高一・一学期 17
結城先輩は抱き枕からいったん降り、冷蔵庫からいちごと牛乳を取り出した。床に置きっぱなしだったミキサーをざっと水洗いし、スイッチを入れた。もちろんそれが何を意味するのかは乙彦にもわかる。ががが、と激しいミキシング音の後、どろどろのいちご牛乳の出来上がりとなるわけだ。
──ほんとに、飲むのかよ。
さらに取り出したるは、ビールジョッキ。中ジョッキとみた。
──あれ、二人分だろ?
乙彦の問いは発せられぬまま、一人分としてそのいちごミルクはなみなみと注がれた。
「さ、まずは一杯。かための杯ともいうな」
「いただきます」
約一リットル近く入っていると思われる。
「あの、砂糖は入ってませんか」
「入れなくても甘いはずだよ。温室栽培とはいえかなり熟れているからね」
そんなことを聞いたつもりではないのだが。
乙彦は覚悟して飲み干した。確かにそれは、さっぱりしていて、喉にするりと流れていった。想像していたよりも、美味しかった。
飲み乾すのを待たず、結城先輩はまた「日本少女宮」の抱き枕にまたがった。ぐい、とくちばしのように枕の先を持ち上げた。
「今は昔の物語だが、さて」
結城先輩の言葉は、いちごミルクから正反対のベクトル。
乙彦は口に残るいちごの繊維らしきものを舌でかき回し、聞き入った。
「僕はね、関崎くん」
語りかけながら枕の端をもみしだくのが、妙にいやらしい。
「いろいろあって部活動に参加できない身の上なんだな。決して心臓が悪くて野球やサッカーに命を賭けられないとかそういうわけではないが。とにかく青大附中に入学する前から僕は、決して部活動に参加してはならぬ、授業が終わったらまっすぐ家に帰り勉強すべしとのお達しを受けていたんだ。まあ、広い意味で言えば、君とほぼ変わらないね」
「はあ」
少し意外ではあるが、でも委員会にはこれだけ顔を出しているわけではないか。
「だがそんなつまらない中学時代なんぞ、僕は過ごしたくなかった。とにかく抜け穴を見つけねば、そういう発想でもって、僕は委員会活動に目をつけた。委員会といえばまずは、ある意味義務として放課後残ることが許されるし、部活動代わりとしていろいろと行事にも参加できるというものでありだ。それを思いついたのは中学入学直後。いやいや、僕の鋭い頭脳には驚くだろう?」
すごい抜け穴である。十二歳にしてそんなことを考えていたとは。乙彦は頷いた。あわてて「すごいです」と付け加えた。
満足げにまた、上に枕を反り返らせる結城先輩。しかもしっかり枕にまたがったままだ。古いギャグだが、白鳥の頭を股間につけた姿を連想しそうになる。
「だがいかんせん、僕が青大附中に入学した当時、委員会とは実に寂しい組織だった。前期、後期にわかれてはいるが、大抵ちょっと目立つ生徒かもしくは成績がそれなりにいい奴か。当然、毎回入れ替わるのもごくごく普通のこと。それなりに顔を合わせるけれども、そんな盛り上がりもない。ただの知り合いでしかない。これは、寂しいよな。寂しいよ」
「それがいわゆるふつうの、委員会活動ではないのでしょうか」
乙彦も、生徒会に立候補するまではそれが普通の委員会だと思っていたし、さほど驚きはない。
「部活動に参加してればねえ。でも与えられた環境でベストを尽くすしかないのもまた現実なり。さて、僕は考えた。ここで委員会という貴重なグループをもって、どうやって部活動と同じような盛り上がりをこしらえていくかとね。まずは同級生とお友だち、上級生にごますり、そのあたりを意識的に行った結果、なんと半年間で雰囲気が一気に変わったという、ミラクルマジック。僕はそんな変なことをしたつもりないけどね」
「変というより、変わったことをしたからそうなったのではないでしょうか」
思ったとおりのことを乙彦は答える。
「面白いねえ、関崎くん。そうだね、その通りかもしれないなあ。僕はただ、何をやりたいかを聞き出していっただけなんだけどねえ。イベントっぽいものをやりたい、仮装行列をやりたい、ビデオ演劇をやりたい、そういう声を拾い上げていって、先生たちにできるだけさりげなく『やりたいんですが』と声をかけただけなんだよ。そしたら、できちゃったと」
「あ、観たことあります。『忠臣蔵』」
「ほほお、それは驚きだ。なぜに」
「立村に、交流会の時、ビデオを見せてもらいました」
ぴょんぴょん結城先輩は、抱き枕の上で跳ねた。
「ほお、では僕の、吉良上野介も見たということだねえ」
「え?」
結城先輩は枕から降り、本棚から一冊、分厚いアルバムを取り出した。真四角で重たい、ダークグリーンの革張りだった。
「ほら、なかなか、いい男だろう?」
集団写真の一枚を指差した。つるつるした透明ビニールの下で、額に太く赤マジックで切り傷をつけた結城先輩の笑顔を見つけた。隣には緞帳を抱えてピースサインしている男子……黒い羽織だけでもうそれが大石内蔵助だとわかる……や、烏帽子に水色の着物と袴で無表情のまま座っている立村や……一度観たのでそれはすぐに判別つく……などなかなか面白いものが映っていた。
「すごいです」
「だろうだろう。僕が二年の絶頂期だった頃だね、これは。ビデオで細かく一場面ずつ撮っていくという『ビデオ演劇』といった代物なんだが実に奥が深くてね。舞台を借り切って演じるよりも、まずコストが掛からない。次に衣装代ももちよりですむ。僕のうちにビデオカメラがそれなりにあったので、それだけでいいという。撮り終えた場面はすべて、後日、放送委員に力を借りて給食時間、毎回流してもらうというのもなかなかだろう」
「それは」
おそらく乙彦たちが卒業後、現在生徒会長の内川が怪しい時代劇・ラジオ演劇の企画を練っていることだろう。あえて何も言えないでいる。
「話が早いなあ。先に行こう。つまり、僕のこれから語る主人公がこの、大石内蔵助を演じた奴なのだよ」
会ったことがあるような気がした。目を閉じて、一瞬思い出す。
「……覚えてます。本条先輩ですか」
「おや、『ほんさと』のことを覚えているのかい」
「一度だけですが、立村と一緒に会った記憶があります。交流会の最初の段階だったと思います」
当時、顧問の先生の仲介で交流会準備を行うこととなり、まず最初青大附属中学の生徒会室へと向かった時、立村と一緒に「現・評議委員長」として紹介されたのがその本条先輩だったはずだ。その後も立村の口から「本条先輩、本条先輩」となんども飛び出してきたのを乙彦は聞いていた。
「君も知っておろうが、青大附中の関係は縦社会でね、先輩と後輩との関係が実に密なんだ。決していじめたりリンチをしたりすることはないが、誰かひとり、一番尊敬できる先輩を見つけて教えを請うのがしきたりなんだ」
いわゆる「パシリ」というものか。中学時代のいやな記憶。
「基本として、すぐ下の代をひとり、仕込む。それが上級生としての義務でもあった」
「わかります」
俺も内川をそうするつもりだったんだが……と口にする間もなかった。
「僕のかばん持ちとしてこき使うつもりだったのがね、こいつは反対に先輩をパシリにしちまったのだよ。大笑いだろう?」
「それで、問題は」
笑えない問題だろうが。
「なかったよ。なかなか快感だった」
また結城先輩は抱き枕をもみもみしだした。なぜかわからぬが、胃が重たくなってくる。
すべて立村経由で聞いたことばかりなのでなんとも言えないが、その本条先輩という人は一学年上で、当時は敏腕の評議委員長として謳われていたと聞いている。また、立村が心酔している相手で、何かがあると「本条先輩だったらどうするかな」と呟いているのを何度か耳にしている。乙彦からするとそこまで思い入れる理由が理解できない。自分以外の第三者を含めた上でものごとを判断する、といった価値観が自分にはない。
おそらく青大附属特有の、結城先輩の言う「縦社会」が他の学校以上に強いのだろう。
ただ、自分が陸上部で経験したような厳しいしごきではなさそうだ。
人を見た目で判断するのは危険だが、結城先輩が後輩に対してうさぎ跳びをグラウンド十周という指示をするとは思えない。
「僕と『ほんさと』とは一年違いの先輩後輩だったわけだが、かなりガッツのある奴だったしまあいろいろ人生あるもんだ。けどね、もともと持っている目立ち根性がいい形で発揮されて、『ほんさと』は三年間充実した中学時代を送ったというわけなんだな」
「評議委員長ですから」
口に出してみたが、結城先輩はあまり話を聞いていないようだった。
「だが、ひとつ、僕はあいつに対して、間違った認識をもっていたようだった」
「間違っていたってどういうことですか」
礼儀として問い返す。
「とにかく押しの強い奴だったから、多少のことではめげないだろうとたかをくくっていたんだなあ。なにせ先輩に対しても平気で『これは絶対おかしいんじゃないっすか』とかなあ。いや、敬語なんて使うことあったか? とにかく言いたい放題だったあいつがだ。ある時期を境にころっと性格変わってしまったのだよ」
「そのきっかけは」
「わかるだろう?」
わかるようでわからない。結城先輩は説明してくれた。
「立村との出会いだったんだなあと、今ならわかる」
ちょっと待て。その本条先輩と立村とがよい上下関係を保っているのは知っている。
しかし結城先輩の口調だとそれはマイナス以外の何者でもないように聞こえるのだが。
「青大附中の評議委員長は三年終わりまで任期が続く。まあこれは僕が考えたことなんだけどね。部活代わりの活動だもの、ぎりぎりまでやってたいじゃないの。で、当然『ほんさと』にもそれを期待した。つうか、そういう形に定めた。その代わり二年に入った段階で自分の覚えたこと、まあ帝王学って奴ですか、それを注ぎ込んだ。あいつの方が残念ながら上だったんで、僕の三年目はあいつのかばん持ちになったが」
笑った。結城先輩も楽しげに頷いた。
「そのうち、あいつがいきなり次期評議委員長を立村にしたいと言い出したのだよ」
「それは当然じゃないですか」
「君もそう思うかね」
青大附中出身者の多くが立村に対して見せた表情と同じものを、結城先輩は浮かべた。顔を少ししかめるように、一瞬無表情となる。
「『ほんさと』と立村が一時期『ホモ疑惑』を囁かれていたのは有名だったが、まさか本気とは思わなかったのだよ。なにせあいつは女子との関係がお盛んで、今だに僕もあいつを越えられないというのがね、笑えるが」
笑えないと思うが黙っていた。
「立村には付き合っている女子がいるはずです」
絶対にそれは噂に過ぎないはずだ。結城先輩も頷いた。
「そうそう、あくまでも冗談、冗談。ただ、普通の上下関係よりは親密だったなあ。とにかくだ、あいつは立村を偉く気に入ったあげく、なんとしても自分のプライドにかけて評議委員長に育て上げたいと、まあこういったわけだ」
「実際、評議委員長になったはずです。前期だけですが」
口を挟むと、結城先輩は目を枕のプリント部分に落とした。乙彦がその視線の先を追うと、どうやら顔のあたりとなるらしい。
「『ほんさと』はねえ、必死だったのだよ。いやほんと。僕はもちろんのこと同期たちもみな反対した。現役評議委員長の頃から僕は立村を粒さに観察してきたつもりだが、どうも上に立つだけの器がないように思えてならなかったんだ。もちろん、真面目で熱心で先輩がたの言うことはよく聞く。人間関係も男子連中限定で考えればうまくいっていたようだしな。ただ、どうも、僕にはぴんとこなかったんだよ」
「どこがですか」
「あまりよい表現とは言えないが、人の顔色をうかがいながら胡麻を吸っているようにしかね、見えなかったわけなんだよ。自分の思うことを特に口にせず、いつも他の連中に合わせて目立たないように行動していて、なんとかして人に好かれようとするその、卑屈さがね」
ずいぶん厳しい言い方をする人である。立村に対してのみ、だ。
「もちろん、可愛い後輩だ。そんなことでいじめたりはしない。いろいろ事情もあったのだろうし、頷けなくもない。むしろそんな奴だからこそ、『ほんさと』がうまくかばってやって面倒みてやるのがいいのかもしれない、とは思っていた。性格が悪いわけじゃないからなあ。だがね、弟分と次期評議委員長とは別なはずだ。そこんところを分けて考えられる奴だと僕は『ほんさと』についてそう思っていたんだが、甘かったのだよ」
「弟分と、次期評議委員長」
繰り返してみる。結城先輩の言いたいことはなんとなくだがわかる。
乙彦にとって大親友の雅弘を、あえて生徒会役員に引きずり込まなかったのもその一点にある。もっとも一年下の内川を口説いた理由を問われると言い訳できないが。
「そうだよ。評議委員長としては、やはり上に立つだけの器が必要。目配り、気配りもさることながら、天性の明るさだねえ。ほら、『日本少女宮』の初代リーダーだったマコちゃん。彼女は歌もうまくないし、顔も正直、その辺の女子って感じだったんだけどね。ただ彼女が真中に立って玉ぐしを笑顔で振りかざした瞬間、どのステージでも空気が変わるんだ。どんなに親と大喧嘩した後でも、数学の赤点で留年しても、マコちゃんの一振りですべて忘れられる。そんな雰囲気だねえ。まあ野郎にそれを求めても気持ち悪いだけだがね。『いくぜ!』と一声かければ『いったろか!』と返事が返ってくるような、そんなキャラクターでなくてはならなかったんだよ」
「リーダーとは人それぞれ、異なる形があると」
言いかけると、結城先輩はきっぱりと首を振った。
「と、『ほんさと』も言い切った。あいつ曰く、自分のばりばり型リーダーとは違った形での評議委員長を、立村で見てみたかったらしいんだが、それはあくまでも言い訳だな。あいつはただ、立村を次期評議委員長に育てるという名目で、他の後輩たちとは一線を引きたかったらしい」
「他の後輩たちと一線ですか」
「そうなんだよ。僕も『ほんさと』を遠くから観察するようになってようやく理解した。あいつはね、本当は強がっていただけなんだってことをね。もし見る目のある後輩があいつに近づいてきたら最後、ガキっぽい顔を見られてしまう。それを恐れたんだな」
乙彦には全く理解できなかった。
「すみません。俺、全くわかりません」
きちんと伝えるのが礼儀だと思った。頭を下げた。
「まあまあ、わかるとこだけでよし。忘れてもよし」
やはり結城先輩は怒らなかった。
「とにかく『ほんさと』がそこまで言うのなら、ってことで傍観の立場を取ったわけなんだが。その結果、評議委員会は一気に崩壊の一路を辿り、生徒会に主権を握られ、最後にはごくごく普通のつまらん組織に格下げされたという、寂しい現実が目の当たりとなる」
「交流会は立村の発案です」
「もちろんそれはわかっとるがね」
さりげなく乙彦もフォローをいれてみるが遮られた。
「いろいろな事件が起こったがそれはまた別の時にしよう。僕も当事者でない以上正確な判断はできないがね。だがそれを責める気はない。立村は精一杯努力を重ねたし、もちろんすべてが失敗に終わったわけではない。立村の持つ器の範囲内では、上出来のはずだ。だがね」
言葉を切った。ずっともみもみしてた枕からも手を離した。少しだけ放心。
「今の君に理解しろとは言わないが、覚えていてほしいのだよ。世の中には、幸せになりたくない人種というのが存在するんだ。ラッキー!とか、やったぜ!とか、そういう言葉を発したとたん、『それはまずい、不幸にならんといけないぜ』と懸命に自分の立場を惨めにしようとするタイプの人間がね」
「そんな不毛な人間がいるんですか」
深く溜息をつき、結城先輩は頷いた。
「そう、不毛だよ。人生は楽しくなくちゃおもろうないというのが僕の人生訓だが、反対の考え方を持つ者も世の中にはいる。とにかく不幸でなくてはならない。苦労してこそ一人前。脳天気にへらへらしているなんて最低だ、そう思い込んでいる。それはそれで人それぞれ、責める気はないし、人生いろいろあればまた変わる。だが」
また言葉を切った。言うべきかどうかまよっているようだった。
「そのどん底にいる相手を無理やりひっぱりだそうとしたとてうまくいくものではないのだよ。なあ、関崎くん」
「つまり立村が、その不幸な人間なのでしょうか」
回りくどい言い方だが、核になる部分はそのあたりか。
「君はせっかちだねえ。まあいいよ。そうだからね」
結城先輩はあっさり認めた。
「だったら、悩んでいる時に手を差し伸べるのは、先輩としても友だちとしても当然のことではないでしょうか」
「いや、それは違うよ」
またきっぱりと、結城先輩は首を振った。
「もちろん手助けするのはよいことだ。よいことなんだがその場合には条件があってね、自分がその相手の持つ闇の部分に引きずりこまれないようにすることが大切なんだ。同じ立場に立つのではなくてね。手を出してあれやこれやするんじゃなくてだ。そっと見守る、立ち上がるまで見守る。それに徹した方がお互いのためなんだ」
「でもそれは無責任ではないですか?」
具体例がないから自分でもうまく掴み取れない。だが、結城先輩の言うことは、自分が安全な場所に立って人を助けろということのようだ。それと立村の評議委員長指名の件とどうつながるのかぴんとこないが、言うしかない。
「自分だけ安全なところにいて、白々しい建前ばかりしゃべって、それで相手がどん底に落っこちていくのを見守るだけというのは、やはり変です。ていうか、人間として、最低ではないですか」
「『ほんさと』もそう言い返してきたね」
驚きもせず、結城先輩は乙彦に語りかけた。
「自分なら、どつぼにはまった立村を救ってやれるとヒロイックなことを考えていたのだろうよ。あいつはそういう奴だ。自分が身体を張って守ればなんとかなるとね。だが、立村の持つ独特の陰気さは、どうやら『ほんさと』を引きずり込んでしまったらしい。どんなに救おうとしても、自分から立ち上がろうとしない限り、どうしようもないのだよ。ただ待つしかない」
「相手が死にそうになっててもですか!」
飲み乾したジョッキを膝で倒していた。こぼれてはいない。思わず叫んで、その勢いだった。
「仮に自殺したら誰が責任取るんですか! たったひとりにしちまって、遠くで様子見してて、気がついたらいなくなってたら、見殺しにしたのは俺たちだと思います」
「厳しい言い方だけどね、他人のせいにはできないんだよ」
また結城先輩は、厳しい声で答えた。
「ヒントを与えることはできる。たとえば僕のように、さりげなく『日本少女宮』のサイン入り生写真を分けてやったり、いちごミルクをおごってやったりとかね。だが、最終的に立ち上がるのは立村本人の意思だ。もしあいつが無理に立ち上がることを望んでいないのならば、僕たちはただ見守るしかないのだよ。もしくは引きずりあげるだけの力を身につけるか。それは決して、たやすいことじゃあないと思うよ」
結城先輩に乙彦は詰め寄った。すいと枕の後方に下がった結城先輩に、乙彦は枕の先頭、顔真中に座り込み問い詰めた。
「じゃあ、俺がもし、立村のような奴を太陽の下に引っ張り出すことが可能だったら、無理に無視する必要もないってことですか」
「無視とは言っていない。自分がマイナス思考に引きずられないだけの距離を保てというだけだよ、関崎くん。悪いがもう少し、枕の位置をずらしてくれないかな。顔に、あの、そのふとももがねえ、くっつくのはねえ」
そんなの無視して、乙彦は膝詰めしさらに続けた。枕にプリントされた「日本少女宮」少女の顔を膝で挟みつけるかっこうになる。
「あの本条里希ですら、卒業後は立村の影響から逃れることができなかった。青大附属で、評議委員会で、またまた恋愛沙汰。僕の見る限り立村は本当に恵まれていたんだ。でも、立村はそれをそのまんま、受け入れることができない子だったんだよ。『ほんさと』が僕たちの反対を押し切って評議委員長にした段階で、せめてそれをありがたく頂けばまだここまで地獄を見ることはなかっただろうよ。清坂と付き合った段階で別の迷惑女子に目を向けることさえしなければ。だが、立村は自分が与えられたラッキーを素直に受け入れることができず、それに付き合わされた『ほんさと』も結局は、マイナスの考え方しかできなくなっていってしまったというわけなんだよ。ほんと、これは話すと長くなることだが」
「それはその先輩の自業自得では」
「違う『ほんさと』は、もっと楽に、高校生活を楽しんでいいはずだった。無理に公立を選ばなくてもよかったんだよ。楽に、そう楽な道を選んでもよかったはずだったんだ!」
なぜそこまで激しく訴えるのか。その差に戸惑いつつも乙彦は答えた。
「あえて苦労をしようとするその姿勢を責められるべきではないと思います!」
何かを口に出そうとし、結城先輩は眼鏡を外した。
眼鏡の枠で隠されていた細い眼差し。悲しげに見えた。
「おやおや、僕もついつい喋りすぎてしまったようだね」
いきなり目が三日月型にとろりとまるまった。
「関崎くん、おじいさんの昔話ってのは、眠くなるものと決まっておる。まあやりたいようにやってみるのもよかろうぞ。僕も一度しくじったことは二度と繰り返さない主義の持ち主でね。たぶん、なんとか、なるでしょうぞ」
LPレコードをかけたままのプレーヤーが、針をじりじりさせて空回りしている。結城先輩は針を上げ、レコードを両手で丁寧にひっくり返した。
「藤沖もなんか文句を言うかもしれんが、立村のことについては、君のやりたいようにやればいい。ただあまりにも目にあまる場合は、失礼ながらひっぱりあげてぶん殴らせていただくことになるかもしれないが、まあそれはその時。そうよの。僕もまだまだ若者よ、説教じじいになるにはまだ早い」
──十分説教じじい化しているような気がするけどな。
乙彦は黙って抱き枕から降りた。振り返り絶句した。
「もう一杯、さあ、出来たてを飲んでいきなさい」
結城先輩の手作りいちごミルクが、新しいジョッキになみなみと注がれていた。




