中学三年卒業・プロローグ2
水野五月の家は、自宅からそれほど遠くなかった。
小学校時代何度か雅弘たちと一緒に、なにかの行事で迎えに行ったことがある。中学三年でふたたび同じクラスとなってからは、生徒会副会長と生活委員という繋がりもそれなりにあり、会話を交わしたり、途中まで一緒に歩いたりすることは、ないわけでもなかった。
おそらく、乙彦の付き合いのある女子の中では、もっとも言葉数の多い人だった。
──青潟商業、あと誰が受けたんだ?
商業高校を受験した連中を思い浮かべてみた。
だいたいの成績ランクを乙彦なりにチェックしてみた。
──だとすると、私立は青潟女子商業か、まさか可南か?
五月も私立の滑り止め高校を受けていたはずだ。どこに受かったのかまでは確認していないが、とりあえず中学浪人することはなさそうだ。しかし、「行く場所があるんだからいいじゃないの」で片付く問題ではない。青潟の場合、無意識ながらも公立上位の空気が流れていて、よほどの事情でもない限り、私立へ行かせたがる親はそうそう居ないはずだ。乙彦が知らないだけかもしれないが、少なくとも知っている範疇ではそのはずだ。
雪の解けたコンクリートの路にたどり着き、乙彦はまず息を整えた。
ここから五月の家までは、角を曲がったすぐそこにあるはずだ。
確か去年の春だったか、一度だけ水野五月とふたりで歩いたことのある道筋を乙彦は覚えていた。青大附中との交流会が行われた土曜の放課後だった。あの日のことだけは、なぜか鮮やかに記憶されていた。
──行っても、何しゃべればいいんだ?
慌てて駆け出したはいいが、いざ、五月の家を前に乙彦はためらった。
クラスの生活委員に、同級生たちの違反カードや抜き打ちの服装検査情報を教えてもらうとか、そういう話をしてほしくて行くわけではないのだ。修学旅行、たまたま雅弘に伝言を伝えたくて、あいつの付き合い相手である五月に話し掛けるという理由があるわけでもない。とりたてて何かしなくてはならない義務はない。ないのになぜ、こうやって走ってきてしまったのか、自分でもわからなかった。
わかっているのは、今五月が感じている感情と、三年前、自分が青大附中の合格発表帰りに感じたものと、ほぼ同じであるだろうという、それだけだ。
男子と女子との違いもあるだろうが、行きたい学校にふられたという現実を見極めるのがどれだけ痛みを伴うものか、それは経験したものでなければわからないだろう。
だが、それを直訳風に伝えてどうなるというのだろうか。
雅弘も言っていたではないか。
──さっきたんをこれ以上傷つけてしまうと。
と。あいつが昨日、いろいろ思うところあって別れを告げたのは、決して悪いことではないだろう。雅弘はもともと、高校を卒業してからすぐに独り立ちして生きていきたいとかねがね語っていた。あの、どんぐり眼の幼い顔には似合わぬ覚悟のようなものが、あいつにはあった。乙彦もそれを知ったのは一年くらい前のことだった。
だから、付き合いなどで時間を取られる暇がないのはよく理解できる。
青潟工業の電気科という話だし、それなりに忙しくなる。そのあたりを見通したのだろう。
しかし五月にそれが届いたかどうかは、乙彦にもわからない。傷つけてしまったことは確実だろう。だからこそ、乙彦に「これ以上傷つけたくないから」という理由で、頼んだのだろう。この気持ちも、乙彦には理解できる。ある意味、男子としての、思いやりだ。
──けど、どうすれば傷つかないんだ?
一年前に、別の女子のことでかなり悩んだことがある。「どうやって傷つけずに遠ざけるか」という問題だったが。その時も精一杯自分なりのやり方で伝えたつもりだったが、どうやら曲解されてしまい、なにやら妙な方向に進んでいる。この件については青大附高に進学してから立村にいい方法を考えてもらうとしても。
だが今回は。
小学校時代からの繋がりある女子だ。
他の口うるさい女子連中よりははるかに、乙彦に暖かく接してくれた女子だ。
そしてなによりも。
──決して、傷つけてはならない人だ。
乙彦はまず、近所のスーパーに立寄った。制服姿ではあるけれども、それほど目立たなかった。すでに乙彦の青大附高合格は近所の人たちにも知れ渡っていて、顔を合わせるごとに、
「おとひっちゃんおめでとう!」
そう声を掛けられる。三年前の失敗を知っている人たちだからこそかもしれない。その度に直立不動で一礼して「ありがとうございます!」と答えるのが常。なにかこそばゆいものを覚える一方で、この言葉をもらうのが三年前だったらとふと思う。
女子が好みそうなものってなんだろう?
総田や雅弘だったら、おそらくチョコレートとかケーキとか、そういうものを買っていくのだろう。今年のバレンタインデーやホワイトデーなどでもいろいろと一部では盛り上がっていたらしいが、乙彦には全く関係のないことと見過ごしてきた。受験真っ最中だったのだ、当然だ。
しかし、お菓子売り場に立って眺めてみると、どうもケーキやらチョコレートやらといったかわいらしい雰囲気のものに、どうしても手が伸びない。第一、これっぽっちで腹が満たされるだろうか? 男子と女子が違うといえばそれまでだが、一瞬のうちに口に入って消えてしまうのが見え見えだ。
乙彦はしばらく立ったまま迷っていたが、やはり自分の直感に任せることにした。
男子も女子も関係ない。特に水野五月は、くそいまいましい女子連中たちとは違い、自分と同じ価値観でもって、話をしてくれた数少ない女子である。だったら、わかるはずだ。絶対に。
乙彦はまっすぐ惣菜売り場に行き、肉コロッケ五個入りを一パック購入した。
あの時、三年前、自分がしたことと少し似ている。
あの日は、帰り路近所の肉屋でコロッケを十個ばかり小遣いで買い込み、道端でやけ食いしたはずだったから。
つま先で記憶を辿りつつ、乙彦は水野五月の家へと向かった。
家の前には、小鉢で何かの花が数株、飾られていた。
どういう花なのかはわからないが、まだつぼみで咲きかけといった感じだった。奥の枝もまた、ごつごつした幹にいぼのようなものをたくさんつけて、裸のままでいた。まだこの家に春は来ていないのだろう。いきなりの冷え込みでつぼみも凍ったのだろうか。
とりあえずは、手元のものだけ渡して帰ろうと決めた。
顔を合わせてどうするというわけでもない。雅弘の話を信じれば、五月は泣きながら合格発表の会場を後にしたはずだ。ましてや生活委員である。不良っぽくあちらこちらたむろうとは思えない。帰る場所といえば、家だけだろう。
雪のこんもり積もった庭を横切り、乙彦はよびりんを鳴らした。
がたごとと、奥で物音あり。同じ風に乙彦の喉から音が洩れたような気がした。すぐに開いた。少し驚きつつも、笑顔で五月のお母さんが声をかけてきた。
「あら、関崎くん。おはよう」
天照大神が姿を隠したと同じくらい水野家の中は真っ暗なんじゃないかと覚悟してきていたのに、その笑顔はなんだろう。答えるのに困った。まずは挨拶と礼をしっかりした。
「昨日の答辞、かっこよかったわよ」
「あ、りがとうございます」
こんなところで答辞の感想なんて聞いたってしかたない。まずは伝えることのみ伝えねば。乙彦は説明の前にまず、スーパーのビニール袋を差し出した。まだ温かい。あげたての匂いが漂う。袋を覗き込むようにして五月のお母さんもきょとんとした顔で乙彦を見た。
「あの、水野さんに、渡してください」
「五月に?」
「はい、では、失礼します」
言うべきことはこれだけだった。あと、何を付け加えればいいのだろう。
五月のお母さんはもう一度乙彦とコロッケを見比べると、また満面の笑顔を浮かべた。玄関を出てきた時と一緒だった。
「五月呼んできましょうか?」
「いえ、いいです」
冗談じゃない。何も言うことなんてない。伝えるべきことは伝えたのだから、これで終わりだ。乙彦は半ば強引に背を向けると、慌ててもう一度、直立不動で礼をした。花が咲きそうで咲かない庭をつっきろうとした。とたん、背を向けてきた玄関からいきなり大爆笑の声が洩れ聞こえた。お母さんだけではなく、どうやら別の誰かも笑っているらしい。全身、ハイビスカスの花が頭からにゅっと咲いたようで燃え立ちそうになる。乙彦はひたすら我が家へと駆け出した。
──何も、笑うことねえだろうが!
自分でも何しに行ったのかわけがわからなくなっていた。
少なくとも雅弘から事のきっかけを伝えられた時は、水野五月に慰めの言葉をかけようと思っていただけのはずだった。街を歩いているうちに、そんなの欲しい言葉じゃないと判断し、方向転換しただけだった。あんなに大爆笑されるようなこと、したわけじゃなかった。
おそらく、周囲が思うほどに、五月の状況は悲観すべきものではなかったのだろう。もともと五月の両親は明るい人で昨日の卒業式でも同じように「関崎くん、青大附高おめでとう、よくがんばったわね」と笑顔で声を掛けてくれるような人たちだった。今の言動も決して理解できないわけではない。公立高校不合格の娘を罵倒し、もう二度と頭が挙げられないように叩きのめすような人たちではないとも思う。
でも、やはりわかっているようで、わかっていないのではないか。
やはり、伝えるべきことが、あったのではないか。
うまく言葉が見つからない。何か、やりわすれてしまったようなものが残っていた。乙彦は家に向かう足取りを若干緩め、靴の紐を結び直そうとした。と同時に、
「関崎くん」
誰かが目の前の道路から、ひょこんと顔を出した。
乙彦はしゃがんだまま声も出せずに硬直した。
──なんで、水野さんがここにいる?
水野五月が、なぜか目の前に、コート姿て立っていた。
「裏口からきたの」
いつもと変わらぬ、楚々とした風情。どこかはつかねずみに似たこじんまりとした顔の造作。そしてお下げ髪のまま。
「あ、ああ、そう」
ようやく発することができたのは、この程度だった。情けない。
乙彦がわざとゆっくり靴の紐を結び直す間、五月は首を傾げるようにして待っていた。ようやく終わって立ち上がった時、改めてお礼を言われた。
「さっきは、ありがとう」
「いや、なんでもない」
また沈黙が続く。五月は黙っていてもいらいらするようなことはなく、話を始めるまでずっと待ってくれる人だった。乙彦がなかなか言葉を見つけられずにいる時も、静かに様子を見守ろうとするタイプだった。だから、あせって何か馬鹿なことを口走らないですんだ。乙彦の知る限り、そういう女子は五月だけのようだった。
「変かもしれないけど、あの」
「佐川くんから聞いたのでしょう」
静かな笑みに、乙彦は頷くしかなかった。
「あいつ、青潟工業受かったから学校に来てた」
「そうなの。一緒に見たの」
五月は頷き、黙って歩き始めた。なぜか駅の方へと向かっていた。
「さっき関崎くんがくれたコロッケね、うちのお母さんが付け合せつけてお昼ご飯にするって喜んでいたわ」
しばらくふたりは並んで歩いていた。
ちょうど一年前、青潟大学附属中学評議委員会との交流会の後と同じに、ただ歩く方向が逆というだけだった。
「これから、学校へ行くのか」
「報告しなくちゃ」
五月は頷きつつ、俯いた。
「合格でも、不合格でも行かないといけないから」
さすが生活委員、そのあたりのけじめはしっかりしている。
「その後で、書類も用意しないと」
「書類って?」
乙彦が尋ねると、五月は立ち止まりかすれた声で呟いた。
それまでの受け答えとはまた違った、切ない響きだった。
「私立の入学金、今週中に用意しないといけないもの」
周囲には誰もいなかった。
──入学金か。
乙彦の中で、がつんと何かがシンバルのように鳴り響いた。
「どのくらい」
「きっと、高いと思うわ」
声が震えていた。五月の俯く横顔を、乙彦は恐る恐る覗き込んだ。
「それに、制服もシーズンごとに替わるし、持ち物も公立と違って規則があるからそれにあわせないといけないし、それに寄付金もあるし」
雅弘はこの様子を側で見つめたのだろうか?
どうしようもなく、張り付きたかった。ほんの一歩だけ、乙彦は五月の側に近寄った。
「うち、お金持ちじゃないから、そんなにたくさん、用意できないわ」
「水野さん?」
問いかけはした。
答えを期待してはいなかった。
すでに、乙彦にはその答えがはっきりと浮かんでいたから。
──水野さんが泣いていたのは、落ちたからじゃない。
雅弘には見えなかったであろう答えが、今の乙彦にはあらわに読めた。
あの、六年三月のあの時の乙彦にはわからなかったけれども、今、中学三年三月の自分には、水野五月の苦しんでいる答えが、ありありと解けたから。
──家族のみんなに、経済的な負担を掛けてしまうのが、辛いんだ。
──迷惑を自分ひとりの力不足で、かけてしまう、それが切ないんだ。
一ヶ月前、青大附高に合格してから自分なりに答えを出した問題を、水野五月の前でもう一度解かされているようだった。
さっき脳天から花開いたハイビスカスが今度は体中の孔から噴き出してくるようで、全身熱くなる。何かを口にしたくても、できない。乙彦は立ち止まったまま、涙を堪えている五月に向かい、なんどか唇を動かそうとした。昨日の卒業式答辞では、練習したかいあってつかえることなくすらすら読み上げられた言葉が、なぜか、五月の前では舌がこわばり出てこない。同じクラスになってからは、以前よりも自然に話せるようになったはずなのに。いきなり二年前の自分に引き戻されている。
「あ、あの」
どもりながら、乙彦はとっさに浮かんだ言葉を叫んだ。
「それなら、バイトするといいんじゃないか」
口走った後で、さらに背中から真っ赤なハイビスカスが湧き出したかのよう。その場で背を向けて奇声あげて走り回りたくなるのを、必死に押さえた。
「高校に入ったら、俺も、バイトするつもりなんだ。あのつまり」
「アルバイト?」
けげんそうに、五月が呟いた。顔を挙げ、
「関崎くんが?」
「そう、そういうことになったんだ」
目が合い、慌てて逸らし、足元のゆるんだ雪をかき回した。
「雅弘んとこのおじさんとおばさんに頼んで、青大附属の近くにあるっていう、古本屋でバイトするんだ。あの、朝、六時から八時まで働くから、たぶん学校には遅刻しないし」
意味不明、何か取り付かれてしまった。五月に見つめられてさらに妙な発想が頭の中に沸いて出る。原色カラーのやたらとテンション高い言葉だけが、勝手に飛び出してくる。
「それで俺も、青大附属の学費、稼ぐつもりなんだ。あそこも学費、やたら、高いって聞いてるんだ」
明らかに五月の目には、乙彦の怪しい言動に戸惑っている色が浮かんでいた。
誤解されているかもしれない。まずいと思う間もなく、さらに言葉は先走る。
「あ、あと、入学したらたぶん、青大附属、奨学金とか特待生とかそういうのがあると思うから、それ探してみようかと思っている」
「奨学金?」
さらに、戸惑いを隠せない五月に、乙彦は頷いた。早口に、そのままに。
「たぶん、私立だったらそういうのがあると思う。だから、そうすれば、学費はそれほど負担しないですむ。だから、あの、でないと、俺も」
言いかけた乙彦の言葉に、五月は初めて首を振った。
「関崎くんみたいに、私、頭よくない。だって青潟商業落ちるくらいだもの」
「いや、そんなことない!」
思わず怒鳴ってしまった。運悪く年配の女性が通りがかった。睨むようにふたりを眺めて去っていった。
「水野さんは、頭悪くなんかない。俺はそう思う」
「どうして」
問われた言葉に、乙彦はそれ以上言い返せなかった。今、ひとたび溢れんばかりにはじけ出した言葉よりももっと伝えなくてはならないものがあったはずなのに、なぜかそれが出てこない。なんでこんなわけのわからないことばかり口走っているのだろう。
「それは」
「私、奨学金もらえるような成績、取れないもの」
「いや、可南女子ならたぶん問題なく取れる」
いわゆる女子の進学する私立高校のランク付けでは、底辺とされているあの可南女子高校。
校風なんてよくわからないが、噂によると自分の名前と生年月日が書ければそれで合格とも言われている学校だ。そんな学校において、水野五月がそのまま埋もれてしまうわけがない。信じたかった。たまに見かける、スカートずるずる、短めの上着に白いスカーフを短く縛った可南の女子高生たち。あんなタイプの女子がたむろう中にもし水野五月が現れたとしたら、まさに掃き溜めに鶴ではないのか? 他の誰がなんと言おうとも。
五月はじっと乙彦を見つめた。ゆっくり、こっくり、頷いた。
「ありがとう、関崎くん」
「え」
「今から学校に行くわ」
少し無理目に、それでもあどけない微笑みをたたえ、五月は乙彦にささやいた。
「明日、可南の入学オリエンテーションがあるの。何を用意していけばいいか、先生に確認してくるわ」
「あの、俺は」
「ありがとう。関崎くんのおかげで、最後まできちんとする気持ちになれました」
もう一度下を見つめ、自分に言い聞かせるかのように。
「関崎くん、青大附属って、本当にいい学校だと思うわ。私の会ったことある青大附属の人たち、みな、やさしい人たちばかりだったもの。一生懸命で、友だち、先輩、後輩、みんな大切にしている人ばかりだったわ。頭がいいからといって、威張る人なんて、いなかった。だから、きっと、うまくいくと思うわ」
なぜ、そんなことを口にするのだろう?
五月はまっすぐ顔をあげ、いつもの楚々としたはつかねずみのような表情で乙彦にはっきり言い切った。
「関崎くんには、青大附属のみんなが、心から迎えてくれると思うの。私、そう信じてるから。行ってきます」
背を向け、水鳥中学への通学路をそのまま歩いていく五月を乙彦は見守った。
──行ってきます、か。
同じ町内、おそらくしょっちゅうこれからも顔を合わせることが多いだろう。高校が別だとはいえ、繋がりが途絶えるわけではない。それは雅弘も同じはずだ。もう二度と会えなくなるわけでもない。だから、無理に今、変なことを口走る必要はないはずだ。
雅弘に別れを告げられたいきさつを、無理に聞き出す必要なんてない。
──俺が今、水野さんに何ができるか。
乙彦がこの瞬間、一番知りたいことを問う時期では、まだない。