高一・一学期 15
乙彦は窓から降りた。ひとり高いところで座っていても、足が地に付いていない以上正しい判断がしかねたからだった。自分の舞い上がりやすい性格も、ちょっとおだてられるとすぐその気になってしまういいかげんさも、周囲からさんざん指摘されてきていた。認めたくないが事実だ。中学の欠点を持ち込みたくはない。
「藤沖、ひとつ聞きたい」
頭の中でまずは、きちんと聞くべきことを整理した。深呼吸を二回。見えないように行い、乙彦は片手を握り締めた。
「なんで、うちのクラスに元・評議委員長がいるというのに、無視をするんだ」
理由はある程度把握しているつもりではいるけれども、いつも曖昧にはぐらかされてしまう。どうもそれは落ち着かなかった。
「藤沖が立村を軽蔑したい気持ちはわからなくもない。だが、いきなり全く何もわからない外部生の俺に、次期評議委員といった重大任務を任せたがるのには疑問がある」
藤沖の口調を少し真似してみた。
「そうじゃないのか?」
「お前を高く評価したからだろう、それとなぜあいつとなんの関係があるんだ?」
何度か同じ質問を投げかけたことがあるような気がするが、いつも藤沖本人からははぐらかされるかもしくは拒絶されるかのどちらかだった。だが、乙彦からしたら、
──そこまでかたくなに拘るお前の方が変なんじゃないか?
そう思わずにはいられない。
「もし俺が藤沖の立場だとしたらだ。いきなり入学したての外部生に半年後の話など、まだしないと考えるからだ」
「だから何度も言うだろうが」
「俺の能力を見極めたというが、まだ一週間しか経っていないのに人間性を決め付けることができるのか? 仮に俺が、立村の時のように裏切る結果となる可能性もないわけではないだろう」
もちろん、隠し立てなどするつもりはない。だが藤沖の考えでいくとちょっとしたことで乙彦もあっさりと最低評価を下される可能性だってある。
「それはない。俺の目は正しい」
藤沖は肩を何度も揺らすようにして否定した。
「俺はもともと人間を見る目がある方だ。能力のある奴は男女関係なく評価する。またそうでなくては青大附中の生徒会長などやってこれなかった。その俺が関崎、お前を高く評価した、だからという話では終わらないのか?」
「藤沖、俺が水鳥中学時代何をしてきたかを知らずにそれを言い張るのは間違っている。もちろん後ろ暗いことなど何もしていないし、調べられても困らないつもりではいるが、それでもいきなり短期間で人間性を決め付けるのはおかしいぞ」
口にすると突然息が詰まる。身体の中から「ふざけるな」と駄目押しされているみたいだ。重ねて藤沖もまた追求してくる。
「俺が間違っているというのか? 自分に自信がないなどとふざけたこと言うんじゃないだろうな」
「もちろんそれはない」
──ないが……。
うまく言えなかった。藤沖がなぜここまで激しく訴えようとするのか、乙彦の脳内では分析不可能だった。分析なんてしない。乙彦なりの代行案を述べる。
「俺の人格うんぬんはどうだっていい。だが俺がもし藤沖の立場だとしたら、少なくとも現段階で次期評議委員を選ぶなどといったことはしない。俺も元生徒会副会長だ。そのあたりはよくわかっている」
元・生徒会長、元・生徒会副会長。「副」のつく差でまた心がじりじり音をさせる。
乙彦は一度、言葉を切った。
「後期委員の選出はいつぐらいの予定だ」
「九月から十月にかけてだろう」
「生徒会役員改選前だな」
突然、藤沖がはっと、乙彦の眼を睨み据えた。
「お前、まさか」
──なんだなんだ?
全く思っても見ない言葉で、話は思いっきり直角に折れ曲がった。
「生徒会を、狙っているのか?」
──なんでそちらの話に持っていくんだ?
初対面では気がつかなかったがこの、藤沖勲という男、実は結構おっちょこちょいなのかもしれない。いかつい面とは正反対に、うっかり野郎なのか。それとも隠れ妄想野郎なのか? 乙彦はもう一度藤沖の顔を黙って見つめた。肯定のつもりではないけれども、早合点男らしき藤沖はいきなり頷いた。どうやら乙彦の判断は、間違っていないようだった。
「そうか……生徒会役員狙いだったか……」
藤沖も黙ってくれたので、乙彦なりにまた、作戦タイムを取ることができた。
今まであちらこちらで得た「青大附属極秘情報」をつなげてみると、入学前から藤沖が乙彦に積極的な接近を試みた理由が窺い知れた。
──応援団結成のために、俺を利用しようとしたというのか?
しかし、それはあえて否定したかった。乙彦の辞書に「友だちを利用する」といった例文は存在しないし、そういう奴とはまず最初から付き合っていないはずだ。そこまで自分の友人鑑識眼は狂っていないはずだ。
はあっ、っと息を吐いて肩を落とす藤沖を眺めつつ、乙彦は頭の中を整理した。
こいつに限って、利用なんて姑息な真似をするわけがない。応援団を本気で結成したかったのだろう。気持ちはわからなくもない。乙彦も水鳥中学時代、周囲からはピエロ扱いされつつも精一杯の努力でもって、学校祭の先生VS生徒座談会を企画したではないか。いろいろ物笑いにされたけれども、あの時燃やした真っ赤な炎は消えてはいない。
もし藤沖の胸奥に、あの学校祭フォークダンスと同じような紅炎が燃えていたとするならば、乙彦は決してそれを非難できない。炎を絶やさぬよう薪をくべる手伝いをするに違いない。乙彦の信じる自分が正しければ、それを受け入れたいと思う。
いや、受け入れなくては。自分が友だちを選ぶ上での判断を、否定することはできない。
──知らないところで手を回されていたというのはむかつくが、気持ちはわかる。だが、今、この時期になぜいきなり、そんなことを言う必要があるのか? 藤沖もまだ、やるべきことがあるだろう? 二十一人しかいないとはいえ、英語科をこれからどうやってまとめるとか、それに。
ひとりですっと姿を消した、五時間目後の立村の姿を思い浮かべた。
片手に一年クラス委員一覧の綴られた紙を持ち、手渡していったあの様子。
──やはり、あれはまずいだろう? いくら藤沖が納得いかないとしても、立村をあのまま孤立させて、いろんな行事……そうだ、まずは宿泊研修がある、そのあたりを行っていいのかとか、麻生先生のどう考えてもあれはまずいと思われる言動とか。あれこそ一学期のうちに片をつけねばならない問題じゃあないのか?
いかなる理由があろうとも、仲間外れを出すのは人間として絶対に許してはならない行為だ。藤沖には個人的感情をまず差し置いて、クラスの空気をよりよくするための義務があるはずだ。乙彦が評議委員だとしたら、まず、それから手をつける。
まずはそれからだろう?
勘違い野郎の藤沖に、それを訂正するのは、今は止めておく。
まず奴が、何を考えているのかを確認したい。
「関崎、悪かった。確かにお前が生徒会へ立候補するつもりならば、俺の提案は早とちりだった」
──今でも十分早とちりだと思うが。
しばらく無言だった藤沖だが、頭をかきながら無骨な顔をゆるませた。どうやら落胆はしたものの怒ってはいないらしい。
「確かにお前は水鳥中学の副会長だ。そう考えるべきところだった。外部生であろうとも書記もしくは会計だったら一年の段階で出られるはずだしな。悪かった、悪かった」
「いや、謝られてもこちらが困る」
──そんなこと全然考えてないってのに。
乙彦の心声を一切気付かず藤沖は思い込みロードを突っ走る。気持ちを落ち着けたのかどうなのか知らぬが、
「ただ、それなら、お前は今すぐ、会っておくべき人がいる」
「いや、それは別に急ぐことでもないだろう」
「いやいや、今日関崎は補習がないのだろ?」
言われてみるとその通りである。頷いた。
「明日は補習だろ?」
同じく頷く。
「ならば、すぐに行くべきだ!」
力が入った。藤沖は再び乙彦の肩を叩いた。
「お前、確かオリエンテーションの朝、結城先輩と話をしたと言ってたな」
肩の皮を摘まんばかりに握り締めるのはやめてほしい。やめろという前に事実を挙げられ答えるのが先。ゆえに「離せ、痛い」を伝えるタイミングがずれる。
「話はした。名刺ももらった」
「評議委員会の時も結城先輩はお前についていろいろ聞いてきたしなあ」
ひとり納得顔で斜め下を見つめやり、
「どちらにしても、俺を通せば結城先輩はすぐに会ってくれるはずだ。来い、すぐ行こう」
「いやいきなりというのは失礼じゃないのか?」
話をしたといっても、たかが一度だけなのにずいぶん藤沖は性急である。急ぎの用事なのか? それが? 何よりも先輩に対していきなりこちらから決め付けるような行動は避けたほうがいいのではないのか? 先輩というものが、理不尽でかつ非常識なものとして刷り込まれているのだろうか。自分でも驚くくらい強い抵抗が粘ついている。藤沖は当然、何も気付かない。
「いいか関崎、お前はまだ青大附属の校風を知らないから驚くだろうが、上級生の大半は下級生に対して紳士として接することを心得ているんだ。これは将来俺たちも同じ振る舞いをせざるを得ないが、少なくとも今までいわゆるしごきを受けた経験はない。上級生がらみのトラブルも生徒会内では全く経験ない。むしろ面倒なのは下級生だがそれはどうでもいい。とにかく、お前は俺の言うことを素直に聞いて、結城先輩と一度話をすべきだ」
「断る、それは」
「いいから、ここに座ってろ!」
突然、藤沖の全腕力が乙彦の両肩にすじりとのしかかった。
今まで「同級生」でしかなかったはずの藤沖に、何かが乗り移ったかのように。尻に触れた椅子。そのまま押し付けられた。有無を言わせずとはこのことか。
「おい、お前何をする」
怒鳴りたいのに力が入らない。藤沖の目つきが違う。口の端がかすかに上がっているので笑っていることはわかるのだが、それ以上に乙彦の知る、炎らしきものが浮かんでいた。
二年前見たあの学校祭、フォークダンスの紅炎が、映っていた。
「いいか、今から俺は結城先輩に連絡を取る。それまでここにいろ。動くなよ」
太陽の周りをゆらゆらしながら覆っているあの紅炎に乙彦は完全にやけどを負わされていた。そうでなければいくらなんでも、素直にこっくりと頷いてしまうなんてこと、ないはずだ。あの水鳥中学生徒会副会長・別名「単細胞のシーラカンス馬鹿」と蔑まれた乙彦が、自分よりはるかに堅物で勘違い野郎の藤沖の言うなりとは、誰も思わないに違いないから。
──なぜ、言い返せないんだ、俺は!
藤沖はもう一度振り返り、指差して命令した。
「いいな、待ってろ、動くなよ!」
藤沖が去った後、乙彦は立ち上がり両腕をぐるぐる回した。叩かれつづけた肩がこわばっている。完全に身体がコントロールを失っている。藤沖がいる間感じていた奇妙な圧迫感が少しずつ抜けていく。同時に窓辺から淡い夕陽がゆらいですべりこむのが見えた。
──俺は何をやってるんだいったい。
この学校に入って以来、自分が自分でなくなっているような気がする。
経済的な差があるとか、価値観の違いとか、そういうものでは片付けられない何かがある。
もちろん、憧れて入った学校だ。まだ夢見がちにい判断しているところもないわけではないし、それ以上にまぶしすぎて目を細めているだけなのかもしれない。これからゆっくりと慣れていけばいいと安易に思っていたが、流れる窓辺の景色は自分の想像以上にめまぐるしく変わっていっている。乙彦の知らないところで勝手に物語が紡ぎ出され、いつのまにかその登場人物として作者たる藤沖の筆で押さえつけられている。
──これが、俺の高校生活なのか?
藤沖の炎がもし、自分のかつて燃やしていた情熱と一緒ならばそれを否定することはできない。しかし、一緒にその紅炎にあぶられた奴の気持ちはどうなるのだろう? 一緒に燃え滾ればそれでいいのだが、まだ身体に油が染み込んでいない中でいきなりの点火、それはないだろう?
──なんであいつは俺を弟分扱いしようとするんだ?
決して望んでいた扱いではない。なのに、藤沖の手でしっかとコントロールされてしまっているひ弱な自分が、教室でぽかんとアホ面しているわけだ。しかも、反抗もできない。こんな自分が果たして、かつての関崎乙彦だったのか。認めたくない。
──こんな生活を、俺は求めていたのか?
椅子と机を一緒に蹴った。もちろん手加減はした。こぶしで思いっきり殴ったのは机だけ。指が痛いだけだった。ばかばかしい。
──仮に藤沖が後期評議委員を降りるとしたら。
乙彦はすぐに答えを導きだした。これしかない。普通ならまず、これしかないはずだ。
──問題がなければすぐに元・評議委員長だった立村にお鉢が回ってくるはずだ。
来ならば、それが自然だろう。しかし誰もそれを言い出そうとしない。
もちろん他の連中が乙彦の力を見込んで絶対多数で選んでもらえるのならば、その時は喜んで立つ。だがその際はかならず、
──規律委員に立村を押し込むに決まってるだろう。
空いた男子規律委員のポストを、藤沖は誰で埋めようとしたのだろう。今までの話だと絶対に立村が入ることはありえない。だが、もしも乙彦が評議におさまったとしたら……。
突如、むくむく湧き出す炎が腹の底から湧いた。
思わず仁王立ちした。
全身がすっくと、真っ直ぐな一本の炎として、しっかと立った。
知らず知らずのうちに足を踏ん張っていた。
──そうか!
この感覚、思い出した。
そうだ、二年前の水鳥中学生徒会にて感じたこのひらめき。
頭で考えることしか知らなかった乙彦が初めて知った、稲妻のひらめきだ。
あの時、なぜ当時一年坊主だった内川を生徒会長に立候補させるという名案が浮かんだのだろう? 普段の乙彦なら絶対に思いつかない案のはずだ。たかが陸上部の後輩で、のほほんとしたよわっちい男子を、なぜ乙彦は会長として「育てよう」などと思ったのだろう?
理屈では繋がらなかったあの発想。唯一、総田をぎゃふんと言わせたあの案を思いついた時と、感覚は一緒だった。
──藤沖の案を呑み、俺が次期評議委員になれば、自然と規律のポストが空く。
──そうすれば俺の推薦という手でもって、藤沖に文句を言わせず立村を規律委員に押し込むことができる。女子がなんと言おうと、俺は評議委員だ。青大附属のクラスにおいてトップの地位の人間となる。そうすれば、立村の立場はもっとよくなる。俺の力で。
藤沖が評議委員である以上、今の立村はいろいろ気を遣いあのまま目立たぬ格好でいるだろう。それが本人の望みならば仕方がないとも言えるが、乙彦は知っている、あいつがあれで終わるような男じゃないことを。青大附属上がりで最も多く顔を合わせてきたのは立村の人間性にいやみなものを感じなかったからだ。藤沖に対して感じたのと同じく、乙彦は自分の人間目利きを自覚している。決して、間違ってはいない。このままで終わらせてはまずい男だと、乙彦は理屈と直感両方で判断している。
何があったのか、所詮誰から聞いても本当のところはわからない。
乙彦は、自分の培った判断を、そのまま選ぶだけだ。
──それは、決して、間違っていない。
根拠のない自信は、ある。
窓辺でもう一度流れ込む夕陽を見上げた。雲が思ったよりも早く横に進んでいく。四月は暮れるのもまだまだ早い。冬空気が若干残っている、その冷ややかさを乙彦は吸い込んだ。身体が震え、咳き込んだ。ブレザーの奥にかいた汗が冷たく凍ったようだった。
──中学の時と同じ過ちはもう犯さない。
待つ。乙彦は言い聞かせた。
「関崎、待たせた。いたか、いたか」
「待ってろと言ったのはお前だろう?」
文句を言うだけの余裕が生まれたようだった。藤沖が教室に戻ってきたのは十分後だった。夕陽交じりの冷たい空気は身体に染み渡り、藤沖へのわけわからぬ苛立ちも冷えていた。
「結城先輩だが」
藤沖はまた肩をぼかぼか叩いた。
「今すぐ来いとの御沙汰だ」
「今すぐ、って本当か?」
「そうだ、今すぐだ。来い」
「ちょっと待て、どこへ行く?」
行くもなにも、藤沖がまた強引に腕を取り教室からひっぱり出そうとするのに反抗する。藤沖も立ち止まり、奴にしては早口に続けた。
「これから結城先輩の家まで案内する。どうやら結城先輩は関崎と話をしたいらしい。先ほどの話も伝えてある。意志があるにせよないにせよ、一度先輩の部屋まで連れて来いとのことだ」
「先輩の部屋とは」
自宅に行けというのか? 足をつっぱるとさらに藤沖が腕を引いた。
「いいか。先輩の言うことはみな絶対なんだ。特に結城先輩は、青大附高における最大のキーマンだ。この人を通せば大抵のことはうまくいく。特に関崎、お前は早い段階で結城先輩に一目置かれている。これはすごいことだ。とにかく来い。俺の言うことを聞け」
「バスか」
「チャリだ。だいたい二十分くらい漕げば着く」
命令口調も、勝手に決められたレールも、今の乙彦には怖くなかった。
──俺には俺の、考えがある。
短絡的な発想でしでかした古本屋でのしくじりを、糧にしない乙彦ではない。かっとなりわめきちらし、勘違いしてすっとぶガキではない。あの冷たい空気と流れる夕陽を見つめた後、乙彦の中で何かが切り替わった。いささかはしゃぎがちの藤沖に乙彦は、今日一日従うことにした。
──まずは、後期評議委員になってから、どう動けばいいかを考えよう。
乙彦は一年A組次期男子評議委員の打診を、自分ひとりで受け入れた。