高一・一学期 9
バイトが終わってからの補習も、とりあえずは今日で一段落する。八時半から授業が始まり、とりあえずは昼間で終わる。その後はみな、挨拶だけして教室を出るといった流れである。
てっきり教室に固めて授業を行うのかと思っていたのだが、
──これってほとんど、個人授業みたいなもんだな。
一年A組の教室に、ごちゃっと一年生の何人かが集められ、そこから呼び出されていろいろな場所で指導を受けるといったスタイルだった。乙彦の場合は英語科ということもあり、概ねが麻生先生対応だったけれども、他の普通科クラスの場合は数人まとめて図書室での授業とか、職員室へ連れて行かれるとか、そういう形が多いようだった。
一週間以上も通っていると、顔と名前は一致してくる。
また、中には外部生以外にも、内部進学生も混じっているらしかった。
「名倉、今日はこれで終わりなのか」
普通科の外部入学者のひとり、名倉時也に声をかけた。女子が概ねの外部入学者において、数少ない男子入学者が名倉だった。二十人くらいいる普通科入学者の中で男子は十名いるかいないかだろうか。話を聞いた限りだとみな、外部生は四クラスにすべて振り分けられているという。
「ああ。これで帰る」
「次は入学式だな」
名倉は厚い胸板を少しそらせるようにして頷いた。あまりしゃべらない男だが、二、三、質問を投げかけているうちに気心がなんとなく知れた。特にプライベートの話をするでもないのだが、あまりちゃらついたことは好きでなさそうなところに好感が持てた。居眠りを必死に堪えてほっぺたをつねっている授業中の姿に、乙彦は惚れた。
「そうか」
すっかり忘れていたかのように名倉は呟いた。咳き込みながら鼻をすすった。あわててポケットからティッシュを取り出し、乱暴に鼻を拭った。
「確かB組に入るんだな」
「そうだ」
短く答える名倉に、乙彦はなんとなく問い掛けた。ノートと補習用プリント、また入学式際提出予定の宿題ノートをまとめて鞄に押し込んだ。
「外部の奴はクラスでひとりかふたりか」
「いないわけではないが、よくわからん」
どうやら名倉も乙彦と同じく、女子とあまり関わりを持ちたくないタイプの奴らしい。乙彦の記憶している限り、確かB組には外部入学者があと五名ほど入るらしいと聞いている。男子は名倉ひとりだけのはずだった。たまたま乙彦は自己紹介のチャンスを与えてもらったということや立村と付き合いがあったこともあって、ふたりの女子と会話するはめになったけれども。おそらく名倉はこの学校にさほど馴染みがないのだろう。
「知り合いがいないから、一から構築していくのは大変だな」
乙彦はひとりごちながら、教室を出て行く他の連中に手を挙げて挨拶代わりにした。女子たちも乙彦を無視したいとは思っていないようで「おはよう、おつかれさま」くらいは言ってくれる。だが、名倉はどうもそのあたりの挨拶になれていない様子だった。
「いないわけじゃないが、それも面倒だ」
ぼそっと名倉は呟いた。
「知り合い、いるのか?」
「いる」
短く答えると名倉も荷物を鞄に詰め始めた。
「いるが、話をそれほどしたい相手ではない」
「そうか」
要するに友だちではないということだ。そういうのはよくあることだ。
「中学時代の知り合いとか、そんな感じか」
「ともいえるし、違うとも言う」
歯にものの挟まった言い方をする。
「そうか、それは大変だ」
人それぞれ事情があるのだろうう。それは乙彦の知ったことではない。しかし、大変だという共感のみする。
「関崎はこの学校に友だちが、いるか」
どうも名倉の口調は、不自然に途切れがある。補習が始まった当初から気になってはいた。
「いる」
広義で言えばオリエンテーションで出会ったばかりの藤沖も対象となるだろうし、厳密に言えば立村は一年以上の付き合いである。だからそう答えた。
「そうか」
「だが女子たちのように無理やり親友作りをする必要はない」
「もっともだ」
乙彦の断言口調に我が意を得たりと思ったのか、名倉は大きく頷いた。教室を出て、しばらく黙ったまま歩いた。雅弘のようになにかかしらぺらぺら「おとひっちゃん、あのさあ」とか喋りつづける奴はそういないが、それでもまたよしと思う。男とはそういうもの。女子とは違う。
「ところで、聞きたいが」
また奇妙な口調で名倉は顔を乙彦へと向けた。それまでは真正面を向いていたのに、いきなり身体を傾けるようにした。
「なんだ」
「英語科を選んだのはなんでだ」
「たいしたことじゃないが」
いきなり問われても困る。一応、乙彦はオール5の成績だったこともあり、とりたててどこに進みたいとも思わず、なんとなく選んだというのが本当のところだ。もっとも、語学も嫌いではないし、むしろ英語を完璧に使いこなせるようになれば、大学進学にもプラスになるだろうと考えたからだった。今のところ、そのくらいか。
「特に、何になりたいとか、そういう目標はないんだな」
とぎらせつつ名倉は呟いた。
「これから探していくための三年間だと俺は思う」
「そうか」
「名倉は、あえて普通科を選んだのか」
また正面に目を据え、名倉は頷いた。
「医学部に進むには、理科、数学、この二科目を勉強しないとまずい」
「医学部って、お前、医者になるのか?」
思わず問い返してしまった。しかも、全く戸惑うことなく頷き返す名倉にも仰天した。正直、名倉のような妙な雰囲気をもつ医者にかかる勇気が、今のところ乙彦にはない。悪い病気見逃されそうじゃないか。ぼーっとしているようにみえるから。適性適所の問題じゃないだろうか。もちろん思いついただけでまだ口には出さなかった。
「うちは金がないから、医学部の専門高校には進めない」
いきなり名倉は、またわけのわからないことを言い出した。医学部の専門高校とはなんなのかもわからない。第一、青潟にあるのだろうか?
「だが、青大附属ならなんとか入ることができる」
──おい、青大附属の月謝と入学金ならたいしたことないとでも言いたいのか?
バイト料一ヶ月三万円を月謝に振りむける予定の乙彦には聞き捨てならない発言でもある。
「理系を目指せば、医学部は受けられる。歯科医でもいい」
「おい、でもなんで」
生徒玄関に出て、すのこで靴を履き替えながら、名倉はわけのわからぬ顔で、きっぱり断言した。
「医者になれば、医者の嫁さんをもらえると聞いた」
──医者の嫁さん?
名倉の言葉をそれ以上深追いせず、乙彦は校門で分かれた。いや、まったく理解できない。一週間同じ教室で、暇な時に話をした程度ではあるが、あの朴訥でぼんやりした雰囲気の名倉が、すでに進路を定めているとは。しかも、どう考えても信じがたい「医者」を目指しているとは。もちろんそれにはそれなりの事情があるのだろうが、
──医者になれば、医者の嫁さんをもらえるからか?
まったく持って、理解不能である。しかも、青大附属程度なら学費はまかなえるけれども、世の中にはさらに医学部専門で勉強する高校があるらしいとも言う。これもまた、乙彦には理解しがたいことのひとつだった。
──よくわからない。
とはいえ、名倉は決してむかつくタイプの男子ではなかった。
ぼんやり話を聞いていて、鼻を時折ティッシュでかんだりしているせいか、女子たちからの覚えはお世辞にもいとはいえないようだが。男子として付き合う分には、これからいろいろ話をしてみたい奴でもある。なによりも高校入学の段階で、やりたいことが決まっているのは素直に尊敬できるではないか。
──俺も、この三年間で、探し出さねばならない。
改めて乙彦は、まだ雪の残る水色の山々を眺めた。足元だけじゃない。月謝のことだけじゃない。もっと、先を見据える必要が、あるはずだ。
この日はもうひとり、会う約束をしている奴がいた。
補習最終日の昼間、大学校舎の学食で待ち合わせることになっていた。
行き方は間違えない。さっそく乙彦は鞄を握り直し向かうことにした。
なんでも、大学の教授に呼ばれていると聞いている。名倉といい、そいつといい、全く乙彦の知らない世界を知っている奴らばっかりだ。
そいつはすでに、人の少ない学食前にて、文庫本らしきものを開き壁にもたれていた。
乙彦はすぐに、駆け寄った。
「立村、遅くなり悪かった」
顔を挙げ、立村ははにかむような笑顔を向けた。少し遠慮がちに見えた。
「いや、俺の方が早すぎたからさ。それはそうと、どこかで食べようか。なにか買っていくか」
「パンとかそういうもんがあればそれでいい」
納得顔で立村も頷いた。何度か立村とは学外で会い、その際も缶ジュースとコロッケの買い食いに止めていた。青大附属の連中とは補習期間中何度か食事をする機会があった。親にも「おとひっちゃん、あんまり貧乏くさいことしなさんな」とたしなめられていたこともありそれなりに付き合ったが、定食三百円なんて高いものを毎日食うほどの余裕はなかった。
「それならさ、俺の知り合いの店で、ただで食べさせてくれるところがあるんだけどさ。あんみつとかそういった甘いものしかないけど、それでよかったらそこいくか」
「あんみつ?」
腹はすいている。もちろんあんみつで満たされるとは思えない。さらに言うなら立村のおごりというのもひっかかる。いくら経済状況が乙彦より恵まれているとはいえ、同じ十五歳の財布事情、わからなくもない。立村は首を振りながら、少しずつ学食から離れて歩き出した。
「いや、そういうわけじゃなくてさ。親の繋がりで、いつもただで食べさせてくれる店が学校の裏にあるんだ。そこでよく、俺も友だちと話する時、食べるから特に問題ない」
「でもな、そういうものはやはりきちんと支払わないと」
「俺も払ったことないよ、その店では。それに」
言葉を切って、ちらっと上目遣いに立村は呟いた。
「少し関崎にも話しておきたいことがあるからさ。学内だといろいろさしさわりがあるしさ」
──要はそのあたりか。
前から気になっていたけれども、忘れていたことがいくつか思い出される。
あまりべたべたこっそりというのは乙彦の流儀に反するが、今回に限っては立村とじっくり話すのも悪くはあるまい。
「わかった。じゃあ、今回はごちそうになる。ありがとう」
少しほっとした風に、立村の肩が静かに動いた。
前から気にはなっていた。なぜ、立村が英語科で少しずつ浮いた存在だったのかを。
古川こずえからある程度の事情は聞いていたし、さらに藤沖との不自然な態度などもいろいろと考えさせられるものがあったから。
しかし、立村本人が取り立てて言い訳をしない以上、周囲が一方的に言い募っている内容を鵜呑みにするわけにはいかなかった。特に、今後のことを考えるとするならば。
──女子のように誰が好きとか嫌いとかそういう問題は抜きにしても。
──同じクラスである以上、妙ないじめとかそういう流れに与するのは抵抗がある。
連れていかれたのは、学校裏の林を抜けたつきあたり道の側にある「おちうど」という小さな喫茶店だった。喫茶店、というのは語弊があるかもしれない。見た目はいかにも明治・大正あたりの和洋折衷建物といった感じの、お嬢さま雰囲気。どう考えても乙彦がひとりで足を踏み入れたくなるものではない。また「おちうど」という言葉自体も、習字のくずし字のような感じなので、読める奴読めない奴、それぞれいるんじゃないかとも思う。
「本当に入っていいのか。それに、本当に」
ただで食べられるなんて、そう聞きたかった。ぼったくられそうな予感がした。
立村はまたはにかむような笑みをうかべて首を振った。
「小学校くらいの頃から、手伝いすることが多くてさ。その関係で、バイト料代わりにただで食べさせてもらっているんだ」
「バイト料か」
「親の関係でなんだけどさ」
それ以上は説明せず、立村が引き戸を開けた。最初に猫の通り道程度にあけ、次にそろそろと開く。なんというか、礼儀正しいのは悪くないのだろうが、立村がやるとどうも弱々しく見えてしまう。腰をかがめて入る必要もないのに、そうしないと怒鳴られそう。立村の後について、乙彦も続いた。
「いらっしゃあい、あら、かあさくん」
「こんにちは。今日、席、空いてますか」
遠慮がちに尋ねる立村。戸口からすぐ目の前には濃い緑色の着物を来たおばさんがレジ裏に立っていた。いかにもこの店のおかみさん、とわかる。向かって左側の客席を覗き込んでみると、やたらくしゃくしゃした女子っぽい感じのテーブルとソファーが並んでいた。日本風なのはわかるのだが、やたらと金色が目に入るのが落ち着かない。基調は黒なのに、花柄がソファーにあしらわれていたりしているせいかもしれない。場違いだ。
「かあさくんのためにちゃんと開けてあげるわよ。今日は、いつものお嬢さんじゃないのね?」
「友だちです」
いきなりぶっきらぼうな口調で答えた立村だが、乙彦と目が合うやいなや、すぐに声を和らげた。
「じゃあ、好きな席選んでいいですか。奥のソファーで」
「いいわよいいわよ、遠慮しないで」
客なのだから遠慮する必要はないと乙彦は思う。しかも顔なじみなのだからもう少し背をぴんと伸ばして挨拶したっていいだろうに。どうも立村は何事においても腰が低すぎる。このあたりがいろいろとトラブルを起こしている原因なのではないだろうか。
乙彦はおかみさんに一礼すると、立村の後ろについて最奥のソファー席に向かった。やたらときんきらきんが目立っていた席だ。しかもわざわざついたてまでついている。せせこましいことである。
腹持ちのよさそうな食べ物はメニューになかった。立村の勧めもあり、ずんた餅セットと冷たい番茶のセットを頼むことにした。それだとサービスでデザートがつくらしいのだが、それもあまり期待できそうにない。
──こんなんだったら学食の定食の方がよかったんじゃないだろか。
それでもせっかくご馳走してもらう以上は、お礼を言わねばならない。
「どうもありがとう」
もう一度頭を下げると、向かいの椅子席に腰掛けた立村は、
「口に合わなかったらごめん」
また自信なさげな声で頷いた。礼、に近い。
「青大附属の関係者に聞かれたくなかったからさ、ちょっと」
なにがだろう、とは思う。しかし思い当たる節がある以上しかたない。立村がおかみさんにずんた餅セットとぜんさいセットを頼んでいる間、乙彦は改めて立村の顔を観察してみた。こうやってまじまじと、義務感持って眺めるのは初めてだ。
──なんてっかその、もっと堂々とできないもんか。
もともと背はそれほど高いほうではないし、色も白い。髪型も特にあやをつけているわけではないのだがきちんと整えられている。それに、
──なんでこんなにきちんとシャツにアイロンかけてるんだ?
立村が父子家庭育ちという話は、何かの折りに聞いていた。諸般の事情で家事一般はすべて請け負っているとも。だが立村の折り目正しい制服姿は、どう見ても男がひとりで整えたものには思えなかった。
神経質な性格らしいとは前から思っていたが、男子のくせに何も汚れのない格好というのは、絶対にありえないものだ。乙彦も同じ制服とコートだが、すでに裾には泥が跳ねているし、袖口も少し黒っぽくなってきているのがわかる。
注文を取り終わったおかみさんは、乙彦にもまた笑顔を向け、下がっていった。
立村が口を切ったのは、数秒の沈黙の後だった。
「もう噂では聞いていると思うけど、最初のうちは表だって俺と話をしないほうが、いいかもしれない」
──こいつ、ちゃんとその問題は片付けただろうが。
藤沖、古川からすべて話は聞いている。特に古川こずえの語る話については、いろいろと考えさせられるものもある。だがそれは、すでにオリエンテーションの中で片付けたはずだ。乙彦は一年A組の教壇にて、きっちりと、立村との繋がりを伝えたではないか。少なくとも、いやがらせやいじめらしきものは、受けていない。要するに、どう付き合おうが問題ないということじゃないだろうか。
「そんなこせこせしたことをする気はない」
「関崎はすごいと思う。俺も、感謝している」
一度、立村は持ち上げるように続けると、
「だけど、関崎の今後、青大附属で生活していく上では、俺と話をする機会が多いというのは、マイナスになると思うんだ」
「それはどうしてだ。評議委員長を落とされたからか」
「やはり知ってるだろう」
俯き、視線を逸らす立村。どことなく腕と背中が痒くなってくる。
「何か、トラブルをクラス内で起こしたからか。確か、宿泊研修だかで」
「その通りだ」
「卒業式に、何かやらかしたからか」
「もうそこまで知っていれば、言うことないだろう」
完全に俯き、立村は一度呼吸を整えるように胸のあたりを叩いた。その仕種がどことなく女子っぽくていらいらした。
「中学から持ち上がってきた生徒は百パーセントといっていいくらい俺の失態を知っている。もちろん俺はそのことについて言い訳する気もない。俺が無能だからしかたない。だけど、それで周りの人たちがいやな思いをするのは申し訳ないというか、嫌なんだ」
「周りの奴らが嫌な思いをしたと、どうして決め付けられる?」
問い詰めた。どうもささやくようなこの口調といい、自信なさげにいじけているその姿が気色悪い。
「嫌な思いをしたらその段階で言う。その時にお前が直せばすむことじゃないか」
「いや、理屈じゃないんだ。一応、同期の男子はみないい奴で、俺のことを嫌わないでくれている。それはそれでいいんだ。だけど、女子と下級生には、毛虫のように嫌われていると言っていい。これは感情の問題であって、理屈で説得できるようなもんじゃないんだ」
「もちろん、好き嫌いというものはあるだろうが」
乙彦もそこまで言って、ふと黙った。そうだ、水鳥中学副会長・天敵かライバルか、水と油か、あの総田に対しても乙彦は同じ感情を持ったはずだった。
「だが、それはそれ、これはこれだろう」
熱い番茶の注がれた湯飲みを片手で握り締め、乙彦は続けた。
「人間同士の相性はあるにしても、同級生としてやっていく以上は、それなりに話をしていくだろう。そこまで腐ったクラスには思えなかった。俺の目では、だが」
「関崎、お前、人間として、出来すぎてるよ」
立村は手をテーブルの下に隠し、俯いたまま首を振った。
「何度も言うようだけど、俺は今までやったことにおいて後悔はしてない。担任には嫌われたし、下級生たちや女子全般には軽蔑されている。それに関しての責任は取る。だけど、関崎はまだ俺が青大附中時代に何をやらかして嫌われたか、正確なことをたぶん知らないだろう? 噂では聞いていても」
「古川からは聞いたが、決して馬鹿にするような言い方ではなかった。むしろ、友情の一環に思えたが。もちろんおせっかいな女子はいろいろと面倒なので、ある程度距離を置くべきだとは思うが」
あえて、下ネタの嵐だった内容については伏せた。「自家発電」なんて昼間の言葉じゃあないだろう。話をした限り立村もそれほど下ネタの会話が得意なほうではなさそうだ。
立村は少し顔を挙げ、口許をほころばせた。
「古川さんの言うことは正しいよ。あの人は、いわば俺にとって、姉さんみたいな人だからさ」
「姉さん?」
「そう、俺にそっくりな弟がいるって話してたな。ご愁傷様としか言いようないけどな」
全く想像がつかない。どうでもいいので話を飛ばした。乙彦なりに、言うべきことは確かにあるような気がした。
「立村、お前の言う通り、俺は正確なことを知らない。だが、それがなんだというんだ。俺は自分の目で見たことを信じるが、悪意のある噂話は聞き流したい。少なくとも古川はお前の味方に思えるし、さらに言うなら他にもいろいろとお前のことを応援してくれる奴がいると聞いている。もちろん、気の合わない奴がいるならそれはそれでしかたない。だが」
もう一度、思い出したのは総田幸信。ガクラン裏に縫い取りの龍を施した姿。
「怒鳴り合っても、罵り合っても、もちろん憎み合っても、かならずどこか、通じるものが見つかる時がある。俺はそれを、自分で経験している。絶対にこいつとは地の果てまで嫌い続けるだろうと思っていた奴を、理解できる瞬間がある」
「どうしてそう断言できる?」
少し癇に障ったようだ。立村がぐいと、乙彦を見やった。手ごたえありだ。続けた。
「交流会で会ったことあるだろう。俺の同期で、水鳥の副会長をやっていた男」」
「確か総田、とか言ってたな」
覚えていたらしい。なら話は早い。
「俺が生徒会副会長をやっていた頃、俺とあいつとは、天敵同士だった。絶対に受け入れられないタイプの奴だった。考えても見ろ、あいつは生徒会役員のくせに制服着くずすわ、風紀を乱すようなことやらかすわ、酷かったんだ。女子をとっかえひっかえして付き合ったり、またいろいろ、手抜きをしたがるようなことを、やらかしたりと」
「なんとなくわかるような気がする」
話の方向が変わってしまったせいか。つい一瞬前の挑むような眼差しが消えていた。
「だが、任期が終わり、生徒会から離れて、あらためて後輩たちの活動を見守っているうちに、俺はひとつ、大きな間違いを犯していたのだと気付いたんだ」
「大きな間違い? 関崎がか?」
気弱な口調で、それでも尋ねてくる。まだずんた餅セットは来ない。
思うことを、食い物到着の前に告げてしまおう。
「お前も知っているだろうが、水鳥中学の生徒会長は、内川といって一年時からの続投だ。かなり無理やりなやり方だったと思うが、俺は最初、あいつの後ろについて、最初の一年いろいろ手伝ってやればいいと思っていたんだ」
あのひ弱そうな、今目の前にいる立村よりもおどおどしていた内川。
「関崎先輩、俺、そんなの無理です、生徒会長だなんて」とかうるうる眼で訴えていたような奴だった。陸上部ではいつも最下位。そんな奴だけども、生徒会で改めて鍛え直せばきっと思いやりのある……総田よりも常識のある……生徒会長として育つだろうと見込んだからだった。
しかし、読みは外れた。乙彦にとっては屈辱ながらも、生徒会にとってはいい方に。
「内川が自分の意志で生徒会をひっぱっていくようになったのは、俺が手取り足取り教えたからじゃないと、認めるしかなかった。総田があいつに、自分の力で好きなようにやれと突き放したから、なんだ。あいつに自信をつけたのは悔しいが、総田だったんだ。俺じゃなかったんだ」
もう過ぎたことで、痛みもなく記憶が甦る。むしろ、さらりとした風のようなもの吹く。
「いろんなことがあったし、俺も三年後半は受験勉強一色だったから、総田に伝えることはしなかった。だが、もし今、あの頃にタイムスリップできるのなら、俺はもっと総田と正面から向きあって、話をしていくことができたはずだ」
「それは関崎だから出来たことだよ」
また、恨めしそうな眼差しに戻る立村。
「どうしてそう決め付けられるんだ? 立村、お前が何をしたかは正直、どうでもいい。過ぎてしまったことだ。今タイムスリップを例えに出したが、現実問題そんなものは使えない。俺ももう、総田と顔を突き合わすことはないだろう。だが、これから先、新しい場所でやり直すことはできるはずだ。少なくとも俺は、ふたたび総田のようなちゃらちゃらしていて軽そうに見える不良と出会ったとしても、中学時代のようなガキくさい行動はとるつもりはない」
「関崎、それはお前だから」
「いいかげんにしろ!」
声が思わずでかくなる。まずい、幸い人は誰もこちらを見ていない。ずんたもちもまだだ。ひくっと肩を竦める立村を目の前に、押さえることできず乙彦は立ち上がった。両手をガラスのテーブルに置き、立村の弱弱しいまなざしを見据えた。
「俺だから出来たと勝手に決め付けるな! 立村、俺がお前のことを、過去のひとつやふたつ知ったからといって、見下すような人間だと思ったのか!」
また、立村は俯いた。首を小さく振った。
──だから、そういうとこが女々しいっていうんだ!
いや、この言葉「女々しい」は正しくない。
青大附属の女子は「頭の回転が速く気の強い」ことで知られると藤沖は話していた。だから決して、「女」の特許ではない、この態度。
「嫌われたとしても、それがなんだっていうんだ! 中学のことがどうであっても、関係なくしゃべる奴はいるんだろ? それならそれで十分じゃないか! 俺はそのうちのひとりでありたい。それが悪いか!」
もっと言うべきことはあるはずなのに、言葉が篭った。
立村がおそるおそるといった風に顔を挙げ、もう一度首を振った。
「関崎、本当に、俺と表立って話をするということは、損をするんだ。俺と関わることによて、俺は」
か細く、今にも消えそうな声で、それでも立村は乙彦の眼を見上げた。
「中学で、全校生徒から嫌われる生徒を、作ってしまった、これは事実だ」
「そう断言できるのか? できないと思うぞ」
「できる。だから言うんだ」
立村はもう一度、震える声で言い切った。
「俺はもう、他の誰にも、嫌われ者なんかになってもらいたくないんだ、関崎」
──ふざけるな、こうなったら意地だ。
乙彦はテーブル越しに立村の顔面近くまで顔を寄せた。
「悪いが俺は、お前の提案を受ける気はない」
片手をこぶしにし、もう一度テーブルを叩いた。もちろん、響かない程度に押さえた。立村の表情におびえが走った、それを乙彦は確かに見た。
ようやく、ずんた餅セットとぜんざいセットが熱いお茶と一緒にテーブルに運ばれてきた。
「まずは水入りだ」
目の前でまだ手つかずのまま、項垂れている立村を尻目に、乙彦はすきっ腹にみどり色のずんた餅を放りこんだ。思ったよりもどんぶり一杯、量があった。うまかった。




