中学三年卒業・プロローグ1
この物語は各学年、学期ごとに完結となります。三年間の物語です。
溶けかけた雪がまた窓辺に凍りはじめていた。昨日の卒業式では足元がぐしょぐしょになるくらいだったというのに。乙彦は居間のストーブ前に片膝つき、新聞紙の上でスニーカーを乗せて手入れに専念していた。
「おとひっちゃん、そろそろ始まるよ」
「わかった」
母の声に腰をあげ、すぐにテレビのスイッチを入れた。
朝十時から一時間弱、放映されるのは青潟市公立高校入学試験合格者発表の特番だと承知している。兄も弟も、今日は通常通りの授業で学校に向かっている。父も仕事、いるのは母だけ。台所から一仕事終えた母が、ざぶとんを用意して乙彦の隣に座った。
「雅弘くんは自信があると話していたんだよねえ」
「わからん」
「みんな、受かるといいねえ」
「大丈夫だろ」
簡素な返事で済ませ、乙彦は汚くなったぼろ布を新聞紙の上に置いた。
──あいつらが全力尽くした結果を見るのにあたって、俺が中途半端な格好で待つのは失礼だ。
たとえブラウン管の向こうに張り出された結果であったとしても。
それは乙彦のけじめでもある。
青潟の公立高校入試の場合、三月六日に試験が行われ、公立中学卒業式翌日の十六日に発表が行われる。どうしてそんな微妙な時期に設定したのだろう。卒業式前に発表された場合、当落の状況によって生徒の人間関係にヒビが入るからではないかとか、いろいろ言われている。もっともそれを言うなら私立の合格者もまた同じではないかと乙彦は思うのだが。
乙彦が青潟大学附属高校英語科から合格通知をもらったのは、つい三週間くらい前だった。
この時期、不合格者として過ごしたとしたら、さぞしんどかっただろうとは思う。
「あれ、最初は青潟東だねえ」
母がのんびりした声で、テレビ画面の黒い文字を読み上げる。
「あんたも本当はこっちだったんだけどねえ」
ちくり、と何かが響く。乙彦は素早くぼろ布をつかみ視線を逸らした。母も何も気にしていないかのように、ひとり画面の縦文字を読み上げている。
「東高には、あの子が受けたんだったっけ? ほら、あんたと一緒に生徒会やってた、ほら、あのかっこいい男の子」
なんと、母はあの総田幸信が「かっこいい」男だと認識しているらしい。
頭に来ると言いたいところだが、がまんする。画面を凝視する。右に消えていく生徒と受験番号の羅列を目で追いながら、乙彦は「総田幸信」の名を追った。確か水鳥中学で青潟東を受けるのはあいつだけだったはずだ。本来だったら母の言う通り、自分も受験するつもりでいたのだが、担任の先生から忠告されて断念した。
──俺が受験を辞退すれば、その分別の奴が合格できるわけだから、気を遣えったってな。
ごもっともな意見だけれども、一度願書を出した以上はきちんと受けるのが受験生としての義務じゃないかと乙彦は感じていた。先生たちの強固な意見を受け入れざるを得なかったのは、いわば総田幸信に対する最後の餞でもあった。自分が青潟東に合格するかどうかは水物だけども、少なくとも総田は乙彦の顔を見ないですむだけ、平常心で受験できるはずである。ほぼ三年間、生徒会で天敵同士だった自分とは、できるだけ接したくなかっただろう。
「あら、あったよ、総田くん」
母の声が明るい。
「よかったねえ、これで水鳥中学の子、まずはひとり、合格だねえ。おとひっちゃん、これから学校行くんだったら、ちゃんと総田くんにおめでとう言ってあげるんだよ。わかったかい」
「わかってる」
そのくらいの良識は持っているつもりだ。
次に青潟西、青潟南……と東西南北の学校名が続いた。それぞれ同じ学校の生徒は七割がたの確率で合格しているようだった。すべての生徒名を把握しているわけではないけれども、少なくともみな、納得する学校には収まっているようだった。
「いやあ、でもね、みんな公立でよかったよねえ。みな滑り止めのお金、払っているわけだから安心だろうけど、やはりできたら公立に行ってほしいよねえ」
いったい母は何を言いたいのだろう。悪意があるのかないのかわからない。乙彦は画面に集中する振りをした。
「あんたはとにかくとして、青潟だと私立に行くというのはね、やはり、あんまり見栄えいいもんじゃないしねえ」
悪かったな、そう言いたい。
「おとひっちゃんはね、まだ青大附属だから自慢できるけどねえ、他の学校だったらそれこそ、公立から落ちてしかたなくって感じになるだろうし。東西南北の学校だったら制服がないけど私立はみな、制服あるからねえ。あれ着ているだけで、公立から落ちたんだってことがばれてしまうしねえ」
「関係ないだろ」
むかついてしまう。母が脳天気に語る様を、あっさり流せない。
「公立と私立なんて、どうだっていいだろ」
「だからおとひっちゃんは別だって言ってるの。どこかの地域では私立の方が上だとか、女の子だとお嬢さん学校だからとか言っているけど、やはり、一般的にはねえ、そういうもんよ。公立いって何ぼってね」
──悪かったな。どうせ俺は私立だ。
乙彦もわかっているつもりだった。母が口にしているのは金のかかる私立高校を罵倒しているわけではない。ただ、青潟市の高校入試に関して多くの人たちが感じているであろう、本音に過ぎない。
青潟市の場合、公立高校に対する信仰が非常に厚く、なぜか私立高校を滑り止め扱いする傾向が強い。母の言う通り、本命は公立高校で、落ちたらしかたなく私立へ、という認識が大方の生徒に浸透している。もちろん入学金の額とか、制服の有無とか、いろいろあるにしてもだった。
また、私立高校受験にしても、受験日が二月の中旬のどれか一日に集中しているため、結局私立同士を併願ということができない。結局公立を一校、私立を一校、工業関係の学校に進みたい生徒のみ、高等工業専門学校を受験、という流れとなる。
ただし、一校だけその「公立信仰」からかけ離れた高校が存在する。
乙彦はその学校を受験し、三週間前に合格した。
だから、今、靴の手入れをしながら、ストーブの前で正座してテレビに見入っている。
──青潟大学附属高校。
本来ならば、中学で募集を行い、補充が出た時のみ高校での募集をかけるという方式だった。定員三十名弱だったはずだ。乙彦はこの追加募集にすべてをかけ、三年間の中学生活を過ごしてきた。もちろん本命は、青潟のトップ公立高校、青潟東としてきたけれども、最後の最後で願書を提出したのは青潟大学附属高校だった。
合格通知をもらってから、両親の許しを得て、入学手続きをすでに終えた。
これがどれだけ関崎家にとって重大なことか、わからなくもない。
家計にどれだけ、負担がかかるか、理解できないわけがない。
だからこそ、決めていた。
青潟工業高校の合格発表が始まる前に、乙彦は母に尋ねた。
「母さん」
「なんなの、ほら次、雅弘くんの学校だよ」
「その、雅弘の父さんとこの店に、俺の話、してくれた?」
母はきっと忘れているのだろう。自分の親だから言うわけではないが、この人は三人の息子を育てていながらまったくもって脳天気というか、いいかげんというか、そんなところがある。だからこそ、家計の不安も全く見せずに「ああいいよ、おとひっちゃんが青大附属に行きたいんだったら行けばいいよ」と言ってくれるのだが、実際関崎家の経済状況がどうなっているのか、乙彦は気付かないでもないのに。
「あれ、雅弘くん、まだかねえ」
「母さん俺の質問答えろよ」
「ちょっと待ってなさい。画面どんどん流れていくから見落としたら困るでしょう」
乙彦はしかたなくブラウン管に目を戻した。青潟工業高校合格者発表。男女別に名前と受験番号が流れていく。確か雅弘の受験番号は三百番台だったはずだ。二百番台が終わり、いきなり三百番が抜け、三百一、三百五と、妙な感じで飛び飛びの番号が重なっていく。
「三百十五番、よっし、雅弘あったぞ!」
片手を握り締め乙彦は大声で叫んでいた。隣の母が両手をぱちぱち叩きつつ、
「よかったねえ雅弘くん、すぐに電話、かけてあげなさいよ。お祝いだねえ」
「いるわけないだろ。合格発表見に行ってるんだ」
相変わらずどこか抜けている母の言葉をあしらいながら、乙彦はもう一度尋ねなおした。さっきの質問にもう少し、具体的要素を付け加えた。
「母さん」
「おとひっちゃん電話してあげなさいよ、ほらほら」
「だから、雅弘とこの店に、俺がアルバイトしたいって話、してくれるって言ってたろ。あれ、どうなったんだよ。先週の段階ではもうおじさんたちに話してくれてるって聞いてたけど。やっぱり俺が直接話した方がいいのか」
ほっと母が膝を打った。とぼけていたのか、それとも忘れていたのか。
「あ、そうだそうだ。その話だけどねえ」
そそくさと立ち上がりながら、それでも母はきちんと結果報告をしてくれた。どうやら単に忘れていただけだったらしい。裏はない。そういう人だ。
「佐川さんもねえ、おとひっちゃんならぜひきてほしいけど、ただ、雅弘くんの友だちが店で働いているのを見るのはやっぱり、落ち着かないだろうってことでね」
「そんなの気にしねえよ」
「あんたがしなくても、向こうさんは気になるもんよ。それでねえ」
電話台の引出しからプリントらしきものを取り出してきた。
「ちょうど、青大附属のまん前に、古本屋さんがあるんだそうで、そこと佐川さんとこと付き合いがあるらしいの。そこは年寄りのご夫婦が経営しているお店だそうでね、ひとり、体の動く人が欲しいという話していたんだってね」
「古本屋?」
けげんに思いつつも母の話をそのまま聞いた。
「そこでまず、午前中の六時くらいから学校行くまでの八時くらいまで入ってもらって、そこで荷物を本棚に並べたり分けたりする仕事をしてもらうってのはどうだろうってね。どうもお年召してるから、あまり遅く人がきても困るらしいんだけど、おとひっちゃんならまあ、朝も早いの慣れているし、朝アルバイトしたら放課後は自由だし、それはそれでいいんじゃないかという話でね。もしおとひっちゃんがそれでよかったら、話を通しとくよって、佐川のおじさんが話してたのよ」
「青潟大学附属高校の近くか」
繰り返したのは、まだ口の中でその学校名が馴染まないから。
「まあ、ちょっと六時というのは時間としても早すぎるから、あんたがどうしたいかにもよるけどね。ただまあ、お年よりは朝が早いし、なかなかこの時間帯のアルバイトさんが捕まらないと嘆いてらしたそうだし、もしあんたがよければ、そのあたりがいいかなということらしいわよ」
「母さん、その話、今日の夕飯まで待ってもらってていいか」
乙彦は立ち上がった。もう合格発表速報はすでに青潟工業の分が終わり、次に青潟商業へと移行している。たぶん合格発表が終わってから、公立高校受験者の殆どは担任たちに合否報告を行うはずだ。雅弘も、へたしたら総田も、これからまっすぐ水鳥中学へと向かうはずだ。雅弘をとっつかまえて、
「雅弘、よくやったな、おめでとう」
その一言と、あとはすれ違った奴らとお祝いの握手をしてもいい。総田と顔を合わせる可能性というのは……なくもないのだが、もう卒業で縁も切れる。それならきちんと筋を通して一礼してもいい。
「これから、学校行ってくる」
「あら、どうしたの」
まだ汚れが落ちてないスニーカーを片手にぶら下げ、乙彦はジャンバーを羽織った。かなり冷えている。こわばったマフラーも衿に巻いた。
「雅弘に、お祝い言ってくる」
「ああそうね、それがいいわねえ。あら、ねえおとひっちゃん、そういえば五月ちゃんはどこ受けたんだったっけ?」
スニーカーのかかとを踏みそうになった。かろうじて答えた。
「確か……青潟商業」
と、雅弘は言っていた。乙彦が確認したわけではない。
「じゃあ、見落としたのかしら」
母の呟きを乙彦はあえて聞き逃した。たぶんそれしか考えられない。
「五月ちゃん、名前、商業のとこに載ってなかったんだけどねえ。でも五月ちゃんみたいにしっかりした子なら、落ちるわけないしねえ」
──当たり前だろう。
母のたわごとなんて聞いていられない。玄関を開けるとそこには白い雪がうっすらと積もっていた。父、兄、弟がかき回したはずの足跡も、なぜか綺麗に化粧されたまま形作られていた。もう、水鳥中学の生徒として学校に向かうのはこれが最後だ。卒業式後、これが本当に最後のけじめだ。あの場所でもう一度、乙彦は告げるつもりでいた。
──俺は、青潟大学附属高校に進学するんだ。
生徒会の奴らにも、雅弘にも、総田にも。
卒業式の際、総田が自分に卒業式答辞の大役を譲ってくれたことには感謝している。また生徒会一同から花束贈呈の際には男ながらも涙ぐみたくなる一瞬もあった。卒業式後の胸に迫るものを正直、押さえきれないものがある。
何度か転びそうになり初めて、まだスパイクが必要な路上だということに気がついた。そういえばもう、靴の裏の刃は引っ込めていたはずだった。慌てて直し、落ち着いて学校までの距離を歩いた。
佐川書店の前まで来た。
──雅弘、帰ってきてるか。
入り口のガラス戸を覗き込んだが、客がまばらながらも立ち読みしているだけで、レジ後ろには見当たらなかった。雅弘の両親に「合格おめでとうございます」の一言を残しておくのが義務かと思うのだが、さっき母からきかされたアルバイトの件もからんでいるし、また後回しにしてもいいだろう、そう判断した。
──別にな、友だちの家でバイトするのが気が引けるなんてことないってのにな。
ずいぶんみな、気を遣ってくれるものだ。別に、乙彦からしたら高校以降自分の学費一部くらい稼ぐのは普通のことじゃないかと思うのだが。できれば家から近い方がいいし、さらに言うなら雅弘とも連絡取り合えると中学時代の連中とも繋がりが保てるし、いいこと尽くめだと思うのだが。
乙彦はそのまま、水鳥中学への通学路に足を向けた。繁華街とはいえ、通学路は人気のない場所だった。近くの「青潟市資料館」の脇を通りぬけ、数名の同級生たちが暮らす家の前を過ぎて、その後数回蛇行すると水鳥中学に到着する。グラウンドの脇にある裏道から今日は入ることにした。下級生たちはまだ終業式まで一週間ほど間があるし、昨日も担任から注意を受けた。必ず、合格報告の際は静かに出入りするようにと。
──立村にあとで連絡しておいたほうがいいか。
二十日に青潟大学附属高校の外部生用オリエンテーションが行われる予定となっている。合格発表以来、まだ学校の門をきちんとくぐってはいない。入学関連の書類はすべて親が片付けてくれたので、実際青大附高の生徒として行くのは二十日が最初となる。
入学発表後すぐに祝福の電話をくれた立村とは、四月から同じ英語科のクラスメートとなる。内部進学者ということもあり、十一月前後に決定していたようだ。それからなにかれとなく乙彦宛てに、試験関連の学内プリントとか使っている参考書のリストなどを手書きで送ってくれた。なんとなく女っぽい書き方なのがあいつらしい、とも思う。
評議委員長を後期に、何かの事情があって降り、書記の仕事に専念しているという噂を聞いた。あえて乙彦もそのことについては尋ねなかった。たぶんいろいろと青大附中では勉強しなくてはならないことがたくさんあるのだろうし、それに専念したのだろうと乙彦は解釈していた。総田がまた、小耳にいろいろ挟んできたようだが、あえて一切聞き流したので覚えていない。どうせ立村とはこれから三年間一緒なのだし、いろいろと話す機会もあるだろう。あいつは本当にいい奴だ。陰でいろいろ噂されているような姑息な真似はしない男だ。
乙彦は歩きながらマフラーを直した。
──どうせ二十日に会うんだしな。その時いろいろ話せばいいだろう。
それまではまず、水鳥中学の仲間たちととことん遊ぼう。優先順位はそちらだろう。
校門前まできて、乙彦はあえて影に隠れた。女子たちがけたたましくしゃべりちらしながら目の前を通っていくのが見えたからだった。顔は知っているが名前はよくわからない女子たちだった。どうやら公立高校合格の報せを持って担任にご報告するつもりなのだろう。表情の明るさからして、不合格というのはありえないとみた。
男子連中が数人、ふらふらしながら近づいてきたのを見つけて、ようやく乙彦は声をかけた。
「おつかれ」
「関崎、おい、お前、東高受けてねえだろ」
「来たらまずいか」
言葉の端々にからかい調子が混じる。同じクラスの男子たちの顔を見る限り、やはりみな合格らしかった。まずはめでたい。思わず握手を求めた。
「まあ、私立に行かないですんでよかったってことだなあ」
「そうだそうだ、下手に私立行っちまったら、一生親に愚痴こぼされるだろ」
「金がかかるってなあ。ほんと、俺んちだってさ、入学予約金ぎりぎりまで払ってくれなかったんだぞ。十万も出せねえよって。ひでえよなあ」
みなそれぞれ好き勝手なことを話した後、乙彦の顔を見やる。ようやく「まずい」と感じたらしい。別に怒っているわけではないが、黙っているだけで威圧感があるならそれはそれでよい。
「おとひっちゃんはなあ、別だよなあ」
ひとりが頷いてそう呟いた。
「私立で許されるのは、青大附属だけだろ。なあ」
「そうそう、露骨に滑り止めじゃねえしさ。なんてったって関崎、お前、英語科全市で二名の中に入ったんだもんなあ、それ、すっげえよ!」
いきなり褒めあいが始まる。乙彦にはなんだか妙にくすぐったい雰囲気だった。
「そんな、運だって。それはそうと、お前ら雅弘見なかったか?」
話を逸らしながら、乙彦は視界の片隅にふたりの男子を認めた。
「あ、悪い、雅弘来たから先行く」
「じゃあなあ」
片手を挙げ、乙彦は次に、後ろから歩いてくるでこぼこの二人組に近づいた。極端に背の低い男子は雅弘だと確信している。が、隣の奴は全く予想だにしていなかった。
「お前ら、なんで一緒に歩いてるんだ?」
笑顔で片手を振りながら、スタジャン姿で歩いてきたのは雅弘だった。
隣でやたらと丈の長いガクラン姿をひけらかしているのは、かつての副会長、総田幸信だった。
「おとひっちゃん!」
けらけらとあくのない笑顔で飛びついてきた雅弘に、まずは祝いの言葉を。
「雅弘、よかったな」
「あれ、合格発表見てたんだ」
「当たり前だろが」
後ろでそっぽを向いている総田を無視し、乙彦は雅弘の肩を叩いた。
「青潟工業だったら、結構学校も近いか」
「そうだね、青大附属から近いし」
しばらく他愛もない話をしあっていた。雅弘の成績はあまり芳しくなく、特に英語が弱い。そのせいもあってかなり受験勉強では苦労していたものだった。乙彦も自分の弟分をなんとかして合格させたい気持ちがあり、自分なりに授業のポイントとか問題集の解答集とかいろいろと与えて応援していたものだった。決して頭が悪い奴だとは思わないのだが、学校のいわゆる暗記物試験に向いていないらしい。そんな雅弘が工業高校に進学するというのは、はたしてプラスなのかマイナスなのか、乙彦には判断できなかった。もちろん、プラスであってほしいと祈ってはいるのだが。
「じゃあ、俺、先に行くぜ」
つまらなさそうな声がした。総田だった。生徒玄関に向かおうとしている。乙彦は呼び止めた。
「総田」
「はあ?」
ポケットに両手を突っ込み、金糸で彩られた裾を翻し、総田が振り返った。
かつての天敵。ライバル。同時に、かつての生徒会同志。
けじめをつける。
「青潟東高、合格、おめでとう」
乙彦はそれだけ早口に伝え、背を向けた。雅弘の頭をもう一度軽くぽんぽん叩き、
「お前も早く、先生とこ行ってこい」
もと来た道を戻ろうと、回れ右した。
「関崎」
今度は乙彦が呼び止められた。総田だった。雅弘がまだ乙彦に物言いたそうな顔して突っ立っている。総田はポケットに手をつっこんだままのポーズで、顎を少しあげた感じのまま、にやりと笑った。
「お前こそ、がんばれよ」
言い残し、総田はそのまま、威風堂々生徒玄関をくぐっていった。
足元のスパイクが、つるんとすべりそうだった。ひとつだけ頷き、また乙彦は一歩、また踏み出した。今度は片腕をひっぱられ、正真正銘、尻餅をついた。
腕をひっぱったのは、雅弘だった。ずいぶん頼りなさそうな眼差しをしていた。
まさか乙彦についてきてほしい、なんてガキっぽいこと言うのだろうか。
雅弘なら言いかねない。だが、中学三年にもなってそんな勘違いしたことするわけにもいかない。
「どうしたんだ」
「ひとつ、頼みがあるんだ」
小声でささやき、いつものどんぐり眼をうるませて、素早く耳元に口を近づけた。
「さっきたんのことなんだけどさ」
「水野さんが、どうしたんだ」
転んだ拍子にぺたっとついた尻のあたりをさすりながら、乙彦は問い返した。
「青潟商業、落ちちゃったんだ」
「なんで知ってる?」
ピントがずれた質問を返してしまった。家を出てくる時母が話していたことを、ちらと思い出した。
「だって、合格発表観にいったの、駅の前だもん。工業まで行ったら落ちた時情けないしさ、それに、他の奴の結果も知りたかったんだ」
「他の奴って?」
「うん、俺のクラスっていうか、小学時代の知り合いはみんな受かってたんだ。男子はね。けど、女子がさ。さっきたんだけ」
「お前そんなに全部、チェックしてきたのか?」
なんだか話が微妙にずれてしまう。本当に聞きたいのは、「なぜ水野さんが青潟商業に落ちたのか」なのだが、乙彦が尋ねることはみな、どこか違う部分ばかりだ。しゃべった後で自己嫌悪に陥りそうな言葉が溢れる。なぜだかわからない。
雅弘はこくこく頷いた。また目を潤ませた。
「さっきたんも一緒に合格発表見てたんだけど、やっぱり悲しかったみたいで、泣きながら家に帰っちゃったんだ。たぶん、報告はしなくちゃいけないってわかってるから、来るとは思うけど」
「じゃあなんでお前、一緒に来なかった?」
頭の中でまだ、現状が把握できていなかった。水野五月、三年間連続の生活委員を務め、お下げ髪にはつかねずみのような眼差しというおとなしめの女子。小学時代のクラスメイトで、今は、雅弘の。
──付き合ってるって、言ったよな。
乙彦を見上げるようにし、雅弘は首を振った。
「まだおとひっちゃんに話してなかったけどね、俺、さっきたんと昨日、付き合いをやめるってことにしたんだ。卒業式終わってから」
──付き合いを、やめる?
足元からなにかひたひたと冷たいものがよじ登ってくる。
無言で雅弘のうるんだ目をまた見つめてしまう。
雅弘は小声で続ける。
「さっきたんが嫌いになったとか、そういう話じゃなくて、ただお互い違う学校に行ったらそういう付き合い大変になるから、いったん友だちに戻ろうってだけなんだけど。もしそんなこと話してなかったら、俺がさっきたんについていってあげようと思ったんだけど、やっぱりそれだとかえって、さっきたん傷ついちゃうなって気がするんだ。二重に、傷つけてしまいそうでさ」
「女子たちは誰かついていこうとしなかったのか?」
男子と女子の別行動というのはわからなくもない。もともと面倒見のいい水野さんがショックで泣きじゃくってしまったというのならば、誰かが恩返しの意味もこめて付き添うことはしないのだろうか。雅弘は首を振った。
「他の子もみな、受かっちゃったからさ。たぶんみんな、声かけられなかったんだと思うんだ。それに、みな、慰めようがないみたいでさ。ほら、みんな、受験で落ちたことないだろう? 気持ち、わからないんだと思うんだ」
──受験で、落ちたことがない。
ふたたび、耳にびしりと響いた。
合格発表の掲示板で、自分の番号が見当たらない時、何を感じるか。
何度も抜けた番号を探してる時の目。
足元からすべて力が抜けていき、後ろの道路に飛び込みたくなる瞬間。
雅弘の目から、薄い膜のようなものが浮かんだ。
「おとひちゃん、俺も、本当のこというと、どうして慰めていいかわかんないんだ。だからこのまま放っておいてきちゃったけど、今、このままだとなんか、まずいなって気がするんだ。けど俺が行くと絶対、さっきたん、さらに泣いちゃうと思うんだ。だから、おとひっちゃん」
言葉を切り、雅弘は唇をぎゅっと結ぶと、黙って乙彦を見つめた。にらむ、に似ていた。
雅弘の言葉を待つ必要はなかった。乙彦は即座に、答えを出した。
「わかった。水野さんは家にいるんだな」
こくっと頷いた雅弘に振り返らず、乙彦は全速力で元来た裏道を駆け抜けた。グラウンドには二年の男子たちがジャージ姿で雪中サッカーに興じていた。去年の今ごろは自分も同じく、雪の中犬ころみたいに駆け回っていたはずだった。その陰で流れたはずの涙を、あの頃の自分は想像することができなかった。ただ今は違う。水野五月に今溢れているはずの感情を、三年前の春、小学六年だった乙彦は青大附中の合格発表掲示板で、すべて身体に染み込ませ、味わったはずだった。
──水野さんの気持ちは、俺しかわからない。