置いた。遠慮なく食いだした藤沖を尻目に、さらに古川は乙彦にしか聞こえない声で囁いた。

「美里ってエッチなこと言われるとかあっとなっちゃう子だから、規律委員会ではその点、注意しといたほういいと思うよ」

「なんだそれは」

「つまりね」

 溜息交じりに、それでもはっきり古川は説明してくれた。

「さっきあんたがじいっと見てた写真、美里にそっくりだったでしょ。あれ見て、美里逆上したのよ。やらしい目であんたが見てるんじゃないかって怖かったみたいよ。まあそんなわけないじゃないってわかってるからね、その辺気にしないでよ」

 思わず清坂の横顔を見つめた。横目でじろりと乙彦を責めるように見返された。

 ──別にそんなつもりじゃなかったんだが。

 気まずい中、自分の視線がまた清坂美里のふたつ分け髪に向いていく。

 別に変な意味ではないのだと説明する気もなかった。


 普段はお下げにしていた髪を、雅弘に告白を決意した時初めて結ったというふたつ分け。一年前、水野五月はそう説明していた。雅弘が密かに想いを寄せていた青大附中の一年下女子に似た髪形にしてみたかった、そう話していた。

 清坂美里の今日の髪型が、たまたま似ていただけ。雑誌のグラビア一枚、同じ髪を結っていただけ。記憶が甦っただけ。清坂美里に説明する義務はない。

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