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高一・一学期 19

 寝た、寝た、とにかく寝た。

 といっても自分でその自覚はなかった。気がついたらベッドの側には母が両手を腰に当てて乙彦の顔を見下ろしていた。天井の黄緑色に、白い蛍光灯が溶けているようだった。薄い掛け布団がぐしゃぐしゃ、とにかく寝ていたという事実だけは、認めざるを得ない。

 目が少しねばっこい液で開きづらい。

「おとひっちゃん」

 開口一番、母はいつもの名を呼んだ。

「ったく、いつかこうなるんじゃないかと思ってたよ、もうねえ」

 ──だからその名前で呼ぶなよな!

 幼い頃、雅弘によって付けられたその呼び名。青大附高には似つかわしくない。

 乙彦は思い切り顔をしかめた。

 それでやめてくれる母でないことはわかっていても。

「あんた、さっきからいびきかいてぐうぐう寝ていたけど、ほら、先生にお礼言いなさい。それと、ほら、お友だちに」

「誰?」

 藤沖だろうか、それとも保健委員の小折だろうか。

 寝返りを戸口側に打ち、乙彦は視線を彷徨わせた。居場所なさそうな顔で立村が体重計の側に突っ立っていた。手元を見ると、鞄と手提げをぶら下げている。

「立村?」

 慌てて身体を起こした。同時に強烈な頭痛がきいんときた。ばたりと枕に倒れた。保健の先生が近づいて来て、いきなり体温計を脇に挟むよう指示をした。しかたない。そうする。

「ほらほら、関崎くん、無理しないで。まだ熱、下がってないでしょう?」

「このくらい大丈夫だと」

「思わない思わない。まだ具合悪そうな顔しているくせに。お母さん、そういうことですのでお呼び出ししたわけなんですけれども」

 言葉を途中から父母用丁寧語に切り替える、その技に唸った。

「いえいえ、本当にこちらこそうちの息子がもう御迷惑をおかけして。この子一度何かに熱中し出したらもう、わき目振らない子なもんですから、たぶんそれでぶったおれたんでしょうねえ」

 ──「子」じゃあねえだろう。

 ちらと立村と視線を合わせた。恐る恐るといった風に近づいてくる。立村は保健の先生に何か言いたそうな顔で、

「先生あの、荷物」

 尋ねた。母が鞄と手提げに気付き、すぐに奪い取った。何も引ったくることはないだろうが。

「ありがとう、ありがとう。おとひっちゃん、あんたもほら、礼」

「あ、悪い」

 立村はすでに、乙彦が雅弘から「おとひっちゃん」と呼ばれていることを知っている。隠す必要もない。だがなぜか母の口から飛び出す「おとひっちゃん」という響きがどうも甘ったるく聞こえてしまうのはなぜだろう。

 手を少しぶら下げるようにし、小声で「補習、どうする?」と聞いてくる立村。

 そうだった、今日はまだ金曜だ。補習授業がまだあるんだった。

「出られるわけないでしょう。そのくらいわかるでしょう」

 びしりときつい言葉で立村をたしなめた後、保健の先生は乙彦に一杯、コップの水を手渡した。

「まずはこれ、飲んで。タクシーで帰ったほうがいいわ」

 それはまずい。そんな不経済なこと、誰ができるか。自転車置きっぱなしなんだがそれはどうするんだ。思わず口に出そうになるのだが、いかんせん熱が口腔をねばねばさせているのか、舌が回らない。母は頷いた。

「バスだと、やはりきついでしょうか」

「三十八度も熱があるんですよ。それはちょっと」

 熱うんぬんの問題ではない。我が家がそんなに軽くタクシーなんか使えるような家計でないことくらい自分でもよくわかっている。父がいる時なら、自家用車を出してもらえばいいけれども、平日の午後にそんなことできるわけがない。乙彦はもう一度身体を起こした。

「いい、俺、バスで帰る」

「そうもいかないでしょう、しょうがない」

 ──ほらな、しょうがない、だろ。

 乙彦は母にちらと目で合図をした。さっさと帰ろう、というとこだ。補習についてはいくら乙彦といえどもこの具合悪さの中で受ける気にはなれない。幸い保健の先生もはや引きOKしてくれているのだから、それならありがたく頂こうと思う。

 母は慌しげに戸口へ振り向き、早口で答えた。

「早く帰りたいんだけどねえ、ただほら、担任の、ほら、ええと」

「麻生先生か」

「そう、麻生先生がねえ、いい機会なので一度お話したいことがあるそうなのよね。だから少しあんたも待っててよ」

「待ってろってここで寝てろってことか」

「そういうことよ」

 後の一言はやはり保健の先生だった。

「関崎くんが寝ている間にね、麻生先生がいらしてそう仰ってたわよ。大丈夫よ、悪いことじゃないみたいだから」

 ──悪いことなんぞ、してないが。

 不本意ながらも乙彦は横たわった。母が薄いかけ布団をかけてくれるのがこっ恥ずかしいったらない。側で立村が無表情で乙彦を見据えているのが不気味だった。

「立村くん、まだ用あるの」

「はい。授業のノートコピーと、あと規律委員関係のことで」

 また言葉を途中で切った。どうもこの立村という奴、文節を途中で終わらせるくせがあるようだ。女子に多い言い方かもしれないが、男子でそれをやられるとすこしいらっとくる。

「じゃあまだ時間あるのね」

「はい」

 保健の先生は立村を手招きすると、奥にしまってあったパイプ椅子を引っ張り出し、ベッドの枕もとに置いた。座るところをぽんぽん叩いた。

「ならば、ここで少し話してれば。そうね、どうせ関崎くん、お母さまが帰ってくるまで待っているわけだし、時間つぶししててもらったほうがいいでしょう?」

「はい」

 立村は頷くと、ためらうことなく椅子に座った。乙彦をちょうど真上から見下ろす格好となる。落ち着かないので起き上がろうとするがまた、激しい目眩で動けない。

「だから、無理しないで、ではお母さま、そろそろ行かれますか?」

「お世話になります」

 母も丁寧に腰を曲げてお辞儀をし、ついでに立村にも声をかけた。

「いつも、ありがとうねえ。今度うちに遊びに来てね」

「ありがとうございます」

 社交辞令にしては生真面目に立村も礼を返した。


 保健の先生は次に訪れた剣道部の生徒を世話するため、急ぎ早に教室から出て行った。どうも体育館で稽古中に手を竹刀で叩き、その際に打撲か骨折かしたらしい。

「悪いけどすぐに戻ってくるからね」

 寝ている乙彦と側にいる立村とふたりに告げ、足早に先生は出ていった。先ほど母は麻生先生に呼ばれて出て行ったし、保健室には今のところ他に誰もいなかった。

「生徒だけで放置していて、はたしていいものかどうかって感じだよな」

 立村が見送った後、ぽつりと呟いた。

「信頼しているんだろう」

 乙彦も同感だった。実際問題として生徒の自主性に任せるとはいえ、それなりの劇薬が並んでいる保健室に生徒をふたりっきりにしておくというのは、かなりの信頼関係が必要だと思う。中学の保健室ではこういう事は滅多になかった。それを伝えると立村も頷いた。

「関崎が信頼されてるからだろう」

 信頼されてるも何も、まだ自分は入学して二週間経つか経たないかだというのに、ずいぶん買いかぶられたものだ。乙彦は天井を見上げた後、立村に顔を向けるべく寝返りを打った。

「俺は必要以上に買いかぶられているとは思うが、お前の方はどうなんだ」

 立村は無言のまま、乙彦を見下ろしていた。無表情ながら口許にちらとひきつるものが走っていた。見逃しはしなかった。

「実力以上に見下されていると思うぞ」

 はっきり伝えた。


 授業中にみっともなくもぶっ倒れたのは情けない。しかも同級生の機転で運ばれたというのが男としては一番こっぱずかしい。その相手が藤沖ではなく立村であったことは、わずかながらもほっとする部分ではあったけれども、だ。

 しかもこうやって今、しっかと見下ろされている。藤沖のように説教をかまされるのは、今の乙彦としては避けたいが、立村のように無言で不満そうな顔をして側にいられるのも重たかった。同じ釣り合いのシーソーに乗りたい。

「さっき、小折から聞いたが、俺を保健室に連れて行くというのは前もって準備していたということだな」

「悪かった。あまりこそこそしたくなかったんだけどさ」

 あっさり謝ったのでなかなか次の接点が見出せない。

「朝から気分悪そうだとは思っていたんだ。関崎のことだから、ぎりぎりまで我慢しているんじゃないかと読んだだけだよ」

「お蔭で久しぶりに死んだように眠れた」

 また沈黙が続いた。窓辺から入ってくる風に、冷ややかさな感触が混じっていた。

「そこまで気が回るのに、なんでこっそりと、なんだ?」

 しかたない、自分から口火を切るしかない。立村はまた静かに見下ろした。

「いい機会だから聞きたいんだが、お前、クラス委員が決まった時もすぐ陰に回って情報を集めていただろう? なぜなんだそれは」

「別に陰でというわけではないけど」

 口篭もる立村に乙彦は畳み掛けた。喉がふくれて太い声が出る。

「もちろんそれはありがたいことだし、俺も助かった部分はある。だがなんでお前、背を丸めているのか、それが俺にはどうも納得がいかない」

「丸めているわけじゃないよ」

「いや、そう見える」

 乙彦は言い切った。

「事情がいろいろあるのは他方面からも聞いている。一概に立村が委員関連に顔を出せないのも確かにわからなくもない。それはわかる。だがそのくせ、しっかりと裏ではいろいろと手を回しているのは、傍から見てもあまり気持ちよいものじゃないぞ」

「悪かった、わかってる」

 早めに話を切り上げようとするのが見え見えで、腹が立つ。熱がさらに篭る。

「逃げるのは立村、お前の悪いくせだ。いいか立村、お前このまま陰で立ち回るのはいいが、それで満足できるのか。元評議委員長としてどうなんだ」

 すごんでみたが効果はなかった。

「一度でもトップに立った者として、お前、向上心はないのか」

「漱石でもあるまいし」

 意味不明な言葉で切り返された。流して次にいく。

「とにかく、クラスでなんも委員にならないで過ごすことではたして満足できるのか」

「俺の器じゃないよ」

 またさらっと流された。立村は身体を動かさずにただ静かに見下ろしていた。

「中学時代は全く前情報をもらうことなく選んでいたから、俺みたいな何にもできない奴でも評議委員長になれた。それは事実だ。けど本当になるべき人間はちゃんといて、後期になりそれが認められた。俺は本来の評価をされた、ただそれだけさ」

「だからって、それだけで三年間評議委員に選ばれたわけじゃ」

 言いかけると立村はかたくなに首を振って続けた。

「青大附中の場合は、よほどのことがないと一年前期に選ばれた委員から外すことはないんだ。麻生先生も選出の時、しつこいくらい言っていただろう。附属上がりの生徒は無意識のうちにそう思い込んでいるから、それは違うんだってことを何度も植付けようとしているんだってこと」

「それは先生の問題であって、お前自身の問題じゃねえだろう!」

 乙彦は起き上がった。熱なんぞかまってられやしない。汗ばみながらも背が冷たい。寒気で身体がかじかむ。

「でも動いているのは事実だろう。こうやっていろいろと手を回したりして、満足しているだろ。やはりもともと評議委員の体質が染み付いているからだろ? もちろんそれが悪いとは言わないが、陰でこそこそしていると結局は嫌われるぞ」

「もう嫌われなれているからあまり気にしないよ」

 感情もなく、さっぱりと。二の句が告げずに沈黙が続くけれど、無理にでも話を続ける。

「どんなにクラスのためによくしてくれようと、きちんと顔を表向けしてやらないと大抵の奴らはみな不愉快に思う、それは当たり前のことじゃないか。立村、お前が嫌われなれていると思い込んでいるのは、俺からしたら違うと思う。お前がもし、堂々とクラスの連中に『クラスのために協力します』と宣言して、その上でいろいろなことをする分には誰も嫌な気はしない。陰でこっそりと、というのが不人気の理由だというのが、どうしてわからない?」

 

 結城先輩にしても藤沖にしても、立村に対してどうも疑念が消えないのは、おそらくそのあたりが原因だろう。立村のしていることそのものは非常にありがたいことである。前もって全クラス委員情報をもらえたのは助かった。こうやって仮眠をたっぷり取らせてもらえたのも感謝している。しかし、なぜもっと堂々と、はっきりと言わないのだろうか。言えない理由でもあるのだろうか。

 隠し立てする必要があるとは、乙彦には到底思えない。

 また、こうやって陰で立ち回る奴は、大抵見下されることが非常に多い。

 表立ってわめくことにより嫌われるデメリットもあるが、それ以上に陰の存在というものは見過ごされ、過小評価される。

 雅弘も本当ならもっと高く評価されてしかるべきなのに、成績が下位だったのと生徒会役員に立候補しなかったという二点によって、単なる乙彦の弟分のままだった。今思えば雅弘のためにも、半ば強引に引っ張り出して乙彦と一緒に生徒会をやらせてもよかったのかもしれないと、熱烈に思う。


 立村はしばらく黙りこくっていた。保健室内の体重計がきらきら光っているのがまぶしかった。逆光か立村の姿は白く、紙一枚のようにぺらぺらに見えた。やがてゆっくりと顔をあげた。

「陰だからできることだってあるんだ」

 一言だけ搾り出すように呟いた。

 喉にひっかかる重たい鉛のようなものを吐き出したかった。

「もちろんそれは認める、だがお前のしていることは表でやっても十分問題ないはずだ。むしろそれの方が女子たちも立村のことを認めるだろう。今の状況が変わる、絶対に」

「絶対に、か」

 自嘲気味に立村は呟いた。乙彦と向かい合うのを避けるように視線を逸らし、ネクタイを直すそぶりを見せた。時間稼ぎをしているのは見え見えでなおさら腹が立つ。

「そう断言できるのは、何を根拠に」

「俺が中学で乗り越えてきたことだ」

「関崎が乗り越えられたとしても、俺ができる保証なんてないだろう」

「なぜそう、決め付けるんだ」

 堂堂巡りが続きそうだったその時、立村がいきなり乙彦を斜め下から見上げた。首をかしげているのだが、顔の曖昧な線が消え、顎のあたりが細くなった。いきなり顔が変化するわけでもないのに、とがった眼差しが錐のようだった。

「関崎、それなら俺も言いたいことがある」

 その睨みつけるような瞳を乙彦は一度、ちらと見たことがあった。

「いきなりなんだ、言いたいことがあるなら受けて立つ」

「今、お前はあまり目立たない方が本当はいいんだ。少なくとも半年くらいの間は」

「何を言いたい。きちんと言え」

 立村はブレザーの襟に指を滑らせた後、手を膝に置いた。唇が一文字になり、やがて細く動いた。

「C組の轟さんのこと、聞いているか」

 思いもがけず出てきたその名前。立村の言葉は優しく響いた。

「関崎が悪意をもってしたことでないことは俺も承知している。だが、あれはまずかった」

「なぜだ?」

 当然のことをしただけだ。久田さんに指示されたことをきちんと実行しただけだ。南雲から流れた情報なのだろうか。当然の如く問い返した。

 立村が今度は真正面から、ぬめりのある大きな瞳で乙彦を見つめ返した。にらんではいなかった。

「奨学金がないと、彼女は青大附高に通うことができない。そのくらい追い詰められているんだ」

 その後の言葉はするすると、立村の細い唇から糸を引くが如く手繰られていった。

 かいた汗のせいなのか、今度は腕と腹が冷えていく。


「うちの学校の奨学金は、中学時代成績が学年トップだった生徒に支給されることとなっているのは、聞いているよな。だが今回、トップを走っていた水口という生徒が別の高校に進学したこともあって、自動的に二番の轟さんがもらうはずだった」

「すでに聞いている」

 耳がタコになるくらい聞かされた奨学生指名なしの顛末。頭が割れそうだ。

「本来なら中学の段階でもらいたかったはずなんだが、ずっと二番手のためそれが果たせなかった。だから今回は一番のチャンスだったはずだ。だが、思わぬところで足をすくわれた」

「俺が悪いとでもいいたいのか?」

 認めろ、いいかげん頭を下げろ、そう言わんばかりの口調に、激しい反発を覚える。もちろん乙彦に責任が全くないとは言わない。もう少し場所を選べばとか、女子たちが少ないところでとか、反省すべき点がないわけじゃない。

 でも、基本として乙彦がしたことは、責められるものではないはずだ。

 認めたくない。誰がなんと言っても。

 立村は首をかすかに振った。

「轟さんが苦労しているのを、特に同期の男子たちはみな知っていた。女子たちはどう思っていたか全くわからないが、陰でいろいろと古本を譲ったりして小銭稼ぎに協力していたはずだ。いじましいと思われるかもしれないが、轟さんはそうでもしないと自分の使える小遣いが手に入らない。これは、青大附属の生徒として生きていく上で必要不可欠なことなんだ」

「だが、ゴミ漁りは犯罪だろう。窃盗だろう」

「わからない。だが、そうしないと青大附属にいられないくらい苦労しているんだ。だからこそ奨学金をもらうために努力してきたのに、あっけなく消えてしまったわけだ」

「生活に困ったら違反をしていいのか? それは違うだろう? 他にも方法があるだろう? 俺みたいにバイトをしたっていいじゃないか。俺だってうちがお世辞にも金あるわけじゃないから、こうやって少しでも学費を稼いでいるんじゃないか!」

 こうやってなぜ責めるのか? 立村の重たい瞳に喉が締め付けられそうだ。まるで自分のしたことが犯罪のような目で見るのはやめろと言いたかった。

「関崎、お前は知らなかったんだ。だからしょうがない。たださ、これだけは忘れるな」

 駄目押しの言葉をつないだ。

「轟さんは一年の男子たちにたいへん頼りにされている人なんだ。女子の反応と違って、おそらく一部の男子たちは関崎を悪者扱いする可能性がある。ほんの二、三人程度かもしれないが、もしこれから先関崎が何かしくじったとしたら、そのチャンスを突かれる恐れがあるんだ。よくわからないかもしれないけどさ」

「何を言っているのかよくわからない」

 実際、全く理解できない言葉の羅列だ。あの、深海魚のような目つきの轟に、どのような吸引力があるというのだろう。

「内部の奴らのことを調べていなかったのは悪かったが」

「だからそれを責めてはいないんだ。よく聞けよ関崎。俺が言いたいのはただひとつだけなんだ。後期までとにかく目立たないようにしてろってことだけなんだ。後期に入れば生徒会だってある、夏休みの学校祭実行委員会だって参加できる、けど今の段階で関崎が目立ちすぎると、一部の連中がお前を敵扱いしてしまう可能性があるんだ。だから」

 全くもって意味不明すぎる。話の脈略がつかめない。

「俺がなぜ、敵に回される?」

 立村は唇を閉じた。同時に天井を見上げた。蛍光灯だけがばかばかしいくらい意味のない光をそのままてからせていた。

「つまり、お前は俺がそのわけのわからない連中に食いつかれないように、陰で立ち回っているというわけか?」

 答えは帰ってこなかった。青大附属の連中は誰も、完璧な答えを返してくれない奴ばかりだった。


 もし、乙彦が想像している通りとするならば、立村は轟琴音の一件を知った段階でいろいろと他の連中をけん制するなり情報を集めるなりしていたのだろう。どういう事情なのかはよくわからないが、轟の家庭事情が乙彦と似たような形で逼迫していたのも事実なのかもしれない。だが、だからといって、店の決まりごとを破っていいわけがない。奨学生を下ろされたということも本来なら乙彦に非はないはずだが、気持ちの上でどうしても頭を下げておきたい部分は確かにある。だが、それだけだ。立村が心配すべき問題ではない。

「だからそういうのは陰でやるべきではないだろう。立村、俺ならこういう場合きちんと、表に出して話し合いを持つ。その連中が誰なのかを教えてもらえれば俺がきちんと説明しにいく。もちろん簡単には理解してもらえないかもしれないが、とことん話せばきちんとわかるはずだ。特に男子ならばな」

 女子ならまた別だと思うものの、あえてそれは口にしなかった。

「話し合っても理解できないことだってあるに決まってるだろ!」

 珍しく立村の口調が荒々しさを増した。

「いいか、関崎、理屈じゃない、正論じゃない。確かに関崎からしたら、バイトをして学費を稼いで生活すればいいという考えかもしれない。けど、それができない人だっているんだ。ほら、わかるか、関崎」

 いったん、首を傾げるようにして睨みつけた後、

「タクシーで家まで帰るという選択肢がある関崎と、ない轟さんとは違う、だから根本的に話が違うんだよ、それくらいわかれよ!」

 立村がそこまで言い放った時だった。


「立村くん、いいかげんにしなさいよ!」

 保健室の戸が開き、女子の姿が見え隠れした。声だけがとんがっている。聞き覚えある声ではあった。立村と顔を見合わせ、一瞬のうちに表情を静めた。片手で立村が乙彦を制するような合図をし、素早く立ち上がってその女子の元に走った。

「清坂氏、先生今いないけど」

「ばかね、私、保健室自体に用事あるわけないじゃない。ったくもう! さっきまでずっと探してたのに、どこいるかと思ったらこんなとこで喧嘩してるなんて、何考えてるのよ」

「喧嘩じゃないんだけどさ」

 さっきまでのいきりだった口調とは大違いである。やはりあのふたりは付き合っていたのだろう。別れたというのはデマなのかもしれない。また熱がぶり返してきそうなのと、面倒なことに巻き込まれたくないのとで素早くベッドへ横たわった。

 一歩遅かった。


「関崎くん、具合悪いんでしょ。どうしたの、なんか立村くんに喧嘩ふっかけられたの? たくもう、あの人ってわけわからないよね」

 ──訳がわからないのは俺のほうなんだが。

 いつのまにかベッドの脇……背を向けているので正確な位置は不明……に立っているらしい清坂美里が何か囁きかけている。

「ちょうどよかった、今ね、一年の規律委員が一度集まってお食事会しようよって話が出てるんだよね。だから関崎くんにも声かけようと思ってたんだけど、明日とかあさってとかは、無理だよね」

 頷くしかなかった。

「風邪引いてたらそうだよね。うんわかった。それでね」

 何かばさばささせている気配がする。知らん振り、知らん振りと繰り返す。

「もし、何か立村くんにわけわかんないこと言われたら、私に相談してもらっていいから。置いとくね」

 小声で、耳元に息がかかるくらいに。全身がしっとこわばった。

「それと、こういう名刺、作っといたほうがいいよ、あとで教えるね」

 またばたばたと鞄を開け閉めするような気配の後、

「立村くんも、関崎くんを見習わなくちゃだめだよ。ほら、じゃあね」

 清坂は最後まで騒々しく空気をざわつかせて出て行った。


「ほら、これ」

 もうさっきまでの険悪な会話なぞ忘れたかのように、立村が紙のような何かを拾い上げ渡してくれた。

「名刺、作れっていうのは、正論だと思うよ」

 手渡されたそれには、清坂美里の名前とふりがな、住所と電話番号が手書きで綴られていた。水色の、なんか北欧の国旗を思わせるような十字の台紙だった。

「名刺、って必要か」

「たぶんこれからは」

 乙彦は受け取った。立村の顔を横座りしたまま見上げた。困った風な笑みは、すでに教室の立村と同じものに戻っていた。

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